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猿と牛  作者: 荒屋敷玄太郎
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二.アテナイのテセウスとミノタウロスの序

 二. アテナイのテセウスとミノタウロスの序


 埃の交じった強烈な熱風を、まともに受けた。

 呼吸をすれば喉が灼け、目をあけていれば熱砂につぶされる。布を厚く巻いた腕を小手にかざして、テセウスは熱いつむじ風を遣り過すと、後ろに続く少年少女たちをふりかえった。

「おいっ、皆大丈夫か? 」

 後ろからは、ふええん、と頼りない泣き声が返ってくる。痛いよう、おうちへ帰りたいよう、などという声も聞こえる。

 無理もない、彼ら十四人の生贄は、ミノス王の条件どおり『月のしるしを未だ見ぬ乙女、精通を迎えぬ男児』──いとけない子供に過ぎないのだから。

「まったく。前もこんな風が吹きましたぞ」

 テセウスの傍で、黒い外套に身を包んで難を逃れたのであろう、そう言ったのは占星術師のシナイスだ。

「前も、だと。生贄の時期ということか」テセウスはぎろりとシナイスをにらんだ「子供が恐がるから言うなといったぞ」

 シナイスは呆れたことにヘラヘラと笑った。

「あぁ、まったくこの分じゃミノタウロスに喰われるより先にシロッコの熱風でこちらが全滅してしまいますな」

「ばか野郎! 」

 テセウスはシナイスの背中を力任せにどやしつけると、後ろで泣いている子供たちの方へと向かった。

「いてて、死んじゃう。死んじゃう」

 シナイスは尚もヘラヘラしながら、肩を鳴らした。武人テセウスの平手を受けてこれだ、案外タフなのかもしれない。

 遠くで、風がごうっとうなった。


 地中海に浮かぶオリーブ色の宝石、クレタ島。

 その島の迷宮には、牛頭の剛力の魔人、ミノタウロスが封じられている。

 異常な芸術家にして大発明家、天才ダイダロスが、実にその半生を賭して構築したこの大迷宮は、中央地下の『書庫』を最終地点として、今なお構築が続けられているといわれる。

 ダイダロスはこう考えた。広い建築物はスペースを有効に活用すれば迷いやすくなる、いったい迷うとはどういう理屈から派生するのか?

 ダイダロスの着想は、できるだけ迷いやすい建築物を作るというものだった。

 彼は牛と人間を交わらせる為、牛のぬいぐるみにミノス王が入る性具コスプレのはしりであろうかを考案し、海鳥のように空を舞うため鳥の羽根を蝋で接着した飛行器具を開発した男である。その奇想、その才気が魔人ミノタウロスを封印する巨大な迷宮を造らしめた。

 ミノタウロスを書庫におびき寄せた。彼が貪るように知の洪水を受けている間に、それを囲むように初期の迷宮を作り上げて以来十八年、ダイダロスは迷宮に増築を重ね、自らもその構造が一切の不明であるものと成り果てた。しかも設計途上である。

 ミノタウロスを忌まわしいものとして恐れたゆえの、取り憑かれたような執着だったのだろう。

 そもそもが、ミノタウロスという魔人を産み出す因になったのは、先ほど触れた「牛のかぶり物」が原因ではないかと囁かれている。すなわち、ミノタウロスの母親はミノス王の王妃、パシパエなのであった。

 ダイダロスが牛ののコスプレもどきを製作したのは、ミノス王が、『牛』にしか愛欲を示せなくなった王妃との愛の営みを取り戻すためである。

 だが、ここに、「くだん」が産まれたのだ。

 クレタ王ミノスは、この牛頭の嬰児をこそ自らの息子であると疑わず、大切に育てさせた。

 年を重ねるにつれミノタウロスは手に負えぬほど凶暴となった。先天の剛力にして残忍極まりなく、ミノス王の意に背いてミノタウロスに抵抗したものは、ミノタウロスの手傷がみるみる塞がるのを見てから残酷な手段で殺害された。

 ミノス王は寵愛から、ミノタウロスを軟禁することにした。古今東西の書物を集めた王室書庫を利用して、本を読み耽るすきにダイダロスに命じて迷宮に改装した。

 そしてミノス王は、ミノタウロスを永らえさせるため、そして制服地アテナイの服従を確認するため、アテナイから『月のしるしを未だ見ぬ乙女、精通を迎えぬ男児』の生贄を強要しこれをミノタウロスに捧げた。

 その数は九年おきに十四人。それは名目上占星術で選ばれ、これまでに二度、子供達が送り込まれた。

 すなわちテセウスが志願した今回は、第三次派遣隊となる。

 テセウスは、ギリシャに名高い闘神ヘラクレスに並び称されるアテナイの英雄である。

 彼は十六歳のときから、アテナイの王族の身を証すため、遍歴の旅をはじめた。いわゆる武者修行である。

 彼の戦績には枚挙にいとまがない。有名な武芸譚としては、エピダウロス市の棍術つかいペリペテス、コリントス地峡を寝ぐらとする盗賊シニス、卑劣にして残忍なる海賊スケイロン、そして拳闘〈パンクラチオン〉の野試合の達人ケークオン、いずれも剛力で知られる戦士であったが、テセウスはそれらの相手の「殺し技」を逆手にとって、その形で倒したといわれるから、天才的な武術家であるだろう。

 武術家テセウスはミノタウロスという相手を、これまでの対戦相手とは次元の異なる怪物であると見積もった。

 剛力である。そして身の丈は8指肘〈クビット〉(約3,8メートル)というから、もはや大怪獣に等しい。ましてやテセウスは、上背はそんなに高くない。完全に体躯に圧倒される。

 しかも目撃談によれば、生半可な刀傷ならば見る間に治癒してしまうという。

 テセウスはクロミュオーンの峠で、これに匹敵する怪物を仕留めている。パイアという老女が使役する漆黒の魔の猪、スフィンクスと同じ血を分けた凶つ神である。

「この手の神獣はしぶとい。首だけでも喰らい付いてくる」

 テセウスは徒手空拳でこの相手とやりあうにはいささか不利と考えていた…。


 泣く子たちをあやし、宥めてすかして、テセウスとシナイスがミノタウロスの迷宮の門前にたどり着いたときには、太陽は中天を指していた。

「テセウスさまぁ」

「なんだ」

「帰りたいよう」

「ああ、安心せよ。泣くのではないぞ。この俺がミノタウロスを倒しお前たちをアテナイへ連れて帰ると約束する。われらアテナイの子は『嘘つきのクレタ』とは違う。お前たちはその眼で、しかと見届けよ」

