どうかこの手を取ってくれ
歴代の支配者達により、美々しく飾り立てられた広い廊下を、数人の貴族達が歩いている。自分より上の身分の者とすれ違った時には媚びへつらう様に頭を下げ、そうでなければライバルとして微笑みに潜ませた悪意を交わす。
使用人であれば、その態度は、空気や家具がそこにあるというものになる。彼らの頭の中には、自分の、そして自分の属する集団にとって利益になるかどうか、それしかない。
「サー・ウィリアム、あちらでポーカーを致しませんか?」
「あら、こんな良い日ですもの。村まで遠乗りをしたり、狩りをしてはどうかしら? 父がとても素敵な馬を手に入れたのです。きっと公爵様と一緒に走っても負けませんわ」
「そんな事をして、陛下のお呼び出しがあっては大変ですわ。公爵閣下は、覚えもめでたき外交官。軍の指揮者にして、狩りの達人。庭を一緒に歩いて下さいませんか?
庭園に早咲きの薔薇が咲いたとか。もうご覧になりまして?」
口々に誘いをかける貴婦人たちに、残念そうな笑みを浮かべたウィリアムは断りの文句を贈る。
「お美しいレディ達。お誘いはありがたいが、私に来客がある予定でして。全く無粋なことです。そろそろ自室に下がらなければなりません。
この宮殿は、いつ訪れても麗しき花々に彩られております。私の様な無粋な指で触れる事を躊躇う、繊細で美しい花。どうか、武骨な男の手に触れさせず、その芳しき姿のままでいてください」
お上手ですこと、残念ですわと口々に笑いざわめきながら、貴婦人達は王妃の部屋へと下がっていった。
「ふーん、一応ここじゃ、貴族をしているんだな。国王陛下の甥子殿も」
「口を慎め。誰が見ているか分からん」
貴婦人達には全く相手にされていなかった友人を見て、ウィリアムは警告を発した。育ちが良く、田舎特有の素直さが見れ隠れする風貌の若い男だ。
「おお、嫌だ。これだから王都は恐ろしい。
俺の様な数にも入らん郷士には分からん世界だ」
「なら、そのままでいろ。アーサー」
「ふん。それが自由気ままな前線生活から、久々にこんな腐った場所に戻る親友を心配して、わざわざ嫌な思いをする覚悟で同行してやった友に対する言葉かね。全く、友達がいのない奴だ」
「……感謝はしている。だからこそ、口を慎んでくれ。頼む。
ここでは、何処で誰が何を聞いているか、その聞いている誰かが何処の貴族の子飼いだか分からん。
私と共に来たことで、否応なく注目を浴びている。どこで言葉尻を取られ、失脚に繋がるか分からん。下手をすれば命に関わる。頼む、私に与えられている居室に入るまで、しばらく堪えてくれ」
緩くウェーブのかかった金茶の髪を揺らしながら肩を竦める友人を連れて、自室に戻るため足早に廊下を進んだ。
「サー・ウィリアム。あれは誰だ?」
「ん? 何処だ?」
「ほら、あの柱の陰。咲き始めた薔薇を見つめているレディだよ」
廊下から貴婦人を見つけ、ウィリアムは足を止めた。そのまま食い入る様に、その人影を見つめ続ける。
「おい、公爵殿?」
「……あれは、レディ・レティシアだ」
呻き声の方がまだ聞き取りやすい声で、ウィリアムは答える。そのまま、一層足を早めて自室に向かう。
「おい、待てって!」
慌ててアーサーはその後を追いかけながら、最後にちらりとレティシアに視線を向けた。
「さては、あれがお前の想い人か」
「何の事だ。俺は決して!」
自室に戻り、分厚い壁と本棚、そして代々仕える忠誠心厚い使用人達に守られ、ようやく寛いだ雰囲気を取り戻したウィリアムにアーサーは悪戯っぽく笑いかけた。しかし、ウィリアムの過剰な否定に、眼を丸くしている。
「おいおい、どうした? 公爵家の御当主ともあろうものが、こんなことで動揺か? しっかりしてくれ。他国相手でも一歩も引かずに交渉する冷静さはどうした。敵国に、金獅子のウィリアムと恐れられている騎士とも思えん」
部屋に入ってすぐに従者が運んできた度の強い酒を進め、自身も一口煽った。
「……すまん。
