第四話
それから一週間。
時間は淡々と過ぎていった。
幸い、あれ以来、親父が賭場に出入りすることはなく、店に元の味が戻ってきたと評判になり、少しずつだが以前の客も戻ってくる。
だが、店が抵当に入っていることは広く知れ渡っていて、戻ってきてくれた客でさえ、哀れみの目で親子二人を見るばかりだ。
親父は今更ながら死にものぐるいで働いている。
この後の流れを何となく把握しているものの、「どういうタイミング」でアレがもたらされるのか、エッダは知らない。
男もあえて何も語らないことにしているらしく、もの問いたげなエッダの視線もすべて無視する。
一度だけ、あの領主館からの帰り道、「助けてくれるの?」というエッダの問いかけに、「あぁ」と答えたきりだ。
エッダはせめて父には知らせた方がいいのではないか、と何度も考えたが、その度に何と説明していいのかわからず、結局説明を諦めてしまった。
仕方ないので、エッダも静かに、黙々と作業をこなしていた。
エッダの誕生日。
五年前までなら、浮かれた親父が店中の客に酒をおごり、エッダには特別なごちそうを用意してくれていた。
誰も自分のことを考えてくれない、と考えていた五年前の自分を殴りに行きたい気分だ。
だが、ここ数年はそんなこともなく、ましてや今日は返済の期限と言うこともあり、親父の気分はすこぶる底辺だ。
エッダと目を合わせ辛いらしく、厨房にこもって料理を作るか、宿屋の空き部屋を丁寧に掃除しに行くか、ともかくエッダの前に出てこない。
宿に泊まっているのはもう、あの王都からの男一人だから、それほど仕事があるはずもないのだが。
小さい頃は大きくたくましく感じていた背中が、いつの間にか小さくおどおどしていることに、我知らずと重いため息をつく。
店に居合わせた、店の行く末を心配している常連たちと、物見高く見物にきた客たちは、そのため息を、エッダの行く末を案じてのことだと独り合点した。
昼頃の一番店内が忙しい時間を選んで、ダルワスはやってきた。
先日と同じ、チンピラを幾人かつれてきている。
ダルワスは、若さに似合わない表情でほくそ笑み、エッダの間近までゆっくりと歩いてきた。
その視線の気色悪さに身震いし、思わず助けを求めるように男の方を振り返るが、男は感情のない目でエッダを見つめ、酒をあおるばかりだ。
前回の男の様子に気後れしていたダルワスは、男が来ないと見ると、途端にふんぞり返った。
「エッダ! いい誕生日だな!」
「いま、最悪になったわ」
「どうだ、決心は付いたか? なぁに、経験がなくて怯えてるんだろうが、気持ちいいばっかりだぞ。金も暇もあるんだ、すぐに気に入る!」
選択肢は三つあったはずだが、ダルワスの頭にある結果は一つしかないらしい。
エッダが嫌悪を決めて睨みつけても、ダルワスはニヤニヤするばかり。
後ずさるエッダの白い腕を逃がさないとばかりにぎゅっと握りしめる。
思わず痛みに眉をしかめた。
「若旦那! 若旦那様! お願いです。エッダだけは! この店は差し上げます、エッダだけは!」
厨房から転がり込んできた親父は、涙ながらにダルワスの足にしがみつく。
「……父さん……」
まさか、父が店よりも自分を選んでくれるとは思わず、エッダは立ちすくんだ。
「こんなぼろい店で、金貨三十枚に代えられるわけがないだろう! おまえは娘を売って、店を手放さずにすむんだ、ありがたく思え!」
店を抵当に金貨三十枚を貸したことなど、無かったことのように嘯く。
それでもしつこく、エッダだけは、とすがる親父を、チンピラの一人が足蹴にした。
「父さん!」
エッダは叫んで、腹を抱えてうずくまる父にしがみつく。
「エッダ! エッダ! 俺がバカだった! お前さえいてくれれば、それでいいんだよ!」
「父さん、ごめんなさい、あたし……あたし……」
「三文芝居はそこまでにしろ! 行くぞ!」
ダルワスがエッダの細い腕を捻りあげる。
エッダの体は簡単に宙づりになった。
視界の端で、男がいすを倒して立ち上がったのが見える。
エッダと男の目が確かにあった。
そのときだ。
「エッダ! エッダはいるか!」
領主の従僕ジャンが、扉を乱暴に開けて店内に入ってくる。
店内の誰もが何事かとジャンを見つめ、さすがのダルワスの手もゆるんで、エッダは床に尻餅をついた。
「ジャン、どうしたんだ?」
常連客の一人が、ジャンに声をかける。
だが、ジャンはそれを無視して、尻を撫でながら立ち上がるエッダの元に歩み寄った。
「エッダ。領主名代がこれからこちらにいらっしゃる。お前にご用がおありだ。俺は先触れとして来た。
心してお待ち申し上げろ」
「ジャン! エッダには俺が先に!」
「……ダルワス! その用事とやらは、その地位に見合ったものか?」
ジャンが鋭くダルワスを睨めつける。
ダルワスは肩を震わせて、頭を振った。
気まずい沈黙が続く中、エッダは痛む左手をさすりながら、親父のそばに身を寄せていた。
だが、彼女の目はずっと、店の奥にたたずむ男を映していた。
程なくして、店の前に立派な馬車が止まり、領主の子息が悠然と降りてくる。
誰も解散を命じられなかったことをいいことに、店内には客とダルワス一味が当たり前のように揃っていた。
子息は店内の一同を睥睨し、奥にいた男に気付くと、よく見なければわからない程度の目配せをする。