「クレタじんってうそつきなの? 」

「ふん、やつらが自分でそう言っているのだ」

「自分でうそつきって言ったら、それってほんとうじゃない? 」

「おい、シナイス。助けてくれ」

 子供に逆説を提示されて狼狽えるテセウスに、なおも、

「テセウスさまぁ」

「ああ、今度は何だ? 」

「おしっこ…。」

「その辺の茂みでしてこい。蛇に気をつけろ」

 ため息を押し殺してテセウスは言った。ひとり茂みにいくとほとんどの子供がめいめい茂みに入っていった。

「テセウス様」

 シナイスが苦笑して声をかけると、テセウスはぎろりと見返し、

「お前も小用か。茂みで済ませてまいれ。蛇に気をつけろ」

 そうではありません、とシナイスは苦笑した。

「まったく、泣きたくなりますなあ」

「泣きたくなるのは俺だ」

 テセウスは、子供が聞いていないことを確認しながら、やっと長いため息をついた。

「何が悲しくてアテナイ最強の拳闘士たるこの俺が泣く子の守りをせねばならん」

「アテナイで最もすぐれた占星術師もおりますぞ」

「お前の守りがいちばん厄介だ」

「おっとっと。テセウス様もお手厳しい」

 シナイスはおどけた調子で両手をひろげた。

 テセウスはもう一度、存分にため息をついた。

「シナイスよ。お前は占星術で生贄を選定するにあたり、自分自身をも指定した。俺は感嘆したし、お前がクレタの手先であることを疑ったことを詫びた。だがこれは何の手柄でもなく、お前がただの間抜けであっただけのようだ」

「ご冗談を。未来ある少年少女を生贄に選び出したのは私の責任です。のうのうと生き延びるほど私は卑劣漢ではありませんぞ」

 と、のうのうと言う。

「うむ」テセウスは真顔で頷いた「実のところお前には感謝しているのだ。俺はこの通り、子供の世話は大の苦手でな。狡賢い盗賊や屈強の拳闘士の相手のほうがずっとやり良い。お前がこうして子供をあやし、俺まで煙に巻いて勇気付けてくれる。真の賢者だ」

「およしください」

「いや感謝する。いつかは言っておきたかったことだ」

「ならば聞かなかったことにします。感謝は生きて帰ってから聞きます」

 シナイスは言って、行く手を見やった。

 圧倒するような石の門。ひとつの丘を掘り抜いて作られた石造りの迷宮の門扉には、さん然と巨大な諸刃の斧〈ラビス〉の紋章が、曙光を跳ね返して輝いていた。

 クノッソスの迷宮の紋章である。

 この門扉は新しいもので、儀式のための即席造りだ。迷宮は未だに、同心円状に延長され続けている。

 テセウスもその門扉を感慨深げに眺めながら、

「いや。今だからこそいうのだ。生きて戻れぬやもしれぬからだ」

 シナイスは苦虫を噛み潰したような顔をしたが、ややあってにっと笑った。

「テセウス様、昨晩はお楽しみでございましたな」

 テセウスはみるみる、耳まで紅潮した。

「あっ。ばかな。きさまっ」


 その日、つまり昨日、アリアドネは憂鬱であった。

 また、ミノタウロスの生贄の時期がやってきたのだ。

 心から消し去っていた、その存在を、再び思い出させる。

 くだんは生まれたあと隔離されて過ごすともいわれる。

 離れのくだん──迷宮の怪物。

 兄、ミノタウロスの存在を。

 アリアドネはミノス王の娘である。つまりミノタウロスの妹にあたる、クレタの姫君だ。

 ミノタウロスとは似ても似つかぬ、見目麗しい乙女であった。その美しさゆえに、玻璃細工のように儚くみえた。

 アリアドネは宮殿の生活に嫌気がさしていた。

 それは両親が互いに牛の被り物姿で交わっているのを目撃してしまったトラウマだ。

 その兄は、幼いころにみた、恐ろしい化物ミノタウロス。しかもそれは父親にとっては大切な王位継承者なのだ。

 それが、アリアドネにとって『疎外感』をもたらした。

 自分はなぜくだんとして生まれなかったのか?

 自分がくだんであったなら、父親は自分を娘と確信したかもしれない。

 自分は異端児なのだ。

 この考えが正しいと思いそうになってしまう。おお、この一族は呪われている。だから自分までおかしくなってしまっているのだ。

 アリアドネははらはらと泣いた。

 また、アテナイから十四人の生贄がやってくる。ミノタウロスは、牛頭鬼のように、その幼い子供たちを引き裂いて食べてしまうのだ。

 それを思い起こしたアリアドネは、窓際の私室で、手慰みに撚っていた麻糸をおいて、両腕で顔を覆った。

 ミノタウロスに加担している以上、自分たちは同罪だ。それどころか、子供たちの肉を喰らっているのは、同じ血が流れている兄なのだ。

 ここを出て行きたい。それが叶わないなら、いっそ死んでしまいたい。

 アリアドネはやがて、サファイアで飾られた小箱をウットリと手にした。

 ──このとき、テセウスは王宮の裏庭、ちょうどアリアドネの窓の外で基礎トレーニングをおこないながら、対ミノタウロスの作戦を練っていた。

 ミノタウロス。剛力。凶猛。生命力。多少の傷ならすぐに塞がる。

 どうすれば勝てる。どうすれば仕留めることができるか。

 ──速攻しかないか。懐に飛び込むか。

 ──しかし懐に飛び込んだとてどうする。拳撃などどれほどの効果があるか。が、刃物の傷は治癒するという。あっという間に。それに生贄の持ち物は検閲される。持ち込めるのは暗器(隠し武器)の類になるだろう。

 テセウスは対ミノタウロス戦の戦略に行きづまり、焦燥していた。

 と、このときだ。

 ぴかり、と、一閃する光芒が視界の隅を射た。

 地中海の陽気な陽射しを照り返す刃が、どこからかテセウスの瞳を射たのであった。

 刀身が目に入った。鎌と短剣を掛け合わせたような独特の形状のその刃物は、一目で業物とみてとれた。

「神殺の刃〈ハールペー〉──⁉︎ 」

 あわや、テセウスは、サファイアの飾り箱から取り出されたハールペーを、肘に浮いた血管に宛てがった、アリアドネのすがたを目撃する。

「待てッ! 」

 テセウスのの敏捷な体がとんだ。

 間一髪、アリアドネの繊手は、頑丈な手錠のようなテセウスのこぶしに掴まれていた。

「貴方、テセウス、アテナイの…⁉︎ 」

「やめないか」

 アリアドネの手から短刀が滑り落ちた。それだけで、すとんと床に刃が立った。

 テセウスの目にくるいはない、まさしく銘刀だ。

 神殺の刃ハールペーは、ギリシャ・ローマ神話において伝説とされた短剣である。鍛冶の神ヘーパイトスが鍛えたその最強の短剣は、古くは時空神クロノスが天空神ウラヌスを去勢して以来、天界の伝達を果たす伝言者ヘルメスが好んで身に帯びる銘器なのだ。

 ヘルメスが百目巨人アルゴスの寝首を掻いたのもこのハールペーである。

 そして天界きってのトリックスター・ヘルメス由来の武器は気まぐれに、歴史の端々で姿をあらわす。ペルセウスのメドゥーサ討伐しかり。そしてこのときもそうであった。

 何ということか…! これぞヘルメスの悪戯か…?