レディ・レティシアは、俺の妻には決してなれない。
王家の血が流れる俺の婚姻は、慎重に行わなくてはならない。彼女は、最近急激に力をつけてきた野心家の一族の娘だ。もし俺が彼女に求婚すれば、彼女の一族の力を使い、王座を狙うと邪推されかねない。そうすれば、俺だけでなく、彼女も彼女の一族も身の破滅だ。早晩、何らかの方法で殺される」
「彼女、ねぇ……」
無意識なのだろうウィリアムの独り言を邪魔しないように、アーサーは小さく呟いた。
「私の婚儀は、王家と民と我が一族に祝福されたものでなくてはならない。恐らく、古い血筋の、既に十分に影響力を持つが、今の立場に満足している貴族の娘が宛がわれるはずだ。その婚儀を望む者達が、持参金で折り合えばだかな」
ウィリアムは苦悩を表情に出して続ける。両手で握りしめたグラスは小さく泡立っていた。
「断れば身の破滅。俺一人の身ならば構わない。女々しい事は言わんつもりだ。
だが、父が死んだ今、俺が失脚すれば領地は領民はどうなる? 代々仕えてくれている者達は? 今よりも良い暮らしが出来るとは思えん。
俺個人の我が儘で、彼らの運命を変え、そんな重荷を背負わせる訳にはいかない」
††††††††
「おい、ウィリアム!!」
「何だ? 朝から騒々しい。ようやく宮殿を離れられたのだ。もう少し休ませてくれ」
扉を蹴破る勢いで、飛び込んできたアーサーに、ウィリアムは文句を言った。ようやく領地へ戻り、溜まっていた仕事も一段落させたのが昨日だ。
領地へ向かう途中、自分の家に向かうと言うアーサーと別れてからそれほどの日にちもたっていない。血相を変えて、詰め寄ってくるアーサーを怪訝な気持ちで見詰めていた。
「寝てる場合か!! レディ・レティシアが囚われたのは聞いているか?!」
「何だと?!」
眠気も何処かへ飛んだらしく、ベッドから飛び起きるとアーサーに掴みかかった。そのまま低く凄む。
「嘘をつくな。レディ・レティシアが捕縛される事をするとは思えん。何かの間違いだろう」
「いや、それが事実なんだ。そして、恐ろしく奇妙な話だ。
ウィリアム、最近、郷士達の間で語られている噂は知っているか?」
手を放せと、掴んでいる手の甲を軽く叩きながら、アーサーは続ける。
「シティの若い娘や、村娘、特に美しい村娘が神隠しに遭うそうだ。そして、しばらくすると川に浮かぶ」
「それがレティシアと何の関わりが」
「あるんだ。良く聞け。若い娘がいなくなる前、必ず王太子殿下の巡幸がある。その後に娘が消えるんだ」
「……おい」
話が不穏な方向に流れる事を予測し、ウィリアムの声は低くなる。
「レディが殺したんだとよ。王太子殿下に色目を使う娘達に、怒りが押されられなかったらしい。
大貴族達だけで構成される裁判で、レディはそう罪を告白したそうだ」
「あり得ない!!」
アーサーからもたらされる情報に打ちのめされた様に、ウィリアムはベットの縁に腰かけた。
「……あぁ、あり得ない。娘達は剣で斬られ殺されている。レディは、その美しい身体をエサに、街にいる無頼漢にやらせたと証言したそうだが、箱入りの貴族の娘がどうやったらそんなことが出来るんだろうな。
告白を受け、貴族達はレディ・レティシアの処刑を王に進言。陛下も深くお悩みだったらしいが、民の不安を取り除き、正しき罰を与えるために処刑を受け入れた。
そして、レディの家はお咎めはない。奇妙な話だろう?」
「……あの一族め。レティシアを売ったな」
顔色を蒼白に変え、組み合わせた拳で額を連打しながら、ウィリアムは結論を出した。
「金獅子殿、どうする気だ?」
「……どうも出来ん。レティシアはその美貌で、他国の王妃の立場すら望めた娘だ。一族の花として、高値で売り付ける気だった奴らが、レティシアを差し出すなど、余程高位の……それこそ王家レベルの貴族が関わっているとしか思えない」
食い縛った唇から血を流しつつも、ウィリアムは結論を出した。それは国に仕える騎士として、そして己の立場を弁えた貴族であれば当然のものだった。
「アホか?
