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第五話

 親父は珍しく酔いつぶれて、ベッドに転がり込んでいる。

 泊まりの客は男以外いないから、気が抜けたのだろう。

 いつの間にか年をとった父親の顔を見て、エッダは緩く笑った。

 気遣ってはいても、申し訳なさが先に立ち、その顔を見ることができていなかったことに気付いたのだ。

 「父さん、ごめんね」

 エッダは薄くなった頭を軽く撫で、次いで自分のベッドに向かう。

 かつては母が、今は自分が使っているベッドに、クッションや枕をつめて、毛布の盛り上がりを作る。

 最後に形を整えると、そっと部屋を出た。

 泊まり客が一人しかいない宿は、しんと静まっていた。

 階段を上がる足音が、妙に大きく響き、耳をふさぎたくなる。

 だが、片手にはランタンを持っているのだがら、当然耳はそのままだ。

 一階の気配だけに神経を集中し、階段を上がりきった。

 ランタンの明かりが、細く長い廊下をちらちらと照らしていく。

 とある一室の前まで来たところで、エッダはランタンを床に置いた。

 心臓は今や、胸から飛び出そうなほどに激しく打ち付けている。

 それを何とかなだめつつ、完璧だと思われる用意をし、一度体を確認してから、マスターキーを鍵穴に刺した。

 カチャリ、という鍵が開いた音に、エッダはぶるりと背を震わせ、緊張のままにドアノブを回した。

 廊下に置いたランタンから、細い光が室内に投げかけられる。

 その赤い光に照らし出されたベッドは空っぽだ。

 あれ、と思ったのと、激しく腹を床に打ち付けられたのは、同時だった。


 「物取りかと思ったが……そういう風体ではないな、クソガキ?」

 エッダは男に馬乗りになられ、うまく息ができない。

 男は険しい顔のまま、エッダの体を見下ろす。


 男の逞しい体の下で、エッダの白い細い肢体は際だっていた。

 張りのある肌は、まるで王都にいる真珠の粉をふった貴婦人達のように艶やかに輝いている。

 丸い尻は、若さからくる弾力でぷるぷると揺れていた。

 そう、エッダは一糸まとわぬ姿だったのだ。


 「あた、あたし! お礼がしたくって!」

 苦しい息の下から、そんなことを言い募る。

 「他に、何もないし! 今日で成人だから!」

 何の義理もないこの宿屋のために、目の前の男がどれだけの巨額を動かしてくれたのか、今日の騒動を見れば一目瞭然だ。

 「で、その礼ってのが、この夜這いか。いつからここは連れ込み宿になったんだ? それとも、親父の差し金か? てめぇの親父は、娘の貞操を借金のかたに差しだそうってのか?」

 低俗な物言いだが、だからこそ言っていることはこの場面を正しく言い表していて、エッダは恥ずかしさのあまり何も言えなくなってしまった。顔を上げられないまま、ただ、違う違うと首を横に振り続ける。