 これにあるは降魔の剣、祓えの禍神、まさしく鬼神暗殺の武器ではないか!

 鈍い刃の輝きに目を奪われたテセウスは、しかしその視線を引き剥がして、しおれた花のようになったアリアドネをみた。

 テセウスは息を呑んだ。

 ──なんと美しい。

「なぜ、お止めになるのです。はなしなさい」

 凛と言ったアリアドネも、テセウスの顔をみつめて息を呑んだ。

『このひとが私を助けにきてくれたんだわ』

「こんな物騒な刃物は貴方には似合わない」

 口下手なテセウスさえそんなことを口走った。

 諦めたようにアリアドネは力を抜いた。

「放っておいて。死なせてください」

「いかん」

 テセウスはアリアドネの手首を握ったままいった。

「ミノタウロスと同じ血をわけて、この城にいるのはもうイヤなのです。私はあの怪物と同じなのです」

「そうではない。あなたは清らかな心を持っている」

 朴訥な口調でいうテセウスに、アリアドネはハッと目を向けた。

 テセウスにとってはアリアドネなどどうでもよいのだ。

 いま彼女がかざしたハールペーのほうが重要なのだ。この武器ならば、ミノタウロスの急所を抉ることができる。懐に飛び込んでハールペーでみぞおちを抉る。あとは他の野生動物を仕留めるときの要領で、内臓の諸器官に損傷を与えるのだ。

 思わず、言った。

「勝てるのだ、この武器ならば」

「えっ? 」

「この刃ならばミノタウロスを討つことができるのだ」

 熱っぽい瞳で言うテセウスを、アリアドネは呆気にとられて見た。

「あなたはミノタウロスを倒すつもりなの? 」

「むろんだ。武人テセウス、ミノタウロスなどに遅れはとらん」

「これはお父さまが、アテナイから奪った貢献品…。あなたに返すのが道理かもしれません。しかし、この短剣をあなたに渡したことはすぐさま父に知れましょう。あなたがミノタウロスを討てば、だからこそ、私は王の怒りを買うでしょう」

「うむ…」

 ミノス王はアテナイを縛る恐怖の枷としてミノタウロスを利用している。単にミノタウロスを斃すことでは治まらない政治的問題にからんでいるのだ。

「もうひとつ問題があります。よしんばミノタウロスを斃したとして、あの迷宮を出ることができまして? 」

「う、うむ…」

「私は迷宮の設計技師ダイダロスの弱みを握りました。すなわち、ミノタウロスの出生の秘密です。そして、聞き出したのです、あの迷宮から生きて出る方法を」

「それはまことか⁉︎ 」

 思わずテセウスはアリアドネの手首を握る掌に力を込めた。アリアドネは悲鳴をあげた。

「や、すまぬ」

「女の子は、もっと丁重に扱わないといけませんわ、殿方」

 テセウスが握力を緩めたので、アリアドネはするりと手を抜いた。

 アリアドネの瞳には、打算の光がやどっていたが、武人テセウスはそれを見逃した。

 その打算とは「この人は王子様だからおかしな両親から連れて逃げてもらおう」という、幼くも罪のないものであった。しかし、それだけにアリアドネは必死であった。

「短剣は渡します。そして、迷宮を脱出する秘密もあなたに授けましょう」

 そのかわり、とアリアドネは言った。

「私を妻としなさい。そしてこの島から連れて逃げてください」

 繰り返すが、テセウスにとってはアリアドネの事情はどうでもよかった。ハールペーに、迷宮の脱出方法、これがあればミノタウロスを討ち、アテナイに吉報をもたらすことができる。クレタの圧政に大打撃を与えることができるのだ。

「よい。わかった。汝を妻としよう。この島から連れて去ろう」

「約束しましたね」

「約束した。クレタ人とは違う」

「ならば、今すぐ私を妻としなさい」

「え」

 テセウスの眼が白黒となった。

 今度はテセウスの腕が、柔らかく熱い絹に捉われたようになった。屈強のテセウスがなぜか抵抗できなかった。

 ふたりはもんどりうつように、アリアドネの天蓋寝台にもつれ込んだ。──


「カマをかけただけですよ、テセウス様。それほどビックリされるとは正直なお人だ」

「ハールペーのためだ。仕方ないのだ」

「朝まで帰りませんでしたな」

「シナイス、一言多いと心得よ」

 テセウスが短剣を懐の奥で構えたのでさすがのシナイスも口を閉ざした。

 この英雄は照れているのだ。

「と、ところでテセウス様、その迷宮からの脱出方法とは? なんでも二十年近く、ミノタウロスが脱出不可能な迷宮なのでしょう? 私たちも二十年閉じ込められたら食うに困りますな」

「これを使うのだそうだ」

 テセウスは、あの日アリアドネが撚っていた麻糸の球を懐から取り出した。

「すなわち、入り口の門扉に糸の片割れを結わえる。糸が切れぬように手繰りながら進む。ミノタウロスと遭遇し、これを斃す。あとは糸を手繰って戻るのだ」

「そのようなことでミノタウロスが幾星霜出られないものですかね? 」

「迷宮というものの構造は、迷うという出来事を象徴し特化したものだ。迷いとは何か、という匠の意匠なのだ。この場合、その前提条件をくつがえす糸玉を使えば、迷宮は迷宮ではなくなる、そうダイダロスは言ったという」

 いいながらどうも自信が持てない。というよりよくわからない。武人テセウスは、謎掛けは苦手なのだ。

「ところで…」シナイスが子供たちを振り返って言った「ご武人の得意分野が現れましたぞ」

「なに⁉︎ 」

 三々五々と戻ってくる子供たちが、足を停めていた。

 迷宮の門前に、大人の話題を語らうテセウスたちと、戻ってくる子供たちを分断するように、五人の野盗風態の男たちが現れたのだ。まさしく得意分野だ。

「なんだ貴様らは」テセウスは舌なめずりした「ミノタウロスの供物をちゃっかり横取りか」

「そのとおり、人買いだ。だがお前もこの子供たちを生贄に、化物に喰わせに来たんだ、そうだろう? 」

 テセウスはざれ言に耳を貸さなかった。五人と伏兵。できるだけ素早く。

「アテナイの子よ! 座って眼を閉じて十数えるが良い! 」

 テセウスはそう叫ぶや、最初にしゃべった男めがけて疾走した。

 いーち、と間延びしたふるえ声の終わりには、しゃべった男は肋骨と顎を蹴り折られてすっ転がっていた。

 テセウスはすぐに右側の二人を注視した。なぜならば、彼らはより子供たちに近かったからである。

 二人はとっさに子供の方を向いた。テセウスの鍛え抜かれた体がとんだ。身体の軸を二回転させて、旋風のようなすさまじい回し蹴りを放った。

 瞬く間に三人が顔面を陥没させて横たわった。

「にーい」

 変声期前のソプラノがひびく。

 残る二人はだんびらを引き抜いていた。人買いらしく、海戦用の半月刀だ。

 テセウスは恐れず突き進んだ。子供たちから狙いがそれたのは幸いである。

「さーん」

 テセウスは間合いを一気に詰めた。当然二人とも斬りつけてくるが、テセウスは低姿勢で懐に飛び込み、腰をがぶってタックルした。倒れこみざま、頭をクローして固い地面に叩きつける。