国一番の騎士様も、結局は王家の犬か。己の保身しか考えんのか。惚れた女なんだろう? 何もしないで諦める気か?」
「なら、どうすればいい?!
お前のような郷士ならば、まだいいさ! 心のままに動くことも出来る!!
だが、俺が手を差し伸べれば、我が身の破滅。それは多くの者に辛酸を舐めさせることになる。そこまでしても、レティシアがこの手を取ってくれるとは限らない!」
アーサーは自分の立場を引き合いに出され、怒りを押さえることが出来ず、腰の剣に手を伸ばした。
「取り消して頂こうか、公爵閣下。私のような郷士だと? 我々がどんな気持ちで、今のこの国を支えていると思っている」
口調だけは激昂することはなく、逆に淡々としたものである分、アーサーの怒りを如実に現していた。これには苦しい恋に狂っていたウィリアムも、自分が不味いことを口にしたと分からざるおえなかった。
「……すまん」
「次はない」
短くアーサーはそう言うと、足音も荒く部屋を出ていった。間もなく、馬を走らせる蹄の音が聞こえる。ウィリアムは、アーサーが出ていった時のまま、苦悩を浮かべ、ただ立ち尽くしていた。
「……マイ・ロード。若様」
どれ程そうしていたであろうか。控え目に、執事がウィリアムに話しかける。
「ベフマン、若様はやめてくれ。どうした?」
幼い頃より仕えてくれている執事に、ウィリアムは視線を送る。その顔は、普段の冷静さを知る者にとっては、驚きを隠せないものだった。
「どうした? 顔色が悪い」
自身の動揺を押し殺し、ウィリアムは貴族としての振る舞いに戻る。
「……マイ・ロード、馬を準備させました。どうか、ご出発を」
短い時間に覚悟を決めたのか、執事はそう言うと旅装への着替えの準備を始める。
「何を言っている?」
「アーサー様より、我らがレディのお話は伺いました。
どうか、マイ・ロード。お心のままに。我らの事はお気になさらず。それよりも、我ら一同、閣下のお心が一生後悔に苛まれることの方が辛うございます」
美しい一礼でそう言うと、執事は廊下に合図をした。メイドや従僕達も、ウィリアムの私室に入ってきて、王都に行ってほしいと懇願する。
「レディは気高き貴婦人だ。俺の手を取ってくれるとは思えない。それでも、か?」
「はい。それでもです。
さぁ、ぼっちゃま、何をぐずぐずしておられますか! お尻を叩かれたくなければ、今すぐ動き出して下さい」
幼い時分によく聞いていた口調で話されて、ウィリアムは吹っ切れた様に、笑い出す。ひとしきり笑った後に、長年仕えてくれている執事に指示を出した。
「使用人達の中で、誰が他の貴族達に情報を売っているかは分かるな? その者達に気取られぬ様に、屋敷の金目のものは分配してしまえ。どうせ、ここに置いていても、奪われるだけだ」
「では」
「王都へゆく。伴はいらん。馬は何処だ?」
手早く着替え、剣と銃を腰に下げると、公爵は屋敷を飛び出していった。
公爵家が契約している変え馬を乗り継ぎ、王都を目指す。ようやくたどり着いたのは、レティシアの処刑前日だった。
足早に宮殿の中を歩く。ウィリアムを見つけて挨拶する貴族達への返事もおざなりの物になった。
「ウィリアム! どうした。先日、父上にご挨拶をし去ったばかりであろう!!」
今日も取り巻きに囲まれ、周囲に若い貴婦人や、王妃の侍女を複数侍らせ中庭で騒いでいた王太子が、ウィリアムを見つけ手をあげて挨拶する。
「殿下」
怒りを押し殺し、ウィリアムは臣下としての一礼をした。レティシアの一族の欲深さを考えるに、王家に連なる者達が最有力ではあるが、誰がレティシアに罪をきせたのか分からない。下手な反応をすることは出来なかった。
「従兄殿。そんなに深刻になってどうした?
