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第一話

 ここは王都から歩いて一ヶ月はかかるという辺境の地。

 二代前の領主が、政争に敗れて落ち延びてきた後、今代の領主の息子がつい先日、大貴族の娘を嫁に迎えて爵位を得ることに成功したという、絵に描いたような田舎。

 ケレイス辺境伯のお膝元、カゼシスの街。

 そんな鄙びた街の、一応目抜き通りに面した、小さな酒場兼宿屋。

 それがここ、『緑の枝と小鳩』亭だった。


 二代前の領主とともに落ち延びできたという、ある意味由緒正しい庶民の宿屋は、現在三代目の親父が切り盛りしている。

 親父には一人娘がいた。

 その名をエッダ、といい、次の誕生日で成人である十六歳となる。

 陽の光を編んだような金髪と、夜明け前の空のように濃い紺色の瞳。まだ少女らしさの抜けない頬は丸みを帯びているが、北方の血を思わせる白さに刷毛で塗ったような血色があり、なんとも言えないアンバランスな色気がある。

 色気といえば、彼女は成人前とは思えない見事なプロポーションをしていて、田舎とはいえ、街の中でも器量良しで通っていた。

 今日も、アルコールとたばこの臭いにむせかえりそうな酒場の中を、疲れを感じさせない足取りで縦横無尽に動き回っている。

 小柄な体からは思いもよらないスタミナで、朝から晩までくるくると駆け回っているエッダは、まさに看板娘であり、顔見知りしかいないようなこの街のマスコット的存在であった。