「よーん」

 テセウスは最後の一人に半月刀を突きつけられていた。立ち直った姿勢から振り返ってみればその体勢だった。

「ごー」

 テセウスの両脚が交互に跳ねあげられた。半月刀で突かれるよりも早く足の甲が刀をもつ二の腕を、もう一方の足が男の顎をとらえた。

「ろーく」

 子供たちの処に到達していたシナイスまで眼をつぶって数えていた。

 このバカ、と言いかけて、テセウスは全身に冷水を被ったように青ざめた。

 茂みの中からもうひとり短剣を持って、眼をつぶった子供たちに忍び寄っている!

「シナイス! ばか者が! 」

 テセウスが叫ぶや、シナイスは跳ね上がるように立ち、伏兵の男に飛び付いた!

「本格的バカめ! 」

 テセウスは疾駆した。男とシナイスはくんずほぐれつ、押し倒されたら短剣で刺される、シナイスは大慌てに慌てながら、男の短剣を持った手を必死で抑え込もうとしている。

 その顔を、短剣とは逆の腕が薙いだ。

 ぐらり、とシナイスの上体が傾ぐ。

 そこに飛鳥のようにテセウスが飛び込み、男の鳩尾に渾身の膝打ちを叩き込んだ。すさまじい激突音がした。

「しーち」

 伏兵の男は最も小柄だったので、滞空時間もゆっくりと、かなり離れた場所に落ちた。

「はーち」

「シナイス! 大丈夫か⁉︎ 」

 テセウスは倒れたシナイスを覗きこんだ。

「い、痛い。死んではいないです」

「よくやった、でかしたぞ」

 テセウスはホッとして、シナイスを親愛を込めて抱きしめた。

「いてて、死にます、死にます」

「じゅーう」

「アテナイの子らよ、もういいぞ」

 周囲を見渡してやっと、テセウスは笑みをこぼした。

「お前は素人にしちゃ判断力が正確だ。鍛えればよい闘技士になれる」

「それだけは本当にご勘弁を」


 迷路と迷宮の根本的な違いは、その構造にあるという。

 迷路には袋小路あり分岐あり、目標地点に到達するために全ての道を通過する必要はない。

 迷宮は違う。迷宮とはその面積の中を最長の一筆書きの道を構築するものだ。

 例えば、渦巻きのような同心円状の道を、ぐるぐると中央を目指す形だ。

 このクノッソスの迷宮は、諸刃の斧の紋章の形が示す通り、「両斧型順路」迷宮である。

 斧の握り手部分を迷宮の入り口として、斧の刃を右左に塗りつぶして行く形状の順路なのだ。

 両斧…それは、芭蕉扇の形とも言えるのではないか?

 中央部、すなわち書庫に幽閉されているミノタウロスが、闇雲に脱出を試みても、延々と続く折り返しのカーブの連続に、不撓不屈の精神が敗れ去り、いつしか中央に向かう順路を取っていることになる。

 ダイダロスは「迷う」とはどういう心理か、意図的に迷いを誘発する建築とは如何なるものか、その回答として「見当識障害」を破壊する構造を構築したのだ。

 ゴールに着くために最長順路を通過する必要のある建造物。同じ順路の机上の迷路ならばたやすく踏破できるこのルートこそ、人の心を「迷い」という心理状態に陥れるのだ。


 テセウスは一行の先頭をゆき、麻の撚り糸を手繰り出しながら進み続けた。

 このように隊列がきっちりと決まっていれば、単純な前後の取り違えをせずにすむ。

 そして、今回に限りは「帰路」の希望につながる糸でもある。

 しかしテセウスの後ろに続く子供たちは不安と緊張に疲弊し、なかば催眠状態でテセウスのあとに続く。

 今までの生贄たちもこうだったのだろう。ミノタウロスを封じるために造られた『迷い』の仕掛けは、ミノタウロスへの恐れや、死の恐怖を麻痺させ、ただ生贄をその祭壇へ黙々と進ませる自我の喪失をもたらしていた。

 ──これはいかん。

 テセウスはこの子供たちの催眠状態を憂慮していた。

 さっきの盗賊たちとの戦いのときには、とっさに目を伏せさせたが、この子供たちに希望を与えるためには、彼らの目の前でミノタウロスを斃して見せる必要があるだろう。

「シナイス、ひと休みするぞ」

 これも緊張の面持ちで最後尾をゆくシナイスが、ほっとしたように、望むところです、と、子供たちを呼んで止めた。

 テセウスはあらためて子供たちの数を数えると、いつも持ち歩いている頑丈なずだ袋を開けた。

 中には清潔なヤギ革の袋が入っていて、テセウスはそれを取り出した。

「それは? 」

「アリアドネに預かったものだ。ミノタウロスとの戦いの前に開けよ、という話だった」

「いい匂いがしますな」

 シナイスは唾を飲み込んだ。

 ヤギ革の袋の中には、ぎっしりと、小麦の麩を焼いた麵麭に、オリーブ油で炙り焼きにした鯖を挟んだ携行食糧が詰まっていた。

「弁当だ」

 子供たちも鼻をひくつかせて弁当の回りに集まった。

 包みは人数分あって、アリアドネの心尽くしが見て取れた。しかもそのうちひとつはとくにテセウスさまへ、と書かれた袋に包まれていて、それには特別大きなピタ・サンドがふたつに月桂樹の葉が添えられていた。アテナイでは勝者へのトロフィーは月桂冠、すなわちこれはアリアドネの必勝祈願なのであった。テセウスは微笑んでアリアドネを想った。