 男はそんなエッダを立ち上がらせると、いきなり彼女の頬を強かに叩いた。

 男の本来の力からすれば児戯にも等しい強さだったが、親にも殴られたことのない世間知らずの娘にとっては、十分強烈な衝撃だ。

 立ち上がったはずが、足から力が抜け、ストンと床に座り込んでしまう。

 歯の根があわない。

 熱を持った頬が熱く、左手で頬を押さえながら、おずおずと男を見上げた。

 「いいか、おまえはもう俺に関わるな。……今回のことは恩に着なくて良い」

 俺が勝手に恩を返しただけだ……そんな台詞が聞こえたような気もしたが、気のせいかもしれない。

 エッダには、男を助けた記憶などないからだ。

 エッダは泣きながら廊下に追い出され、脱ぎ捨てていた服を着て、ランタンを持ち、冷たい自分のベッドに戻るのであった。


 翌日、エッダの左頬が真っ青に腫れ上がっていることに親父が仰天した。

 エッダは、自分の不注意で、屋外のトイレに向かったところで、石に躓いたのだ、と説明し、何とかその場を納めた。

 しかし、事態は昼頃に急変する。

 常連客達にも、頬の腫れを指摘され、同じ言い訳をしていたところに、起き出してきた男が「自分が殴った」と認めてしまったのだ。

 何故、殴るに至ったのか、など、誰も問題にしなかった。

 誰もが、「エッダを殴るなんて」と怒ったのだ。

 あまりにも恥ずかしい真実のため、即座に理由を語れなかったのも災いした。

 エッダが「悪かったのは自分だ」と何度いっても、誰も取り合ってくれず、客達は口々に男を責め、嫌った。

 仕舞には、父までが皆の面前で、宿から出て行ってほしい、と言い出す始末。

 エッダは慌てて二人の間に割って入ろうとしたが、男がそれを許さなかった。

 彼は、領主との契約のために、後三ヶ月はこの宿から動けない、と告げる。

 親父は、前払いで十分な金額をもらっていたこともあり、それを強く拒否できなかった。

 それでも強い不快感を込めて、「エッダには金輪際近づかないでもらおう」と告げ、男は淡々とそれを受け入れた。


 夜間、父にだけはと思い、ことの顛末を赤面しながら打ち明けたエッダであったが、親父は複雑そうな顔をしながらも、やはりあの男には近づかないように、と結論づける。

 「確かに、店が助かったのはあの男のおかげなんだろう。

 だがな、エッダ。お前が殴られたのは事実だし、どういう思惑があったのであれ、お前が辛い目に遭うのは見たくない。

 それほどの高額を持っていたと言うのも含めて、恩人かもしれないが、随分と得体の知れない男だ。

 ご領主家が保証してくださっているなら、それほどの心配はいらないのだろうけどね。

 可愛いエッダ。父さんのお願いだよ。あの男には近づかないでおくれ」

 心配そうな人のいい丸顔は、母がいた頃の父そのままで、エッダはそれ以上何も言えず、気まずいままに頷くのであった。


 翌日から、男は早朝の早いうちから宿を出るようになり、帰ってくるのは夜と言う生活になった。

 街の人の噂では、男は領主に雇われ、自警団を鍛えている最中らしい。

 同時に、男は街道に出没する盗賊団の情報も広く集め、街の人々は領主が盗賊団への対応に本腰を入れたのを知ったのであった。

 そんな生活だから、男は夕食と寝るためだけに宿に帰ってくるようなものだった。

 その夕食だって、遅い時間に一人でとっているから、親父が世話をしていて、エッダは男に近づくこともできない。

 歯がゆさを感じていると、たまにじりじりと焼け付くような視線を感じ、振り返る。

 視線の先には決まって男がいたが、振り返ったエッダと視線が交わることは決してなかった。

 「なぁんか、……つまんないな」

 お盆を胸に持ち、エッダは口の中で呟いた。


 三ヶ月は思っていたよりもあっという間だった。

 この間、男の指示なのか、自警団の他に傭兵も雇われ、カゼシスの街は活気づいた。

 ここ「緑の枝と小鳩」亭にも、男の顔見知りだという傭兵達が幾人も泊まり、街道沿いの盗賊団についての情報が活発にかわされる。

 カゼシスを経由する商隊は、自警団に声をかければ、格安で傭兵団を斡旋してもらえることになり、また、幾つかの商隊が纏まればさらに集団割引も利くとあって、少し遠回りでもカゼシスを経由しようとする商隊も増えた。

 その商隊を護衛した傭兵達はまたカゼシスに戻って、街道にまつわる情報を自警団に集約していく。

 勿論、他の街からカゼシスに戻る帰路は、傭兵達は単に戻ってきただけで最低限の旅費は出してやり、その帰路にカゼシス行きの商隊の護衛を行うのは、傭兵の任意である。

 予め、領主家からも、「今回の行いは特別措置として、三ヶ月のみの運用である」と通達があり、この三ヶ月を稼ぎどころとして傭兵達も、商隊も、街の人々も張り切っていた。

 こうなってくると、男は宿屋に顔を出すことは殆どなく、出しても、何かを食べながら傭兵達とひそひそ話し合うばかりで、エッダが近づける機会は皆無と言って良かった。


 三ヶ月の期限に残り僅かとなったある午後、随分早めに男が宿に戻ってきた。

 そして、親父に矢継ぎ早に指示を出し、自分は部屋に行ってしまう。

 こっそり後を付けていくと、男は武器や防具の点検を行い、荷物をまとめていた。

 エッダは息が止まるような衝撃を受け、転がるように階段を下りると、男と同じように忙しく準備している親父にすがりつく。

 「と、父さん! あの、あの人! 出発するの?」

 親父は目をぱちくりとさせた後、あっさりと頷いた。

 ここのところの娘の話題はすべてあの男のことだ。

 「あの人」というのが、あの男のことであると、ちゃんと把握していたのだろう。

 「あぁ。そうだよ。明日の早朝に出立するそうだ。傭兵達もね。エッダは革袋に水を入れて用意しておくれ。他にパン一本とチーズ半分。これが一人分で、後は人数分をね。

 朝の見送りはいらないそうだから、今夜中に用意してしまうよ」

 胸を押さえてうずくまるエッダを、大きく優しい手が撫でてくれる。

 「エッダ。あの方は旅の方だ。……いずれここを出て行くことは、誰でも知っている。

 勿論、お前もね」

 父を見上げると、親父は優しく目を細めて、エッダを見下ろしていた。

 「旅の方……」

 「あぁ、そうだよ。旅の方だ。ここは宿屋だからね。

 ここに残るのは、宿屋の親父や、看板娘エッダくらいさ」

 今まで一度として意識したことはなかった。

 自分はここに残り、客は去っていく。

 それは至極当たり前で、息をするよりも自然に見に染み着いている考え方だ。

 なのに何故、これほどに胸が痛むのか。

 エッダはまた顔をうつむけ、嗚咽を漏らす。

 親父は跪き、エッダを軽く抱きしめた。

 「母さんもそうだったよ。……旅の途中で倒れたようで、身体が治れば、出て行くのだと……。

 俺はそれを考えるのが、いやでいやで、仕方がなかった」

 「父さんも?」

 その問いかけが何を表しているのか、親父は正確にわかっていた。

 だから、親父は寂しさを胸に、頷くしかなかった。

 「そうだよ。別れることがわかっていながら、わからないフリをしていた。

 父さんの背中を押してくれたのは、母さんだったよ。

 うちの女どもは皆、器量良しで、その上、男前なんだ」


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