四.斉天大聖孫悟空と九天牛頭大魔王の結
四.斉天大聖孫悟空と九天牛頭大魔王の結
雲を突っ切って、孫悟空は翠雲山の頂に降り立った。仙人とは山に住まう者という意味だ。あらゆる聖山には仙人の住まう洞府がある。
目の前にある巨大な洞府には、達筆な文字で『芭蕉洞』と書かれていた。流麗典雅、だれかとは大違いだ。
これがおいらの最後の戦場か、と孫悟空はいささか凶暴な笑みを浮かべた。
「さァ来たぜ! 出てきやがれ牛魔王、いやさ、九天牛頭大魔王っ! 」
大喝すると、洞府の遥か上、翡翠色の空の彼方から呪文が轟いた。
『アタリキシャリキケツノアナブリキ』
どろん、と白煙が立ちのぼり、悟空の目の前に巨大な白牛の魔神が立ちはだかった。
九天牛頭大魔王!
でかい。でかいなんてもんじゃない。こいついきなり本相で現れやがった⁉︎
なにしろ牛魔王の本相は、身の丈およそ1千丈(3500メートル)なのだ。天山山脈の一角ほどもある。
「今日は随分気合い入ってるな! でかすぎだろ! 」
「でかすぎたか」
「あたりめえだ! これじゃお話にもならねえだろ! 」
山の麓から声をはりあげるようなものだ。捜索隊にでもなった気分だ。
「あんまりふざけてると、ノミに化けて滅茶苦茶に痒くしてやるぜ」
「わはははは! それは御免こうむる」
落盤のような轟音が降ってきた。
ぬん、と牛魔王は印を結んだ。その指印だけで入道雲よりでかい。
『みじかびのきゃぶりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ』
「コンパクトになります、でいいじゃねえか」
視界がおかしくなりそうなダイナミックなとんぼ返りで、山より大きかった白牛が風のように掻き消えたかと思うと、孫悟空の目の前に、8クビットの上背の、漆黒の武道着に身を包んだ牛魔王の姿が現れる。武道着には金糸の縫い取りで符術が刻んであり、背中には太極紋が描かれている。
いや、これは武道着ではない! 風水師の道着だ!
孫悟空はうれしくなってきた。
牛魔王の肩には、その上背よりやや長い槍斧が担がれている。
「この戦いを、功夫で戦ってくれるんだな! 」
「余興だ。貴様のおかげで破壊神を捕捉できたからな。貴様を倒し、火焔山へ急ぐ」
こいつも予言をとっておいたくだんなのか。
「まってくれ」
「なんだ」
「さっきから破壊神だ大魔王だって、世界観が違わないか? 」
「馬鹿者! 」牛の頭が一喝した「こちらが本家本元なのだ! 構えよっ! 」
牛魔王は、肩に担いだ槍斧を軽々と回転させて、石突きを大地に突いた。
青雲たなびく芭蕉洞、ついに決戦の時は来た!
斉天大聖孫悟空!
VS
九天牛頭大魔王!
「孫悟空、無明に消えるがよい。すぐに全ての人類もそこに送る」
「ひゃはは、おっかねえ。おいらが死んだら、視聴率落ちるぜえ」
減らず口を叩きながら、孫悟空はきっちり間合いを計り始める。
牛魔王は槍斧をやたらと振り回したりはしない。慎重に、隙をうかがうように小出しに突きを繰り出してくる。
油断はならない。ここまでの霊格を持つ神仙同士の対決は、だいたいが山の落とし合いになってくる。金狐銀狐の化身の邪仙金閣と銀閣のように、最大霊格の須弥山(シュメール山)だの、あやかしに対して絶大な封印力をもつ泰山だのを落とされたらさすがの孫悟空でもたまらない。
しかし、こちらの山落としは効くのだろうか? 霊格の高い山を落としても、本相に変われば力押しで山を跳ね返してしまいそうだ。第一こいつの本相は花果山よりもでかい。
孫悟空は如意棒を回転させながら軽いステップを踏み、牛魔王を挑発する。
牛魔王は、これも孫悟空を睨み据えながら、あたりさわりのない攻撃に終始している。
『大技を狙っていやがるな。ワクワクしてきやがった』孫悟空は舌なめずりした。
芭蕉扇で何度仕切り直したかわからない。牛魔王も勘に触ることだろう。ここらで孫悟空を倒してしまうか山に封じれば、シヴァに予言を告げに行くことができるのだ。なるべく芭蕉扇は使いたくないだろう。
牛魔王の牛面の鼻から、白く吐息が流れでた。
やおら、白い煙霧を切り裂いて、牛魔王が一気に間合いを詰めてきた。
その動きから、流水のようにゆったりとした突きが放たれる。
牛魔王の小出しの突きは、もちろん如意棒による払いを狙った誘いの隙だ。うっかり武器を絡めてしまえばどうなるか。
あやうく孫悟空は如意棒を引いた。牛魔王がニヤリと笑い、軸足を踏み込んだ。
どん。
翠雲山が鳴動した。
実に、かわしようのない、一瞬の直下型地震──!