ようやく花開き、獣も肥太っている。これからは我々狩人の季節。なぁ、皆、そうは思わないか?」
従僕が差し出したワインのグラスを片手に、王太子は憂いなく笑っている。取り巻きや女達は、そんな王太子を誉めそやし、この世の春を楽しむかのようだ。
「殿下、どうか、お話を。我々の旧知の友が捕らわれたと聞きました」
静かに訴えるウィリアムを、鼻白んだ顔で見ると、周囲の人々にはこのまま楽しむように言い置き、近くにあった部屋に入る。入口には従者が立ち、盗み聞きに気を配っている。
「レティシアのことか。美しい顔をしてはいたが、恐ろしい女だったのだな」
「殿下、レディの発言は何かの間違いです。どうか私と話をさせては頂けませんか? お願いいたします」
「ほう、ウィリアム。貴様は、貴族院が罪を認め、国王陛下がその処刑にサインされた犯罪に疑念を抱くと言うのか?」
不穏に低くなった王太子の声に怯むことなく、ウィリアムは頭を上げる。
「殿下、どうか……」
しばしにらみ合いが続いたが、王太子はいきなり笑いだした。
「そうか、そう言うことか。従兄殿、そうならそうと、勿体ぶらずに早く言えばいいものを。
確かにレディ・レティシアは美しい。その花を楽しむことなく、神の身許に送るのは、いくら罪人だからと言って勿体無いと思うのも道理だ。
あい分かった。ならば、レティシアと話が出来るように、手配しよう。レディは、搭にいる。管理は宰相か。ついてこい」
反射的に反論しようとしたウィリアムだったが、このまま誤解させたままの方が上手く行くと考え直し、頷いた。
搭の警護は厳しい。例え、王家に連なる公爵である自分でも、入ることは愚か、近づくことすら難しいであろう。問題なく入ることが出来るのならば、それほどの僥倖はない。
「宰相、おるか。入るぞ!」
王太子は無神経にも、返事も待たずに、宰相の執務室へ入室した。突然部屋に入ってきた王太子に驚く事もなく、宰相はゆっくりと立ち上がり、王子へと挨拶をおくる。
「これはこれは、何事で御座いましょうか、王太子殿下」
「搭へ参る。許可を」
端的に要求する王太子へ、一瞬だけ眼を細めると、宰相は難色を示した。
「今、搭にはレディ・レティシアがおります。御身が何かの噂にまみれてはなりません。お留まりください」
「ああ、私ではない。こちらのウィリアムにだ。
少々、うら若き身で旅立つレディへ、趣向を準備した。私からの最後の贈り物として、旧知の友の再会させてやろうかと思ってな。ここから搭まで距離もある。すぐにでも、出発せねば間に合わない」
笑みを浮かべたまま王太子は、宰相を急がせる。
「ウィリアム公?」
「お久しぶりです。宰相閣下」
「宰相、まさか私の命令を聞けないとは言わないだろう?」
「ふぅ、王妃様といい、王太子殿下といい、この老骨をこき使うのがお上手だ。承知致しました。
ウィリアム公、これを持っていけば、レディ・レティシアの牢獄まで行けるだろう。これで良いですかな? 殿下」
感謝すると、思い詰めた瞳のウィリアムを連れて去っていく王太子を見送り、宰相は従僕へ指示を出した。
「ウィリアムを見張れ。兵を連れていって構わん。もし、不穏な動きあれば、捕らえよ。殺しても構わない、いや、殺すべきか?
レディ・レティシアの件は一部、貴族や郷士どもも、不信を抱いている。あの娘が一言でも漏らすようなら、始末しろ」
静かに承諾して去る従者と入れ替わる様に、王太子が戻ってきた。
「殿下、まだ何か?」
「宰相、お前の事だ。ウィリアムに兵は着けたのであろう?
