【第8話】何者にもなれないまま生きのびろ
目が覚めると同時に、部屋を覆う冷気が顔をぶって、凪は再び布団に身を隠した。スマートフォンを見ると、時刻は既に一一時を過ぎている。日も出ているのに、南向きの部屋はちっとも暖かくなってくれない。
暖房を入れた凪は、部屋が暖まるまでしばらく待つ。今は何時に起きても誰からも文句は言われない。
凪が一ヶ月間の停職を命じられたのは、『光へ向かって』のネガティブキャンペーンを行っていたことが発覚した、その日の午後だった。
明日からしばらく、会社には来なくてもいいと言われる。それは凪にとって、想像以上のダメージだった。さも当然というように言い渡した新橋に、二言三言しか声をかけてくれなかった同僚。まるで腫れ物に触るような扱いに、凪はやるせなさを抱いた。
自分が会社から、見切られたようにすら思えた。
凪が布団から起き上がったのは、一二時のチャイムを聞いてからだった。ソファに座り、スマートフォンを眺める。
停職してから、凪は無気力状態でいることが多くなっていた。近くのコンビニエンスストアにも、なるべく行きたくないと思う。もぬけの殻という言葉がぴったりと当てはまり、健人を亡くした直後の両親もこんな状態だったのだろうかと、凪はぼんやりと考える。
一〇時間以上眠ったのにまだ眠い。あんなに必死に働いていたのが、嘘みたいだ。
それでも、何もしなくても腹は空くので、凪はカップラーメンを調理して食べた。何日も食べ続けていても、当たり前のようにカップラーメンは美味しくて、情けなさが胸に募っていく。
自分が世界一、惨めでひどい人間のように思われた。
玄関のチャイムが鳴ったのは、まさに凪が自己嫌悪に苛まれている最中だった。モニターを覗くと、青い制服を着た配達員が、中くらいの段ボールの箱を手にしている。ネットショッピングをした覚えはない。
玄関を開けて受け取ると、それは見た目に反してずっしりと重かった。差出人は「登壇社 文芸部門 編集部」と書かれている。それだけで凪は、箱の中身を察した。
思わず気が重くなったけれど、不思議と凪の手は、テープを剝がしていた。もしかしたら違うかもしれない。そう一縷の望みに縋っていた。
蓋を開けると入っていたのは、紙のバンドで留められた本たちだった。スクランブル交差点を歩く人々のイラストが目を引く表紙が、凪の感情の逃げ場を塞ぐ。縦書きで書かれたタイトルと著者名は、間違いなく凪が何度も確認したもの。
来週発売の健人の小説だ。
慣例として出版した著者には、献本といって見本本が一〇冊ほど送られる。凪はその献本の送り先を、自分の住所にしていた。
だから、本を手にして立ちつくしている今の状況は、自分が招いたものなのだ。誰のせいでもない。
なのに、凪は手に取った本を、また段ボールに押しこんでいた。蓋を閉じて、近くにあった雑誌を載せる。
健人が生きた証は、今凪が一番見たくないものだった。目を背けて考えないようにしていたのに、実物を目の当たりにすると、どうしても健人の顔がよぎってしまう。死んでなお、自分に散々迷惑をかけている健人の顔が。
なんて不愉快なんだろう。
凪は段ボールを、収納スペースの一番奥にしまった。押しこめて、影も形も残らないようにした。
ダイニングに戻っても食欲は消えていて、凪は残りのカップラーメンをシンクに捨てて、再びベッドに横になった。
さっきまで眠かったはずなのに、今はまったく眠くない。それでも凪は目を瞑り続けた。
自分は家族、姉失格だ。そうやって自分を責めてみても、当然、気分はよくなるはずもなかった。
凪はコンクリートの上を、身を屈めながら歩いていた。凍てつく空気がグサグサと刺すように感じられる。
まだ空は明るくなり始めたばかりで、太陽はその姿を見せていない。朝六時の共同墓地は人っ子一人おらず、神妙な気配が流れていた。おびただしいほどの墓石が物々しい。
共同墓地は山の上にあったから、横を見れば町を一望することができたが、凪は脇目も振らずに歩き続けた。
冷たいだけの空間に身を晒していると、まるで自分が、この世の人間ではないようにすら思えた。
三分ほど歩いて、凪は健人の墓の前に辿り着いた。直方体の何の変哲もない墓石に「荒木家之墓」と書かれ、横の墓標には健人の戒名だけが彫られていた。両脇に挿された花は、正月から替えられていないのかすっかり萎れてしまっている。
正月ぶりに見た墓は、凪にはみすぼらしく見えた。それは凪が健人に抱いている、否定的な感情のせいに他ならなかった。