──そうか! 牛魔王はこの大きさになることによって、一撃一撃に山落とし級の重さを与えているんだ。
孫悟空は一瞬早く跳躍し、その激動を免れた。
しかし。
「吩〈ふん〉」
『縮地の術⁉︎ 』
牛魔王は距離を瞬時に詰め、槍斧の間合いに入るや、孫悟空をさらりと薙ぎつけた。
『…やべっ…! 』
孫悟空は咄嗟に如意棒を防御にまわした。軽く、受け流すつもりで槍斧の刃を受けにいく。
だが、如意棒と槍斧が触れ合ったその途端、孫悟空ははじき飛ばされ、洞府の岩壁にメリ込んでいた!
「ぎあっ! 」孫悟空の吐気に、血が混じった。
「終わりだ孫悟空」さらに縮地の術で接近した牛魔王が、振りかぶった槍斧を斬りさげた。
大質量隕石の落下をも凌駕する一撃が、孫悟空の身体ごと洞府の岩板を斜めに断った。
「あ、あっぶねえ」牛魔王の斜め後ろで、孫悟空は口笛を吹いた。
「幻術か」
ぶん
牛魔王の後ろざまに薙ぎはらった一撃は、孫悟空は後転してひらりとかわした。
そのバック転のついでに、鼻毛をひと摑み千切って吹く。
その毛の一本一本が、たちまちそれぞれ小さな孫悟空となって、牛魔王に迫る!
だが牛魔王は、小悟空を歯牙にもかけず、真っ正面に突っ切ってきた。
「あれ? おや? 不発? 」
「何のことだ。我にはただ、毛を放ったようにしか見えぬぞ」
牛魔王は嘲笑って孫悟空の胴を薙ぎ払おうとして、その動きを止めた。
「…だろうよなあ…」孫悟空は寂しく笑った。
「貴様まさか、仙術が使えないのか」
「いや参ったねこれが」
頭を掻く孫悟空に、独特の仙気が失われている。これでは。まるで。
「孫悟空! きさま」牛魔王は驚きの雄叫びを挙げた「精を漏らしたのか⁉︎ 」
「生まれてはじめて恋が叶ったその時にな。いやはや童貞齢一千五百有余歳。わははははは」
孫悟空は認めた。そう、あのとき、陳褘からの告白を受けたときから、孫悟空は仙人の資格を喪失していたというのだ!
久米仙人の例を挙げるまでもなく、精気の体内還流が仙気の源である以上、精を漏らすと仙術は使えなくなるのである…!
牛魔王は愕然とした。
「ではお前は、仙気を失ったのだな⁉︎ 」
孫悟空はテレ笑いして頷いた。
「孫悟空よ」牛魔王は残忍に笑った「殺してやろう」
「さて、出来るかな? 斉天大聖孫悟空は、仙術が無くともちと厄介だぜ」
『仙術が全く使えないわけではないだろう。だが、今のが幻術のつもりなら、術を習いたての童子といったところだ』牛魔王は分析した『大技は使えまい』
『ばれちまったな、さあどう来るか』孫悟空は苦笑した『これで牛魔王は芭蕉扇は使わないだろう。千載一遇だ。何がなんでもおいらを倒そうとするはずだ。これで正真正銘、最後の戦いだ! 』
孫悟空があらためて如意棒をかまえると、牛魔王は武器から片手を離し、懐に手を伸ばす。
その途端、孫悟空の身体が、まるで縮地のように牛魔王の目の前に移動する!
