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猿と牛  作者: 荒屋敷玄太郎
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三.斉天大聖孫悟空と九天牛頭大魔王の序

 三. 斉天大聖孫悟空と九天牛頭大魔王の序


 埃の交じった強烈な熱風を、まともに受けた!

「ウキーッ、い、痛ってえぇ!」

 尖った岩肌に、したたか尻を打ちつけて、孫悟空は悲鳴をあげた。

 そのまま崖下に転落するが、身軽に宙で二転三転、途中の迎客の形の松にしがみつく。

 如意棒片手にスルスルと松によじ登ると、岩肌に直撃した尻の痛みにしばらくうずくまる。

 痛みの涙がしたたる。

「ちっ…きしょう! やりやがったな! 尻が真っ赤になっちまったぞ! 」

 もともと猿の尻は真っ赤である。

「やかましいわ! 一体ここはどこだっ⁉︎ 」

 地の文に悪態をついて、孫悟空は辺りを見回した。水のほとりだった。穏やかな河原に日が射している。

 はて、周囲の岩山に、そして山水にどうも見覚えがある。

 頭を掻くと、岩山を跳ねて滝のあたりまで行く。滝の向こうを洞府として住まう仙人が居るのか、岩肌に蚯蚓ののたくった字で洞府の名が書きつけられている。

「ひでえ字だ。ええと」

 顔を顰めてなんとか文字を読み取る…と。

 …水簾洞。

「ありゃ⁉︎ ここは花果山じゃねえか! 」

 見覚えがあるはずだ。ここは彼、孫悟空が生まれた山である。そして水簾洞の文字は、彼が滝の裏に洞窟を発見した時に、彼自身が書きつけたものだった。

「ってことは! あの野郎め、おいらを三万里近くブッ飛ばしやがったのか! ちくしょうめ! 」

 顔を真っ赤にしてひとり地団駄を踏む。

 牛魔王め。

 先刻まで、孫悟空は、翠雲山は芭蕉洞の洞主羅刹女の夫、牛魔王と凄絶な戦いを繰り広げた挙句、形勢不利とみた牛魔王の、芭蕉扇の一颯で、二万九千八百里の彼方、花果山にまで吹き飛ばされてしまったのであった!

 孫悟空は以前の戦いでも芭蕉扇で小須弥山(ヒンドゥー教の聖地シュメール山のこと)に吹き飛ばされ、山主である地神から「風に飛ばされることを防ぐ」仙薬『定風丹』をもらって立ち向かったのだが、どうやらそれも効かなかったらしい。

「どうなってるんだ? あの小須弥山の地神がインチキな仙丹を寄越すはずがねえが…それにつけてもあのウシ頭め! おいらを何回も何回も何回も何回もブッ飛ばしてくれちゃって、もう義兄弟とは思わねえ! 手加減は無しだ、次こそギャフンと言わせてやる! ギャフンだ! ギャフン‼︎ 」

 孫悟空がひとり喚いていると、何処からともなく小石が飛んできて頭に直撃した。孫悟空は舌をかんでギャフンと言った。

「おい! うるせえぞさっきから! ここを斉天大聖孫孫悟空アニキのシマとわかってるのか⁉︎ 」

 石に続いて降ってきたサル語に、孫悟空は眼を見張った。

「その声はモン吉だな⁉︎ 偉くなったもんだな、誰に石をぶつけたかよく見てみろ」

 歯茎を剥き出して怒鳴ると、

「あっ、まずい悟空アニキだ! 」

 石を投げた猿が、思わず明るい声をあげた。

「悟空アニキだ! 悟空アニキが帰ってきたぜ! 」

 その声が響き渡るや──。

 水簾洞の滝の裏から、岩山の木陰の中から、崖の上から崖下から、数知れぬ猿たちがいっせいに飛び出してきた!

「悟空アニキ! 」

「悟空にいちゃん! 」

「ああ、悟空さ、おけぇりなさい! 」

「おお! モン吉、エテ子、カカ! おめぇらも息災で何よりだ! 」

 飛び出してきたのは、孫悟空の懐かしい舎弟たちであった。どうでもいいが安直な名前だ。

「悟空にいちゃん! おかえり! あれやってあれ! 」

「悟空にいちゃん、あれやってよォ」

 小猿たちが悟空の足元にまとわりついて催促する。

「こらこら、悟空さんはお疲れなんだ。あとにせんか」

「いいんだぜモン吉。おいらの戒名覚えててくれたんだ。ひさしぶりに一丁やってやらぁ」

 孫悟空はにかにかっと笑うと、懐から一本の芭蕉(バナナの古代種)を取り出すと、颯爽と皮をむいて一口に頬張り、皮を投げ捨てた。

 固唾を呑んで、あるいは生唾を呑んで見守る仲間たちの前で、孫悟空はニンマリ口を曲げる。

 フウィッと息を吐くと周囲に芭蕉の種が撒き散らされる。

「あちゃらかもくれん、マチャアキいい男、てっけれつのパァ! 」

 印を組んで鮮やかに呪文を唱えた。見る間に、そこらじゅうから芭蕉が芽吹き、丈を伸ばし、花が咲き実を結び、果実の芳香が満ち溢れた。

「さあ者ども、かかれーっ」

 号令一下、わぁい! と小猿たちが歓声をあげながら手近な芭蕉の房に飛びついて行く。

「上出来だ」

 にやにやと満足げにその様をながめ歩いていた悟空は、足元を疎かにしたか、芭蕉の皮を踏んでひっくり返った。さっき打った尻をまたもや打ちつけて孫悟空はぎゃお、と鳴いた。

