なんで私が
麻袋に隠れて六時間ほど経ったのだろうか。
私はガタゴト揺れる荷台で息を潜めていた。追っ手も、私がまさかジャガイモにまみれた麻袋に隠れて関所を突破したとは露とも思わないだろう。
私はクーデーターを起こされてしまった皇太子の妻。つまり、ジャガイモだらけの荷台で粗末な麻袋に隠れて息を潜めている私は、この国の皇太子妃だ。かろうじてまだ皇太子妃というべきか。現在、皇太子妃とも思えぬ惨めな格好で必死に逃走中。
私は、私の夫が狂ったように入れあげていた美しい愛人のせいで逃げている。
夫の名前はノア・アルフィー・チュゴアート。ノア皇太子だ。私の名前はグレース・フィッツクラレンス・チュゴアート。グレース皇太子妃と国民に呼ばれていた。私は二十歳だ。夫の愛人の名前はリリア。リリアは二十一歳だ。
数時間前から、ジャガイモを運ぶ荷台の麻袋の中で震える思いで私は息を潜めていた。この荷車がどこに向かっているのか分からない。でも、都からはだいぶ離れた場所まで来たと思う。だいぶ前に都の関所を通過したから。
私が隠れている荷車が関所にやってきた時は、まだクーデーターを起こされたという知らせが関所全てには届いていないようだった。
関所の憲兵は、荷積を確認するために、用心棒で麻袋を思いっきり突いてきた。私は痛さのあまりに悲鳴をあげそうになったが、必死にこらえた。万事休すと思ったけれどもジャガイモのゴロゴロ転がり落ちる音がして、次の瞬間に憲兵が上司に報告する声が聞こえた。
「ジャガイモです。問題なさそうです」
私は痛みをこらえて歯を食いしばって身動きしなかった。結局、関所の役人は私が隠れている荷車が関所を通過することを許可してくれた。
「よし、通れ」
私の耳に聞こえたのは役人と憲兵の声だけで、荷車の御者の声は聞きこえなかった。しかし、私が隠れて乗り込んでいた荷車は、なんとか関所を通過できたのだ。
ギリギリの精神状態で麻袋に潜んでいた私は、関所を通過できたことに安堵した。これで、皇太子妃である私が誰にも悟られずにうまく都から脱出できたことになる。
――この調子で都から遠く離れてしまいたいわ……
ガタゴト揺られながら、麻袋の中で私は目をつぶった。
涙は出ない。私は初恋の人を裏切って王家に嫁いだ。そんなことをしておいて、今更こんなことになったと私が泣くのはおかしな話だから。
今朝、見てしまった光景が脳裏をよぎって仕方がない。私は自分の体を強く抱きしめて、固く目をつぶる。でも、私が見てしまったものは衝撃的な光景過ぎて、頭から消えてくれることはなかった。夫とその愛人の声と姿が頭にこびりついてしまって離れない。
今朝、皇太子妃である私は、夫の秘密の別荘にいた。夫は私より二十歳も年が上だが、女性をたぶらかすために普段から執拗に体を鍛えていた。最初は夫の引き締まった体が見えたと思っただけだった。私は一歩踏み出そうとした。
けれども、服を身につけていない夫と愛人がもつれあう情事の場面に遭遇して、思わず物陰に隠れた。一糸まとわぬ二人の姿を目の前にすると、他人の情事を見たことが初めてなこともあり、衝撃のあまりに怯んでしまった。どうすべきか迷った瞬間に愛人によって夫を殺されてしまったのだ。
あぁっ
ぐっっうぅっな……な……にを……するぅ……
「あんたの父親の国王も今朝早くに殺されたわ」
愛人は、夫が息たえる前に、息も絶え絶えの夫にそうささやいた。
「親子揃って女好きの腐った豚め」
愛人リリアは金髪を振り乱して吐き捨てるように言うと、夫に唾を吐き捨てた。
物陰から、二人の情事のなれの果てを目撃した私は、その場から必死に逃げ出した。
私が見たものの意味することはただ一つ。クーデーターの成功だ。
敵に、夫と義父の女好きをまんまと利用されたのだ。政権が一気に反対勢力にひっくり返されたと悟った私は、すぐにその場から逃げなければと思った。夫と私の間に子供はいない。チュゴアート王朝の王位継承権は現時点で夫止まり。
つまり、今晩にでも反対勢力のバリイエルに乗っ取られる。
皇太子妃の私がひっとらえられるのも時間の問題だ。捕まれば、敵対勢力のバリイエル王朝の一門に私もなぶり殺しにされるかもしれない。殺される時に、見せしめに大衆の面前に引きずり出され、大勢が見ている前で処刑されるかもしれない。もしくは執拗な拷問を受けるかもしれない。
――生き延びるために、捕まるわけには行かないわっ!
私は物音を立てずに必死に別荘から抜け出した。
けれども、慌てた私は大きな過ちを犯した。思わず別荘の正門に向かってしまった。そしてあっけなく敵に見つかってしまった。
バリイエルの者だったのだと思う。なぜならその中年の男性の彼は私を見つめてひどく驚いた顔をして、私をいきなり刺したのだから。
痺れるようなとてつもない痛みに声が出ない。私は別荘の庭先の芝の上に崩れ落ちた。息絶える前に芝の上で朝露が美しく光るのが見えた。私の涙だと思った。
――綺麗な朝露だわ
私が命が尽きる直前に見たいものは今目の前にあるものではなかった。まったく違う。夫であるノア皇太子でもなく、父や母や妹や弟でもない。私が最後に見たかったのは、目にしたかったのは、初恋の人。
――私が裏切ったから、こんな仕打ちにあうのかしら?
私は死を前にして私が最も大事にしていたものを悟った。私は目から涙が流れるのを感じたけれど、私の命は真っ白に燃え尽きた。
***
「親子揃って女好きの腐った豚め」
私はゆっくり目を開けた。
私は、愛人リリアが金髪を振り乱して夫を殺めた瞬間を目にしていた。
――え?
私は思わずそっと後ずさった。さっき見つめていたのと全く同じものをまた私は見ている。
――死んだはずなのにもう一度?
私は私は物音を立てずに必死に別荘から抜け出した。
――さっきと違う方向に逃げなければっ!
今度は別荘の表ではなく裏山を辿った。薔薇の中をかき分け進み、裏山を下ったところにある畑のそばに、荷車が一台あった。
荷車には御者は誰もいなかった。どこかの農夫が停めておいたのだろう。
私は無我夢中で荷車の荷台に上がり込んだ。ジャガイモだらけの荷台を必死でかき分けて、より奥に行こうとした。裏山の薔薇の中を降りてきたことで、手も足も引っ掻き傷だらけになっていたが、そんなことはどうでも良かった。