『き、距離を消し飛ばした⁉︎ 』
驚愕する孫悟空を、牛魔王は片手薙ぎに、下から上へと軽く打つ。
孫悟空は、その瞬間に見た!
『芭蕉扇! 』
孫悟空は次の瞬間には、翠雲山の雲をつんざいて、実に大気圏外までうち飛ばされていた!
「觔斗雲‼︎ 」
孫悟空の叫びに律儀に応え、真空の宇宙空間まで迎えに来た金色の雲は、孫悟空の身体を一瞬にして翠雲山の洞府に戻した。
「觔斗雲は使えるようだな」
「この術だけは特別なんだ。尸解する前から使えた。それより、今のは驚いたぜ。芭蕉扇にそんな使い方があるとはなあ」
慨嘆する孫悟空。
いま牛魔王は、ふたりの間の空間を芭蕉扇で消し飛ばして、強制的に『縮地』をかけたようにして孫悟空を吸い寄せ、カウンターを入れたのだ。
「仙術の使えぬきさまなど子供だましで倒せるわ。よくぞ我に挑んできたものだ」
「けえーっ。そんなおいらに芭蕉扇を使うのか! 牛魔王衰えたり! 」
「芭蕉扇で仕切りなおすつもりはない」
孫悟空の負け惜しみにとり合わず、牛魔王は無造作に迫った。
そして無造作な突き。もはや恐る恐る誘ってきたりはしない。だが孫悟空は、それをとんぼ返り──觔斗雲による縮地の効果でかいくぐった。
ふたりの体が交差し、入れ替わった。
だが、間合いが近すぎた! 牛魔王はつむじ風のように身をひるがえし、槍斧を横薙ぎにぶんと振るった。
これを孫悟空は避けなかった! 牛魔王の超質量攻撃を如意棒で受けにいく!
『そのようなもので止まるか、愚か者が! 』牛魔王は快哉の雄叫びを挙げて孫悟空を斬り伏せようとした。
その牛魔王の一撃が、がっきと止まった!
「四海最強の宝貝、如意棒を甘く見たな! 」孫悟空は叫んだ。
如意棒はその名の通り、長さや太さはおろか硬度、質量、密度まで自在に操作できる宝貝なのだ。
孫悟空は如意棒に牛魔王に比肩する質量を与え、足の下から山を貫いて地脈に食い込ませたのだ。
孫悟空は宝貝の力だけで牛魔王の必殺の一撃を受け止めた!
『いまだ! 』
孫悟空は完全に空いた両手で、自らの頭髪を、全身の毛という毛を、ありったけに千切って牛魔王に吹きつける! このときから毛が三本少なくなったといわれる。
その体毛の一本一本が、小さな悟空の姿と変じて、牛魔王の五体に纏わりついた。
「げ、幻術⁉︎ 」
牛魔王は思わずその目を疑った。童子程度の幻術のごまかしは九天牛頭大魔王になど通用しない。
はずだった。
しかし!
小悟空の一匹に、脛を引っかかれて、ついに牛魔王は悲鳴をあげた。
小悟空はすべて実体であった!
「仙術は使えないはずだ! 」
「そう思わせるのもこっちの手の内でな」苦しげに孫悟空は言った「仙気のほとんどは輪精管の封印に使っちまっていたんだ。正確にいうと、まだ漏らしとらんかったのだ。今、それを解いた。そいつらにはおいらのありったけの仙気が込めてある」
孫悟空の赤い道着の下半身が精液によってドロドロと濡れ始める。仙気の封印が解け始めたのだ。生命力そのものが漏出していくように、急速な脱力感に襲われていく。
孫悟空はそれでも不敵に、牛魔王を睨みつけた。
「牛魔王、破ってみな、おいらの渾身の『身外身』の術を! 」
「小賢しいわ! このようなもの! 」
牛魔王の眼がギラリと光った。片手をまたもや槍斧から手放して、芭蕉扇を抜くと、蠅を追うように『小悟空』の群れを払った!