「こらぁ! 皮を投げ捨てるモンじゃねェ! 」

「悟空にいちゃん、それさっき自分で捨てたの…」

「そうかい」

 引きつった顔で苦笑いして孫悟空はようよう立ちあがった。

 芭蕉に群がる小猿たちを眺める。なんだか知らないがこいつらに会えて良かった。

 かたわらに現れたモン吉がはたとひざまづいた。

「兄さん、お勤めご苦労さんでござんしたッス! 」

 他にも懐かしいサル友たちが顔を揃えていた。

「もうずっと、ここにいてくれるんでしょう⁉︎ ねえ⁉︎ 」

「よくぞ戻って下さいました」

 口ぐちに言いつのる舎弟たちに、孫悟空は頭を掻いてすまなそうに言った。

「悪い悪い。俺ゃまだおつとめの最中なんだ。すぐまた戻らねえとならんのだ」

 翠雲山の戦いを思い出して顔を顰める。

「ああ、そうなんですかい。残念です。まァあんな遠い天竺のくにまで行こうというのですから、二た月やそこいらで戻られるとは思いませんでしたし」

「いや、觔斗雲に乗ってひとッ飛びやれば天竺だろうが国技館だろうがアッという間なんだ。だけどもな、お師匠さんに觔斗雲と縮地の術は禁止されちまってなァ」

 苦笑して、待てよ、と口をつぐむ。

「おまえ今二た月と言ったな⁉︎ 本当か⁉︎ 」

 モン吉が頷くのを見て、孫悟空の顔色がさっと紅潮した。

「やや、おいらが勝手に増えてやがる」

「なんッスか? 」

「念のためだ、モン吉、おいらの頬をツネってみろ」

「えっ、こうッスか? 」

 モン吉がいきなり両の頬に爪をかけて伸ばしたので、孫悟空の顔がどえらく伸びた。

「いででででっ! もういい! 」

「す、すみませんッス」モン吉が慌てて手を離したので頬がパチンと戻る。

 痛覚が正常にはたらいている。幻術の類じゃアねえ。

 孫悟空はこの時、はじめてあの芭蕉扇が並の宝貝ではないことを思い知った。

『定風丹』が効かねえはずだ。芭蕉扇は風で吹き飛ばしてるんじゃねえんだ!

 芭蕉扇は、虚無を媒介に、ごく近しい時空同士を局地的に入れ替える、という大掛かりな作業で、大気を、天候を操作する宝貝だった!

 そして、くだん…という、この『一件』に深く関わったあやかしは、吐きだした言葉を現実にする作用を為すために発生した存在だ。

 このくだんのひとつが羽化登仙し、くだんと芭蕉扇を「関連づけ」た。

 そして、今いる時空のくだんは、孫悟空との戦いで芭蕉扇を使いまくっている!

 何を企んでいやがるんだろう?


 そして──今おいらが居る処は、どこの時空なのだ?


「読めたぜ」孫悟空は顔をクシャクシャにして立ち上がった「奴はこじつけてでも、観測者全体の完全消去を狙っていやがるんだ。とんでもねえ奴だ」

「兄さん、どうなすったんで」モン吉が孫悟空の顔を不思議そうに覗き込む。

 孫悟空はぐっとモン吉に顔を近づけた。

「モン吉、おいらが帰ってきたと言ったな。そいつはおいらそのままか? 」

「いいえ」

 案の定だ。

「どんな奴だった⁉︎ 」

「もっと人間に近かったです。シッポは有りやした」

「おいらの宝貝も持ってたのか? 如意棒、觔斗雲の術は使ってたか? 」

「へい、でも崖に尻をぶつけて『痛ってぇ〜‼︎ 』と喚いてすぐに行ってしめえやした…で、その頭の金の輪が有りやせんでした」

 孫悟空は慄えた。

 芭蕉扇に遭遇した孫悟空の中には、この金バチがねぇ奴までいるのか!

 そいつも孫悟空の転生なら、まァもとの世界に戻れるだろう。そんな事より自分のことだ!

「モン吉、すまん」孫悟空は神妙な顔になって頭を下げた「おれぁ行くよ、すまん、達者でな! 」

 孫悟空はひゅういっ、と軽快に指笛を吹き鳴らすと、小さく跳ねてトンボを切った。天の彼方から一迅の金色の雲が降りたち、孫悟空の身体をすくいとる!

「かっ飛ぶぜぇ」

 孫悟空が舌なめずりしたとたん、觔斗雲は鮮やかな残像をみせて、虚空に消え去った。

「消えた…⁉︎ 」

 モン吉は呆然とした。


 觔斗雲は孫悟空の初めて覚えた術であるという。師である天竺の賢者スプーティに「觔斗雲の術を使うために産まれてきたに違いない」と言わしめ、一足とびに秘伝を伝授されたという。

 なぜなら觔斗雲の奥義は、縮地の術に等しいのだ。縮地の術とは、現在地と目的地の間の距離を縮め、一歩で乗り越える仙術である。

 彼は時空を乗り越えて生まれてきたのだ。スプーティはそれを思い出させ、骨法を語るだけでよかった。


 どんがらがっしゃん。

 長安は青龍寺の門前町、蒸篭がぽっぽっと湯気を吹き出す町食堂である。その屋根を突き破って、猪八戒は客席に転がり落ちた。今まさに肉饅頭を口に運ばんとしていた阿倍仲麻呂がひっくり返ってもういやだ日本帰りたいと嘆きながら逃げ出した。

「あいててて…」床板まで突き破ってその下から這い出した猪八戒が、埃を払いながらあたりを見ると、目の前には蒸したての肉饅頭が湯気を立てていた。

「おお、痛いけど、こりゃラッキー」

 猪八戒が歓声をあげて蒸篭の饅頭にかぶりついた途端、天井の穴から觔斗雲が舞い降りた!

