【第4話】緊迫の企画会議
「え、営業部書店営業部門、荒木凪です」
挨拶も緊張のせいで、若干上ずってしまう。凪は深く頭を下げてごまかそうとしたが、会議室の雰囲気は少しも柔らかくならない。
進行を務めているのだろう、編集部副部長の二川が「ひとまず座ってください」と促す。凪が第二会議室に向かう途中に用意されたのか、入り口に一番近い席が空いていて、「失礼します」と凪はおそるおそる座った。
スクリーンには、小夏が書いた企画書が投影されている。健人の小説について、少なくない時間が費やされていたようで、凪は少し後ろめたさを感じた。恥じることなどないというのに。
「荒木さん、この企画の発案者はあなただそうですね」
緊迫した状況は、凪に息つく暇を与えない。気持ち大きめの声で返事をする。しかし、それは何ら功を奏さなかった。
「では、この企画の概要を、もう一度説明していただけますか?」
二川に言われて、凪は立ち上がる。室内を見渡すと、緊張は余計に高まった。
「この企画は私の亡くなった弟、荒木健人が執筆した小説を出版するというものです。人生に絶望していた主人公が、周囲の人との関わりの中で、生きる希望を見出していくという内容で、読んでもらうことで同じく人生に満たされない思いを感じている人たちに、ささやかでも生きる希望を見出してもらうことを目的としています」
小夏とともに考えた文章を、凪はなるべくはっきりと口にした。集中する視線に怯みもしたが、表情には出さないように努めた。
「以上です」と、凪が座るとすぐに質問が飛ぶ。
「荒木さん、概要は分かりました。ですが、私どもが知りたいのは、この企画が果たして我が社に利益を与えるのかという点です。あえてこの言い方をしますが、何の実績もない作者の書いた小説が利益を上げるほど、売れるとお思いですか?」
口を開いたのは、二川の隣に座る編集部部長・金光だった。眼鏡の奥に覗く目が、刺すように鋭い。
「はい。思います。健人、いえ作者の書いた内容は普遍性がありますし、丁寧に訴求していけば、手に取る人は少なからずいると考えています」
「その丁寧に訴求するとは、作者が命と引き替えに残した作品、すなわち遺作であることを、読者に訴えかけるということでしょうか?」
今度は、小夏の隣に位置するもう一人の編集部副部長・脇坂が、凪に質問を浴びせかける。
改めて言葉にされると、凪にはグロテスクに聞こえたが、ここで挫けてはいられない。
「はい。このご時世、隠していてもいずれは広まってしまうので、最初から遺作であることを打ち出していくべきだと考えます。遺作という言葉が持つ強い響きに、私たちは多かれ少なかれ反応せずにはいられません」
あまりの残酷さに、自分で言いながら、凪は胸を引き裂かれそうだったが、眉根に力を入れることで堪えた。
「荒木さん。それは死んだ人間を使って、商売をするということでしょうか?」
底意地の悪い言い方をしたのは、凪の隣に座る営業部部長の北藤だった。普段は物腰柔らかに接してくれるが、やはり企業の生死がかかっている場だから、シビアだ。
「はい。悪い言い方をすればそうなりますが、作者の死を無駄にしないという、いい言い方もできます。作者が命を懸けたのなら、私たちもそれにふさわしい態度と覚悟で応じるべきです」
「荒木さん、今は言い方の問題について話しているのではありません。これは我が社の品位が問われているのです。亡くなられた方を出しにするのは、正しい出版社のあり方なのでしょうか?」
眉をひそめながら言葉を挟んだのは、入り口から最も遠い席に座る副社長の池内だ。全社を統括する立場にあり、広汎な視点を持っている。この場で最も強い発言力を持つだけあって、言葉にも格段に重みがあった。
だけれど、池内を納得させなければ、出版には漕ぎつけられない。問い詰められて凪は謝りたくなったが、自分に非はないと思い直した。
「池内副社長。お言葉ですが、これは作者である私の弟を、出しにしているのではありません。弟が生きた証をこの世に残すという意義のある企画です。小説には本の内外に関わらず、様々な生き方が刻印されています。言い方を変えれば、『書いて残す』ことが小説の持つ機能の一つだとも言えます。本企画は、そういった小説の機能に則った企画である。そう私は考えます」
「ですが、荒木さん。世の中には本を出したくても出せない人が、たくさんいます。日夜、画面や原稿用紙に向かって、もがいている人がごまんといます。その方たちと弟さんの違いは何ですか? ただ亡くなったという一点だけではないですか?」
「……正直、それは否めません。ですが、弟をはじめとした、そういった方たちの人生は取るに足らないものでしょうか? 残す価値のないものでしょうか? 弟が歩んだ、いえ歩もうとした人生に共感してくれる人は、必ずいると私は信じています」
「それは同情に訴えるということですよね。同情で売れるほどこの世界が甘くないのは、荒木さん、現場にいるあなたが、誰よりもご存知なのではないですか?」
「いえ、副社長。私は同情はいくつもあるフックの一つに過ぎないと考えています。私が読者の方にしてほしいのは、安易な同情ではなく、主人公の人生を追体験するという共感であり、共振です。この小説には、それをなせるだけのエネルギーが込められています。どうか、この企画を世に問う機会を設けてはいただけないでしょうか?」
「お願いします」と今一度、凪は立ち上がって頭を下げる。重ねた言葉が池内たちに届くことを願って。
だけれど、頭を上げても池内をはじめとした面々の表情は渋かった。まるで恐ろしい能面を見ているようで、何もかも投げ出して立ち去りたい気持ちが、凪の中で膨らむ。
池内が二川にアイコンタクトを送る。二川は分かったように頷いて、口を開いた。
「それでは、ここで決を採りたいと思います。椿と荒木が提案した本企画を採用したいという方は、挙手をお願いします」
凪には二川の声が、判決を告げる裁判官のように聞こえた。泣いても笑っても、ここですべてが決まる。
凪は目を閉じたくなったが、なんとか室内を見回す。
金光、脇坂、そして池内が手を挙げていた。
思ってもみなかった光景に、凪は一瞬ためらう。だけれど、状況が理解できると、突き上げるような喜びが胸の底から湧いた。
「賛成三、反対二。本企画は採用ということでよろしいでしょうか?」
異論は出なかった。北藤も二川も多数派に従うことにしたらしい。
「それでは、椿と荒木が提案した本企画は、採用とさせていただきます」
五人全員が頷いて、凪は思わず両手を突き上げたくなった。重厚な空気が漂う会議室では、表立って喜びを表現することはできなかったが、それでも浮かない程度に声を弾ませて、「ありがとうございます!」と、再び頭を下げる。
拍手はなかった。だけれど、池内たちの視線はわずかに柔らかくなっていて、凪は改めて企画が認められたことを感じた。
小夏がわずかに微笑みかけてくる。
まだ形になったわけではないが、自分は一つ成し遂げたのだと思うと、少しだけ健人にも顔向けができる。そんな気が、凪にはしていた。
(続く)