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【第2話】光へ向かって



 葬儀を終えて、凪が自宅に戻ってきたときには、外はすっかり暗くなっていた。それでも、三〇度を超える熱帯夜だ。冷房を入れないわけにはいかない。


 凪はエアコンをつけると、すぐに机の上にあるノートパソコンを起動した。明日は出勤日だから早く寝なければならなかったが、健人の書いた小説を読まなければ自分に眠ることは許されない。そう感じていた。


 USBメモリーに入っていたファイルは、文章ソフトの一件しかなかった。「光へ向かって」と名付けられたファイルを凪は迷わずに開く。すると、縦書きの文章が目に飛びこんできた。


〝僕には何もない。誇るべき特技も、立派な職歴も、くだらない話ができる友達も、会わずにはいられない恋人も、この世に生きている価値も、人生を続ける理由も何一つない。SNSに積み重なった「自分はダメだ」という呟きが、強い自己愛を表している。死ぬ死ぬばかり言っているかまってちゃん。どこにでもいる小さなゴミ人間。それが僕、佐々木建人のすべてだ”


 内省的な独白で始まった小説は、その後も主人公のモノローグを交えて展開された。自殺を考えるほどに人生に絶望していた主人公が、周囲の人との関わりを得て、徐々に生きる希望を見出していくストーリーは、健人の心の叫びのようで、読んでいるうちに凪の胸は締めつけられる。


 書いている間、健人は何を考えていたのだろう。祈るような気持ちだったのだろうか。小説の中に救いを見出していたのだろうか。


 凪は目を何度もこすりながら、ノートパソコンに向かい続けた。隣人も寝静まり、車の走行音もしない深夜は、読書をするには理想的な環境だった。


 最後まで読み終えたときには、明るくなった外で、名も知らない鳥たちが呑気に鳴いていた。


 ノートパソコンを閉じて、息を吐く。健人の人生すべてが乗った小説を読んで、簡単に立つことはできなかった。


「どうしよう……」


 レースカーテン越しに入ってくる朝の日差しを眺めながら、凪は呟いた。


 姉弟として、これを出版したい気持ちはもちろんある。だけれど、読者として考えると、この小説にお金を払いたいとは正直思えない。


 文章は稚拙だし、表現も数パターンしかない。ストーリーも目を覆いたくなるほどにぎこちなく、都合を感じる展開ばかりだ。さらに、内省的な語り口のせいか、小説全体を包んでいる雰囲気が暗く重たい。


 凪が読んでいる間、目をこすっていたのは泣いていたからではない。あまりのつまらなさに、眠気が襲いかかってきたからだ。文芸部の高校生だって、もう少しマシなものが書けるだろう。そう思ってしまうくらいには、健人の書いた小説は凄惨だった。


 人生すべてのっけてこれか。凪はかぶりを振る。健人の歩んだ人生に、価値がないとは思いたくなかった。


「……やるしかないか」


 自らに言い聞かせるように呟き、凪はスマートフォンを手に取った。ラインのホーム画面から、その名前を探す。


 凪の心臓は小刻みに鳴っていた。徹夜のダメージをかき消すかのように。





 徹夜したダメージは確実に体を蝕んでいて、凪はやっとの思いで午前の業務を終えていた。机に向かっていても、書店を回っていても、頭は鉛を含んだように重く、単純な受け答えにも四苦八苦していた。


 本当ならさっさと昼食を食べて、机で仮眠でも取りたいところだが、約束をしたからそうはいかない。


 会社ビルの一階のカフェで、凪は相手がやってくるのを待っていた。アイスコーヒーを飲みながら、今か今かと待っていた。


「ごめん、凪。遅くなって。校正のチェックに時間がかかっちゃって」


 椿小夏(つばきこなつ)がやってきたのは、凪が席に着いてから一五分が経った頃だった。肩まで伸びた髪を後ろで結んでいて、左手の薬指にはキラリと光るものが見える。


 「ううん。私も今来たとこだから」と、凪は取り繕う。申し訳なさそうにはしていたけれど、深刻とまではいかない小夏の表情を見て、凪の心はいくらか救われた。


 凪と小夏は同期入社で、研修で同じ班になったときからの付き合いだ。今は営業部と編集部に分かれてしまっているが、週に一度は一緒に食事に出かけるほどの関係はずっと続いている。