 孫悟空は如意棒で猪八戒の背をどやしつけると、そのまま一本釣りの要領で掻っさらった。

 何が何だかわからず、目を白黒させていた猪八戒が急いで両手の肉まんを各二口で片付けると、

「また、いててて…あ。兄い」

 気づいたときには觔斗雲は天山山脈の東にあった。

「あっ、兄い、觔斗雲はお師匠さんに禁止されてたんじゃあ⁉︎ 」

「ドン臭いやつだ! 50年も先に吹き飛ばされるやつがあるかっ」

「ひ? へ? 」

 阿倍仲麻呂が長安に封じられたのは、玄奘三蔵がここ長安で入滅してから半世紀も後のことである。

「非常事態だよ! おいらは今日っぱかしはちょいと仙術全開でいくぜ! 」

「あーあ。まだ肉饅頭三つしか食ってねえのにィ〜」

「だから豚がブタマン食ってんじゃねえ! 」

 孫悟空はぽかりと猪八戒の頭を殴りつけると、更にトンボを一転切った。

 觔斗雲は、一路、西へ、西へ──


「次は、と」

「兄い、また牛魔王の処に行くんですかい? 」

「ああ、だがその前に行く処がある」

「お師匠さんの処ですかい? 」

「お師匠さんは觔斗雲に乗れねぇ。だから先にこの世界の理を調べに行かなくちゃならねえんだ」

「この世界の理…? 」


 すたり、と二人は、迷宮の中庭に降り立った。

 薬草園を忌々しげに睨み回した孫悟空は、その薬草園の最奥にある階段に歩み寄った。

 足元は踏み荒らされ、つい先ほど多勢の人物が出入りしたようだ。

「兄い、ここは…? 」

「ギリシアのクレタ島だ」

 孫悟空はぼそっと答えて階段を降り始める。空気がよどんでいる。獣の匂いと、血の匂いがまじっていた。

 孫悟空はあたりを忌々しそうに睥睨しながら、階段をスタスタと降りていく。猪八戒もおっかなびっくり後を追う。

 水琴窟の水の音がうるさい。孫悟空は、ちっ、と舌を鳴らした。

 兄いの機嫌が悪い、と猪八戒は思った。こんな時は黙ってついて行くに限る。

 孫悟空は書庫の扉にたどりついた。

 扉は開かれていて、その奥から獣と血の匂いが流れてくる。

 孫悟空はつかつかと中に入る。プラネタリウムが天を覆い、そこは講堂になっている。その奥の壁が破壊されてとなりの部屋とつながっているのを見て、孫悟空は、部屋を縦断して壁の穴に向かった。

 途中で講台の上に、バラバラに引き裂かれた芭蕉扇があるのを見て、初めて孫悟空は微笑んだ。やってくれたんだな。

「あっ、兄い! 」隣の部屋を覗き込んだ猪八戒が声を上げる「此奴は…」

 隣の部屋は図書閲覧室になっていて、本棚にはおびただしい数の本が並んでいる。

 もっとも、乱闘が原因で本棚はぶち破られ、本は滅茶苦茶に散乱していた。

 そして…散乱する本の中に、牛の頭をもつ怪物が血まみれになって倒れていた──。

 孫悟空は怪物の屍を観察し、その死因が強烈な力で叩きのめされたものだと知った。

「こいつは…牛魔王…? 」

「ミノタウロスだ。牛魔王のこじつけの実験台だろう」

「へっ? 」

 孫悟空はミノタウロスの屍をまたぎ越え、その奥に進んだ。

 本が新しくなってくる。木簡、竹簡、羊皮紙、石板、パピルス。更に進むと、そこにはハードカバー、ポケットブック、単行本、新書、かわいらしい絵表紙のコミックにライトノベルの類が並びはじめた。

「あ、兄い」

「ミノタウロスは自分に悩んで、読書をはじめたんだな。そして、手元にある芭蕉扇で、暇にあかしてあらゆる時代の本を取り寄せたんだ」

「なんでそんな物好きを…? 」

「たぶん、こいつが自分をくだんと知ったからなんだ」孫悟空は苦笑した「くだんは言ったことを本当にする力をもつ。言葉が絶対的な力を持つと知っているんだ。くだんは、つまり『語り部』のあやかしなんだ」

「語り部…? 」

「作家のあやかし、という意味だ」

 孫悟空は『資料室』と表札の出た部屋の前に立った。その表札を手に取ると、ため息まじりに裏返す。

 その裏には『参考文献』と記されていた。

「猪八戒」

「あいよ」

「お前はここで待ってろ」

 孫悟空は部屋の扉をあけた。

(以下、〈参考文献〉を参照のこと)

 孫悟空は最後の棚の上にあった本を凝視してから、『資料室』を出た。

「兄い」

「猪八戒、お師匠さまを助けに行くぜ! 」

「何かわかったんで⁉︎ 」

「神農が仕掛けた、でかいでかい罠の潰し方が、な」

 孫悟空は、言って指笛を鋭く鳴らし、トンボを切った。


 熱風吹き荒ぶ、流沙河──。

 河と名は付いているがこれはワジとよばれる涸れ川のことを指す。流沙河は広大なゴビ砂漠の西に向かって流域をもつ稀有な河なので、シルクロードを行くキャラバンの道標となる河だ。