『小悟空』たちは、芭蕉扇の羽根が触れるよりも早く小さなほこり粒に姿を転じたが、そのほこりもろとも、芭蕉扇の生む虚無に絡め取られてゆく。
孫悟空はふところ手にニヤニヤと、てんてこ舞いの牛魔王を眺めていたが、最後の一匹の『小悟空』を芭蕉扇が始末したとみるや、ひとこと、
「縮め、如意棒」
「なにっ⁉︎ 」
牛魔王の斧を受け止め、体躯を支える形になっていた如意棒が、不意に消え失せた! さしもの牛魔王も巨体が一瞬流れる。
「ぐわっ」
「伸びろ、如意棒」
間髪入れず孫悟空は叫んだ。
「なっ⁉︎ 」
今度は勢いよく地から伸びだした如意棒が、牛魔王を下から突き上げる!
しかし牛魔王は、体躯を反転させて『流水の動き』で如意棒の伸びを受け流した!
「はい、ご苦労さん」
孫悟空は觔斗雲で一気に距離を詰め、牛魔王の手から芭蕉扇を蹴落とした!
今牛魔王が対応しきれなかったのは、如意棒による奇襲を受け流しきれなかったためかもしれない。
「あら? 奥さま落としものでございますわよ」
牛魔王のスキに乗じて孫悟空がおちゃらけながら伸ばした手を、牛魔王の手が無造作に払った。
それだけで孫悟空はもんどり打ったが、頭を振って起きなおる。それでも手を芭蕉扇に伸ばそうとする。
牛魔王は焦って、芭蕉扇を踏みつけた。
「わ、渡すか! 」
「はいはい」
孫悟空は言って、悠々と、ふところから芭蕉の実を取り出した。皮を剥いて、パクリと口に含む。皮は、足元にぽい。
「嬲るか、こざるめ」
牛魔王はじりじりと足元に手を伸ばし芭蕉扇を回収しようとしている。
いまや孫悟空から目を離すわけにいかない。彼はまだ觔斗雲による縮地の術が使えるのだ。
やおら、孫悟空は印を組んで叫んだ。
「あちゃらかもくれん、ナツメオネエサマステキ、てっけれつのぱあ! 」
「もはや貴様には幻術しかなかろう。その手はくわぬ。芭蕉扇は渡すわけにいかん」
「ふん。あんたでも芭蕉扇が怖いかねえ」
「…」
牛魔王は孫悟空を睨みつけた。仙気は絶えている。もう孫悟空は、斉天大聖孫悟空ではない。術は限られている。
「その力を知り尽くしたあんたなら、その恐ろしさがわかるんだなあ」
「…そうだ! 絶対に、ヒトの、猿どもの手に戻してはならんものだ! 」
「じゃ、これはなーんだ? 」
孫悟空はアッケラカンと右の手に芭蕉扇をひるがえした!
牛魔王のアゴが落ち、涎が滴った。
「ばっ、芭蕉扇! 」
「正解っ」
「ば、ばかな! 返せ! そいつをよこせ! 」
「いいよん」
軽く言って孫悟空は芭蕉扇を投げた。孫悟空の思わぬふるまいに、牛魔王は思わずそれを拾おうと二三歩進み、足元を見て愕然とした。
足元には、ところ狭しと芭蕉扇が散らばっていた! その数は千や二千ではきかない数であった!
そうだ、この芭蕉扇は、孫悟空が食べた芭蕉を急速成長させて作り出したニセモノだ!
牛魔王は気付いて振り返った。
いま自分が踏みしめていた芭蕉扇こそが本物だ!
足元をみると、そこにあったのは濡れて腐った芭蕉の葉であった!
ぬうっ⁉︎
牛魔王は忌々しげに腐った芭蕉の葉をはねのけた。
「あ、それいらないの? じゃ、貰った」
孫悟空は素早く手を伸ばした。
「な、なにっ⁉︎ 」
牛魔王が蹴飛ばした芭蕉の葉は、たちどころに本相の『芭蕉扇』に立ち戻る!
牛魔王はうろたえて孫悟空に飛びかかろうとした、その足が、迂闊にも、芭蕉の皮を踏みつけた!
