前編 がりがりの猫にフランクフルトを与えたら
空はもう暗い。塾が入った駅前のビルから、授業を終えた中学生たちが吐き出されるように出てきた。高校受験もそろそろ現実味を帯びてきた頃だったが、タケルはまだふわふわと志望校を決めかねていた。
特別にやりたいこともなく、何かを期待しているわけでもない。ただ、今の自分ができることを手を抜くこともできない。それでいて高い学力があるわけでなく、低くもない成績が続いていた。
タケルが自分のことを説明すると、だいたい語尾に「ない」が付く。「ない」で特徴づけることができる人がなんと多いことか。
タケル自身も、自分は個性がないと思っていたが、自分のことは好きだった。ファンタジーも、SFもない現実を生きているのは悪くない。不満がない生活に満足していた。
塾の友達と交差点で別れると、家までは一人になった。
住宅地に近づくにつれ、次第に駅前のにぎやかさは失われていく。ときどき現れる自動販売機の光が、誘導灯のように夜道を照らす。
育ち盛りのタケルには、母さんの作ってくれた夕飯の弁当だけでは足りない。コンビニで何か買い食いでもしようかと思い、立ち止まった。
群青と黒に満ちた夜の世界の中ではっきりと分かるカラフルな看板は魅惑的だ。虫が明かりに吸い寄せられるように、タケルはコンビニに足を向けた。
店の前には駐車場があった。店内の光も、さすがにそこまでは届かない。
だからタケルも近くまで行かなくては気が付かなかった。
車止めの石のところに、一匹の猫が横になっている。あばら骨が浮き出るほどやせ細り、息も絶え絶えだった。
猫は顔を上げないまま、タケルを一瞥すると、何かを話そうとするかのように口を開けた。ノラ猫だろう。毛並みも悪い茶トラだった。
コンビニに入る直前、タケルは茶トラと目が合った。修羅場をくぐってきたような鋭い眼光に、心を射られるような気がした。
「ほら、食べな」
タケルはコンビニで買ったフランクフルトをちぎり、茶トラにやった。茶トラは目の前に落ちた肉とタケルの顔を交互に見た。「簡単に見知らぬ人間からの恩情は受けない」という、野良のプライドを感じさせる。
「じゃあな」
タケルは半分になったフランクフルトを食べながら、茶トラに別れを告げた。
「お待ちください」
甲高い声にタケルが振り返る。しかし後ろには誰もいなかった。
「ありがとうございました」
声はタケルの足元から聞こえた。見ると、先ほどの茶トラがちょこんと礼儀正しく座っている。
「申し遅れました。私の名はにゃっちです」
「は? え? 何?」
猫が言葉を発した。それも流ちょうな日本語だ。人は本当に驚くと、思考が止まる。タケルは何も言えなくなった。
「いきなりで無礼極まりないことは承知の上でお願いです。どうかお助けください」
「助ける? ていうか、なんでしゃべれるの? AI?」
「私は、少し人間語が話せるのです。お願いします。話だけでも聞いてもらえませんでしょうか」
にゃっちが小さな頭を下げた。タケルはまだ目の前のことを受け入れることができなかったが、たとえ猫でもここまで丁寧に頼まれたら無下に断ることもできない。「まあ、話だけなら」と返事をすると、にゃっちの表情が明るくなった。
「ここではなんですから、もう少し人気のない場所で」
にゃっちに連れられ、すぐ近くの寺まで移動した。寺の境内は大通りから住宅街への抜け道になっていたが、夜に通る人はあまりいない。鐘楼の近くにあるベンチにタケルが腰かけると、その横ににゃっちが飛び乗った。
「もしよろしければお名前をお伺いしてもよろしいですか」
「あ、すいません。山下タケルです」
「タケル様ですね。先ほどは、本当にありがとうございました」
なんとも礼儀正しい猫がいたものだ。タケルのイメージする猫は、もっと自由気ままでふてぶてしい生き物だった。
「あの、お願いって……」
「タケル様もご存じだと思いますが、我が茶国と大ひげ国は現在、戦争状態です」
「すみません。茶国? 大ひげ国? ってどこにあるんですか?」
「なんと! ご存じないですか。茶国は、この辺り一帯にある我が祖国です。大ひげ国は、隣国です。どちらも猫族の国です」
「その国同士で戦争してたんですか? 猫同士なのに?」
にゃっちは事態を全く理解していないタケルに、少しイラついた様子で答えた。
「タケル様にとっては猫同士かもしれませんが、我々にとっては国同士の戦いです。お互いの尊厳がかかっています」
タケルは自分の発言が配慮に欠けていたと思いつつ、猫が猫パンチで叩き合うケンカをイメージしていた。とりあえずは、にゃっちに一言、「失礼しました」と最低限の謝罪の言葉をおくる。
「いえ、謝っていただくようなことはなにも。話を戻しますが、この戦争を終結させるために、ぜひタケル様にお力添えをいただきたいのです。三日後に大ひげ国の国王ゴン三郎と我が茶国の首相とら子が極秘会談を行います。そこに第三者として立ち会っていただけないでしょうか」
面倒なことに巻き込まれてしまったと思った。にゃっちにとっては戦争でも、タケルにとっては所詮、野良猫の縄張り争い。変に首を突っ込んで深入りなどしたくなかった。
タケルは、なにかしらの理由をつけて断ろうと思ったが、あまりいい理由も思い浮かばない。なんとかひねり出した理由も、「ケンカの仲裁とかやったことないよ」だった。
にゃっちは、「大丈夫です。猫族以外の方に立ち会っていただくことが大事ですから」と、やんわりとした表現を使いつつも、タケルの言うことを受け入れなかった。
「では、三日後にお迎えにあがります」
「待って。三日後も、俺、塾があるから。塾の終わりであんまり遅くなるのは困るんだけど」
「ええ。分かりました」
にゃっちは笑顔を作り、そのまま闇の中に消えていった。