 触れなば肌を灼き、目にすれば網膜をも爛れさせる熱砂の砂丘の中、一人の少女が歩いていた。

 熱砂と灼熱の太陽から身を守るため、彼女はその小柄な体に大振りの僧衣を纏っている。

 僧衣から覗く顔は、若く美しいが、愁眉を帯びたような長い睫毛に、どこか病み衰えた印象を与える。だがこの苦境に、凛とした表情で立ち向かっている。誰にでもできることではない。

「悟空くん…! 八戒くん…! どこにいるの…? 」

 思い出したように、やっと声を上げるも、砂の地獄に応える声はない。

 否──

 やおら、その目の前に、目の前に砂塵のつむじ風が立った。

「ご、悟空くん…⁉︎ 」

 違った。

 彼女の前に立ちはだかったのは、肌の色の異常に青黒い男であった。

 奇妙なことに、その男は常にゆったりと舞うような動きをとっていた。

 首から九つの髑髏の瓔珞を下げ、唇からはメラメラと鮮血のように赤い舌が覗きみえる。

 両手両足の金の輪がしゃらりと音を立てる。流れるような優美な動きだ。

 その姿のあまりの恐ろしさに、少女が身をすくめると、

「陳褘〈シンイ〉…よな」

 男が声を上げた。

 少女は頷いた。

「あ、はい。そうです、わたしは陳褘です」背筋を伸ばして、相手の目を見つめる「今は玄奘と戒名をとり、天竺に仏教の経典を求めて旅をしている者です。貴方はどなたですか」

「我の名は捲簾大将。ゴビ灘に古くから住まい、これまでに九度、玄奘法師を啖うてきた。この髑髏は玄奘のこうべだ」

 少女…陳褘は一歩だけ引いた。しかしそれ以上は下がらなかった。

「貴方は、わたしを食べるつもりなのですね」

 捲簾大将は哄笑した。

「物分りがいいのだな」

「わたしは何度も生まれ変わり死に変わり、天竺へ仏教の経典を求めて旅をしているのです。そして、その都度この砂漠で貴方に食べられて果てる定めでした」

 陳褘はひしと捲簾大将をにらみすえて言った。

「覚えているというのか…」

「ですが、わたしは、貴方に出会わなくとも、天竺に行きつくことはできないでしょう」

「なんだと? 」

 陳褘はずいぶんと余る袖をめくって手を出して、金糸で飾られた被り物を外した。

「ごらんなさい」

 その頭には毛髪が無く、紫色の腫瘍がところどころ浮き出し、頭皮は変色していた。

 捲簾大将はうっと詰まった。

 陳褘はひしと捲簾大将を見据え、あろうことか一歩歩み寄った。

「わたしは血液に陰の気が混じる病にかかってしまいました。そして、旅の中途で出会った仙人に、仙丹と呼ばれる薬品を授かり、これを服みました。仙丹とは、辰砂(水銀)と砒素と鉛を調合した高価な薬ですが、わたしには精進が足りぬためか、病は酷くなるばかり。髪も全て無くなってしまいました」

「あたりまえだ、ばかなやつ。仙丹など大インチキだ」

「その仙人は信じていたのです。仙丹を服めば血液の陰の気が転じ調和すると。そしてわたしに仙丹を施してくれたのです。だからわたしは、ありがたくそれを頂きました」

 真摯な瞳で、陳褘が言う。

 思わず捲簾大将が顔をそむける。

「辰砂。砒素。鉛。全て猛毒だ。我はゴビ灘の地神で辰砂に縁があることから深沙(辰沙)大将とも呼ばれる。その我がいう。貴様はそんな物を服んだから死ぬのだ」

「あやかしたちは、わたしが十回転生を繰り返すあいだ処女であること、そして仙丹を服んだことから、わたしを啖えば不老不死を得られると信じているのです。悟空くんにはいつも迷惑をかけています」

「迷惑だと。この上ない迷惑だ。あれがいかにハヌマンの化身とて、貴様のようなばかものを連れて天竺に行こうというのは苦行以外の何物でもないっ」

 捲簾大将はなぜか憤慨した。

「あれ…とは? 悟空くんをご存知なのですか? 」

「何を言っているのだ。あれは神なんだぞ」

「えっ? 」

「天竺の古い神だ。太陽を果物と思って喰おうとして天帝に顎を砕かれた、そしてしぶとくも甦り、最強の負けず嫌いと最強の好奇心と不死! この南無三宝を与えられたのだ。まったく厄介な神だろう? 」

