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猿と牛  作者: 荒屋敷玄太郎
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五.アテナイのテセウスとミノタウロスの結

 五.アテナイのテセウスとミノタウロスの結


 埃の混じった強烈な熱風が、過ぎ去っていった。

 テセウスは、茫然と、今起こったことを見ていた。

 自分が居竦んで何もできなかったのに、シナイスは、テセウスの手からハールペーをもぎ取って、そして。

 ミノタウロスが哄笑した。

「バカなやつだ。本当に大バカ者だ。自分が消えるだけならばともかくだ、ハールペーを、我を殺すことができる唯一の武器ハールペーを持って、わざわざ消えに来てくれるとはな! 」

 ミノタウロスは芭蕉扇を講演台の上に置いた。

「そ…んな…」テセウスは胸がつぶれるような声を、絞り出した「う。嘘…だろ…」

 シナイスが、シナイスが消えてしまった。牛の化け物ミノタウロスに、一瞬にして、消し去られてしまった──!

「どうせ遅かれ早かれ、消してやるつもりだったのだ。飛んで火に入る夏の虫とはまさしくこの事、蚊トンボのように弱いくせに、よくもまあ我に立ち向かったものだ」

「なん…だと…」

 テセウスはミノタウロスを睨みつけながら、足を踏み出した。

「誰のことを言った。いま、蚊トンボのように弱いと言ったな。貴様は誰を、蚊トンボのように弱いと言ったんだ」

 ずん、とテセウスが迫る。

 その瞳には、先ほどの、予言を受けて怯んだ表情は無く、怒り、悲しみ、そして憎しみに、血のように赤く燃えたつ瞳となっていた。

「誰のこと、だと? あのばかな占星術師のことに決まっているだろう」

 ざっ。

 テセウスはシナイスが消え去った場所にまでやってきた。

 芭蕉扇からこぼれた埃が、わだかまっていた。

 ミノタウロスは目を疑った。埃が、鮮やかに、一瞬発光したかと思うと、その埃がテセウスの体に取り込まれていく…。

「シナイスの……シナイスのことかー‼︎ 」

「なっ⁉︎ 」

 ミノタウロスは驚きに仰け反り返った。

 テセウスの体に侵入した『埃』が、きらめきながら舞い、それはテセウスの中の『猿』を爆発的に励起させた!

「ま、まさかっ」

 テセウスの体が、光り、輝く。

「そ、それはまずい! それはさすがに」

 ボッ!

 テセウスの髪が、金色に逆立った。

「ご、悟空⁉︎ 貴様は孫悟空なのか⁉︎ 」

「シナイスをよくもーっ‼︎ 許さねえぞーっ‼︎ 」

 テセウスが叫ぶ。ミノタウロスは動転して講演台の上の芭蕉扇に手を伸ばす。

 シュイン。

「遅ぇ」

 凄まじい速度で接近したテセウスがミノタウロスの腕を間一髪で掴んだ。

 全く抵抗できないほど、強い力であった。

「ば、バカな…! なんて強さ、なんて速さなんだ…! 孫悟空の中には、こんな不条理な強さの奴がいたのか⁉︎ 」

 ぶん!