「もう聞き飽きてると思うけど、言わないとバツが悪い感じがするから、一応言うね。この度は本当にご愁傷様です」


 凪の真向かいに座り、同じようにアイスコーヒーを頼んでから、小夏は言った。


 もう散々言われた言葉だから、大して何も感じない。それよりも小夏が辛気臭い顔をしているのが、凪には少し嫌だった。


「そんな神妙な顔しないでよ。小夏にそういう顔されると、こっちが困っちゃうから」


「でも凪、クマできてるし、目も赤いよ。やっぱりショックで眠れなかったんじゃないの?」


 小夏が心配するのも無理ないだろう。凪だって、朝鏡を見たときに同じように感じていた。


 心配しなくていいよという風に凪は笑いたかったけれど、まだそこまで気分は回復してはいなかった。


 せめてもと、小夏を見て目元を緩ませる。そして、気丈なふりをして答えた。


「大丈夫だよ。確かに昨日は徹夜したけど、それは別件でだから。いや、完全に別件とは言い切れないんだけども」


 無理をしているのは見透かされていそうだったけれど、小夏は何も言わなかった。到着したアイスコーヒーを口に運んでいる。


 凪もアイスコーヒーを飲み、二人の間には一瞬静寂が漂った。コップに付着する水滴が冷たい。


「で、私に話って何?」


 切り出したのは小夏だった。凪は決心を再確認するように、一拍置いてから話し出す。


「ねぇ、小夏ってまだ文芸部門にいるよね?」


「うん。いるけど、それがどうしたの?」


「実は本にしてほしい小説があるんだけど、そういう話ってしても大丈夫かな」


 ほんの一瞬だけ小夏の目が見開かれたのを、凪は見た。初めてする話だから、驚くのも無理はない。


 それでも、頼めそうな相手は小夏しかいなかったから、凪は首を横に振らないでと、願うしかなかった。


「まあ、できるかできないかは別として、話だけなら聞くよ。それってどんな小説なの?」


「……ざっくり言うとヒューマンドラマかな。人生に絶望していた主人公が、周囲の人との関わりで、徐々に生きる希望を見出していくっていう」


「へぇ、よくある話だね」


 小夏は単なる感想を述べただけなのだろうが、辛辣な言葉は凪の胸をこっそり抉った。


 どこかで見た話だなんて、そんなの自分が一番よく分かっている。だけれど、思っていたとしても言わないでほしかったと、凪は目線を下げた。


「いや、よくあるってことはそれだけ世に出てるってことで、読者から一定の需要があるってことだから。気分を悪くしたんならごめん」


「いいよ。私もありがちな設定だと思ってるし。そんな気にしないで」


 テーブルには少し気まずい空気が流れだしたけれど、店内は休憩中の社員で混んでいたから、すぐにいくつもの話し声にかき消された。


 二人だけじゃなくてよかったと、凪はふと思った。


「で、それでその小説を書いたのはどんな人なの? まさか、凪?」


「ううん、違うよ。私とは別の人」


「そっか。じゃあひとまずその人に会ってみたいかな。どんな人なのか、話を聞いてみたい」


「ごめん。その人は今ちょっと事情があって会えない状態なの。っていうか作者に会うよりもまず、小説そのものを読むほうが先じゃない?」


「そうだね。今手元にあったりする?」


 凪はバッグからUSBメモリーを取り出して、テーブルの上に置いた。健人が残した少し汚れたものではなく、真っ白な新品だ。もちろんファイルはコピーして保存してある。直接健人が遺した、生きた証を渡すのは気が引けた。


「ありがと。家に帰ってからでも読ませてもらうね」


 そう言って小夏は、USBメモリーをスーツのポケットにしまった。小夏がどんな評価を下すのか、凪は自分が書いたわけでもないのに、緊張を隠せない。


 「で、話は終わり?」と小夏が聞いてくる。すらりと伸びた長身から放たれた言葉は、少しの威圧感を持って届いた。


 作者が健人であることを伝えるべきか、凪は迷った。出版するためには、あらかじめ伝えておいた方がいいのではないかという思いと、編集者である小夏の率直な意見を聞きたいという思いがせめぎ合い、最終的に凪は後者を優先した。健人が書いたという色眼鏡で読まれるのは、よくないと考えた。


 凪が首を縦に振ると、昼休憩が終わるまで二人は世間話をしながら過ごした。小夏が喪中だからといって特別な配慮をすることはなく、かえって凪にとってはありがたい。おかげで、少しずつ日常に戻ることができる。


 だけれど、健人が遺した小説に悪い評価が下されたらという懸念は消えず、話している間も凪はどこか地に足がついていなかった。


 読んでほしいけれど、読んでほしくない。そんな複雑な気持ちに陥っていた。



(続く)

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