 さぞ縁の深かったことだろう、捲簾大将は手足の輪をジャラジャラいわせて取り乱した舞を舞った。

 陳褘は首をかしげる。

「悟空くん。たしか仙界で仙桃をありったけ食べて、仲良しだったおやじどん(太上老君)まで敵にまわして、金剛琢(腕環)で額を砕かれたって…」

 捲簾大将は首を仰け反らせてからからと笑った。

「奴はそんな目にあっていたのか。どいつもこいつも。これが業というものなのだ。分かっているか、陳褘よ⁉︎ 」

「業、天竺の言葉でカルマ、と呼ばれるものですね。前世の行いが報いる、ということでよろしいでしょうか」

 パン、と捲簾大将は手を打った。しゃらん、と腕の輪が鳴った。

「さすがに予習できているようだ。不完全だがな。これから学びにいくというのだから仕方ない、ともいえる」

 一回転してヒラリと腕を差し伸べる。しゃらん。

「あ。ありがとうございます」

 陳褘は合掌して深々と一礼した。

「礼を言われるところではないと思うが。しかし頭は悪いわけではなさそうだ」

「恐れ入ります」合掌。

「しかし待て。貴様なぜ天竺へゆく」

「はい。長安には口伝でしか伝わっておらぬ釈尊の経典の、原典を研究するためでございますが」

 陳褘…玄奘三蔵は、この西遊で、はじめてサンスクリット語原典からじかに釈迦の教えを翻訳するのである。代表的なものが『玄奘三蔵訳 般若心経』だ。

「な、なぜ天竺などでわざわざそのような」

「え? 」

「孫悟空。彼は仏弟子でもあるのだぞ」

「え、そ、それはわたしが得度に立ち会いをいたしましたから、悟空くんはわたしの弟子、つまり仏弟子になりますが」

「そうではないのだ! 奴は觔斗雲を使うだろう? 」

「ええ、き、禁止いたしましたけど」

「なぜ! いや、それはあとで聞く。觔斗雲の術は奴がスプーティから教わった術だ」

「スプーティ、さんですか? それはどなたです? 」

「予習が足りん! スプーティすなわち須菩提、須菩提は、マハーカーシャ(摩訶迦葉)を筆頭とする十仏弟子の一人だ! 孫悟空はすでに釈迦の孫弟子なのだぞ! むしろ貴様の方が弟子入りすべきなのだ」

「ですから! わたしが、回心、させ、て。え? 」

 陳褘は目を丸くした。神通力を操るほど仏教に通じた者が、なぜあらためて自分の弟子となり黙々と西遊に付き従う?

「あの、悟空くんって兄弟子、ですよねえ」

「ええい。いまさらなにをっ。陳褘、なぜ觔斗雲を禁止した? 」

「はい」凜とした目で陳褘は捲簾大将を見据えた「天竺の国では、修行者は解脱するため己に苦行を課すと言います。片足を土に着けず聖地に赴く者、五体投地のまま、一度も立ち上がらずに恒河(ガンジス川)に向かう者。わたしが楽をして天竺に参るなど畏れおおくあります。わたしは天竺には苦行僧として参らなければならないんです」

「なんでそういうところは予習できているんだ。まあそれはあっぱれな心がけだ。孫悟空はかわいそうだな」

 捲簾大将は嘆息した。あまりの嘆きに踊りを忘れそうになって急いで地団駄を踏んで見せる。

 踊りを忘れたら大変なことだ。

「余計なことかもしれないが。貴様いのちが永くないと言ったな。それならなぜ觔斗雲で天竺に向かわない? それが本分というものだろう? 」

「それは、駄目なのです」拳を握りしめて、陳褘は、精一杯言った「だって、だって修行しないと、天竺行けないんだもん」

「そうとは限らんだろう。苦労するのは帰り道でも良かろう。苦行者は最終解脱を求めて、終の場所へ向かっている。いわば死にに行く象のような存在なのだぞ! 」

「そうでも修行しないといけないんだもん! 」

 陳褘の眼から、涙がこぼれ始めた。

「駄目なんだもん! ふえ、ふええぇん…」陳褘は泣き出した。

「わ、こら、参った、泣くな」捲簾大将は笑わせようとなるべく滑稽に踊って見せた。

「ふええぇん」泣き止まない「食べられる〜」

「食わん! 」さっき食べると言っていたではないか「ほら、見るのだ」捲簾大将は、取っておきの安来節を披露した。腰を高く持ち上げてわざと卑猥に舞う捲簾大将の、鼻の穴から下唇のつっかえ棒を見て、陳褘はたまらず笑い転げた。

 陳褘は、笑い上戸である。一度ツボにはまるとほかの感情が薄れるほど笑ってしまうのだ。先日も訪れた村の葬儀の席で読経中喪主が放屁した時も。

 ──安来節をやめたのに、呼吸困難になるほど笑い転げている陳褘をみて、少しやり過ぎたと捲簾大将は思った。

 そして、この時気が付いたのだ。

「陳褘、笑うな、もういい。ひょっとして孫悟空は、独覚なのではないか? 」

 陳褘はしばらくはっ、はっと呼吸を整えていたがややあって、やっと

「ど、どくがく、ですか? 」

「そうだ、独覚、あるいは縁覚、釈迦の教えとは無関係に悟りを開いた者だ」

「そ、そのようなものが居るのですか? 」

「不勉強な! 悟りを得ることは釈迦の専売特許ではない。現に釈迦の教えは、だれでも悟りが開ける、というもので、貴様の求める釈迦の経文も、悟りを開くための『資料』として仏弟子が学ぶ。釈迦は修行を経て悟りを開き、自分と同様に弟子たちが悟れると考えたから説法の旅を始めたのだ。では、釈迦の前には悟ったブッダは居なかったのか? もちろん、居るのだ。しかしそのブッダたちは悟りというものを決して人に啓かない。悟りとは必ずしも人に語るべきものではないと知っているのだ。むしろ、隠す。だから独覚が居る、とか、独覚になる、とか言わず独覚が発見された、と表現される」

「えっ、悟空くんってブッダだったの⁉︎ そういえば悟空くん、薔薇って漢字書けた…」

「ば。薔薇とブッダとなんの関係があるんだ? 」

「え。ないけど薔薇って難しい字じゃないですか」

「難しいって、あんた、長安の僧侶だろう」

「ひどい。悟空くんそんなこと言わないよ」

「…奴は悟りを開いている。六神通に通じているからだ。だがブッダの秘蹟を他者に語らない。そして天界で、こともあろうに釈迦の化身、つまり釈迦如来と対立した。調達ダイバダッタさながらだ。調達も独覚であったと考えるならば、孫悟空は独覚の条件を満たしている…」