乾坤一擲! 牛魔王のひづめと地面の間に、芭蕉の皮がすり潰された! 牛魔王の両足が完全に宙に浮いた。
ずどん。
大山の質量をもつ牛魔王の巨体が、地響きをたてて尻もちをついた。
「復讐するは我にありってね」
岩山に尻を叩きつけられたことを根に持っていたらしい。
孫悟空は悠々と芭蕉扇を拾い上げ、牛魔王に突きつけた。
「参った。とどめを刺すが良い。だが、カリ・ユガの到来は止められん。いずれ、仙術を持たぬ猿と、ヒンドゥーの破壊神シヴァと、くだんが出会う時に」
「そいつは予言のつもりか、くだんよ」
「我はすでに予言を果たしたくだんだ」
牛魔王は起き上がろうとしなかった。
孫悟空は目を丸くした。
「おまえは、神農だったのか! 」
「よくわかったな」
「神農は尸解したはずだからな。どこかに生き残っているはずだ」
「だが、予言をしてしまったために尸解の術とくだんの呪いがおかしな風に混ざってしまったのだ」牛魔王は言った「死なないが予言も出来ぬ、仙術も今のお前程度しか使えぬ」
「なんてこった、お互いボロボロだったんじゃねえか」
孫悟空はため息をついた。
「神農さんよ、でももうあんたの望む形では、カリ・ユガを招来することはできないぞ」
「そう思うか」牛魔王、いや、神農は不気味に微笑んだ「ならば、そう思うが良い。とどめを刺せ」
「思うんじゃなくって、事実なんだ。あんたは致命的なミスを犯した。でも、おあつらえならとどめをくれてやろう」
「じ、事実だと? なんだそれは」
「あばよ」
孫悟空は芭蕉扇をざっと横に薙いだ。神農の首だけが、異次元に消し飛ばされた。
首を失って、黒血を噴水のように噴き出しながら、神農の身体が倒れる。
「さて、もうひと仕事だ」孫悟空は芭蕉扇を手に持つと、それをぐるりと丸めた。
「さて、うまくいくやら行かぬやら」言いながら、パチンとはたくと、芭蕉扇は自らが創り出す虚無に呑まれて、あたかもウロボロスの蛇のように消滅した。
「はい、おしまい」孫悟空はその場にへたり込んだ。あふれ出す精液には血が混じり、なおも流れ出し続けている。
「孫悟空」
声がした。
おどろおどろしい、異臭をともなうそれは、くだんの器官を通った声であった。
「まだ生きてやがったか、驚いたな」
「孫悟空、我は貴様に憑依する。神仙ではなくなった貴様には価値はないが、尸解したくだんの器官で捲簾大将に滅びを告げにゆく。案外果たせるやもしれん」
首から下だけの神農の身体から、おぞましい鬼怪の気が立ち昇った。それはたなびき流れる紫煙のように、孫悟空の身体にしのび寄った。
「仙気の絶えたおいらに憑依することは簡単だろうな」
「ひとつ昔話を聞かせてやろう。貴様は、この物語を『猿と牛』と思ったのだろう? 」
「…⁉︎ 違うのか⁉︎ 」
「これは、チベットに伝わる昔話だ。シルクロードのキャラバンによって、サマルカンドにまで達したとも言われる」
「なんという話だ」
「『牛の首』──」
孫悟空の体内に、くだんの気が吸い込まれていく。
「そんな話は、聞きたくもない」
孫悟空はぎゅっと目をつぶった。
くだんの気は、するりと孫悟空の体内をみたした。それは神農の怨念のこもった凄まじい悪霊で、孫悟空の脳に、心に、自我に深く絡みついた。
「神農──」孫悟空は自分の中にくだんの器官ができたような腐った息を吐いた「見誤ったな。おいらにもう仙気がないと見て、甘くみたんだ」
「貴様に何ができる」
「お師匠さんを、無事に天竺まで届ける」孫悟空は不快感に耐えながら言った「そのためには、物語を現実に戻してやらなきゃならねえ」
「物語を現実に戻すだと? 」同じ口から疑問の声が漏れる。
「ブッダ六神通最後の神通力」
「何! バカな! やめろ」
孫悟空は震えながらすっくと立ち上がった。
「お師匠さん、きっと天竺に行くんだぜ! 」
孫悟空は印を切って叫んだ。
「漏尽通! 」
パッ、と孫悟空の身体が、光の粒子となって弾けちった!
