第二話 ある若い商社マン夫婦の場合
第二話 ある若い商社マン夫婦の場合
一
オレは天野健一。中堅商社に勤めている。
連休明けに、高校時代の級友の鈴木義男から電話がかかってきた。
「今日、あいてるか? 会おう」 あいにくその日は詰まっていた。
あいつは建設コンサルタントで、いつも忙しがっているが、五月は少しは余裕があるようだ。
それで、今日、五月十三日、オレから電話を入れたら、あいつは、「ちょうどよかった。あさっての出張の準備が一区切りついたところだ」と、喜んだ。
オレにもいろいろあって、気晴らししたかった。
二人の会社のほぼ中間である新橋の居酒屋で会った。
久しぶりだった。まずは、お互いの健康を乾杯。高校時代あいつはラグビー部のキャプテンで、スクラムハーフだった。オレは軟式テニスだった。二人ともやっと県大会に出れるぐらいの成績だった。そんな俺たちだから、その後どんなふうに体を鍛えているかがまず話題になる。
オレはスポーツはまったく無縁だ。出来るだけエレベーターに乗らないぐらいだ。鈴木に、「お前、腹が出たな」と言われた。オレは上背があって痩せて頭が小さかったので、仇名はカマキリだった。
(腹の出たカマキリか……)と自嘲する。
鈴木は足が速くてタフなやつだった。「努めて歩いている」と言ったが、ずいぶん肉が付いた感じだ。あいつは連休後半の三日間、北上山地をダムの現地踏査で歩いたと言った。
鈴木は末端管理職で、ストレスが多いようだ。連休明けに電話を寄こしたのは、愚痴を聞いて欲しかった、と打ち明けた。それで、「もう、だいぶおさまった」と言いながら、あいつは語った。
「俺の出張中に、部下が部長に相談して仕事を進めていた。あいつは俺を無視しやがった」と、濃い眉をしかめながらぼやいた。ずいぶん腹を立てたようだ。
珍しくあいつの愚痴を聞いた。
オレには部下はいないが、その状況は分かる。
オレも、鈴木のその部下みたいに、直属の上司が煩わしいことがある。もっと適確な助言を聞きたいと思って、上司の留守に、違う人に相談することがある。さすがに上司の目の前ではそんなことはしない。
しかし、オレはこれまで、上司の面子なんてことは考えてみたことがなかった。自分で企画書を書いて、決済を受ければ、あとは自分の裁量でどんどん切り開いていけばいいのだと思っていた。でも、思うようには捗らない。紆余曲折がある。時々上司に途中経過を報告しなければ、彼だって気を揉んでいるだろう。さぞかし、オレは生意気な奴だと思われているだろう。
オレもそういう気配りをしなければならないと気づかせてくれた。よかった。
あいつが、腹の中のうっ憤を吐き出して気が済んだか、寛いでビールを飲みトリの唐揚げをほおばったので、オレがしゃべった。
オレの脳裏に、きのうの妻とのいさかいがちらつく。
「嫌な思いをした時は、気持ちを切り替える。
くよくよ考えて時間を費やすのはもったいない。詰まらんことは忘れろ」
あいつは横目で見た。オレは続ける。
「何でもかんでも、自分の思うようにはいかない。他人は他人、自分は自分。他人に何と思われようが、気に留めない。誤解はいずれ分かってもらえる。もし永遠に理解してもらえなくとも仕方がない」
鈴木が、オレの顔をまじまじと見た。オレは鈴木の顔を見かえして、言った。
「なあ、こんな青臭い処世術じゃ、会社や営業先では務まらない。
感情を抑え、相手を説得して問題解決を図らねばならない」
妻の理沙の怒り狂った般若の顔が浮かんできて、「家でもそうだ」と言いたかったが言葉を呑んだ。そして、オレは言った。
「お前みたいに管理職になって部下を持つと大変だ。オレもいつかはそうなる」
すると、酔いの勢いを借りた鈴木が、声を張り上げた。
「いいか、周りに無視されたり、馬鹿にされたりした時のしのぎ方を教えてやる。
頭にきたときは、『許してやる、と言え』と、胸の内で唱えるのだ。
『許してやれ』じゃない。そんなやわな状況じゃない。
カッカ頭にきたと思ったら、腹の中で『許してやる、と言え』と呟くのだ。
何をしでかすか分からない理性を失った自分を、そうやって、コントロールするのだ。
修羅場をしのぐ、とっさの、おまじないだ。そう言い聞かせれば、不用意に感情的な言葉を吐かないで済む。
いきなりでは、そんな言葉は出てこないから、ふだんから、何に対しても、『許してやる』と、言うようにしている」
オレは感心した。
鈴木はリーダーシップのあるやつだが、あいつの度量が、また大きくなったようだ。
オレは、話した。
「今日、海外勤務を打診された。子供が三歳だから、家族を連れて行けないだろう。単身赴任は厳しい」
鈴木は言った。
「お前みたいに、独力で体当たりで切り開いていく仕事は、うらやましい。
奥さんをだいじにしろよ」
二
電車を降りた天野が、酔っぱらって歩いている。