「しかし、もし悟空くんが独覚だとしたら、どうだというのですか? 独覚というのは人に悟りの方法を教えたり、弟子にとったりしないのですよね? 」

「独覚は、悟りとは必ずしも良きものと限らぬと知っている。ブッダが妻帯しなくなることはひとつの証拠になるだろう。結婚してから悟りを開くものの記録は多いが、悟りを開いてから結婚した者は皆無だ。 妻帯しない生き物はいずれ滅びる。悟りを開く因子を持つ存在は、長い時間をかけて消えてゆくのだ」

「け、結婚すればいいじゃない、ですか。だって、お釈迦さまだって奥さまとお子さまがいらっしゃるじゃないですか(踏んづけられたけど)」

「悟りを開くと、結婚したくなくなるのだ。するべきではないと、ブッダは思っているのだ」

「そう思ってしまうように、なるということですか? 決まりではなく? わかりません、わたしには…」

「孫悟空は、妻帯したことはないだろう? 」

 捲簾大将の言葉に、陳褘ははっと息を呑んだ。

 ──孫悟空は生まれてかれこれ1500年、仲間の猿こそいても女房とか子どもは居なかった気がする。少なくとも本人から居るという話を聞いたことがない。

「でも、そうでなくたって、悟空くんは出家したから。どちらにしても結婚なんかしないんだから」

 陳褘が言うと、捲簾大将は上体を大きく回した。

「悟りが必ずしも良いとは限らない、か。わかりやすく言おう。孫悟空は、貴様に『萌え』ているのだ! 」

「は、はいぃ? 」

 陳褘は思わず珍妙な声を上げる。

 そのとき、虚空を裂いて、強烈な如意棒の一撃が、ムチのようにしなりながら、捲簾大将に叩き込まれた!

 いや、間一髪、捲簾大将は身を仰け反らせてその一撃をやり過ごす。流れた如意棒が激しく砂塵を散らした。

 觔斗雲の術──!

 孫悟空は虚空を越えて流沙河に出現し、捲簾大将に奇襲をかけたのだ!

「好き勝手を言うのはそこまでだぜ、カッパ野郎」

 孫悟空は隙なく如意棒を構え直して言った。

「誰がカッパだ! 」

「そういや全然カッパにゃ見えないな。捲簾大将」

「悟空くん! いきなり攻撃してなんですか! 」陳褘は叫んだ。そして印を組んで『金光明経』の一節を唱え始める。

「南無薩埵利也軍荼利伽、守護聖天…」

「ぎゃお」たちまち孫悟空は頭を抱えてのたうち回った。太上老君にたたき割られた頭の鉢を、金剛圏が締め付ける。いででででで。頭蓋骨のヒビが擦れあってキリキリと音を立てる。孫悟空は息も絶え絶えで泣きを入れる。

「勘弁して、勘弁してくださいお師匠さま」

 陳褘は印を解いて孫悟空をキッと睨んだ。

「わたしはこちらの捲簾大将とお話していたのです、わかりますね」

「はい。はいはいはい。重々承知しております」

「はいは一回でいいのです! 」腰に手を当てて叱る。

「は、はい! 」

「斉天大聖孫悟空よ」捲簾大将はしかつめらしく頷いて言った「楽しそうだな」

「好き勝手いうなと言ったろ! 」

「南無薩埵…」

「はい! ごめんなさい! とても楽しいです! 快楽至極です! 」

 捲簾大将はにやりと笑った。

「さて、孫悟空は陳褘に萌えて居るという話の続きだが」

「はい! 」

「馬鹿こらやめろ! 」

「南無薩埵…」

「はい! ごめんなさい続けてください! 」

「孫悟空、貴様は独覚だ。そうであろう? 」

「知ったことじゃない。そう思うならそう思え」

 孫悟空はふて腐れて言った。

「ではなぜ、悟りの研究書である資料の蒐集、翻訳、研究のための西遊に加わるのだ」

「独覚じゃねえからだ」

「そうか。ならば重ねて問う。独覚でないならなぜ、この陳褘にブッダの秘蹟を伝えないのだ」

「教えるべきもんじゃねえからだ」

 言ってからハッと口を押さえた。

 しゃらん、と捲簾大将の指が孫悟空に突きつけられる。

「悟空くん、やっぱりブッダだったんだ…⁉︎ 」

「問うに落ちるとはこのことだ」捲簾大将は手をうって笑った。

 陳褘の顔にサッと陰がよぎった。

「悟空くん、じゃあどうしてわたしに着いて来てくれているの? わたしはたくさん、たくさんまちがっているんですよ? あなたならできるでしょう、火焔山の火を消さなくたって、わたしをひょうたんにでも入れてひらりとトンボを打てば」

