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【第3話】義務教育からやり直せ



 凪がベッドに横になったのは、日付が変わろうかという頃だった。徹夜のダメージは激しかったし、実家にいたときにはまだ健人が亡くなったという事実を受け止めきれず、よく眠ることができなかった。それは今もあまり変わっていない。だけれど、さすがに瞼が重い。


 凪は素直に目を瞑って眠ろうとした。それでも、瞼の裏に今も健人の姿が浮かんでしまう。じきに消えていくはずだと、凪は目を閉じ続けた。ゆっくりと眠りに落ちていく感覚。


 スマートフォンに着信があったのは、まさにそんなときだった。デフォルトの着信音に、凪は慌てて起き上がる。電話の主は小夏だった。こんな時間にかけてくるなんて。


 用件は分かりきっていたから、凪は迷わず応答する。小夏は近所に配慮しているのか、控えめな声だった。


「ごめんね、凪。夜遅くに。まだ起きてた?」


「今寝るとこだったけど、別に大丈夫だよ。こんな時間にどうしたの?」


「あのさ、昼間渡してもらった小説、読んでみたんだけどさ」


 小夏はそこでいったん言葉を区切ったから、凪は緊張を味わう。プロの編集者である小夏の意見は、自分よりもはるかに正当性があるだろうと感じた。


「ちょっとこれは、出版するのは難しいかな」


 淡々と言った小夏に、凪は落胆すると同時に、やっぱりかという思いを抱く。健人が書いた小説が商業のレベルに達していないのは、自分でも分かっていた。


「とにかく文章が拙くて。拙いだけならまだいいんだけど、ミスが多くて義務教育からやり直した方がいいレベルだった。それに展開もこれといった山場がなくて、淡々と終わっちゃったし。これって大衆小説なんでしょ? 読者をひきつけるっていう基本がまったくなってなくて、一冊でも小説のハウツー本を読んだのかなって思った。テーマもあるにはあるんだろうけど、全然伝わってこないし、オリジナリティも皆無。正直言って、この小説にお金を出したいって人は、一人もいないと思うな」


 そこまで言わなくてもと思うくらい、小夏はズバズバと小説の問題点を言い当てて、凪の胸は深く抉られた。ぐうの音も出ない。


 小夏にはそんなつもりはないのだろうけれど、まるで健人の人生を全否定されたようで、凪は悲しくて泣きそうにさえなった。


「そう作者の人に伝えといてよ。まあどんな人にも成長の余地はあると思うから、あまり厳しく言いすぎず、そこはオブラートに包んで、ね」


 亡くなってしまった健人に、成長の余地なんてあるはずがない。健人の小説は、これが最初で最後なのだ。


 凪は反感を抱いた。事情も何も知らないくせにと言いたくなる。自分が教えていないのが、いけないのだけれど。


「じゃあ、そういうことだから。私ももう眠いし、切るね」


「ちょっと待って」


 反射的に凪は言葉を挟んでいた。電話の向こうで、小夏が首をかしげたのが分かる。


 自分から呼びかけたにも関わらず、凪はすぐに言葉を続けることができなかった。この期に及んで、まだためらっていた。


「ん、どうしたの? 凪も眠いんじゃなかったの?」


 不思議そうな小夏の声に、凪はようやく決心を固めた。一呼吸おいて、ゆっくりと口を開く。


「あのさ、今小夏が読んだ小説の作者の人、実はもういないんだよね」


「いないってどういうこと?」


「……その小説の作者、実は私の弟なんだ」


 電話口を沈黙が支配した。それもそうだ。もし逆の立場だったら、自分だって黙ってしまう。


 凪はただ小夏の反応を待った。電話の向こうで小夏は「えっ、えっ」としきりにためらっていて、事実を受け止められないようだった。


「ちょっと待って。整理させて。この小説を書いたのは凪の、その……亡くなられた弟さんってことでいいんだよね?」


「うん。あいつさ、亡くなる前にその小説を遺してて。お母さんに本にしてほしいって頼まれたんだ」


「ごめん。そうとも知らずに私、きついこと言い過ぎた。本当、ごめんね」


「いいよ。小夏がそう思ったんなら、そうなんでしょ。私も読み終わったときに『これ出版できるのかな……』って思っちゃったし」


 何度も電話越しに謝る小夏を、凪はすべて許した。意味のない問答を早く終わらせたかった。


「でさ、こんなこと聞くのもどうかと思うけど、どう? 本にできそう?」


「うーん……。それ聞くと私としては出版させてあげたいけど、ただ上がなんて言うかな……。事情を説明したとしても、正直厳しい気がする……」


 渋る小夏にも、凪は嫌悪感を抱かなかった。営業の自分には分からないこともあるのだろう。本を出すのは編集部の領分だ。


 それでも、ここで折れてしまっては、秋や自分の願いを叶えることはできない。


 凪は声に力を込めた。表情が見えなくても伝わるように。


「ねぇ、小夏お願い。私はどうしても、弟が生きた証をこの世に残したいの。このままじゃ弟が生きた証は何一つ残らない。私たちが死んだら弟はいなかったことになる。そんなのあんまりでしょ。だから、弟の小説をちゃんと本という形にして残したい。弟が生きていたってことを、たとえ一人だっていいから知ってほしいの」