男はなにも反応せず、子息も何も期待していなかったようだ。
店の真ん中まで来ると、エッダの名前を呼ばわった。
「はい……名代」
子息はエッダと、それに付き添う親父を優しく見下ろし、優雅に微笑んだ。
「二人とも、息災そうで何よりだ。
何故呼ばれたのか、不思議そうだな」
親父は身を深く折り、涙に汚れた顔を腕で拭く。
「ご子息様も、ご健勝で何よりでございます」
震える声で挨拶を返すと、子息はエッダに視線を移した。
「エッダ、母のことを覚えているか?」
「はい。優しい……人でした」
「母がこの宿に来る前のことで、何か聞いたことはあるか?」
「いえ、なにも」
「これに、見覚えは?」
子息が胸ポケットから引っ張り出したのは、絹のハンカチだった。
幾何学的な刺繍が施されている。
親父が目を瞬く。それはそうだろう。妻の形見の一つを、何故か子息が持っていたのだ。
言葉を失っている親父の前で、エッダは自分のポケットからも同じものを取り出す。
親父も、店内に居揃った面々も、何事が起こっているのか、と静まりかえって推移を見守る。
「母の……形見です」
エッダは緊張に震える指を、子息のハンカチに添える。
実はこれには仕掛けがある。
男から言われて、エッダは母の形見のハンカチを一時的に貸し出していたのだ。
その間に、子息はハンカチと同じ図案の刺繍を用意していた。
じっくりと眺めなければ、違いなど見つからないほどの、精巧な模写だった。
子息は満足げに頷き、二枚のハンカチを広げて皆に見せるように高く掲げる。
誰もが「同じものだ」と感じたあたりで、子息はさっさとハンカチを二枚とも仕舞った。
「皆も確かに見たであろう。しかし、この二枚のうち一枚は、私が別のものから託されたものだ。
エッダ。よく聞くがいい。
お前の母はある事情から、記憶を失って街に流れ着いた。
そこで所帯を持ち、お前を授かったのだ。
だが……」
子息の話は、男と子息が話し合っていたものそのままだったが、親父も、居合わせた客達も、話の成り行きを固唾を呑んで見守っている。
子息はそれを十分承知のうえで、エッダだけに目線を合わせ、大仰に説明していく。
王都でしか使えない高額貨幣がエッダに残されたとの説明の下りでは、親父も常連客たちも涙に暮れ、お互いに抱き合って喜んでいる。高額貨幣は金貨五十枚分の価値があるのだ、とエッダは初めて知った。
ダルワスだけが、苦虫を噛み潰したような、憎しみで人を殺せそうなそんな表情で、子息とエッダを睨みつけていた。
わかってはいたものの、急展開にぼーっとしていたエッダは、子息に背中を押され、夢から覚めたように周りを見渡した。
店の隅の暗がりで、男が無言のまま頷く。
エッダは子息から渡された高額貨幣をもう一度子息に渡した。
「どうかこのお金を両替してください。
今日中に金貨三十枚が必要なのです」
「全額を今日中にというのは難しいが、金貨三十枚であれば、すぐにも用立てよう。
残りは後日でも良いかな?」
「とても助かります、名代」
深く頭を垂れると、流れに巻き込まれて無言でいたダルワスがようやく我に返り、二人の間に割って入った。
「お待ちください! 名代とは言え、勝手がすぎるのでは? 領主家が特定の店に肩入れするなど、聞いたことがない!」
子息に唾がかかるほどに近づこうとして、ジャンに阻まれる。
それでもダルワスは引かず、ジャンを押しのけて言い募ろうとした。
子息はあからさまに顔をしかめて、ダルワスから距離をとる。
「これは、領民同士の金の貸し借りにすぎません! それとも何か! エッダは名代の……」
「ダルワス、そなた、その続きを口にする覚悟はできているのであろうな? ましてや、事実無根の言いがかりであるそれを」
子息が静かに、だが店内に低く響きわたる声で、ダルワスを制した。
ダルワスが真っ青になる。
子息は周り中を見渡し、集まっている全員一人一人と目を合わせた。
「私が、領主家の金にいっさい手を着けていないことは、妻と、帰領後の領主が証明してくれるであろう。
残念ながら、この金をもたらした母とやらの実家は、その家柄と資産から、エッダの血筋を認めることができないし、その家名を明らかにすることもできない。
だが、この金は明らかにエッダの資産であり、私のものではない。手切れ金といってもよいだろうな。
第一、これほどの金額を伯爵家ではそうそう他者に渡すことなどできないこと、領民のおまえ達であれば重々わかっているだろう。
この件について、これ以上の詮索は無用だ。
話が広まるのはかまわないが、あれこれ口を出されるのは好かぬ。よいな」
居合わせた全員が深く額づき、恭順の意を表明すると、さすがのダルワスも同じようにするしかなかった。
これで閉幕だ。
出来過ぎた芝居は、主演役者の台詞と共に、終演を迎える。
エッダは、ジャンが用意してくれた金貨の袋を受け取り、文句をこれ以上言われないように、子息の前でダルワスに渡した。
ダルワスが足音も高く去っていき、次いで子息とジャンが優雅に挨拶を返しながら去っていく。
酒場の中はあっという間に大騒ぎになっていた。
皆の祝福を受ける親父。
常連達は勝手にビールを樽で持ち出し、皆に振る舞う。
そんな中、エッダはたった一人を捜していた。
だが、さっきまで確かに暗がりに佇んでいた男は、煙のごとく、姿を消してしまっていた。