【第6話】1月4日、朝8時30分
最後の文字を読み終えてもなお、凪は便箋から目を離せなかった。金縛りにあったように体が動かない。いくつもの感情が襲いかかってきて、脳の処理が追いつかなかった。
ストーブの稼働音がやけにうるさい。読んでいる間は気にならなかったのに、凪を責めるかのようにぼうぼうと鳴っている。
健人はここ最近、盆や正月にも実家に帰ってこなかったから、最後に凪と会ったのは大学の卒業式の日まで遡る。安い居酒屋で、しこたま酒を吞んでいた。もしかしたらそれは、自分と会う気まずさをごまかすためだったのかもしれない。
思えば凪はここ数年、健人に「お誕生日おめでとう」の一言さえ、送っていなかった。完全な他人の距離感は、凪にとっては気が楽だったけれど、健人にとっては寂しく辛いものだったのだろうか。
せめて誕生日ぐらいは話しておけば。健人の声をもっと聞いてさえいれば。
今さら後悔しても、もう健人は戻ってこない。だけれど、凪は自分を責めずにはいられなかった。残酷な現実をなんとか手のひらに収めるようにした。
でも、これでは健人の思う壺ではないか。自分をこんなに悲しませている健人に、腹立たしささえ凪は覚えた。
自分だけひっそりと消えるように死にやがって。遺される人間の気持ちも想像してみろ。怒りが沸々と湧いてくる。
たぶん、それは完全な逆恨みだ。
だけれど、凪は自分と同じくらい、健人を責めずにはいられなかった。
行き場のない思いは全て自分に跳ね返ってきたけれど、それでもバカな弟だと情けなくなった。
何が「死んで本が出せるんだったら、いくらでも死んでやらあ」だ。本を出すことがそんなに偉いのか。一つしかない命を懸けてまでやることなのか。
何が「死んで何者かになれるんだったら、喜んで首を吊ってやらあ」だ。何者かになるのは、そんなに価値があることなのか。それじゃあ、何者にもなれない大多数の人間はどうなる。
立ち尽くす凪を慰める者はいない。この錯綜した気持ちは、自分で抱えこむしかないのだ。
凪はにわかに怖くなった。やるせない思いが自分を狂わせていくのが、目に見えるようで恐ろしかった。
逡巡してから、凪はそっと便箋を机の上に戻し、そのまま布団に入った。電気を消してみても、恐怖は消えない。夢に健人が出てきて、自分を道連れにさえしそうだ。
小説を出版して健人が生きた証を残すことが本当にいいことなのか、凪にはもう分からなくなっていた。
全て自分の思い通りに行くなよという反発心と、せめて最後だけは健人の夢を叶えさせてあげたいという同情。きっとどちらも正しくて、どちらも間違っている。
ならば、どちらの気持ちがより強いかで決めるしかない。
凪は決心して、目を瞑った。悔いのない選択をするだけだった。
正月飾りが飾られた玄関を、凪は足早にくぐっていく。人もまばらなロビーを突き抜けてエレベーターに入ると、迷うことなく七階のボタンを押した。
普段は訪れる機会がない七階は、編集部の文芸部門のフロアだ。
営業部のオフィスがある五階を通り過ぎると、凪はにわかに緊張感に包まれる。決めたはずなのに、心の奥が震えていた。
文芸部門のオフィスは、エレベーターを出て真正面にあった。ガラス張りの扉の向こうは、出社時間三〇分前とあって、まだ人は多くない。机には書類が雑然と置かれていたり、かと思えばきちんと整理されていたり、それぞれの性格が表れている。
カードキーをかざして中に入る。部屋はまだ暖まりきっていなかった。
「ちょっと凪、どうしたの? こっちに来るなんて珍しいじゃん」
小夏が、凪を見かけるやいなや歩み寄ってくる。
凪はオフィスを軽く見回した。窓の前のひときわ大きい机は、整理が行き届いている。
「うん。少し用事があってね」
端的に答えて、凪は小夏を通り過ぎ、窓の前の机に向かった。
凪が近づいてくることに、机の主も気づいたらしい。掲げていたマグカップを下ろし、深く椅子に座り直している。
「あけましておめでとうございます。確か営業部の荒木さんでしたよね?」
「はい、金光さん。あけましておめでとうございます。先日の会議では失礼しました」
小さく頭を下げる凪。ついてきた小夏に「ちょっと」と軽くたしなめられても、気にしなかった。
金光は穏やかな目をしていて、突然の来訪にもさして驚いていないように、凪には見えた。
「今日はいったいどうされたんですか? 営業部のあなたが編集部に来るなんて、珍しいじゃないですか」
「はい、今日は金光さんに折り入って相談があって来ました」
「そういうのは事前に連絡してからにしてほしいですね。私も暇じゃないので」
確かに事前にアポを取っていないから、軽くあしらわれても文句は言えない。