 食料をくばられた子供たちにさきがけてテセウスはピタをむさぼり食った。よく肥えた鯖の香ばしい油脂が喉に染みとおって行く。

「うまい」散文的にテセウスは唸った「こんなに旨い料理ははじめて喰った」

 釣られて子供たちも食べはじめ、そして歓声を挙げる。

 いちはやくピタを平らげたシナイスがじっとテセウスを見つめ、

「テセウスさまは二つですな」と見ればわかることを言った。

「欲しいのか。やらんぞ」ふっとテセウスは笑った。

 こんな時に笑えるとは。俺は仲間に恵まれた。

 うまい弁当に、子供たちもいっとき遊び心を取り戻した。

 自分は、よくよく子供たちを喜ばせるのに向いていない。そう、アリアドネはこんなときに子供たちに笑顔を与えることができるのだ、

 アリアドネ、生きて帰れば汝を妻としよう。そして、俺たちの子供と皆でこのようにピクニックをしよう。

 テセウスは朴訥に、平和が訪れることを考えた。

 自分のこれまでの来し方は戦いの連続だった。自分がアテナイの王位継承者として帰還するための通過儀礼であったといえ、テセウスは死闘を勝ち抜けてここに在るのだ。

 ミノタウロスを倒したら、もう戦いは終わりにしよう。妻と子どもを持って、アテナイの国を繁栄させて行こう。

「テセウスさま」

 唐突に声をかけられて、テセウスははっとふりかえった。

「シナイス、どうした」

「正味のところの、ご勝算をお聞きしたいのです」

 子供たちに悟られないように小声である。テセウスは難しい顔をした。

「ミノタウロス。手ごわい相手だ。攻撃のリーチも威力も相当なものと推察される。こちらの勝機は、攻撃を掻い潜って懐に飛び込み、そっ首を掻くその一瞬だけだ。格闘戦というより急襲、暗殺になるだろう」

 テセウスは松明に油布を巻き足しながら、とつとつと語った。シナイスは口を挟まず頷いた。

「シナイス、俺が急襲に失敗したと思ったら子供たちを連れて退却しろ。糸を巻き取るのを忘れるな。俺はお前たちが脱出するまでかじりついても奴を留めよう」

「勝つ、と言ってくださいよ」シナイスはその指示に目を丸くして言った。

 テセウスはシナイスから視線を外し、

「…むろん、負けるつもりなどない」

 そう言ったが、それは自分に言い聞かせているようにシナイスには感じられた。

 そして、占星術師シナイスは、昨夜見た星を思い出した。

 これまでに見たこともない、重く大きな『死の星』が、自分たちの頭上を覆っていたことを。


 庭園…。

 迷宮の中心には、吹き抜けの庭園があった。いや、庭園というには正確ではない。周囲を壁に取り囲まれて、隔離された一角は、数畝の「薬草」園であった。

 ナツメ、キニーネ、ジギタリス、ヤマノイモ…。

「これはチドメグサだ」

「管理の難しいニオイスミレまであります。まさかミノタウロスがこんなものの栽培を」

 ミノタウロスの気配をうかがうことも忘れてはいない。しかし多くの二人の知らない植物群は目を引くに十分だった。地中海沿岸では見かけることのできないものが数多くあった。

「何故こんなところに」

「書庫とは本来、資料室なのです。脇に植物園があることに不思議はありません」

「余計にわからんな。ミノタウロスが書庫や庭園を管理していると? 」

 首をひねったのはもうひとつ、ミノタウロスの気配が感じられないことだ。

 テセウスは油断なく辺りを見回して、庭園を観察して回った。やがてその最奥部の壁に、地下につづく階段が暗く口を開けているのをみつけた。

 階段は今までの道順より広く、大理石による美しい造りとなっていた。

 巨体のミノタウロスが大手を振って通ることのできる広さだ。

「書庫へと続く階段ですね」

「ここからが本番だ」テセウスはにっと唇をほころばせた。


 下りの階段は長く、深かった。鍾乳洞でもないのに、何処ともなく水のしたたり落ちる音が反響している。

「水琴窟か。噂には聞いたことがあるが、雅なものだな」

「書庫の本の技術を片端から実験しているのでしょう」

 見れば見るほどイメージと違ってくる。

 テセウスはこれまで、ミノタウロスを『迷宮に閉じ込められた蛮獣』と心のどこかで決めつけていた。しかし真相はそうではないのでは?

 テセウスはこれまで、すべての戦いで相手の罠を見越して逆手に取ってきた男である。

 この時も、彼は罠の存在を感知したかもしれない。ただ、その罠は、すでにテセウスの手に負える代物ではなかった。


 建物でいえば地下で二階に到達した。そこは小さな待合室〈エントランスホール〉になっていて、奥に両開きの扉があった。

 テセウスは、人のものとは異なる、野獣の臭気を感覚した。

 ミノタウロスはこの中にいる!

