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第二話

 いくら小さい街だと言っても、辺境のこのあたりには他に街と言えるものは殆ど無い。商隊も行き交うことが多く、カゼシスには当然、「緑の枝と小鳩」亭以外にも酒場もあれば宿屋もある。

 「緑の枝と小鳩」亭は、その中では中間ぐらいに位置し、誇れるものといえば領主に顔を覚えられていることと、親父の作る美味しい料理くらいだ。

 その親父が料理の手を抜くようになれば、初見の客に勧められるようなところはなくなってしまう。

 日がな一日、エッダが走り回ろうと、親父不在の時間が長くなるほど、「緑の枝と小鳩」亭が傾くのも道理だった。


 親父は本来仕込みをするべき時間帯、午後になって店を出てしまう。

 最初はわずかな時間だったから、エッダもうるさく言わなかった。

 父が外出するようになったのはそもそも、病気で倒れた妻を教会に見舞うためだったのだから。

 しかし、その母も帰らぬ人になり、父はポッカリと空いた虚しさを持て余すようになった。

 母の墓を、見舞いをしていた頃のように、毎日訪れているというのは知っていた。

 だが、空白の時間がどんどん長くなり、今、午後から夕方まで、親父が厨房にいることは殆ど無い。

 エッダが心配して帰宅した親父に声をかけても、親父は夕方の用意で忙しくなるから、満足に会話する時間もない。

 不安に胸をざわめかせているうちに、時間は過ぎ去っていく。


 そんな不安な午後に、エッダは王都から来た男と言葉をかわすのが日課になった。

 男は乱暴な言葉遣いではあったが、エッダを気遣い、酒場のことも、清掃やテーブルと椅子の並べ直しなどだったが、手伝ってくれるようになった。


 「お金払って泊まってるってのに、手伝いたいなんて、王都の男は随分暇を持て余してるのね」

 嬉しい半面、素直になれずについつい憎まれ口を叩いてしまう。

 それでも男は、強面のまま、無言で掃き掃除をしてくれる。

 手伝うと言った当初は、掃き掃除というより、掃き散らかす、と言った感じだったが、最近はかなりマシになってきた。

 「飲んでばかりは体に悪い、と言い出したのはおまえだろう? うるさく言われても面倒だしな。少しは体を動かすさ」

 男は忙しく手を動かしながら、そんな風に言い返す。

 自分が憎まれ口を叩いたのに、憎まれ口で返されると、エッダは途端にシュンとした。

 「あぁ……ごめん、うるさいかな、あたし」

 テーブルを拭く手を止め、男を見返す。

 男も箒を止め、エッダをまじまじと見返した。

 「いや……これは……その……言葉のあやって奴だ」

 「あや? 王都の言葉は難しいのね。どういう意味?」

 「…………つまりだな……気遣われるのは嬉しい。だが、それを口にするのは恥ずかしい……いや、違う! 待て!」

 考え込んだ男は、探し探し言葉を紡いだ挙げ句に、エッダの視線に気付いて慌ててかぶりを振る。

 現金なもので、エッダは強面を赤く染める男の顔を見ていると、自然と笑みが浮かんで仕方がなかった。

 夕日に金髪を煌めかせ、エプロンドレスをふわふわとなびかせて、後ろ向きにステップを踏む。

 「聞いちゃったもん♪ 意外と素直でか~わいい♪」

 「おい! 危ない!」

 男が叫んだと同時に、床の反った板に踵を引っかけたエッダがそのまま後ろ向きに倒れそうになる。

 何とか踏ん張ろうとしたが、無理だった。

 エッダはぎゅっと目を閉じて、衝撃に備える。

 だが、腰骨に柔らかい感触がして、体の傾きが止まる。

 エッダがそっと目を開くと、息も届くのではないかというほど近くに男のいかつい顔があった。

 筋肉質のたくましい腕が、彼女の細い腰を抱きしめている。服越しに触れている男の胸からは、激しい鼓動が感じられたが、焦茶色の瞳は見たことがないほどの安心を宿し、濃紺の瞳を覗き込んでくる。