 酒場に来る常連たちは、彼女を幼い頃から知っていたし、五年前の母親が亡くなった後の落ち込みぶりも知っている。

 だからこそ、間もなく迎える成人が待ち遠しくて仕方ない。

 それを言い訳に、昼間から酒場に詰めかけて、酒をかっ食らっていると言う寸法だ。


 「エッダ! スミスんとこだ!」

 「あいよ!」

 エッダは元気よく返事をすると、父親がカウンターに並べた木の皿とジョッキ三杯を器用に持って、注文主のテーブルまで持って行く。

 「待たせたね! その分、あつあつで美味しいよ!」

 小さい頃から店の手伝いをよくしていたエッダは、街の他の女たちのように野良仕事がない分、日焼けもしていない。

 白くすべすべの肌に、バラ色の頬を見ているだけで、田舎の男たちは陽気になる。


 「おぅ! エッダ、綺麗になったな! 母さん、そっくりだ!」

 「ありがと!」

 「こっちきて、一緒に飲まねぇか!」

 「ごめんね。仕事中だから」

 「次の休みはいつなんだ? 一緒に遊びに行かねぇか?」

 「宿屋だからね、年中無休なんだよ! 残念!」

 「成人したら、嫁に来いよ!」

 「父さん、置いていけないから、無理~」


 この様子を、酒場の一番奥まった椅子に座った男が一人、ぼーっと眺めていた。

 エッダはそっちをちらちらと見てみるが、目が合うことはない。

 だが、男のテーブルにのっていた皿はどれも空っぽになっていた。

 「ねぇ、おじさん! ビールとか追加注文する?」

 初めて言葉をかわす男にも物怖じせず、エッダが問いかける。

 男は胡乱そうに目を上げ、エッダを見返した。

 「こんな子供に酒場を仕切らせてるのか、この店は」

 「田舎だからねぇ。それよりも、お代わり、どうする?」

 あっさりと男をいなして、畳みかけるエッダ。

 男は売った喧嘩を買わずにすませたエッダに、返って気まずくなったのか、顔を背けるようにして、ビールを追加注文する。

 エッダはあちこちのテーブルの周りを回りながら、暫くして、ビール片手に戻ってきた。

 「あいよ、ビール。お客さん、見慣れない顔だねぇ。旅の人?」

 愛想良く笑いながら問いかけると、男は眉間に深いしわを刻んだ。


 男は数日前からこの酒場兼宿屋に泊まり込んでいる。

 宿に着いたときは、使い込んだ革鎧を着込み、腰には帯剣、連れてきた馬にも防具やら何やらが乗せられていて、一見して傭兵とわかる出で立ちであった。

 茶色いくせっ毛は短く刈り込み、口の周りには無精ひげ。

 通常の成人男性よりも頭一つ分抜きんでた身長に、袖や襟から覗く体は筋骨隆々。

 年齢は三十過ぎといったところか。酒に濁った目の奥には、長い経験からくる忍耐と、何に大してなのかはわからない凶暴な感情が宿っているように見えた。

 その黒っぽい焦げ茶色の目は、いつも周りを油断なく見渡していて、父親曰く「かなり腕に覚えのある男だろう」とのことだった。

 だが、男は昼頃に起きてきては酒を飲み、申し訳程度に食べ物を摘まむという生活を繰り返し、エッダにはどこが「すごい」のかさっぱりわからない。

 宿屋を継ぐのなら、人を見る目を磨け、と日頃から言われているため、エッダにとって未知の固まりであるこの男は、非常に気になる存在であった。

 男の身上調査は、街の玄関ともなる宿屋に勤める者にとって、正規の仕事でもある。

 街に盗賊なんかを招き入れられたら、たまったものではないのだ。


 エッダは、母親譲りのぽってりとした赤い唇を笑みの形にゆがめて、男の正面のいすに座る。

 ちょうど昼を過ぎた時間帯。

 最後の食事客ももうすぐいなくなるだろう。

 父はこれから昼休憩という名の不在になる。

 あの男には近づくな、と言っていた父がいなくなるのだ。こんなチャンスはない。

 「お客さん、王都から来たんじゃない?」

 エッダが確信を持ってそう告げると、男の肩がわずかに揺れた。

 しかし、エッダにしてみれば、そんなのはきっかけに過ぎない。男が王都から来たのは、街に住むものなら誰にでもわかるだろう簡単な事実だ。

 男の訛りのない言葉遣い、酒に明け暮れていてさえ、その動作は洗練されている。

 むしろ、そのことを指摘されて、驚いている男に驚くくらいだ。

 「見たらすぐにわかるわよ、それくらい。身に着けているものだって、上質だしね」

 エッダは、男の前の空っぽの皿を重ねながら、目でその剣の柄を指し示す。

 男はそれを背中に隠すようにずらすと、大きく吐息した。

 「王都のものは、この辺だと珍しいのか?」

 「ん〜、そうね。おじさんみたいなタイプは珍しいかしら。商隊ならよく来るし、傭兵も来るけど……、おじさんほど出来そうな人がいるのは珍しい、かな」