もしもの時は殺せ。あいつは、王家の血も濃い。その忠誠に疑問が出れば、生かしてはおけない」
「ほう、では、わざとウィリアム公を搭へ行かせたと?」
「無論だ。レディ・レティシアが何も話さず、ウィリアムを拒絶すればそれでも良し。奴にとってはこの上ない痛手だろう。逆にウィリアムがレティシアへ無体を働けば、それは奴の弱味になる。もし一緒に逃げるならば、それこそ好機。全ての罪を奴らに被せればいい」
酷薄な笑みを浮かべ、王太子は言いきった。それに宰相は動じることなく頷く。現在、公爵家の兵が動いたとの報告はないが、万一を考え、更に多くの兵士を明日の処刑の為、動員する手配を始めた。
††††††
「レティ!!」
焦燥に駈られるまま馬を走らせ、やっとの思いで搭に着いたのが深夜。そこから渋る門番を権力で黙らせ、跳ね橋を下ろさせる。その後、牢番に宰相の許可証を見せたが、護衛隊長の許可ごいると言い張るせいで、更に時間を失ってしまった。ようやく休んでいた護衛隊長を叩き起こし、搭へと入れたのが夜が白々と明けてくる刻限。ウィリアムは焦って案内の者を置き去りにし、レティシアの牢へと急いだのだ。
「あら、公爵閣下。このような所に来られてはなりません」
ハッとした様に顔を上げてから、慌てた様に表情を消し、自分を見つめる乙女は、夢にまでみた己の想い人。記憶よりも更に美しく、だが、儚く消え去りそうになっている乙女だった。みっともなく、膝をつき腕を伸ばすウィリアムに向けて、レティシアは冷静な口調で話しかけた。
「閣下程のご身分の方が、その様な無様な姿勢を取られるなど、宮廷の噂になりますわ。お止めください」
相変わらず、貴婦人の鏡のような対応。美しい姿勢。ほんの少しだけ乱れた髪が朝靄の中で輝いている。
「宮廷がなんだ! このままでは、明日君は処刑される。どうか真実を話してくれ!! 私は君を助けたい」
恥も外聞もなく話すウィリアムの耳は、階段を上がってくる複数の武装した兵士の足音を拾っている。
「何の事でございましょう。私が、王太子殿下を誘惑致したのです。権力欲しさに、分不相応な事を致しました。そして、殿下が他のご婦人に目移りしたことに嫉妬し、恐ろしい事を致したのです」
迷う事なく言いきる口調。傲慢なまでの態度。だが、言いきった後に、微妙に唇が歪み、瞳が潤んだ事をウィリアムは見逃さなかった。
「嘘だ! 君が嫉妬で人を殺すなんて。しかも平民達すらも……」
「お引き取りを。私に残された最期の時を、これ以上騒がせないでくださいませ」
そう言って後ろ、牢の高い位置にある窓を見上げたまま動かなくなってしまったレティシアへ、ウィリアムは必死に話しかける。
「レティ、どうかこちらを向いてくれ。
君の家がどんな条件で、君を差し出したかは知らない。だが、その為に君が犠牲になる必要はないんだ。
どうか、俺のこの手を取ってくれ。必ず助ける。
皆が君の無事を祈っている。さぁ、逃げよう」
どんなに必死に言葉を紡いでも、レティシアは微動だにしなかった。
「閣下……」
どれ程そうしていたであろうか。控え目に呼び掛ける女の声がする。
「まだ駄目だ!! 下がっていろ!!」
「申し訳ありません、閣下。時間です。
宮廷の方々も見物に来られます。そちらの囚人の準備をしなくては」
「宰相! お前だって分かってはいるだろう!!
レティシアは無実だ!」
宰相は、連れてきた護衛達へ公爵を退かせるように指示している。強引に牢から引き剥がされて、ウィリアムは廊下の壁際に押し付けられた。
「レディ・レティシア。公爵閣下はあのように言っているが、事実かね?」
レティシアは無言のまま、力なく首を振る。強ばった肩が、強い感情を押さえつけていることを表していた。
「顔を上げたまえ」
氷の宰相とも呼ばれる冷たい声に命じられ、躊躇いがちにゆっくりとレティシアは頭を上げる。
「君の勇気に感服する。是非そのまま、気高くあってくれ。それがこの国の正しき貴族としての行いだ」
ひたとレティシアを見つめてそういう宰相の一言で、ウィリアムら、この男が全てを知ってここに来ているのだと確信した。そして、救いはもう何処にもないのだと……。
「はい。私は落ちたりとはいえ伯爵令嬢。この国の誇りを汚すような事は致しません」
美しいほどきっぱりと言いきるレティシアの声を、絶望した思いで聞く。その後も二言、三言、宰相とレティシアは言葉を交わしていたが、ウィリアムはぼんやりと聞いているだけだった。