 先ほどまで結構遠くにいたと思っていたのだが、一瞬でここまで来たのだろうか。

 エッダが意味のないことを考えていると、間近にあった酒臭い息が遠ざかり、腰に回されていた腕も解かれる。

 「勘弁してくれ。主がいない間に娘に怪我をさせたら、追い出されるだけじゃすまないぞ」

 「あら、そんなこと言って! 若くて美人なあたしに触れたんだもの、役得じゃない!」

 「お前みたいなのは若いんじゃなくて、乳臭いガキって言うんだよ」

 男は頭をガシガシと掻きむしって、顔を背けてしまう。

 「……悪かったわね、ガキで」

 街の人からは言われなれないそのセリフは、しかし、だからこそ真実なような気がして、胸の中の柔らかい部分に突き刺さった。

 エッダは、呆然と自分よりも父と年の近い男を見上げていたが、すいっと視線を外した。

 僅かな、しかし確かな沈黙が酒場を満たす。


 それほど間をおかずに父が帰ってきて、一気に慌ただしくなる。

 男は奥の席の定位置に、エッダは注文の皿やビール、ワインを持って、テーブルの間を忙しなく歩き続けた。


 酒場は常連客と夕食を求める客でそこそこの入りだ。

 エッダは忙しいのが好きだった。

 余計なことを考えずに済むからだ。

 一番酒場が盛り上がる時間。店が、一番この店らしい表情を見せる時間。

 エッダはついつい笑みを浮かべながら、尻を撫でようとする男たちの手を掻い潜り、下品な呼びかけに余裕を持って答え、忙しなく過ごしていた。


 「ほぉ、まだ頑張ってるじゃないか!」

 唐突に、酒場の両開きの扉を大きく開けて、男たち数人が入ってくる。

 一人は、二十代と思わせる、上等な服を着た青年。その他の四、五人は、腰にナイフなどを下げたあからさまなチンピラだ。

 酒場は水をうったように静かになった。

 「この店がなくなるのは、確かに惜しいかもしれないな。え、エッダ?」

 エッダは険しい表情を浮かべながら、手に持っていた盆を胸に抱える。

 「どういうことよ、ダルワス」

 「他人行儀だな、エッダ。小さい頃みたいに、デリーと呼んでくれよ」

 上等な服を着ているからと言って、上質な人間とは限らない。

 ダルワスと呼ばれた青年は、あからさまな嘲りの表情でエッダを見返す。


 「ダルワスじゃねぇか、王都から戻ったんだな」

 「商家の娘孕ませて、呼び戻されたって聞いたぜ」

 常連たちがひそひそと囁き合う。

 男はじっと、エッダを見ていた。


 厨房の扉が開き、親父が転がるように飛び出てくる。

 「若旦那! こ、ここには来ないでくれって!」

 「んな約束、ちゃんと金を返してから言うんだな。利子でさえ払ってもらえねぇから、パパに言われて、査定に来てやったんじゃねぇか」

 ダルワスは、エッダから目を離さずに言う。

 エッダの顔から見る間に血の気が引いた。

 「父さん、どういうこと?」

 「そ、それは……」

 「親父さんから何も聞いてないんだな、エッダ。簡単な話さ、賭けで負けが混んで、担保だったこの店をそろそろ明け渡してもらうしかないってことだよ」

 勝ち誇ったようにダルワスが言うと、親父は顔を覆ってその場にうずくまった。

 エッダは蒼白な顔でそれを見つめたあと、ダルワスを正面から見つめた。

 「借金って、どれくらい?」

 「金貨三十枚ってところか」

 「三十枚!」

 気丈に振る舞おうとしていたエッダだったが、金額を繰り返す声は裏返り、盆を握りしめる手は白く震えていた。

 一般的な庶民が一年生活するのに必要な金額が概ね金貨二十枚程度と言われている。

 「まぁ、この店も立地条件はいいからな。破格の待遇だろう? こんなボロ店に金貨三十枚も貸してやったんだぜ?」

 ダルワスはゆっくりとエッダに近づき、彼女の顎に自分の手を添える。

 エッダは険しい顔で、青年を見上げていた。

 「相変わらず、いや、しばらく見ない間にもっと綺麗になったじゃねぇか。

 エッダ。店が惜しいなら、抜け道もあるんだぜ?」

 舌なめずりしながら、エッダの胸元を上から覗き込む。

 「俺は、愛人には甘いんだ。可愛くおねだりできたら、考えてやってもいい」

 背筋に悪寒が走り、エッダは無意識のうちに間近にあるダルワスの頰を思いっきり叩いていた。

 「この、アマ!」

 ダルワスが右手を振りかぶる。

 エッダは顔を背けて身構えたが、この時も、やはり衝撃は来なかった。

 いつの間にかまた、エッダの後ろには男が立っていて、片手でエッダの肩を抱きとめ、もう片方の手でダルワスの拳を受け止めていた。

 ダルワスは男を睨みつけようとして、何故か怯えるように、後ずさった。

 男に肩を抱かれているエッダから、男の顔は見えない。一体、どんな表情をしているのか、と気になったが、今はそれよりもダルワスのほうが重要だった。

 ダルワスは男とエッダから十分な距離を取り、子飼いのチンピラたちに囲まれるポジションに戻ると、ホッとしたように肩を下げる。

 「は、ははっ! まぁ、いいさ。エッダ、そのうちお前は俺のところに身を投げ出して、哀れみを乞うだろうよ! 返済期限はお前の誕生日だったかな。後、一週間か! 俺はゆっくりと高みの見物をさせてもらうからな!」

