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【第1話】度重なる電話



 家々やビル群の明かりが、まるで夜を吹き飛ばしそうだ。少しずつ戻ってきた日常を謳歌しているのだろう。


 だけれど、荒木凪(あらきなぎ)は外の情景には目もくれず、座って読書に耽っていた。好きな小説家の一年ぶりの新刊だ。


 待ちに待った小説を読める喜びに、凪は浸ろうとする。


 しかし、カバンに入れたスマートフォンが何回も振動して、凪の集中を妨げた。母である(あき)からで、留守番電話も既に五件残されている。盆も近いし、実家に帰って来いという催促だろうか。言われなくても帰るのに。


 電車の中だから、電話に出るわけにはいかない。帰ってから折り返そう。


 凪は再び本に目を落とそうとする。けれど、一分もしないうちにまたカバンの中が振動し、凪は思わずスマートフォンの電源を切ってしまう。


 うんともすんとも言わなくなったスマートフォンをしまい、三度読書を再開する凪。ストーリーがすらすらと頭に入ってきて、仕事の疲れもそこそこに、万能感に包まれた。


 凪の住むマンションは、駅から歩いて五分の距離にあった。いわゆるタワーマンションだが、凪が住んでいるのは二階だから、家賃は見た目ほどには高くない。


 階段を上りながら、凪はスマートフォンの電源を入れた。すぐにまた着信が入る。やはり秋からだ。


 若干しつこいなと思いながら、凪は通話ボタンを押し、スマートフォンを耳に当てた。聞こえてきたのは、少し焦ったような声だった。


「よかった。凪。ようやくつながって。あんた、今どこにいるの?」


「どこってマンションだけど。ああ、ごめんね。さっきは電話取れなくて。電車の中にいたからさ」


「なかなか繋がんなくて心配したのよ。もしあんたの身にまで、何かあったらどうしようって」


「そんな、大げさな。そうそう、お盆の話でしょ。心配しなくてもちゃんと、一三から一六で有給取れたから。そっち帰るよ」


 喜ばしい報告にも、秋の反応は重かった。まるで何かを言い淀んでいるような。家族に何かあったのだろうか。父親である勘太(かんた)は、去年帰ったときにはいたって元気そうにしてたのに?


 そう邪推していると、秋がひどく慎重な声で「落ち着いて聞いてね」と言うから、凪は身構えてしまう。それでも、鍵を開けてもう家に入る準備はできていた。


健人(けんと)がね、今日首を吊っている状態で発見されたの」


 秋が一音一音吐き出すように言った言葉は、凪の動きをぴたりと止めた。ドアノブから手が滑り落ちる。血を分けた姉弟の死は、凪に未知の衝撃をもたらした。頭が混乱して、確かめる言葉さえ出てこない。


 廊下に窓はないのに、ふと涼しい風が吹いたような。


 でも、それは凪に立った鳥肌だった。


「不審に思った会社の人が家を訪ねてみたら、もう冷たくなってたんだって。遺書も残さず一人で逝ってしまうなんて……。そんなのってないよね……」


「お、お母さん、ひとまず落ち着こう。け、健人が亡くなったのは本当なんだよね」


「そんな改めて言わないでよ……。まだ受け入れられてないんだから……」


 「落ち着こう」と言った自分の声が震えているのをはっきりと感じていたから、秋の心情を思うと、凪にはぐうの音も出なかった。


 遮音性が売りのタワーマンションは、こんなときでも物音一つ聞こえない。静けさが今の凪を傷つける。


「とりあえず、明日通夜を行うことになったから……。急なんだけど、帰ってこれる……?」


 凪は小さな声で頷いた。慶弔休暇を使用すれば何とかはなるはずだ。


「何か特別なものは持ってこなくていいからね……。喪服とかはお母さんたちが準備するから……」


「分かった。朝イチの新幹線で向かうよ」


「そう……。くれぐれも気をつけてね……」


 「うん」と凪が答えてから、秋が電話を切るまでにわずかに時間があった。一人になってしまった自分の子供と、話を終わらせたくないと思ったのだろう。


 凪には悲しみに沈む秋の気持ちが、痛いほど分かった。自分だって、多くの時間を健人と過ごしてきている。


 耳元からスマートフォンを離して、凪はドアノブを引いた。物の少ない部屋は、冷ややかな静けさに満ちている。


 凪はスーツから着替える気にもなれず、ベッドに座った。ただ壁を眺める姿は、たぶん途方に暮れるという言い方が正しかった。





 健人の葬儀は三日後、市内の葬祭会館で営まれた。二十四歳だった健人の交友関係はさほど広くなく、案内状の宛先もひどく限定的で、凪は寄る辺ない思いを募らせた。


 弔花も三輪だけで参列者も二〇人に満たない、ごくごくありふれた葬儀。


 参列者の数で故人の人望を測るなんて真似は、凪にはしたくなかったが、広い室内にぽつぽつと配置された椅子たちが、健人の人生を物語っているようで、見ていられなかった。焼香もすぐに終わり、八文字もある戒名だけが立派だ。