「そうだぜ、ひとっ飛びさ」

「じゃあ、どうして…」

『もはや、これまでか』孫悟空は、ある覚悟を決めた。

「あんたのことが好きだからだ… 」孫悟空は、絞りだすように言った。

「え」一瞬遅れて、陳褘は茹でたように真っ赤になった「ええええっ⁉︎ 」

 孫悟空は如意棒で足元の砂を突いた。

「言わせねえでくださいよ、お師匠さん」しょんぼり、孫悟空は言った。

「ど、どどどうしてわたしなんか」両の拳を口元に当てる「人使いが荒くて頑固で」

「かわいいからだ」

 みなまで言わせず、孫悟空はさえぎるように言った。

「全くもって」捲簾大将は同意した。

「旅が終わっちまったら、一緒にいられなくなるからな」

「ふむ」捲簾大将は納得して孫悟空に苦笑をかけた。

 隙あり──

 それを見て、悟空はすかさず神通力を使った。

「おお? やい、捲簾大将、あんたも随分と楽しそうじゃねえか、ん? 」

 孫悟空は言った。天眼通の術で反撃に出たのだ。

「なにっ」

 捲簾大将の顔色がどす黒く染まった。

「お師匠さんの笑い上戸見て惚れたんだな」『他心通』で孫悟空は追い打ちをかけた「このひと身体がボロボロなのに妙に明るいからな」

「貴様、仕返しとは子供かっ」

「二人共もうやめてよう」茹で蛸のようになって陳褘は身をよじらせると、取り敢えず金光明経を唱え始めた。

「ふぎゃ」

 孫悟空はひっくり返ってのたうち回った。

「いでででで師匠テレ隠しにそれはやめていででででで」

「あ、ごめん」陳褘の読経がとまり、孫悟空は大の字にひっくり返った。

「そ、そうだ、悟空くん。八戒くんは? 」陳褘は突拍子もなく言った。話をそらしたのだ。

「いてて。あ、そうだ。そのことだ。お師匠さま、猪八戒は火焔山に待たせてあります。おいらは今から牛頭をやッつけて、芭蕉扇を持って帰るんでってことを伝えに来たんですよ」

 言ってから、孫悟空は捲簾大将を静かな眼で見つめた。

「牛魔王は、芭蕉扇を使ってでかい罠を張りやがったんだ。似た世界と似た世界を少しずつ組み替えて、虚構と現実をまぜこぜにしつつあるんだ。その目的は、少しは見当ついてたが、捲簾大将、お前を見てはっきりわかった」

「な、なんの話だ」捲簾大将は孫悟空の眼差しに意表を突かれた。

「トボけちゃあいけない。あんた、どうみても『シヴァ』じゃねえか」

「ぐっっ! 」捲簾大将は突風にあおられたようにのけぞった。

「悟空くん、捲簾大将はシヴァじゃないよ! 」陳褘が目を丸くして言う。

「そう、捲簾大将はシヴァじゃない。しかし、辰沙大将は青面金剛なんだ。日本で青面金剛は庚申講の時に三匹の『猿』と共に祀られる」孫悟空は捲簾大将をピシリと指で指した「見ざる言わざる聞かざるの三猴を引き連れた青面金剛は、青黒い肌に髑髏の瓔珞、三面六臂に赤い舌、コブラを身体に飾っている。/刃輪チャクラム、/三又鉾トリシューラ、/斬馬刀タルワール、/長弓ピナーカ、/ヴァジュラを六臂に構えるその姿、どうみてもシヴァなんだ! 」

「なにそれ、なんで猿なの? なんで三匹なの? 」

「三世諸仏の隠喩だ」孫悟空はため息をついた「仏教において同一個体が三体祀られる時には、それは過去仏、現在仏、未来仏いついかなる時にも存在を固定された仏を意味している。そしてその猿とはおいらのことだ」

 捲簾大将はだまっている。その表情に笑みはない。わかってら。

「猿が仏…? 」

「猿は衆生の隠喩だ。見たがる言いたがる聞きたがる。仏、つまり悟ったブッダは人間の中から現れるのだ」

「待て悟空よ。貴様の話には致命的な欠陥があるぞ」静かな声音で捲簾大将が言った「深沙大将は一面二臂として描かれるだろう? 」

「三世諸仏が一体になった隠喩だ」孫悟空は冷や汗をかいて言った「一面二臂掛ける三は三面六臂だ。一面二臂から三面六臂への変化は、最終解脱、もう二度と生まれてくることのない状態、過去現在未来の無い状態を意味している。それが涅槃だ」

「よくもそこまでこじつけたものだ」

「どっこい、こじつけたのはおいらじゃねえ。こじつけたのは牛魔王だ」

「牛魔王がなにをこじつけたというんだ? 」

「玄奘三蔵の大唐西域記にはおいら孫悟空も猪八戒も出てこないが沙悟浄だけは出てくるんだ。牛魔王が欲しかったのは孫悟空でも猪八戒でも、もちろん三蔵法師でもない。牛魔王が必要としていたのはシヴァにこじつけられそうな沙悟浄の存在、ただそれだけだったんだ! 」

「幾つもの世界を混ぜて沙悟浄をシヴァにこじつけて。それに牛魔王に何の得がある?」

「牛魔王はくだんを量産した。くだんがシヴァと出会った時に、『現実の世界』でカリ・ユガの到来を予言させるのが目的だ」

「ちょっと待って、悟空くん、カリ・ユガってなあに? 」

「そっちですかい。末法の世の中でさ」孫悟空は簡単な言葉で言った「劫の果、今いる生き物すべて滅ぶ時のことです」

「ひどい! なんでそんなことを! 」

「人間は観測者なんだ。観測者は宇宙の真理に容易くひびを入れることができる。その観測者がまったく存在しないほうが、真理にとっては自然な状態ってわけで。観測者は、ただ見ているだけで観測しきれない光子や粒子、波を変転させてゆくんです。いわば人間こそ、芭蕉扇のようなものなんです」

「わかんないけどひどい! 悟空くん、何とかならないの⁉︎ 」

 陳褘は孫悟空の顔を見上げた。

「何とか⁉︎ えーと、何をどうすれば何とかなるんだこれは」

 くだんは生まれるたびに芭蕉扇を手にすることができる。しかも芭蕉扇を使うたびにくだんは増殖する。異世界からいくらでも芭蕉扇を召喚することができる以上、芭蕉扇を壊すことはまったく意味をなさない!