 エッダにはよくわからなかったが、父が「できる男」と言っていたのだから、その評価は正しいはずだ。そう思って言葉を紡ぐと、男は苦笑した。

 頬に傷のある顔は、黙って酒を飲んでいるときは眼光も鋭く怖いばかりなのに、笑うと途端に厳しい眉毛が下がり、情けない顔になった。

 エッダは驚いて自分の胸に手を当てる。

 そこから心臓が飛び出すかと思うほど、びっくりしたのだ。

 「確かに、ここ数日見た限りじゃ、大した傭兵はいなかったな。……俺みたいなのがここにいるのは、不自然か?」

 自分の目元を隠すように手で顔を撫で、男が困ったような声を出す。

 エッダは首を傾げた。

 「そうね……、不自然というか、不思議ね。父さんも言ってたわ。何か仕事の宛があるのか、って」

 男は無期限で部屋を借りている。その際、出してきた革袋には十分な金が詰まっているようで、とても食い詰めてここにいるようには見えない、と父は言っていたのだ。

 男は顔からごつい手を離すと、数人しか客がいない酒場なのに声を潜めて喋り出す。

 「このことは、誰にも内緒だ。まぁ、親父さんには仕方ないとして、他のやつには絶対に言うなよ」

 秘密めかされた言い方に、エッダの瞳が輝き、テーブルの上に乗り上げるように、上半身を男に近づける。

 酒場の娘らしく、エッダはうわさ話や秘密の話に目はなかった。

 そのまだまだ子供っぽい仕草に男は逡巡した後、自分は大罪人を追ってきたのだ、とうっそりと答えた。

 「大罪人って? 何をした人?」

 「自分の上官を殴って、顎を砕いたんだよ」

 秘密と言っておきながら、男の声はよく通る。

 子供だましな秘密だ。それを漏れ聞いていた酒場のもう数少ない酔客たちは、「そりゃ、ひでぇ奴だ」と嗤った。

 男も嗤う。

 低く、何が面白いのか分からないような嗤い方。


 だが、エッダは違った。


 彼女は小首を傾げ、男を見返す。


 「その上官ってのは何をしたの?」

 「んぁ?」

 虚を突かれたように、男は言葉に詰まった。

 エッダは苛ついて、言葉を尖らせる。

 「だから! その上官は何をして殴られたの?」

 少し強い口調になってしまったが、歴戦の戦士にその程度、大したことではないだろう。

 周りの酔客が酔いが覚めるほどエッダのことを心配したが、エッダはちっとも気にしていなかった。

 「……それは大事なことじゃねぇ」

 男は食べクズがあちこちに落ちる床に視線を這わせるように顔を俯け、そう答えた。

 あぁ、やっぱり、男は何もわかっていない。

 エッダは腰に手を当て、怒鳴りつけた。

 「大事なことに決まってるじゃない! 何もしないのに殴られたの? 何かして、殴られたの?  それって一番大事なことだわ!」

 男は、目が覚めたように瞬きを繰り返し、目の前の少女をまじまじと見やる。

 エッダは居心地が悪くなって、肩を揺すった。

 男の茶色い瞳が、エッダの胸の奥まで見通そうとするかのように、鋭く細められていた。

 エッダが一歩後ずさろうとしたところで、男は今度こそ他の客に聞こえないように、声のトーンを抑えて答えた。

 「上官は……十歳の貧民街の少女を手込めにしようとしたんだ。

 それを止めさせようとしたそいつは、周りの奴らに取り押さえられた。

 そいつの目の前で、上官は泣き叫ぶ少女に手を挙げた。

 だからそいつは……取り押さえていた同僚全員を殴りつけ、蹴り倒し、棒立ちになった上官をきれいに吹っ飛ばした。

 少女は逃がされ、そいつだけが捕まった」

 男は、エッダを探るように見続ける。

 エッダは体中の息を吐き出すように、大きなため息をついた。

 「王都ってバカばっかりなの?」

 「 何だって?」

 なんで一々、エッダが説明しなければならないのか。エッダは思春期特有の万能感と、年配者が皆自分より愚かだという幻想に酔いしれ、大上段に構えた。

 「だって、そんな格好いい男を犯罪者にして追い回して、王都にいるのはよっぽど暇な悪人ばかりなのね。

 全く馬鹿馬鹿しい!

 おじさんも、そんな良い人をつけ回してないで、自分のことを考えたらいいと思うわ」

 男は何度か瞬きを繰り返していたが、ビールを煽ると、くっ、と喉の奥で笑った。

 「あぁ、全く言う通りだ。俺もそろそろ、てめぇのことをてめぇで考えなきゃな」

 目元を片手で覆った男は、暫く、くくくっと押し殺すように笑っていたので、エッダは急にそこにいてはいけない気分になり、テーブルを後にするのだった。


 夕方前に父が帰ってくる。

 それまでに酒場を綺麗に片付けたエッダは、隅にある男が座っていたテーブルを見て、ちょっとがっかりした。

 いつの間にかそこは、無人になっていた。

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