オレは、会社では順調だ。いろいろなことがあるが、乗り切っていけると思う。今日、部長からそれとなく海外勤務のことを打診された。アフリカか東南アジアだ。商社マンだから一度は海外勤務をしないと肩身が狭い。独り身だったら文句なく引き受けた……。
三、四年間のことだろうから、どうしても行けとなったなら、単身赴任で行く。
もちろん家族を連れていきたい。でも、日本人社会のあるところならいいが、ポツンとオレたち家族だけだったら、無理だろう。
あいつは何と言うだろう。
オレはこの頃、妻とやり合うようになった。結婚四年経ち蜜月は過ぎたのだ。
昨日もぶつかった。
なんであいつは、あんなに強情なんだ。昨日の朝も、マンションの隣の若い奥さんとゴミ出しのことでやり合っていた。ビニールの分別のことをあいつは注意していた。そんなことをいちいち咎めて感情的になるのは大人げないじゃないかと、ゆうべオレが諭したら、あいつはかみついてきた。
「私は少しも悪くないわ」
「少しぐらいのことなら許してやれ」
「前に、マンションの理事会でゴミの分別収集が問題になったでしょう。うちが理事をしていた時よ。それで、あの人に注意したのよ。
なんで私が譲らねばならないのよ、あなたは、あの人のことは、何も知らないでしょう。あの人は他のことでも自分勝手すぎます」と、泣き出しそうな顔だった。
オレは、妻はおしとやかであって欲しいと願う。そういう女のはずで、オレはあいつと結婚した。
確かにあいつは、もの静かな控えめな女だった。見かけはそうだった。その反対に、いざとなったら一歩も引かない芯の強さがある。本性は気が強い女だ。
オレと言い争って荒れ狂った時のあいつは、まさに猛々しい。オレが知ってる男にも女にも、あんなに猛々しいやつはいない。それは、あいつの我慢強さの裏返しだ。
妻はこれまで波風立てずに近所づきあいをしてきた。あいつにも心を許せる隣人は何人か居る。でも、べたべたした付き合いではない。あっさりした好ましい隣人関係だ。
しかし、あいつは嫌いになってしまった人の扱いはどうしようもないのだ。一度カチンときてしまったら、もう許せない。離れて過ごせればしのげるが、目の前で勝手なことをされるともう我慢ならないのだ。
あいつの根性を直すわけにはいかない。もし、力づくで、そうさせたら、それはあいつが猫を被るだけだ。いや、あいつは開き直ってかみついてくる。
お互い、今さら相手の欠点をとがめたり、直すよう言い聞かせたりする齢ではない。好き合って一緒になって、ここまで築き上げてきた家庭じゃないか、壊したくない。
仕方ない、互いにありのまま現状を受け容れるしかない。
でも、オレがあいつに、「お前を、許してやる」と言う機会なんかない。
もし、オレがあいつに、「許してやる」なんて言ったら、あいつは、「何を偉そうなことを言うのよ」 と、かみついてこよう。「許してくれなくともいいわ」と、言うだろう。それが、最近のオレたちの力関係なのだ。
でも、オレは、このままうやむやにしたくない。「どんなに嫌な人でも、許してやれよ」という、妻に対するオレの注文は、例え実現が無理だったとしても、はっきり言っておきたい。うやむやに終わるのでは、猛々しい妻に屈するオレは、まるで泣き寝入りじゃないか。
しかし、今は、オレの感情を抑えるしかないのだ。
他の人に相談して、「お前の女房だろう。許してやれ」と言われたら、オレは反発して、あいつの欠点を数え立てるだろう。それは、たぶんに甘えの気持ちか、オレの意地か分からないが、ごねたい感情が出てくるからだ。
オレ一人で解決するなら、そんなあら探しはしないで、「妻を許してやる」と自分に言うしかない。それしか道はない。それで気持ちが納まってくれればありがたいが、そうはいかないだろう。
オレには感情がある。かんたんに「妻を許してやる」なんて気持ちにはなれない。
そうか、こんな時に、鈴木の「許してやれ、と言え!」か。
「許してやる、と言え!」と、命ぜられた自分の気持ちが、果たして変化するかどうかわからないが、少なくとも、「許してやる」と言う言葉の響きがオレの気持ちに残る。オレは、いらついたとしても感情的な暴言は吐かないだろう。
しばらくすれば、冷静に話し合う機会が来よう。
今のオレはそうやって割り切ればいいのだ。
少し酔ったか。
鈴木と話が出来てよかった。
ぶつぶつ独り言を言いながら歩いてきたが、マンションの前だ。
階段を登りながらオレは、
「許してやる、と言え!」と、呟く。
部屋に入ったら、妻がソファで寝てた。細面の穏やかな顔。ワインを飲んだようだ。
一人で寂しかったのだと、オレには分かった。細い体を抱きかかえて、ベッドに寝かせた。
三歳のハルキはよく寝ていた。
妻には二面性があるのだ。けなげに何事も我慢して、静かに耐えている妻。オレの母の介護をよくやってくれた。
そして、忍耐の限度を越して、感情を抑えきれなくなった時の、荒れ狂う妻。
子育てに疲れた妻なのだ。
海外勤務のことをじっくり話し合おう。
やはり、オレは妻を連れていきたい。
せっかく購入したマンションだが、ここに彼女を置いていくわけにはいかない。