 テセウスが腕を振り払っただけで、ミノタウロスの体が宙をすっとび、壁をぶち破って図書閲覧室を講堂とつなげ、さらに本棚を十あまり突き破って迷宮の壁にめり込んだ。

 それを追うようにすっ飛んできたテセウスの拳が、ミノタウロスの全身を滅多打ちにする。

「アイヤイヤイヤイヤイヤイ……‼︎ 」

 講堂から覗き込んできた少年少女たちが歓声を上げる。もちろん、ギリシャの子供たちにも大人気である。

「ヤータッタッタッタッタ…‼︎ 」

 エネルギー弾のようなものを両手から連続して放つ。

「ば…バカな…」ごぶごぶと血を吐きながらミノタウロスは言った「や、やり過ぎだ…い、いくらなんでも…」

「なんだと! 」テセウスはミノタウロスの胸ぐらを掴んでグイと引き上げた「まだやり足りないくらいだぞ! 」

「ち、違う、そうではない」

「何が違うんだ」

「やり過ぎなのは…」

 いいかけて、がくり、とミノタウロスが脱力した。

「死んだ」テセウスはミノタウロスの屍を、ボロ雑巾のように投げた。

 子供たちがひときわ大きな歓声を上げる。

「勝ったぞ! 見ろ! アテナイの子供たち! アテナイのテセウスがミノタウロスを仕留めたぞ! 」


 西遊記の世界で、牛魔王…神農がやらかしたという『致命的なミス』とは、実にこのことだったのだ。

 孫悟空の放った『身外身』の術の『小悟空』たちが実態であることに驚いた神農は、芭蕉扇で『小悟空』たちを薙ぎはらったつもりでいた。

 しかし『小悟空』たちは芭蕉扇で吹き飛ばされた『ふり』をして、埃として芭蕉扇に付着したのだ。

 神農が行った『芭蕉扇とくだんを因果によって関連付ける』術を逆手に取ったのだ。

 こんな簡単なことであるが、孫悟空は芭蕉扇に、自分自身を因果として組み込んだ。

 すなわち、芭蕉扇によって異次元へと吹き飛ばされた人間には、必ず埃の形で「孫悟空」が「強烈な熱風」とともに運ばれるのだ。

 そして、その人間の体内の「原始の力」「超人性」を励起する…。

 それはつまり、すべてのくだんにはどこかの次元の悟空が決着を着けに現れることができるようになったのだ。


 テセウスについては、もはや語ることは少ない。

 テセウスは芭蕉扇をぶち壊した。蝶の鱗粉のようなものが、いつまでも舞い続けた。

 芭蕉扇とは蝶の羽ばたきの一颯を無限に集めた宝貝だったのかもしれない。

 そして凱歌をあげて、糸玉を伝って迷宮を脱出した。もはやクレタ島に長居は無用だった。

 子供たちと、そして約束通りアリアドネを連れて、テセウスは船に乗り込んだ。

 テセウスの帆船の帆は黒い、葬儀用の帆であった。生贄に選ばれたためであった。

 テセウスは、生きて帰るときは白い帆を掲げると約束していたが、そのことをうっかり忘れたまま、帰路を取ってしまった。

 クレタ島からの航路では、ちょうど水が不足するところにナクソス島という水の豊富な島があり、また酒の神ディオニソスが治めていることもあってか大変陽気で明るい風土であった。ディオニソスはミノタウロスを倒したという勇者テセウスを迎え入れ、祝勝の宴を開いた。

 ここまでは良かったのだが、このディオニソスは惚れっぽい上に人心掌握術に長けていて、女性に対して手が早いという厄介な側面を持ち合わせていた。

 ある朝、テセウスが連日の宴会で二日酔いに悩まされ、井戸水を飲もうとしてふとディオニソスの寝室を覗いたのだ。

「いいかい? いいかい? 」とディオニソスが言っているのがみえた。

「ああっ。あの人と違う。あの人と違う」

 アリアドネが、ディオニソスの下にいた。


 これが、女性慣れしている男なら、幾ばくとも感じなかったかもしれないが、武闘家のテセウスはその点おそろしく奥手であった。

 テセウスは二日酔いと、わけのわからない感情につき流されて大量に嘔吐すると、船に逃げ帰った。ミノタウロスの言うことが当たったのだ。

 テセウスはとにかく船を早く出航させた。逃げるようにだ。これ以上この島にはいたくなかった。アリアドネの顔を見ることを恐れた。


 船が海路を進み始めたころに、テセウスは自分の船の帆が黒染めであることに改めて気付いた。しかし、

『いいさ』とテセウスはぼんやり海を眺めて思った『おれは悲しいのだ。この帆の色の通りなのだ』

 そのままこの船がアテナイに帰港したことによって、父アイゲウスはテセウスがミノタウロスに敗北したと思い、悲しみのあまり海に身を投げる。


 このあとはくだんが述べた通りだ。テセウスはこのあと人が変わったように色にふけり、ミノス王のように各地を侵略する。


 テセウスの船というパラドックスがある。

 テセウスはクレタ島への往復でこの船を使った。そうして、帆と外装を修繕してアルゴ探検隊の旗艦とした。

 あるいは大破したので、他の船の部品を流用して復元した。最初から使っている部品はひとつもない。船員はすべて入れ替わった。テセウスが死んだため、この船はテセウスの船ではなくなってしまった。


 はたして…

 テセウスの船は、いつからテセウスの船であったのだろう?

 テセウスの船は、どこまでテセウスの船であり続けられるのだろうか?



 西遊記はどうだろうか?



 五.アテナイのテセウスとミノタウロスの結 了


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