デビルスィーツ
部屋になにかが浮いている。なにかと表現するにはあまりにも明瞭であるが、目を背けたい一心でこの表現を敢えてする。
「こんばんは! 初めまして~」
人のフォルムだけど、悪魔のような小さな羽を背中につけていて、身長は私よりも小さい。髪の色は紫色だし、瞳も紫色だし、普通に考えたらコスプレをした変質者と考えるべきなんだろうけど‥‥‥
「おーい、聞いてるの?」
ぷかぷか浮いている以上、不思議な存在か、もしくは私の幻かという判断をとるしかない。たぶん疲れているんだ。ここのところ残業が続いていたしね。これは幻。
そうだ、さわってみればいいんだ。幻ならさわれない筈だし。
私はじーっと胸元を見つめる。私のより遥かに大きい。さわりたい。幻ならいいよね。
私は胸に向かって手を伸ばした。
「聞こえてるでしょ?───ってなにするの!?」
「あれ? さわれる」
「触れるに決まってるでしょ!‥‥‥っていうか、胸揉んで確かめる必要あるの!?」
確かめるために揉んでいた手を払われる。そこには僅かだが痛みもあった。
「夢じゃないのか‥‥‥なんの用? もう夜遅いでしょ」
私が残業を終えた後の時計は、私の疲れを説明付けるには十分遅い時間を示していた。
「コホン。ええと‥‥‥私はですね、あなたを襲いにきました」
襲うなら真っ向からでなく背後からの方が手っ取り早いだろうに。
「襲いに?」
「襲うといっても、命を奪おうっていうわけではないわ。ちょっとあなたの力をもらいたいの」
「力? 更によくわからなくなったんだけど」
力をもらうという表現をされても情景が読み取れない。
「えーと、まあ百聞は一見にしかずって言うし‥‥‥」
この悪魔は、スッと私に近づいてくる。
「な、なに?」
刹那、悪魔がそっと私を押し倒した。いや、私をソファに優しく押し付けたの方が正しいか。
「私の悪魔の力を供給するにはキスが必要なの」
見た目悪魔は本当に悪魔だったみたいだ。両手は抵抗できないように、この娘の細い腕で押さえつけられている。痛くないから、そんなに強い力じゃないと思うのに、なぜか動けない。宙に浮くような悪魔だから、なにか不思議なちからがあってもおかしくない。
私は目をつぶった。抗えないというこの状況でも恐怖は感じなかった。
頬に柔らかい感触がある。私は少し驚いて声を漏らしてしまう。
「終わったわ。目を開けても構わないわよ」
私は目をパッと開くと、悪魔は覆い被さった状態で押さえつけていた私の手を放し、顔を紅潮させている。
「え? キスは?」
私は悪魔に記憶を消されたのか?私にはキスの記憶がない。
「たった今したじゃない。ほっぺにちゅって」
人の家に勝手に入り込んで、私を押し倒した挙げ句のキスがほっぺ?なんでだろう、気持ちが昂っている。怒りとか悲しいとかの感情は混ざっていない。それなのに気持ちを抑えられない。
「……これが初めてだったの。あなたが協力的なおかげで悪魔の力を簡単に供給できたわ、ありが──きゃっ!?」
私は気づいたら、彼女の腰に手を回して私の身体に引き寄せていた。
「……かわいい」
真っ赤になったかわいい顔が私の手の届くところにある。私の胸が高鳴った。私は手で彼女の頬に触れる。
「ちょ、ちょっと‥‥‥やめてよ‥‥‥‥」
先程までの強気な態度とは違う、弱々しい声が聞こえた時、私は理性を取り戻し、
「あっ、ご、ごめんね」
私が腰に回した手を、そっと放した。
「私、調子にのっちゃったね。ごめんね」
悪魔とはいえ、見た目はせいぜい高校生くらいだ。大人の私がこんなのでどうするんだ。
すると、彼女が口を開いた。
「‥‥‥ごめんなさい」
「あ、謝ることないよ。まあ、そりゃいきなりキスはちょっと良くないかもだけど、私は嫌じゃなかったし。それに、さっきのでおあいこだよ」
私がこう言い終えると彼女は首を横に振った。
「違うの。ごめんなさいって言うのは、やめてって言ったのを訂正したいから。私はキスしたことを謝ってないし、謝る気もない。なのにあなたはキスもしてないのに謝った。おあいこって言うのなら、あなたは私にほっぺにキス以上のことをしても良い。‥‥‥と思う」
まわりくどく放たれた言葉は、悪魔の彼女の身体に触れる了承であると、彼女の赤面が教えてくれた。
「‥‥‥いいの?」
「も、もちろん!それでまた、私の悪魔の力が増えるんだから」
「悪魔の力がなかったらしないの?」
「す、するわけないじゃない!」
「うーん、そういうのも嫌いじゃないけど、私は素直になって欲しいなあ」
彼女の「うっ」ってうろたえる姿。それを見るだけで、幸せな気持ちが込み上げてくる。
「悪魔に意地悪するなんて、いい度胸だわ。いいわよ、言ってあげる」
ぐっと顔が近づいてくる。開きかけた口だけが、ぎりぎり視界に収まった。
「‥‥‥したいよ」
私の耳元でその言葉は放たれた。小さなその声はきっと、私とこの悪魔だけの秘密だ。
彼女と私がこの近さをそのままに唇と唇を重ねる。顔を離すと、彼女がそれだけなのって顔をするから、私たちの顔はもう一度近づいて今度は舌を絡ませてみた。私は彼女に触れたくて手を彼女の身体へと運び、触れてみる。
「そ、それ以上はだめ。私はそこまでやってないから、おあいこじゃなくなるわよ」
彼女の力はとても弱々しいから簡単に手を動かせてしまう。
「だ、だめ!」
「‥‥‥それなら、おあいこじゃなくていいや。おあいこじゃなくなったら、今度はあなたが私に触れていいよ。おあいこになったら、これが途切れちゃうじゃん」
「悪魔にずるいことをするのはだめよ‥‥‥」
「これは同罪なんだから。悪魔のあなたにはぴったしの、ずるいことでしょ?」
「もう、調子良いんだから」
夜中が始まりを告げるなかで、その静寂を打ち砕くように、私たちは身体を触れあった。