 チンピラを引き連れ、高笑いをしながらダルワスが去っていった。


 酒場の床には親父が力なく泣き暮れ、エッダは悔しげにその父の背中を見下ろしている。

 「もう、だめかもしれんなぁ」

 「あぁ、ダルワスはともかく、親父がなぁ」

 小声でぼそぼそと囁きながら、一人、また一人と客が帰っていった。


 いつもよりも早い時間にもかかわらず、店内はしんと静まり返り、親父とエッダ、そして男の三人しかいない。


 「父さん、ちゃんと話して」

 男が部屋に戻る素振りを見せるよりも先に、エッダは親父に優しく声をかける。

 泣き止んだ親父は、ずっと賭博場に入り浸っていたこと、ダルワスの父から高利の貸付を受けていたことを告白すると、もう一度、床につきそうな勢いで頭を下げた。

 「本当にすまない。ただ、信じてくれ、俺はお前にもっといい暮らしをさせてやりたくって! こんなきつい仕事は、いやなんだろう? だから……」

 エッダは言葉に詰まり、唇を噛んだ。

 エプロンの端をぎゅっと握りしめ、口からついて出そうになった言葉を辛うじて飲み込む。

 替りに床に膝をつくと、親父の背中をゆっくりと撫でた。

 「わかってる。大丈夫、わかってるよ。今日はもういいから、休んで? ここは、あたしが片付けておくから。暗い中で考えこんでも、いいアイディアは浮かばないもの。ね?」

 「エッダ、本当に、すまない。エッダ。母さんに怒られるな。こんなんじゃ、俺は母さんに……」

 「母さんだって、わかってくれるわよ。そりゃ、確かに父さんが寂しがりすぎたところは、母さんに怒られるかもしれないけどさ。でも、父さんはあたしのためを思ってくれたんだから。

 大丈夫。きっと、なんとかなるわ」

 まだぐずぐずと言い続ける親父をなだめ、奥の部屋に連れて行く。


 男はいつもの午後のように、さっさと清掃道具を持ってくると、食べクズが散乱した床を丁寧に掃いていく。

 半分ほどこなしたところで、店にエッダが戻ってきた。

 エッダは綺麗になった店内を見て、疲れたように微笑む。

 「ありがと! 本当に助かるわ。お礼に、一緒に食事はどう? おじさんも、まだでしょう? ただでいいわよ。随分、余っちゃってるから」

 踵を返して厨房に行くと、二人分の料理をカウンターに並べていく。

 温かいシチューと夕方にエッダが焼いたパン。男には更にビールを出してやる。

 並んで黙々と料理を口に入れていく。

 男の、ちらちらとよこされる視線に、エッダは苦笑しか出なかった。

 「ごめんね。こんな雰囲気で食事だなんて、息が詰まるよね。

 でも、一人で食べる気にはどうしてもなれなかったしさ。

 あたしも父さんのこと言えないわね。

 随分な寂しがりやだわ」

 「まだまだ甘えていてもいい年だ。甘えておけ」

 男の無骨な手が、乱暴にエッダの頭を撫でる。

 急に堪えていたものがわき出てきて、のどが詰まる。

 エッダは慌てて俯いた。

 透明な滴が、シチューに落ちた。

 「五年前、母さんとあたし、喧嘩したの」

 細い声が、店内に染みていく。

 「母さんの病気、そんなにひどいと思わなくて。

 あたし、宿屋の仕事も、酒場の仕事も、大嫌いだった。

 一年中忙しくて、誰もあたしをかまってくれなくて。

 だから、言ったの。

 こんな店、潰れてしまえばいい、って」


 それを聞いた母も、廊下を通りかかった父も、それは辛そうな顔をしていた。

 だから、エッダはそれ以上二人を見ていられず、店を飛び出したのだ。

 夕方遅くに帰宅すると、母は倒れて教会に運び込まれた後だった。

 たとえ、伝染しない病であっても、客商売の宿屋に病人を置いておくのは風評を招く。

 それっきり、母は一度も帰ってくることなく、半年ほどで亡くなった。

 一度も見舞いにいけないままだった。

 エッダの記憶の中の母は、凍り付いたように辛い表情をし続けている。


 「父さんが賭博に手を出したのも……あたしの為だわ、きっと」

 親父の胸にはまだ、抜けない棘のようにエッダの言葉が深く刺さり、血を流しているのだろう。

 エッダはそれを、見て見ぬフリをしてきた。

 その分、一生懸命に店に尽くしてきたつもりだ。母の分も。

 「でも、母さんの代わりにはなれなかった。あたしは結局、この宿屋を壊したんだね」

 少し塩味がきつくなりすぎたシチューを無理矢理口に流し込み、いすを倒して立ち上がる。

 「おじさんも、さっさと新しい宿を見つけた方がいいよ。

 ここが残るとしても、今までと一緒ってわけにはいかないから」

 エッダは大人びた笑みを見せ、皿を片づける。

 まだ、できることはあるのだ。

 母さんと父さんが守ろうとした店。

 エッダが嫌いで嫌いでしょうがなくて、でもいまは、何物にも代え難く大切な店。

 決意を秘めて顔を上げる少女を、男は眩しそうに眺めていた。

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