「……分かったよ。部長に言うだけ言ってみる」


 小夏を説得できたことに、凪はひとまず胸をなでおろした。もし小夏が目の前にいたら、喜びのあまり手を取ってしまいそうだ。まだ何も成し遂げていないのに。


「ありがと。私にできることがあったら何でも言ってね。解決するよう全力で協力するから」


「うん、発起人は凪だからね。色々聞くことになると思うけど、そのときはまたよろしく」


 「じゃあ、おやすみ」。そう言って小夏は、今度こそ電話を切った。


 何の音もしなくなったスマートフォンを枕元に置き、凪は再び横になる。目を瞑ると、店頭に健人の書いた小説が本になって並んでいるのが瞼に浮かんだ。


 そのためには、まだいくつもの関門を乗り越えなければならない。自分が言い出したことなのだから、気を引き締めなければ。


 そう思ったのも束の間。襲いかかってくる眠気には勝てず、凪はすぐ眠りについていた。





 書店回りから帰ってきて事務作業をしている間、凪はしきりにパソコンの時計に目をやっていた。時刻はもうすぐ三時になろうとしていたが、凪には時間が過ぎるのがやたらと遅く感じられた。


 資料に目を通してみても、販売計画を作成していても、時計はなかなか変わらず、時を刻んでいないようにすら思える。


 コップの麦茶を飲み干して、サーバーに汲みに行く。机とサーバーの往復は、凪が席に着いてから既に五回を数えていた。


 一時から始まった企画会議は、なかなか難航しているようで、凪は気が気でなかった。


 先日、凪の話を聞いた小夏が作成した企画書が、今会議にかけられている。気にするなという方が無理な話だろう。


 企画書作成に時間をかけてくれた小夏のためにも、そして何よりあの小説を遺した健人のためにも、ここでボツになることは避けなければならない。


 とはいえ、営業部の凪にできることはまったくと言っていいほどなく、ただ目の前の仕事をこなすぐらいだった。何も手につかない気持ちを押しこめつつ、凪は淡々と仕事に励もうとする。


 電話の着信音が鳴ったのは、そんなときだった。


 とはいえ、鳴ったのは凪の卓上にある電話ではなく、窓近くの営業部副部長・新橋の電話だ。


 受話器を取って話す新橋を、凪はなるべく見ないように努めた。平常心だと、自分に言い聞かせた。


「荒木、内線一番に編集部からの電話が入ってるから取って」


 新橋が言うと同時に、電話機の「内線1」の欄にランプが灯ったから、凪は息を吞んだ。企画会議の結果が出たのだろうか。


 でも、それなら小夏が携帯で伝えてくれるはずだ。


 凪は受話器を手に取る。電話越しに聞こえてきたのは、聞き慣れた小夏の声だった。


「もしもし、営業部の荒木さんですか。編集部の椿です」


「はい、荒木です。どうかされましたか?」


「現在行われている企画会議で、荒木さんの話を聞きたいという意見が出たので、至急八階の第二会議室までお越しいただけますか」


 用件を聞いて、凪は健人の小説のことだと直感した。それ以外に自分が、企画会議に呼ばれる理由はない。


 凪の緊張は一気に高まっていく。急に喉が渇き出し、十分飲んだはずの麦茶がほしくなった。


「は、はい。ただいま伺います」


 受話器を置くとすぐに、凪はペンとメモ帳、それに小夏から渡された企画書を持って、席を立った。


 新橋に事情を説明してから営業部を後にし、エレベーターに乗りこむ。移動している間も、凪の心臓は早鐘を打って止まらない。


 第二会議室は、エレベーターホールを曲がってすぐのところにあった。気持ちを落ち着けるためにした一呼吸は、あまり意味がなかった。それでも、凪は三回ノックをして、「失礼します」とドアを開ける。


 一目室内の様子を見た途端、凪の緊張は最高潮に達した。編集部や営業部の部長副部長クラスに副社長までいる。普段はほとんど関わりのない人間の目が、一斉に凪に向けられていた。


 一応記録係として小夏も座っているものの、凪の緊張は少しも和らがない。


「え、営業部書店営業部門、荒木凪です」



(続く)

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