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【第5話】いくらでも死んでやらあ



 季節が夏から秋に変わり、木々の葉も少しずつ色づき始める中、刊行の準備は着々と進められていた。


 原稿は既に出来上がっていたので、早い段階で校正作業に入ることができた。校閲部がチェックしたゲラを直すのは、凪の役目だった。


 小説には、誤字脱字、日本語として意味の通っていない箇所が多く、修正するのは一苦労だったが、それでも健人のことを思うと、凪はやり遂げる他なかった。


 小夏もカバーデザインなど動いてくれている。有名なデザイナーに依頼をしたらしく、会社としても健人の小説を大々的に売り出すという姿勢が、見て取れた。


 ゴールが見えてくるたびに、凪の気持ちは逸る。一日でも早く書店に並んでほしいと、強く感じた。


 仏壇の前で手を合わせる。りんの残響に、白檀の香り。ふすまの上には先祖の遺影が飾られていて、その中に健人の遺影もあった。


 目を閉じて、健人を偲ぶ。四十九日以来の実家は、ストーブが焚かれる音が、ごうごうと鳴っていた。


 新年を迎えて、凪は実家に帰省していた。「あけましておめでとうございます」とは、三人とも言えなかった。


 だけれど、住み慣れた家は凪を落ち着かせた。ふと外を見れば、小さな庭が雪景色に染まっている。


 まだ東京には雪は降っていなかったから、真っ白な景色が凪には懐かしかった。


「ねぇ、凪。寒中見舞い分けるの、手伝ってくれる?」


 秋に呼ばれて、凪はダイニングに向かった。秋から渡されたはがきの束は、ざっと五〇通はあった。


 自分はもう年賀状や寒中見舞いを送らなくなって久しい。


 手にすると、見た目以上にずっしりと重かった。


「健人の小説はどうなってるの?」


「前も言ったけど、もう作業も大分終盤だよ。カバーデザインも決まったし、来月には刊行できると思う」


 お望みの返事をしたはずなのに、秋の反応はどこか冴えなかった。以前電話で報告したときには、嬉しそうにしていたのに。


 凪は淡々と、宛名別に寒中見舞いを仕分ける。少しずつ手元が軽くなっていく感覚に、一抹の寂しさを味わった。


「ねぇ、今さらこんなこと言うのも何なんだけど……」


 まだ手中に寒中見舞いは残っているのに、秋は手を動かすのをやめていた。途中で言葉を区切られて、凪は「どうしたの?」としか反応できない。


 秋は少しためらってから、その重々しい口を開いた。


「健人の小説、出版中止にできないかな」


 発せられた言葉には、凪の手を止めるほどの衝撃があった。


 勘太はいつの間にか横になっていて、テレビの音だけが空々しく響く。


「お母さん、今さら何言ってんの? 健人の小説を出版することは、お母さんも同意したでしょ」


 「お母さんから頼んできたくせに」とは、凪は言えなかった。秋がやるせない目をしていたからだ。正月から悲しい表情は見たくない。


 凪は残りの寒中見舞いを置いて、秋のもとへと歩み寄った。同じ高さだった目線は、いつの間にか自分が見上げられる側に回っていた。


「私も健人の小説を世に出してほしい。健人が生きた証を残したいと思ってたけれど、実は事情が変わったの」


「いったい何があったの?」


 なるべく穏やかな声で、凪は尋ねる。秋がその震える唇を開くまでには、多少の時間がかかった。


「……実は、健人の遺書が見つかったの」


 感じていた疑問が、一気に吹き飛ばされるのを凪は感じた。健人が遺したのは、あのUSBメモリーくらいではなかったのか。


「広島の方に住んでる一雄(かずお)おじさんいるでしょ。家につい最近、健人からの遺書が送られてきたんですって」


「何でこのタイミングで……」


「それは私にもわからない。それで私たちのもとに転送されてきた遺書を読んだのが、昨日。大晦日のことだったの」


「……遺書にはなんて書いてあったの? まさか自分が書いた小説は、絶対に出版しないでくれとか?」


「ううん。そんなことは一文字も書かれてなかった。ただ、うまく表現するのが難しくて。内容が内容だったから……」


 暗くなる一方の秋の表情に、これ以上質問を重ねることは、凪にはできなかった。世の中や自分も含めた周囲への恨みつらみが綴られているとか?