手を合わせることはしない。もちろん線香をあげることも花を挿し替えることもせず、凪はただじっと健人の墓を見つめた。怒りや悲しみ、腹立たしさや申し訳なさ。ありとあらゆる感情を視線に込めた。
当然、健人の墓が何か返事をすることはない。
だけれど、凪の脳裏には健人の顔が思い浮かんでいた。お互い大人になってからは、それほど会う機会もなかったけれど、最後に見たときの顔は今でも克明に思い出せる。生気に欠けた顔だった。
バッグから、凪は一冊の本を取り出した。荒木健人の最初で最後の著作、「光へ向かって」だ。表紙を前にして、墓に向かって掲げる。中にいる健人にも見えるように。
「健人、あんたが遺した小説がとうとう今日発売されるよ。きっと多くの人が手に取って、あんたが生きてたってことを知ってくれる。あんたの望みが叶うんだよ」
共同墓地は、鳥のさえずりさえ聞こえない、完全な静寂に満ちていた。風も吹かず、寒いだけの空気が凪を苛む。
「この本を出版するまでに、色々大変だったよ。企画を通すのも苦労したし、本文の修正だって全部私一人でやった。正直投げ出したくなるときもあったけど、あんたを死なせてしまった罪滅ぼしの気持ちで、なんとか最後までやりきれたよ」
健人に報告するように、凪は言葉に力を込める。誰にも聞かれていないことが、ありがたかった。
「ねぇ、健人。これで私たちを認めてくれる? 取り返しのつかないことをあんたにし続けた、私たちをちょっとは許してくれる?」
太陽がかすかに昇り始めて、朝の日差しが共同墓地にも差し込む。健人の墓も、ほのかに明るく照らされた。
「……なんて言うとでも思った?」
凪は、かじかむ手を開いて本を地面に落とした。ばさりと乾いた音が、冷え切った空気に溶けて、消えていく。
中にいる健人に何を思われようが、もはや関係ない。
「死んで本が出せて満足? 何者かになれて満足? ふざけんな。みんな何者にもなれない苦しみを胸に抱えながら、それでも必死で毎日を生きてんだよ。自分だけが特別だなんて思うな。死んで何者かになるくらいだったら、何者にもなれないまま生きのびろ」
ハードカバーの単行本は冷気に晒されて、表紙が色あせたように凪には見えた。
だけれど、拾うことはしない。もう手にするのも、忌ま忌ましかった。
「今日になってはっきり分かったよ。私はあんたが嫌いだ。家族のことを考えず、勝手に一人で死んじまったあんたが嫌いだ。こんなものが生きた証? バカ言うな。あんたの人生には、一二八〇円の価値しかなかったのか? ずいぶん安っぽい人生だったんだな。断言するよ。あんたの小説は誰の心にも残らない。読み終わったら、その辺に放っておかれてそれでおしまい。いや、そもそも最後まで読んでもらえるかどうか。だって内容が内容だもんな。自分で書いてて、クソだって分かってたんだもんな。そんな小説が誰かを突き動かすかよ。これは本なんかじゃない。ただの文字が印刷された紙くずだ」
健人の墓は何の反応も返さない。だけれど、姉に散々に言われて、眉を吊り上げているように凪には見えた。
でも、だからどうした。死んじまったら、もう手出しはできないだろうが。
凪はバッグからライターを取り出した。新品のライターは、軽くスイッチを押しただけですぐに火がつく。
弱々しくて、少しでも風が吹いたら消えてしまいそうな小さな火。だけれど今の凪には、健人へのこれ以上ない凶器だった。
凪は腰を曲げ、落ちている本に火を近づけた。火はハードカバーを炙り、すぐに本文に燃え移る。赤い火はじわじわと燃え広がって、凪が本からライターを離す頃には、立派な炎に成長していた。
冬の乾燥した空気も手伝って、本はぼうぼうと燃え上がっていく。インクの焦げた嫌な臭いが、ダイレクトに凪の鼻へと立ち上がってくる。
だけれど、凪は顔を逸らさなかった。自分がしたことの顛末を、しっかりと見届けようと思った。
「ねぇ、健人聞いてる? あんたの生きた証が燃え盛る音を。これがあんたの人生の本当の結末だよ。形は灰になって残らない。内容は読者の頭の中から、あっという間に消えていく。あんたが生きた証なんて、誰にもどこにも残んないんだ。それが勝手に自分で人生を終わらせた、あんたへの罰だよ。分かったか? バカ姉弟」
燃え上がる炎が健人の墓をかすかに照らしている。健人の墓から声がすることはない。死人に口なしだ。
どれだけ不満だろうと、自分自身で受け止めて、せいぜいあの世で悔いてろ。
凪は燃え続ける炎を見続けた。あんなに明確な手触りがあった本が、黒く縮んでいく。
吹けば飛んでしまいそうな軽い灰は、火葬場で見た健人の遺灰と、色が違うだけで何も変わらなかった。
(完)