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ともかく、私は昔よく知っていた屋敷の庭を転がるように走り、庭の隅に備えられたトイレに駆け込んだ。大金持ちのこの屋敷には、当時から水洗トイレがあった。それは当時と何も変わらなかった。
子供の頃、飼い犬が偶然迷い込んだのをきっかけに、石塀と生垣に囲まれた場所に穴を見つけて、私はこの屋敷に迷い込んだ。そして、この屋敷の息子と友達になった。息子の名前はジョシュア。ジョシュア・バウズザック・バリイエル。つまり、次期バリイエル王朝の君主となる、ジョシュアだ。
自分がどこにいるのか分かって、私はパニックになった。大きな庭を抜けて、この屋敷から今すぐに脱出しなければならない。表門を抜けるのは言語道断だろう。あっという間に捕まるだろう。裏門も厳しいだろう。先ほど、荷車が侵入する時に門番がいる気配があったから。
――となると、私は一体どこからこの屋敷を抜け出せるだろう?
私は身だしなみを整えた。乱れた髪を素早く整えて、ドレスの皺をできるだけ伸ばした。そして、誰かに見咎められた時に怪しまれぬよう、平常心を装って庭を歩き始めた。
――早く!早く!一刻も早く!
――でも、走ってはだめよ。誰かに不審に思われたら、捕まってしまうわ。
私は歩きながら、自分のはやる心を必死に自制した。
二十歳も上の皇太子は、私が初めてではないことを知った上で私を皇太子妃に迎えた。自分の前に私を愛した人物から奪うためだけに。ジョシュアから私を奪うため、ただそれだけのために、ノア皇太子は私と結婚した。
そう、亡くなった皇太子も知っていた通り、私の初めての相手はこの屋敷の息子のジョシュア。ジョシュアと私は互いの全ての初めてを与え合った純粋な恋仲で、横槍を入れてきたのが皇太子であった。
リジーフォード宮殿の皇太子妃は、政敵ジョシュアから奪うためだけに迎えられた花嫁。国王も王妃も国民も知らない真実だ。
皆が知らなかったことだけれども、フィッツクラレンス公爵家の長女は純潔ではなかった。しかし、そこがノア皇太子が狂ったように熱烈に私を花嫁に望んだ理由だった。美貌とカリスマ性を備えた政敵ジョシュアが私を手にしていたから。
私とジョシュアの許されざる秘密の関係を知っていたのは、皇太子のみ。女たらしの皇太子は、自分の好みを優先するより、政敵のジョシュアに対する執念深さを優先して、私と無理やり結婚する意志を貫いた。
――彼はやがて自分の地位がジョシュアに奪われることを予見していたのだろうか……?
ともかく、ジョシュアと私のことを知った皇太子は、私と結婚することに異常な執着を示して私を皇太子妃にした。
そして今となっては、皇太子はバリイエル王朝が仕掛けた謀略により、あっけなく殺められ、ジョシュアがその王座をまさに乗っ取ろうとしている。
今、ジョシュアに捕まったら、私はかつて自分が捨てた恋人に命乞いをすることになる。私はかつて自分が捨てた恋人に、みっともなく容赦なく殺されてしまうのだろう。ジョシュアは、私を殺すことには全く躊躇わないはずだ。
私は身震いしながら、歩き続けた。私の頭には子供の頃に迷い込んだのと同じ場所から這い出すことしか思いつかなかった。
――正門も裏門も出入りは無理だわ。となるとやはりあの秘密の抜け穴から出ていこう。
私は心に決めた。
――彼はあの場所をふさいでしまったかしら?あの場所は彼と私しか知らなかったはずよ。
私は気持ちがはやるあまりに、庭を走り始めた。一刻も早くこの屋敷から外に出なければならない。記憶を頼りに秘密の抜け穴を探した。誰にも見つかってはならないのだ。
私は無我夢中で秘密の抜け穴があった場所に辿り着いた。必死に藪の中に入って行った。抜け穴があった場所のすぐそばにきてしゃがみこんだ。
――あともう少しでここから抜け出せるわっ!
その瞬間、突然、私の首筋に冷たい刃物が当てられた。低い男性の声が私の耳に響いた。
「動くな。動くと命はない」
私はびくりとして動きを止めた。
「立て!」
男性の鋭い声がして、私は恐る恐る立ち上がった。
横目で男の顔を見て、私は凍りついた。ジョシュア・バウズザック・バリイエルその人だ。バリイエル王朝の後継者。事が起きた今、彼がこの館に今いるはずがなかった。
――なぜ彼がここに?軍と衝突するのを避けて彼はここにいるの?それとも、高らかにバリイエル王朝が君主になることを宣言するために、これから都に向かって出発するところなの!?
彼は、私が子供の頃に秘密の抜け穴から潜り込んで遊んでいたこの家の当主の息子、ジョシュアその人だった。
「グレース。なぜ君がここにいる?」