宰相に連れられ、搭の一室、訪問者用の休憩室に案内される。
「サー・ウィリアム。
君はここで処刑の時間まで、少し仮眠をとるとよかろう。国王陛下も王太子殿下も、君が処刑に同席することを望んでおられる。
時間になったら呼ぼう」
そう言うと、ウィリアムの返事も待たずに、宰相は部屋を去った。外から鍵のかかる音がし、扉の前に兵士が立った事にウィリアムは、気がつき苦笑を浮かべる。
「はは、これでは私の方が囚人のようだな」
椅子に腰かけたまま、微動だにせずその時を待った。
ウィリアムが部屋から出されたのは、日も高く登った後だった
両脇を兵士で固められ、処刑所となる中庭へ連れ出される。そこには既に沢山の貴族達が集まっていた。
これから始まる残酷なショーに期待するかのように、落ち着かなげに周囲と言葉を交わしている。
しばらくして、国王と王太子が到着する。全員が頭を下げる中、一段落高い王座へと腰かけた。ウィリアムは王座の近く、足下へと誘導される。
「……ウィリアム、お前がそこまで愚かだったとは」
「……」
不快感も露に、睨み付ける国王へと、深々と頭を下げる。
「あの勇気ある娘に感謝するのだな。 囚人を連れて参れ!!」
国王の指示の元、レティシアは兵士に連行され、中庭を歩く。
断頭台が据え付けられた一段高い舞台にレティシアは躊躇うことなく上がっていった。最後の言葉をと促されて、口を開く。
「私は、罪を犯しました。その罪で今から裁かれます。
ですが、どうかお忘れにならないで。
私の心にお住まいになっていたのは、ただ一人。我が純潔に一片の曇りもなく、我が心は今でも一途にその方をお慕いしております」
鈴が鳴るような、美しい鳥が唄うような、そんな優しい声が中庭に響く。人垣から一瞬見えたレティシアの衣装は婚礼のような光沢のある純白の衣に、黄金の刺繍が入った長く豊かな付け袖を合わせた豪華なものだった。
「あれは……」
言葉にならない思いが、ウィリアムの心に溢れ出る。
『ねぇ、ウィリー。私、決めたの。
何方かの所に嫁ぐときには、何物にも染まらぬ純白のドレスに、その方の色で刺繍をするのよ。そう髪とか、瞳とか、旦那様を象徴する色。これからはその方の色に染まっていくって想いを伝えるためにね。……もう、どうして笑うのよ!! 夢見がちな子供の言いそうな事だとでも言うの? 楽しみにしてなさい!』
「レティー……」
人垣の中、ほんのまばたきの間で二人の視線が交錯した様に、感じる。その後、レティシアは断頭台へと歩み去った。
そんな男女を、王族に準備れた舞台の上から、王太子は冷たく見詰めていた。
全てが終わり、兵士達に誘導され、公爵は中庭を出た。
「サー・ウィリアム、国王陛下よりのご伝言だ。慎んで聞くように」
疲れも動揺も見せない宰相の声に反応し、どんよりとした瞳のままウィリアムは顔を上げる。
「しばらくは領地で謹慎しているようにとの事だ。宮殿に近く事まかりならん。良いな?」
「……承知致しました」
そのまま宰相が去り、繋いだ馬まで公爵は案内された。てっきり自身の馬のみが繋がれていると思っていたそこには、思いもかけない人影があった。
「……アーサー」
「よう、公爵閣下。駄目だったようだな」
「あぁ、だが何故ここに?」
「執事殿が使いを寄越した。主人を助けてほしいとな。伝言も預かってきている。戻るまで必ず屋敷は守る、だそうだ。
それでどうする? このまま引き下がるのか?」
周囲に人影がないことを確認し、馬を引き渡しながら小声で尋ねる。
「……何が、だ?
これで終わりだ。全て終わりだ。俺は、愛する女、愛してくれた女一人救えない騎士だ。誰を恨めと? 何処を憎めと?
……ただ、己の無力を嘆くだけだ」
「……疲れているようだな。分かった、今は休め。
ほら、これを。俺達は土地と共に生きる郷士だ。これくらいの事は出来る」
そう言って差し出してきたのは、レティシアが最期に身に付けていた付け袖の片方だった。震える手でそれを受けると、ウィリアムは馬に乗り、宛土なく歩かせ始めた。
†††††††††
これより5年後、この国は民衆を率いた郷士達により滅ぼされる事となる。
打倒王家の旗頭は、金獅子。
軍を指揮し、空中分解を起こしても不思議ではない、様々な階級の国民をまとめあげた初代首相の名はアーサー。
そして「民衆を解放に導く不跪の女神」と呼ばれた少女の手によって。