 牛魔王のくだんは、芭蕉扇を使いまくって、ナンディとして生まれるくだんとシヴァに見立てることが可能な神族とが出逢う可能性に賭けている。

 いや、危ないところだ。ここに居る捲簾大将はじゅうぶんシヴァとなりうる。

「なぜ、我の顔をみる」

「いや、相変わらずシヴァだな、と」

「悟空くん…」

 思い詰めたような顔で見上げられてはたまらなかった。

「よしっ。お師匠さん。任しといておくんなさい。ただ、仙術は使いますよ」

「それは…」

「これは仙術を悪用した牛魔王が起こしたことなんだ。火を水で消すように、反対の方から仙術で押し返してやらなきゃならんのです」

「うん。よろしい」陳褘は、孫悟空の手をぎゅっと握り、微笑んだ「悟空くんが本気をだしたら、誰にも負けないもんね」

 孫悟空は一瞬キョトンとした顔をしたが、直ぐに不敵な笑みを浮かべた。

「アタ棒よ、おいらは斉天大聖孫悟空。天下無敵で海内無双、天衣無縫に国士無双、嶺上開花断么三色、裏ドラいっぱいの数え役満だぜ」

「すごいっ」陳褘は目をキラキラさせて言った「やっぱり悟空くんだわ! 大好き! 」

「本当ですか⁉︎ 」

「うん! 出家してなかったら結婚したかったよ」

「さ、さようですかい! 」

 孫悟空は目を瞬かせた。なんてこった。おいらは今、生まれてはじめて恋が叶ってるんじゃねえか!

 思わず孫悟空は前のめりになった。これはまずい。

「ご、悟空くん…? 」

「お。おうともよ! じゃ、ひとっ走り行ってくるぜ! 」孫悟空は陳褘の瞳をじっと見つめながら言って、おもむろに指笛を吹き鳴らした。

「あらよっ! 」

 孫悟空は見事なトンボにトリプルアクセルを加えて觔斗雲に飛び乗った。

 孫悟空は人差し指と中指で印を作り、それで『敬礼』した。

「捲簾大将、いやさ、沙悟浄和尚。三蔵法師を守り給え。三蔵法師が取経の旅を果たせるようはからい給え」

「待て、孫悟空」あわてて捲簾大将…沙悟浄は言った「我に押し付けるつもりか? 」

 孫悟空はニヤリと笑った「楽しいぞ」

 沙悟浄は陳褘に視線を移した。

 ほよ? と陳褘が見返してくる。

「あ、あのなあ」

「ほんじゃ、ま、オーム・ナバ・シヴァ・ヤー! 」

 孫悟空の真言に、沙悟浄はヒラリと側転して答えた。

 みとどけた孫悟空は、虚空にかき消えた。

「觔斗雲…久しぶりに見たけれどすごい術だわ…! 」陳褘は息を呑んで言った。

「陳褘よ…貴様はのどかな奴だ。孫悟空に、ブッダとしての独覚を否定させた事の意味も知らずに」

 沙悟浄は虚無的に唱えるように言った。

「え? 」

「行こう、火焔山へ。それが孫悟空の希望だ」

 沙悟浄は髑髏の瓔珞をはずすと、輝く吐息を吐きつけた。たちまちそれは、象牙で出来た美しい橇に早変わりした。

「これに乗るのだ」

「え。」陳褘の目が丸くなった。もてなしに肉料理を出されたくらい困った。

「どうしたのか」

「い、いやです」陳褘は硬く言って後ずさりした「言ったじゃないですか、仙術の助けは借りません」

「仙術ではないのだ。これは、貴様の九度の転生が生み出した、この砂漠の突破術なのだ。生まれ変わり生き変わり、自分自身の屍に乗って、貴様は天竺に招かれるのだ」

「えっ」

「貴様は、自分自身の力でこの橇を創り出したのだ」

 孫悟空なら、上手いこといいやがると感心するだろう。

「わたしは、でも」

「インドは、おまえを招き入れることにしたのだよ」沙悟浄は笑った。

「え…? 」

 陳褘は驚きながら、彼がそう言った事の意味を悟った。

「は、はい! 」陳褘は美しい姿勢で礼拝した「オーム・ナ・バ・シヴァ・ヤー」

「巡礼に御報謝〈バクシーシ〉」沙悟浄は頷いた「さあ、乗られよ」

「はい! 」陳褘は戸惑いながら象牙の橇に乗り込んだ。ヤギの毛に似てそれでいて毛足の長い絨毯が、陳褘をやさしく受け止めた。白檀の香が敷かれ、涼しい風がやさしく頬を撫でた。

「た、たまにはいいか…」

「たまにはよいのだ。ゆくぞ」

 沙悟浄は橇の天蓋に飛び乗ると、それは優雅に、舵をとるための舞を舞った。

 強い向かい風を受けて、陳褘は一瞬泣き顔になる。


 かがやく象牙の橇が、ゴビ砂漠の砂丘を、颯爽と走り抜けていった。遠く天山山脈に沈む夕陽の残光を受けながら、ひたすら、西へ、西へ──


 三. 斉天大聖孫悟空と九天牛頭大魔王の序 了


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