それでも凪は「申し訳ありません」と謝りはしたが、金光の前から動くことはしなかった。獲物を見定める動物のように、金光を見つめる。
話を聞いてほしいという凪の思いが通じたのか、金光は一つ息を吐いてから、「まあいいでしょう。で、用件は何ですか?」と尋ねた。
あと三〇分もしないうちに、朝礼が始まる。もったいぶっている時間は、凪にはなかった。
「はい、単刀直入に言います。私の弟、荒木健人が書いた小説『光へ向かって』の刊行を、中止にしてください」
金光の目が、凪の言葉を聞いた瞬間、急に険しいものに変わった。何を言ってるんだと訝しむ表情に、凪はこの場から去りたくなった。
小夏も隣で「ちょっと、凪。何言ってんの?」と反応している。
だけれど、凪は動じるわけにはいかなかった。一度決めたなら、そう簡単に曲げてはいけないと感じていた。
「荒木さん、一体どうしたんですか? 企画会議でも出版すべきだって、あんなに熱弁していたじゃないですか」
「金光さん、事情が変わったんです。詳しいことは話せませんが、この正月で実家に帰省した時に、弟の遺書が見つかったんです」
「そこに『自分の小説を出版しないでくれ』と書かれていたと」
「いえ、そういうわけではありません。ただ私はその遺書を読んで、無性に腹が立ちました。遺された家族の気持ちも知らないで、なんて身勝手なんだと思いました。ですから、私は死んでまで、弟の思い通りにはさせたくない。だから、来月の刊行を取りやめてほしいんです」
「お願いします」と凪は、今度は深く頭を下げた。無茶を言っているのは、百も承知だ。だから、ひっくり返すためには、誠意を見せなければならない。
小夏が呆気にとられているのが、見なくても凪には分かる。
少しずつ人が増え始めたオフィスは、凪の行動に騒めきつつあった。
「分かりました」
一呼吸おいて金光がそう言ったから、凪は驚きのあまり、顔を上げてしまう。ダメもとが通じたというのか。
慌てふためく小夏に、唖然とする凪。金光の表情はごく自然だ。
「今回の刊行にかかった費用、三〇〇万円を荒木さんが補償してくれるなら、考えてみましょう」
提示された条件に凪は言葉を失った。三〇〇万円という大金は、凪にはなかった。預金残高はその半分にも届いていない。
だけれど、親に頭を下げれば、おそらく何とかなる金額でもあった。
お金の問題ではないと分かっていながら、凪は「はい。何とかします」と答える。眉一つ動かさない金光が、恐ろしく思えた。
「それと隣にいる椿を始めとして、校正や校閲に関わってくれた方、表紙を作ってくれたブックデザイナーさん、印刷所や製本所の方、小説を取り扱うことを了承してくれた書店の方々全員に、事情を説明して納得してもらってください。誰か一人でも説得できなかったら、小説はそのまま刊行します」
金光が出した条件は、凪の要求以上に無茶なものだった。ただでさえ、日々の業務をこなすのに精いっぱいなのだ。関係各所全てに足を運ぶなんて、とても時間が足りない。
凪は言葉に詰まった。金光が机に手を組んで載せる。増した迫力に、凪は息を吞むことさえできなかった。
「荒木さん、あなたも分かっていると思いますが、本を出版するには大勢の人が多くの時間を費やし、多額の費用がかかります。もう明日には入稿をすると、先方にも約束しているんです。今さら中止にはできません」
「でも、あの小説は本来、出版できるレベルにはなかったはずです」
「それは私も同感です。ですが、プロジェクトとしてもう引き返せないところまで来てしまっているんです。それに荒木さん、刊行を中止にする物的な根拠は一つもなく、全てはあなたの感情によるものですよね」
「それは……」
「いくら遺族とはいえ、あなたの感情ひとつで企画は覆せません。言い方は悪いですが、今のあなたは駄々をこねる子供そのものです。ここで刊行を中止すれば、我が社は関係各所に、小さくない額の賠償金を払うことになる。それも全て、あなたが負担しますか?」
矢のように降りかかってくる現実に、凪は返事をできなかった。金光が全面的に正しいし、自分がわがままを言っているだけなのも、頭では理解できていた。
それでもなお、凪は食い下がりたかったけれど、続々と出社してきた社員の目と、刻々と近づく始業時間がそれを許さない。
「荒木さん、そろそろ朝礼の時間です。営業部に戻ってください」
金光の言う通り、凪はオフィスを後にするしかなかった。小さく頭を下げ、脇目も振らずに退出する。
小夏をはじめ、大勢の視線を感じたけれど、凪はそれを非常階段のドアを閉めることで、シャットアウトした。
(続く)