 高校の卒業アルバムの写真を使用した遺影は、少しも笑っていなくて、彫りの深い目が自分たちに憎悪の視線を向けているように凪には思えてならなかった。


 葬儀を終えた凪たちは、山中にある火葬場へと移動した。


 簡単な説明を受けて、火葬炉の中へ入って行く棺を見送る。涙を浮かべる勘太や秋をよそに、凪は泣くことができなかった。


 もともと凪と健人は、あまり仲のいい姉弟ではなかった。お互いに対する関心が薄かったのだ。両親に何度「世界にたった二人しかいない姉弟」と言われても、凪にはいまいちピンと来ず、それは今でも変わらない。二人で過ごした思い出もあるが、感傷に浸るまでには至らない。


 扉が閉まって棺が見えなくなったとき、凪の胸に去来したのは後ろめたさだった。自分はなんて冷たい人間なんだろう。実の弟が亡くなったのに、涙ひとつ流せないなんて。


 両親は泣けない凪を責めずに、受け入れている。それが凪を、余計に情けない気持ちにさせた。


「凪、今話しかけても大丈夫?」


 ソファに座ってぼんやりと外を眺めていた凪がふと顔を上げると、そこには秋が立っていた。手に持つ数珠が現実を突きつける。


 凪が頷くと、秋は凪の横に座ってきた。泣き続けて、目が少し腫れている。


「健人ね、亡くなる前の晩に電話をかけてきたの。元気でやってる? みたいな他愛のない話をした。でも、今思えばあれは、健人なりのSOSだったのかもしれない。私は健人の異変に何一つ気づいてあげられなかった。四半世紀も親やってるのにね」


「……お母さんは悪くないよ」


「じゃあ、健人が悪いっていうの? 私たちに相談もせずに、一人で逝ってしまった健人が」


 言葉とは裏腹に、秋の口調には健人を責める意図は見られず、ただただやりきれなさだけがあった。胸を圧迫されるような思いを味わい、凪はすぐに返事ができない。


 だけれど、黙っていると健人が悪いと認めてしまいそうで、凪は辛うじて首を横に振った。


 窓際に流れる小さなせせらぎが、二人の行き場のなさを際立たせている。


「あのね、私たち健人の家を見せてもらったんだけど、びっくりするくらい物がなくて。遺品も少なくて、まるで誰も生活してないみたいだった」


「そう……」


「家にあったのは必要最低限の家具とノートパソコン。あとはスマートフォンと、これだけだったわ」


 秋は、喪服のポケットに手を入れた。開けられた手のひらには、白いUSBメモリーがあった。年季が入っていて、ところどころ黒ずんでいる。


「ほら、健人、子供のころから読書が好きだったでしょ。家に帰ってきてもずっと本を読んでて。小学生の頃は将来は小説家になるんだって言ってた。覚えてる?」


 凪は首を縦に振る。今思い出せるのは、家のあちこちで本を読んでいた健人の姿だけだった。


「プライベートなものだから見ちゃいけないとは思ったんだけど、昨日とうとう見ちゃったの。そしたら健人はこの中に小説を遺してた。一〇万字くらいある長編を」


 区切るように言う秋の言葉を、凪は黙って聞く。


 健人が小説を書いていたなんて初耳だったけれど、この場で表立って驚くのは、不適当な気がした。


「ねぇ、凪。これ本にできないかな。凪が勤めてる会社から出版できないかな」


 続いた言葉があまりに飛躍しているように感じたから、凪は今思わず「えっ?」と聞き返してしまう。


 目を丸くしている凪にも、秋は何がおかしいのか分からないという表情を向けていた。


「凪、出版社に勤めてたでしょ。それとももう辞めたの?」


「いや、まだ働いてるけど、ちょっと話が急すぎない? そんないきなり言われても……」


 「ねぇ、凪」と、向き直る秋の目が力強くなったから、凪は内心戸惑ってしまう。


 本を出すのはお母さんが思っているほど簡単じゃないし、そもそも私は営業部だ。直接的に本を出せる部署にはいない。


 だけれど、決意を秘めた秋の態度は、何を言っても簡単には変わらなさそうだ。


「私は健人がこの世に生きた証を残したいの。健人の家のものはもう全部整理されて、後はその身一つ、骨が残るだけ。そんなのってあんまりじゃない。だから、せめて健人が生きていたってことを、私は一人でも多くの人に認めてほしい。それはそんなに悪いことなの?」


 秋は顔こそ近づけなかったが、言葉は凪の胸に、確かに迫った。「生きた証を残したい」と言われたら、否定できる人間は誰もいない。それに、健人を一人で死なせてしまった後ろめたさもある。


 「ううん」と首を横に振る凪を見て、秋は安心したように一つ息を吐いた。


 空は雲一つない青空で、窓越しにでも外の暑さが伝わってくる。


「そう。じゃあ、お願いできる……?」


 今度は、凪は首を縦に振った。小さい頷きだったが、もう後に戻ることはできない。そう凪は悟った。


「ありがとう。どれだけ時間がかかってもいいから、絶対に健人が書いた、最初で最後の小説を世に出してね」


 絶大なプレッシャーが、凪の肩にのしかかる。健人が生きた証を残すも消すも自分次第だと思うと、胃が痛くなるようだ。


 火葬が終わるまでは、まだ時間がある。秋は凪にUSBメモリーを渡すと、待合室に戻っていった。


 一人取り残される凪。顔を上げると木々がさらさらと、そよ風に揺れていた。



(続く)

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