 もはや迷っている場合ではない。ミノタウロスがどのような相手であろうと暗殺を遂行し、アテナイに帰らねばならない。

 テセウスは、短刀を抜いて懐に構えた。その上に大きなマントを羽織る。武器とその太刀筋を見切られない、暗殺者の構えだ。

『見届けよ、アテナイの子供たち』

 テセウスは目だけで言った。シナイスは強く頷いた。


 ふ、と微笑ってテセウスは、自ら可能な最速の動きで書庫の扉を開け放ち、中に躍り込んだ。

 室内に入って愕然とした。

 満天の星空が広がっていた。

 地平線に至るまでくっきりと見える星空だ。

 空気がよどんでいる。これは偽りの星空だ、とテセウスは直観した。

 瞬く星のもと、講堂のような造りの室内が明らかになった。

 周囲を席が取りかこみ、スピーチ席に筆記板を背にミノタウロスの巨体がある。

 その怒りをたたえた視線がテセウスの眼を射抜く。

「遅かったぞ。早く席に着け」地鳴りのように轟く音声が言った。

 テセウスは負けずせせら笑った。

「何の席だ。きさまの食卓か」

「テセウスよ、持っているのはハールペーだな。俺はそれで一回刺されたら死ぬぞ」

「なんだと。なぜ知っている」

「なぜかな。まあ座れ。お前はその気になればいつでもわしを殺せる」

 ミノタウロスが悠然と言った。

 身の丈は情報通り十指肘(3メートル)、ガッチリとした巨軀には白く美しい毛並みの牛の頭が、胸から斜め上に突き出している。その眼には、深い知性が見て取れた。

 講壇の脇には両派の斧が立てかけられていて、何れにせよ奇襲はもはや不可能であった。

 それに相手は『座れ』と言っている。

 テセウスはこれまで、卑劣な悪党とやり合い過ぎていた。それゆえ正々堂々と出る相手に奇襲をかけることに嫌悪感を覚えた。

「言い分くらいは聞いてやろう」

 相手の出方を見るのが、テセウスのこれまでの勝ち方だった。罠が仕掛けてあるのなら、それを逆用すれば倒せる。

「これは…天球宮〈プラネタリウム〉ですね」

 言われてギクリと振り返ると、大バカ者のシナイスが、子供たちを引き連れてノコノコ室内に入って来ていた。

「誰が来いと言った! 」

「もうやっつけたものだと思って…」

 ああ、こいつ『見届け』に来たんだ。テセウスは歯を噛みしめた。

「見てわからんのか。あれがミノタウロスだ。どうやら、奴には言い分があるらしい」

「い、言い分ですか? 」

「子供たちを座らせるんだ」

 満天の星空のもと、講義室に人が揃った。

「貴様らは何度吹き飛ばされても戻ってくるから、今回は趣向を変えてみた。気に召したか? 」

 テセウスはミノタウロスとの距離を慎重に測りながら、たけの高い椅子を探してすわった。

「何のことだかわからんぞ。うわ言を聞きに来たわけではないのだ」

「まずは名乗ろう。我はクレタ王ミノスが一子アステリオスである」

 ミノタウロスとは『ミノス王の牛』という意味であるから、彼が幼名である本名を名乗るのが正当である。なるほど、こいつの名はアステリオスというのか。

「おれはアテナイの君主アイゲウスの子、テセウスである」

 ミノタウロスは頷いてシナイスに視線をうつした。

「貴様が陳褘〈シンイ〉…いや、シナイスだな」

「私の名を⁉︎ 」

「そうか、貴様はここでは、予言者のはしくれであったな。自分自身を死の祭壇に捧げるとは、あっぱれ公正無私な男ではないか」

「いやあ…」苦笑いして後頭部に手を当てる。

 シナイスがヘラヘラしている間に、テセウスはその発言の意を悟った。

「それをなぜ知っている⁉︎ 」

「それは」どん、と講台を拳でたたいた「我はくだんであるからだ」

 ミノタウロス──アステリオスはくだん、と言った。

「くだん、だと? 」

 聞きなれない、遠い中アジアの言葉のような響きであった。

 言葉そのものに力があるのなら、くだん、という響きには、重苦しい怨念のようなものを感じるはずだ。

 その禍々しい言葉を、シナイスはおそるおそる口にした。

「くだん…、とは何ですか? 」

「くだんとは、将来を決定付ける存在だ」

「将来を決定付ける、とは何のことなのだ」

「シナイスのような、予言者という者が居るな。あれは将来を見透かす存在だ。乱暴に比較すれば、くだんは言ったことがそのまま将来となる存在である」

 言ったことが現実になる、ということか。

 アステリオスの大言に、テセウスはかえって気分を切り替えることができた。

 つまり、こいつの言ったことは本当になるのだ。それがルールなら逆用すれば倒せるに違いない。

 テセウスはその着想を補完するためにさらに質問をした。

「貴様の言ったことはおしなべて本当になるということか? おれは死ぬと言えばそれは的中するのか? 」

「その必要はないのだ。くだんの予言のあと、くだんは死ぬのだから」

「何だと」

「くだんは一度だけ予言をする。そして死ぬ。それはこうも言えるのではないか、予言の的中にはくだんの死が必須なのだ…と」

 テセウスはため息をついた。どうやら着想と違ってきそうだ。

「つまりアステリオス、お前は予言をしたことがないことになるな」

「我は予言をしたことがない」アステリオスは頷いた「言えば本当になってしまうが、自分は死ぬ。割に合わないではないか」

「公正無私ですな」

 シナイスが無神経に言って、怪物と英雄に同時に睨まれ、縮こまった。

 その沈黙の間に、アステリオスは講台に取り付けられたハンドルをゆっくりと回した。

 テセウスがびくりと立ち上がろうとすると、アステリオスは片手で制した。

「罠ではない。星を見ていろ」

 ごろり、ごろりと壁ごしに大きな重いものが回転する音がした。だがその音は水琴窟の音波反響に消えてしまう程度の音となっていた。

「星が動いている…⁉︎ 」

「このハンドルを一回転させると一日ぶん星を動かすことができる」

 ミノス島からシチリア島に向かう海路の中途にアンティキティラ島という小島がある。その近海で発見された機械が、投射式ではなく連動式のプラネタリウム装置であった。ごく原始的な、天体計測コンピュータである。星をひとつひとつ、歯車で動かすもので、ギア比がそのまま天体運行のプログラムなのだ。

 アステリオスはこれを自分で作り上げたのだろうか?

「これが我の生まれた日の天体だ」アステリオスはハンドルを止めた「日蝕だ。そして72年おきに観測可能域に入る彗星が、同時に現れている」

「羅睺と計都が同時に…⁉︎ 」

 シナイスが呻くようにいった。

「知っているのか、シナイス」

「占星術では日月の触を羅睺、彗星を計都と言います。どちらも災厄の予兆です。これが同時に現れる状態は、他の星の動向を打ち消してすべて大凶となります」

「不幸の星のもと、というわけだ」アステリオスは自嘲した「我は生まれたとき、自分が予言をすれば的中すると知っていた。そして言えば死ぬとも分かった。生命の直感というやつだ。八卦見の八卦知らず、予言者は自分という不確定要素を含んだ予知は不可能だというが、なんの、自分の死を予見できぬ動物はおらん」

 テセウスは、アステリオスの牛の黒々とした瞳が、潤んでいるのを見た。

「それで、予言を取りやめたのか」

「死の恐怖を覚えたのだ。この星のもとに生まれるくだんが皆そうであるとは限らないが、中にはこのように怖気づいてしまう者もいただろう。我はその一人だ」

 くだん自身がそれを分析するというのも珍しいことではないか。

「我は口を開くことを恐れた。予言をしないことによって『種』の本分を果たさない自分がやるせなかった。しかし我が父上、母上は我を暖かく、優しく見守ってくれた。妹たちがうらやむほどにだ。テセウス、アリアドネと会ったな? 」

 アステリオスに、不意にアリアドネの話題を出されて、英雄は頬を赤らめた。

 アステリオスはそれで事情を悟ったようで、暗く俯いた。

「可哀想な娘だ。我が関わったばかりに」

「あれはおれが幸せにする」

 テセウスが胸を張っていうと、アステリオスは口を大きく開いた。

 腐ったような淀んだ瘴気がただよう。

 アステリオスの眼がドロリと死んだようににごる。

 異様な気配に、テセウスはさっと立ち上がった。

「待て」

 アステリオスは瘴気を呑み込み、あふれ出す何かを意思で制したらしく、先ほどの調子を取り戻した。

「いずれ話すことになる」

 こいつは、今予言をしようとしたに違いない。テセウスは座らなかった。隙なくハールペーを握りしめる。

「アリアドネに、何かあるというのか」

「我が幼年期はただ荒れ狂って過ごした記憶しかない」アステリオスは話をそらした「アリアドネはさぞ我を恐れたことであろう。だが我も苦しかった。なぜ生まれたのか。なぜ予言を吐くと死ぬのか。こんな生物が他にいるのだろうか? 我はある日から、この書庫に篭った。ここには古今東西の書物が豊富にある。船舶版といってな、航路で立ち寄る船の書籍一切合切を複写して書庫に入れているのだ。オイギュプトスはじめ小アジアや印度支那の、パピルス、竹簡、羊皮紙の多彩な文書を研究した。そのひとつがこれだ」