三
私は天野理沙。二十九歳になりました、
こないだの休みの日、家族で、車で海岸へ出かけました。あの人が運転してました。初めての街の、交通量が多い片側一車線道路の交差点で、赤信号で、うちの車線には5台ほどが停まっていました。すると、車が一台しか止まってない対向車線の向こう側の、細い道から赤い乗用車が右折して出てきて、うちの車の前に割り込もうとしました。
うちの車が路地の出口を避け、前の車と間隔をあけていましたから、割り込めると思ったのでしょうね。でも、無茶です。このように交差点のそばに狭い道が交差すると危険ですね。
あの車も、今、出ないと、出れる機会がないと思ったのですね。あの車はいっそのこと左折して、その先の四つ角で曲がって方向転換して戻ってくればよかったのです。あの小路は右折禁止にすべきです。
そのままハンドルを切られたら、うちの車に接触します。そして、このままなら、対向車線に後ろ半分はみ出てますから、対向車が通れません。
でも、自分勝手な人です。頭でも下げるなら、うちの人もすこし下がってあげるだろうと思いました。
しかし、その背の高い若い男は、振り返って、うちの車を見て、舌打ちしたようでした。そして、窓を開けて、「少し下がって!」と言いました。私は、あの人が怒りだすかと心配したわ。
あの人は自分から他の人に文句言ったり、干渉することはないのですが、嫌がらせされたり、意地悪されたりしたら、恐い顔をして徹底的にけんかしますわ。こんな具合に割り込んでくる人は、絶対に許さない人ですわ。
そしたら、あの人は、少しうなずいたようで、振り向いて後ろを確かめました。
そして、前を向いてその男に「許してやる」と、大声で怒鳴ったのよ。
そして、一メートルちょっと、後の車ぎりぎりまで車を下げたのよ。
前の車は割り込めて、「プッ」とクラクションを鳴らしたわ。お礼ね。
それで済んだの。
私は、あの人を見直しました。よくがまんしたって。
私はあの人がやさしい人なのでいっしょになりました。今日はあの人の寛容なことに感心しました。よくこらえました。あの後、何もなかったようにケロッとしてます。
いつだったか、あの人が寝言で、「許してやる、と言え」と叫んで、びっくりしたことがあったわ。
誰かに言ったんでしょうね。あの人なりに、いろいろプレッシャーがあるのだわ。
ひょっとしたら、私と隣の奥さんとの揉め事もその一つかもしれません。
四
五月の末日。
朝、十時。ゴミを出そうとドアを開けました。
廊下のむこうに、隣りの奥さんの後ろ姿が見えました。両手に大きなゴミ袋と手提げ袋と、バッグを下げていました。ハイヒールでしたから、これから外出するようです。
華奢な彼女は、荷物が重くてよろめいたのか、右手のゴミ袋とショルダーバッグを廊下に取り落としました。すぐ拾って、エレベーターに乗りこみました。
私も彼女の後を行きました。
何か落ちているのに気づきました。部屋の鍵でした。さっき彼女が落としたのです。
一瞬、憎たらしい顔が浮かんで、知るもんかと思いましたが、大人気ないと、そんな気持ちは振り払いました。主人の寝言の「許してやる、と言え」が浮かんで、そう呟きました。
私もエレベーターに乗って、追いかけるように、ゴミ置き場に行きました。彼女の姿はありません。「西山さーん」と呼びましたが無駄でした。
鍵がないと困るだろうと思いました。下の郵便受けに入れておくか、隣りの棟に居る管理人に預けるかです。でも、確実なのは隣家の私が預かることだと思いました。
彼女の部屋のドアに、「隣の天野に、至急連絡ください」と、小さく張り紙しました。
それから管理人室に電話しました。
「たぶん、西山さんが落としたのだと思います。今日は、私は家に居るつもりですが、もし、私が留守する時は、持って行きますから、預かってください」
正午前、ピンポーン。
ドアを開けると、
「あのー」と、茶髪の引きつった顔。右手にあの張り紙を持ってます。
「これ落としたでしょう」と、私は鍵を突き出しました。びっくりした顔で鍵を掴み、頷きました。大きな目で私の顔を見つめ、
「よかった。助かりました。ありがとうございました」と、頬が緩みました。私は、事情を話しました。
彼女は、
「今、エレベーターを降りて、部屋にくる途中で、鍵がないことに気づきました。どうしようかと思いました。本当に助かりました」と、深く頭を下げました。
「管理人さんに電話してください。心配しているでしょう。あなたからの方がいいでしょう」
「はい、そうします。本当にお世話になりました。ありがとうございます。あとで、改めてお礼に伺います」
「いいわよ。こんなことは、おたがいさま。気にしないでね」と、私は、ドアを閉めました。
私は夫といっしょに行きます。子供が小さいし、次の子も欲しいですが、なんとかなるでしょう。子供も、海外の変わった環境で育つのもいいでしょう。
私は挑戦します。
私は、あの人を支えます。