 目を伏せる秋に、凪がかけられる言葉は一つしかない。


「ねぇ、お母さん。後でいいから、私にもその遺書読ませて」


 視線を上げてくれない秋を、凪はじっと見つめる。どんな内容でも受け入れる。そう決心を伝えるために。


「……分かった。もとより凪にも読んでもらおうと思ってたしね」


 頷いてもなお、秋は凪と目を合わせようとはしなかった。


 それほどショッキングなことが書かれていたのか。


 そう思うと凪は怖くなったが、今までの分も合わせて健人には向き合わなければならないと思って、気持ちを切り替えた。


 秋の背中にそっと手を当てる。少し曲がった背中は、服越しでも人肌の体温を保っていた。





 勉強机の上には三枚の便せんが、谷折りになった状態で置かれている。


 健人の遺書を前に、凪は逡巡していた。昼間は何としてでも読むと決意を固めていたのに、いざ秋から手渡されると、なかなか読むことができなかった。


 もっと自分が健人のことを気にかけていたら、健人は死なずに済んだかもしれない。


 そう思うと、自分に遺書を読む資格があるのか自信が持てなかった。


 気がつけば日付も変わり、秋も勘太も寝てしまったのか、家には物音一つしない。心細さが凪の決心を、さらに鈍らせる。このまま布団に入って寝てしまうことさえ考えてしまう。


 だけれど、いずれは読まなければならないのだ。死んでからも健人に目を背け続けるのか。


 罪悪感は横になることを許さず、凪は自分の部屋から出ていた。


 洗面台に辿り着いて、電気をつける。暖房もなく肌寒いなか、凪は冷水で自らの顔を洗った。容赦のない冷たさは、微睡みがかっていた心まで引っ叩いて、目を覚まさせる。


 鏡の中の自分は、眉が下がってひどく情けない顔をしていた。これじゃ死んでいった健人に、申し訳が立たない。


 凪はもう一度顔に冷水を打ちつけると、タオルで水気を拭いてから、再び自分の部屋へと戻った。もう逃げてばかりではいられない。


 自分の部屋に戻った凪は、まっすぐ勉強机に向かっていき、何も考えずに健人の遺書を手に取った。


 三枚一気に開くと、そこには確かに、健人の荒い筆跡が記されていた。


“父さん、母さん、姉ちゃんへ


 突然悲しませてしまって、申し訳ありません。俺はもう死ぬことにしました。


 同じような日々を繰り返すことに価値があるのかどうか、前々から疑問でした。


 俺がいなくなっても世界は何事もなく回り続ける。いたっていなくったって同じ。


 だったら、俺はいなくてもいいんじゃないか。いや、むしろ人に迷惑をかけて、ばかりで何一つ返せていないのだから、いない方がいいんじゃないか。これが俺が死ぬ理由です。


 でも、父さんや母さん、姉ちゃんが自分を責める必要はありません。悪いのは全部俺です。せっかく愛情を込めて育ててくれたのに、クソゴミ人間になってしまった俺に、全ての責任があります。


 本当に不孝者ですみませんでした。死んでお詫びします。本当にごめんなさい。


 なんて言うとでも思ったか?


 冗談じゃねぇよ。今俺がこうなってんのは、全部お前らのせいなんだよ。


 父さんも母さんも姉ちゃんばっかり可愛がって、いつも俺を二の次にしやがって。ふざけんじゃねぇよ。


 姉ちゃんも全然、俺のこと構ってくれなかったしよ。内心じゃ俺のこと見下してたんだろ。非正規で彼女もいない、夜な夜なオナニーばっかしてる俺のことを恥ずかしい、自分の弟じゃないみたいに思ってたんだろ。言葉にしなくても態度から丸わかりだったよ。


 いいよ。俺も姉ちゃんのことは他人だと思ってたし。どうせ助けてくれないのは分かってたからな。俺が死んで、「もっと弟を大切にしておけば」とでも思ったか? ざまあみろってんだ。


 そうそう。俺が最後に遺した小説だけどよ。よければ出版でも何でもしてくれや。多くの人の目に触れさせて、俺が生きてたってことを知らしめてくれや。


 まあ、反応はクソほど悪いだろうけどな。


 分かってんだよ。俺だって。こんな小説もどき、商業出版できるレベルにねぇってことは。


 でも、世の中じゃ死んだ人間の遺した手記が、ベストセラーになることだってあるだろ。余命わずかな作者が命を懸けて遺した小説が、共感を呼んで映画にまでなる。


 大事なのは内容じゃなくて、ガワなんだよ。若くして亡くなった作者の遺作っていうガワのストーリーに、みんな飛びついてんだよ。


 だったら、俺のチンカスな小説もどきだって、売れる可能性あんだろが。


 俺は子供のころから、ずっと本が出したかった。


 だけれど、本が出せるだけの文才が、俺にはないってことも重々分かってた。じゃあ、死んで遺作って銘打って売り出すしかねぇだろ。


 死んで本が出せるんだったら、いくらでも死んでやらあ。死んで何者かになれるんだったら、喜んで首を吊ってやらあ。


 何もない俺は、命を差し出すしかねぇからな。それが、才能がねぇのに夢見ちまった人間の末路ってやつだよ。


 最後になったけどよ、俺はお前らに謝ることなんて絶対にしねぇからな。


 むしろお前らが俺に謝れ。今まで無下にしてきてすみませんでしたって、土下座しろ。俺はあの世から、そのザマをせせら笑ってやるよ。


 ざまあみろ。バカ家族。”



(続く)

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