 どん、とすだれのようなものをアステリオスは講台に置いた。

 ささらの竹を糸でつないで巻物にしたもので、これは竹簡という中国の製本技術である。

 竹に書きつけた文章を文字どおり編纂したものだ。

「神仙記…という」

「読めん字だ」

「漢字だ。これは、東洋の、超人となった人間たちの話なのだ」

「シナイス、聞いたことがあるか」

「東洋の超人…仙術を使うドルイド僧のような者たちが居るという噂を聞いたことがあります」

「そう、仙人だ」アステリオスは頷いた「よく聞け。この宇宙は、自在天、時空の神または大黒天王〈マハーカーラ〉、インドでいうシヴァの神の舞によって表現されている具象である。彼の舞が宇(四方)と宙(空間)を作った。そして、神の『表現』のために作られたこの空間には、天と地が、地には水が、水には生が、生には知が生まれた。生が知を得たとき、猿は人となり、無知を覚り、知を得るよすがとなった。人間が死を厭い生の執着を掻き立てるのも、テセウスの神話が永劫にわたって語り継がれるのも、すべて『もっと知りたい』という知的好奇心のためだ。それは欲望のひとつなのだ。人はなぜ死ぬのか。そもそも生とはなにか。どうすれば生き長らえることができるのか。どうすれば老いず老けず死なないのか。それをテーマに、ミダス王のように錬金術を研究する者が生まれ、それは医術を生み、科学を派生させたが、その根底にあるのは、すべて、真理への渇望なのだ」

 アステリオスは黒板に蝋石で「真理への探究者、仙人」と書き込んだ。

 テセウスは頷いた。書いてくれればわかりやすい。

「神仙記は尸解、つまり死の定めから逃れることに成功した仙人たちについて記述している。我が注目したのは、神仙記において仙人の祖となった薬学神、神農だ」

 黒板に「神農」と書く。

「いわく不定形で、体が透けているため、陰の気が強いものを摂ると内臓が黒くなり、陽の気が強いものなら内臓が光るのが観察できる、これによって薬草を文字どおり草分けしたというが、明らかにこれは『試薬』の隠喩だ。我は神農についてさらに調べた。帝王世紀という経典によると、神農は、牛の頭に人間の体を持つとされる」

「まるであんたそのものじゃないか」シナイスが目を丸くする。

「あちこちにミノタウロスが発生しているということ、だろうか」

「ミノス王の牛〈ミノタウロス〉は我だけだ。あちこちに誕生しているのは、我を含め、すべてくだんなのだ」

「くだんとは、さっき言った災厄の予言を吐き死ぬあやかしのことだな」

「そうだ。だがあやかしも尸解すれば仙人となる。神農はくだんから為った仙人なのだ」

「くだんは予言を吐き、死ぬのではないのか」

「まさしくそうだ。件の如し。だが、予言をしなければ死にはしないのだ」

 アステリオスは深く笑う。

「予言せず尸解すれば予言をいくらでも吐ける。彼が仙人に恐れ敬われるはずだ」

「きさまも尸解とやらを極めたのか? 」

「我は尸解など到底叶わぬ。くだんから羽化登仙したものは後にも先にも神農だけである」

 ミノタウロスは死ぬ。貴重な情報だ。

「くだんとは、一体何者なのだ? なぜ災厄を予言する? なぜ死ぬ? 」

「くだんはこれまでも、この先も数限りなく発生する」アステリオスは重く言った「だが、この三皇の時代に極めつけのくだんが生まれたことには、訳がある。それはくだんが災厄を予言することの理由に等しい」

 最強のくだんが必要とされた理由=くだんの予言の理由、と黒板に書く。

「仙人と呼ばれた者たちは、彼らの研究や実験に使用するために、独特の仙術技法を凝らした器具を作り出した。それら技術の粋意を結集した神秘の道具群は、宝貝〈パオペイ〉と呼ばれている」

 黒板に、宝貝、と大書きする。

「パオペイ…」

「そう。名前を呼びそれに答えてしまった者を吸い込む瓢箪『紅ひさご』。念ずれば使用者の思いのままの長さや重さを持つ『如意棒』。ひと仰ぎすれば風を呼び、ふた仰ぎすれば雨を降らせる『芭蕉扇』」

 芭蕉扇、と板書する。

「芭蕉扇…バナナの葉のウチワですか? 」

 シナイスが目を見張っている。

「さよう。その形状をしている。この、芭蕉扇が曲者だったのだ」アステリオスは続けた。

「くせもの? 」

「『芭蕉扇』は、なぜ最小の動きから巨大な風を、気圧の変動を起こすことができるのか? それは、『芭蕉扇』は使用した空間を削り取ってしまう、まったくの虚無を生み出して、そこに空気を巻き込むことにより気圧を変動させているのだ」

「どういうことだ? 」

「うむ、テセウス。両の掌を固く合わせてみよ。そしてその掌を膨らませる。すると手の中に風が吸い込まれるのが感覚でわかるだろう」

 テセウスは実際にやってみた。そして、掌の中に空気が吸引されていく感覚は分かったが、それが雨や風を呼ぶというイメージは作れなかった。

「何もない空間にはたちどころに周囲の気体が流入する。大気圧の均一化現象だ。この『芭蕉扇』がひと仰ぎする間にある空間がすべて虚無とすれば、それを穴埋めするために地中海全ての大気が震えるだろう」

「そんな馬鹿な! 」

「それほどまでに厄介なのだ、真の虚無というのは」アステリオスは牛頭のかぶりを振った「じつに厄介なのは、芭蕉扇は風を起こし雨を招来する度に虚無を作っていることだ。すなわち芭蕉扇は、『在る』ものを『失くする』とどうなるか、自ずから反置提是アンチテーゼを負って生まれた機械〈マキナ〉だった。無くなった物はどこに行く? この命題は、じつに『一切の不増不減』(エネルギー不変の法則)という『真理』に真っ向から対立する」

「一切の不増不減…? 」

 シナイスは愕然とする。

 なぜ、自分には聞いたことのない『一切不増不減』という言葉が、懐かしく感じられるのか?

 自分はかつて、この言葉を求めて旅をしていたのではないか?

「それは真理なのか? 在るものは無くならない、無いものは現れない、ということか? 」

 テセウスは真理という言葉にさらに念を入れていった。

 真、善、美は一体にして至高。ギリシャ哲学の基本理念だ。

「そうだ。この宇宙の中にある物は形を変え熱量となり粒子となり波となって決して消え失せることはない。そのまた逆も真なり、この宇宙に何ら根拠のない波も粒子も熱量も物質もない。この真理には神々でさえ逆らえぬだろう」

 真理には何ものも逆らえない、と板書する。

 これまでの板書は、


 真理への探求者、仙人。

 仙人の開祖、神農=くだん。

 最強のくだんが必要とされた理由=くだんの予言の理由。

 宝貝。

 芭蕉扇。

 真理には何ものも逆らえない。


「芭蕉扇は『真理』に抵触する科学であった、ということですか」

「そうだ。芭蕉扇はその通過範囲にある物体を消してしまうのだ。いや、正確を期して言うなら」

 ──吹き飛ばす。

 と、板書する。

「宇宙には、われわれと同じ時間が流れているわけではない。例えば、光の速さは重力によって歪められ、波の大本である三すくみの力は時間という制約に取り残される。粒子は確率的にしか存在を証明できないのはそのためである。微々たるズレだが、五劫の擦り切れ、その蓄積で、歪みの反動の時空震というものが発生する。つまり足りなくなったり過剰になった『時間』を、他に回したり借りたりすることだ」