そして、ほぼ孫悟空の魂と同化していたくだんの霊も、パッと光の粒子となって消えた。
漏尽通──それは、輪廻を脱し迷いのない世界に自ら赴く、最終解脱の術である。
過去、現在、未来いずれにも存在し、また、いずれにも存在しなくなる術だ。孫悟空は、くだんが自分に憑依してくることはわかっていたが、もはや、これしか手段は残っていなかった。
くだんを引きつけて自らに憑依させてから、漏尽通の術を使うこと──
尸解した神農の魂ごと、涅槃に沈むこと──
そして、孫悟空のいない、現実の玄奘三蔵の旅に戻すこと──
突風が吹いた。翠雲山の雲が吹き飛ばされ、書き割りの洞府が倒れた。台本が吹き飛び、ページがどんどんめくれていく。
そして。
ウトウトしていると、机の上にトゥクパ(チベット式汁そば)が置かれていた。
「あ。すみません、眠くなっちゃって。ごはんを持って来ていただいたのに」
「なに、いいって事ですよ。巡礼者に喜捨をさせていただくのは功徳になるのです」
トゥクパを持ってきてくれたのは、隊商のリーダーの男であった。
「これは御奇特な。感謝いたします」
陳褘…いや、陳褘の名は都を離れるときに捨てた。今の自分の名は…
──玄奘。
玄奘とは、葬儀の際棺の上に乗せる履物を意味するものである。
自分自身、何度生まれ変わってでも厳しい冬を迎えようとも、みずからのしかばねを踏んででも旅を成し遂げる、という意思を込めて受けた戒名だった。
シルクロードを行き交う隊商に同行を求め、玄奘はタクラマカン砂漠を西に抜けつつあった。
隊商は先ほど、ホータンという市場の町に到着し、街のはずれにキャンプを張ったのだ。
玄奘は、街についた安堵から、すっかり眠ってしまったのだが、隊商のみなはすでにホータンでひと商売を終えてきたのだった。
「おいしい! 」玄奘はトゥクパをひとくち食べて歓声をあげた「ちゃんと味があるよう」
「いつも水みたいな湯〈タン〉ですみませんなあ。ホータンは塩井があるので、おそろしく安く塩が買えるんでさ。わしらの一番の稼ぎだ。銀たったの五枚で塩三俵、これを長安に持っていくと銀一俵」
「ぜいたくだな〜」玄奘はウキウキとトゥクパの汁をすすった。
「この時期は折りよく、天山山脈の雪解け水で、涸れ川が潤っているのだそうです」
「えっ! じゃあお水も安いの? 」
「驚かないでくださいよ」リーダーはニコニコと言った「水がただなんですよ。こんな僥倖は滅多にない。きっとあなたを連れてるからご利益があったに違いない」
「お、お水が、ただ…」玄奘は愕然とした「あの、ひょっとして、水浴びも、できたり、します? 」
せきこんで聞く玄奘に、リーダーは両手を広げて、
「ははは、流沙河をごらんなさい、街のひと総出で水浴び大会ですよ! 」
「嬉しい! 行く! 」
玄奘はトゥクパの汁をいっぺんに飲み干すと、夕闇の訪れたホータンの街に駆け出した。
タクラマカン砂漠の夜空は美しかった。
どこまでも遠く高く、星々がきらめいているのを、玄奘は立ち止まってしばらく眺めた。
「きれいだねー、悟空くん」
誰にともなく問いかける。むろん、答えはない。
悟空くん…って、誰だっけ…。私は誰かと、とても素晴らしい仲間たちと旅をしてたような気がするんだけど、思い出せない…
それはきっと、夢物語にちがいない。でもあたたかくって、やさしくって、とても頼りになる人たちが、かつていたのかもしれないし、もういないのかも知れない。
ホータンの西、ガンダーラ国へ向かうこれからの道には、火焔山という奇勝があると言われている。赤褐色の砂岩でできた山で、風塵に晒されているせいか炎が揺らめいているように風紋が刻まれている山なのだそうだ。
「そこで待ってみようかな。みんなが来るかも知れないし」
みんな──?
玄奘は泣き出した。
「悟空くん、ごめんなさい。ごめんなさい」
砂漠の夜の風は、涼しく、やさしかった。
四.斉天大聖孫悟空と九天牛頭大魔王の結 了