「するとどうなるというのだ」

「くだんがうまれるのだ」

「なんだと⁉︎ 」

「くだんとは時空のもつ自然修復機構なのだ。無いものが在ってしまったとき、それを消滅させるために出現するのがくだんなのだ。くだんは時空を観測し、それを修正する力そのものだ。くだんには死と引き換えに災厄を予言し、在ってはならないものを消し去る力が与えられる。多くの場合、消し去る対象は、人間だ」

「なぜ人間を殺さねばならない⁉︎ 」

 テセウスの叫びに、アステリオスは、いい質問だ、と人差し指を立てる。

「それは、人間は観測者であるからだ。観測者の存在は波を動かし、粒子を揺るがせ、物質そのものに影響を与える。時空震が起こっても観測者がいなければ修復は容易だが、観測者によって時空震の『観測』が行われてしまうと、真理が崩壊する。くだんが人から生まれるのは、観測者と同じ社会構造の中に現れる必要があるためだ。在ってはならぬ者が在る時、これを効率的に消し去って速やかに自分も消えるのだ」

「きさまはそのために生まれたのか! 」

「芭蕉扇はいわば時空震を任意に作り出すことのできる宝貝だった。だから神農という革命的な『くだん』が生まれることになったのだ」

 テセウスの叫びを、アステリオスは黙殺した。

 シナイスは考えて言った。

「あなたの言っていることには矛盾があります。あなたの役目も同じであるなら、あなたは今生きている。くだんは予言をすれば死ぬのでしょう? 」

「そうだ、くだんは災厄を予言し、対象となる観測者をすべて巻き込んで殺すことを確定したら死なねばならない」

 にやり、と、アステリオスはほくそ笑んだ。

「予言をする必要がなくなったからだ」

 ハンドルを回す。ごろり、と星が動いた。

「くだんは予言をしてから死ぬが、予言しなければ生きているあいだいくらでも予知をできる。予知を観測者に伝えなければよいのだ。我はここに精巧な天球宮を設計し、消し去る対象を捕捉したのだ。9年おきに14人。生け贄とは、時空震によって発生してしまった夾雑物で、すべて我が消し去るべき対象だった」

「多すぎるのではないか⁉︎ 時空震とやらはめったに起きないのではないか? 」

「誰かが芭蕉扇を使いすぎたのだ」アステリオスは溜息をついた。

「つまり私も、存在していてはならない者なのですか」

 震えながらシナイスが言った。

「シナイス。きさまも時空震に巻き込まれた、別の空間からのの観測者よ。あるいは、無限に時空震が起こり続けている空間から飛ばされてきた存在かもしれない。その子供たちもだ」

 アステリオスが沈痛な表情で言った。

 テセウスの眼が冷たく光った。その表情が欺瞞に満ちていることを見抜いた。

「アステリオス。いやミノタウロスの怪物よ」冷徹にテセウスは言った「生け贄たちはどうしたのだ」

「何? 」

「きさまは今沈痛そうにみせた。ちっとも沈痛ではない証拠だ」

「よくぞ見抜いたな」

「今言うのだ。生け贄はどうした」

「引き裂いて食った」アステリオスは、いや、ミノタウロスは楽しそうに言った「どうせ生きていてはならぬ存在だ。我にはそれを弄んで殺して食う権利がある」

 やはりか。テセウスの中に怒りの炎が灯った。

 そう、この牛の怪物はやはり善男善女を食い殺してきたのだ。

「ミノタウロス。きさまを殺す」

 テセウスはハールペーを抜いて構えた。

「言い分を聞いてくれたことを感謝する。テセウス、貴様を占おう」

 ミノタウロスは、このとき、生まれてはじめてくだんとなった。

 生まれてはじめて、呼吸をその器官に通した。

「もはや聞く耳もたん」

 ずんと迫るテセウスに、くだんは言い放った。

「テセウスはアリアドネを連れてクレタ島を脱出する。そしてアテナイへの帰路、アリアドネは奪われる。」

「なに! 」

 テセウスは動揺した。なにを言われても聞き流すつもりだったのに。

 空気に先刻の瘴気が混じった。おぞましいくだんの器官の吐き出す息は、古い墓穴のような悪臭を以ってその不吉な予言を刻んでいった。

「おまえは失意の中アテナイに帰る。おまえの悲しみがテセウスの船に乗り移る。悲しみの船が貴様の父アイゲオスを死なせる。おまえはアテナイ王となるだろう。アテナイの若き王は蛮族の女王を簒奪する。おまえはさらに怪物の妹を妻とする。その女はおまえの子を愛する。そして死ぬ。おまえは実の息子を殺すだろう。そしておまえは盟友のもとに落ち延びるが疑心暗鬼によって殺される。おまえは死ぬ。」

 テセウスは立ち止まっていた。

 予言をされてしまった。

 この予言が的中することが、テセウスにはありありと判ってしまったのである。

「でたらめを抜かすなっ…!」

「この予言はくだんの予言だ。必ず的中する。きさまはくだんを殺す者だ。くだんを殺す者はその呪いを一手に引き受ける事になる」

 テセウスは愕然とした。

 これが罠だったのだ。ミノタウロスはそのくだんの能力を、テセウスの後生を呪うために黙していたのだ。

「なぜ、こんな真似をした! なぜ俺は呪われねばならん! 」

「わからぬか。ミノタウロスがテセウスを倒すためだ」

 ガラリとハンドルが回る。

「今日の貴様の星だ」ミノタウロスは野卑な高笑いをあげた「獅子宮の火星と死中星が入れ替わる。貴様はこれから大殺界だ! 大殺界だ! 」

 シナイスはこれを黙っていたのだ。そして自分はそれでもテセウスを救けるつもりだった。

 シナイスは飛び出した。そしてテセウスのハールペーの刃を掴んだ。

 降魔の利剣、鋭い刃がシナイスの掌の皮を傷つける。

「馬鹿者、なにをするっ」

 思わずテセウスはハールペーを手放してしまう。

「くだんの呪いは、私が引き受けます。テセウス」

 シナイスは悲痛な笑いをテセウスに見せるとハールペーを腰だめにミノタウロスに飛びかかった!

「神農は仙人から芭蕉扇を奪うと、それを輪廻に刻んだ。このくだんが為した画期的な予言だ。すなわち、すべてくだんは芭蕉扇と出会う」

 ミノタウロスは傍の大斧には手を伸ばさなかった。腹の、白い半円形の薄い隠しに掌を翳す。すると吸い付くように芭蕉の葉の扇が繰り出された!


「あっ⁉︎ ば、芭蕉扇⁉︎ 」


「見よ、これが『芭蕉扇』だ」

 ミノタウロスは、渾身の力で、芭蕉扇をなぎ払った!


 二. アテナイのテセウスとミノタウロスの序 了

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