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猿と牛  作者: 荒屋敷玄太郎
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一.ハヌマンのジャパニとくだんの序

 猿と牛


 おじいさんは、うしをつれて、のらしごとにでようと、しましたが、うしは、いうことを、ききません。(チベットの昔話)


 一.ハヌマンのジャパニとくだんの序


 埃の交じった強烈な熱風を、まともに受けた。

 おんぼろタクシー、アンバサダー・ヒンドスタニーが目の前を走り抜けていった。

 熱風によろめいたおれを、たちどころに、傍にいた苦行僧のシンイが腕をとって支えた。

「大丈夫ですか、ハヌマンのジャパニ? 」

「問題ない、いちいち心配するな」

 必要以上と思えるほど、この国の人たちは対人距離が近い。身を寄せてきたシンイを押し離すようにして体制をたてなおすと、おれは体についた埃を払った。

 シンイはあわてて身を離してから、合掌して、卑屈にも思えるほど長い礼拝ナマステをしてみせる。

 おれは溜息をついた。

 この男は、おれがベナレスに着くやいなや近づいて「猿神の日本人」(ハヌマンのジャパニ)と呼びながら以下えんえんとつけ回している。なんでもハヌマンを信奉する高僧だということで、人並み以上にサル面なおれに変になついている、ということだろうか。

 いうまでもなく、ここインドでは、金回りのいい外国人とみるやしつこく付きまとい喜捨をねだる者は珍しくない。

 おれも彼を歓迎するつもりはないので、一銭一パイサ(現行レートで2銭)もくれてやることはなかったが、さて彼は飄然と付きまとってくる。

 最初こそ、シンイに対して完全無視の態度をとり、定宿に逃げ込んで彼を巻いていたのだが、ついには宿を知られてしまい、シンイは宿の前で野営して俺を待つという始末になった。

 さすがにおれは根負けして、彼のついてくるにまかせた次第だ。

「いつまでもつきまとうな。喜捨が欲しいなら他にもカモが居るだろうが」

 儚い抵抗を試みるも、シンイは澄んだ眼で礼拝を寄越すだけ。

「喜捨などと、勿体のうございます、ハヌマンのジャパニ。お会いできただけで光栄です」

 おれは、はっきり言っておくべきだ、と意を決し、シンイの黒いまっすぐな瞳を見据えた。

「そんなことを言っておいてだな」とおれは言った「あとで『あなたはわたしの時間を沢山使った。それに対して対価を支払うのは当然至極』とか居直られても聞けんよ」

 実のところインドではそんなのが常套手段で、市場の中で何度か声をかけてきた男が、不意に、市場を案内したから金をよこせ、と絡んで来るという出来事に遭遇してから、おれは他人の接近に警戒を強いられるようになった。

「わかりました」シンイの眼から涙がこぼれた「神よ、わたしはあなたに一切の対価を要求しません」

 こういう攻撃もつらい。まったくどこかの神殿で静かに崇めていて欲しい。

 タクシーをやりすごしておれたちは『月の道』〈チャンドニー・チョウク〉という風流な名の通りを歩き始めた。ついてくるシンイにおれは無意味に歯を剥き出して威嚇してみせる。

 それが余計にハヌマンらしかったのか、更なる礼拝を捧げられた。

 とはいえ、こうして一緒に歩きはじめてから気が付いたのだが、シンイの存在は満更鬱陶しいだけというものではなかった。

 何をするにともかく交渉のインドにおいて、おれがたばこのひとつも買おうとしたとき、横からさりげなく相手に声を掛け、おれには解らない言葉を交わす。そのひと呼吸の間に7割引ほど値段が安くなっている。

 そういうことがしばしばで、おれは感心した。

 …もっとも、そのシンイの交渉文句(? )の端々にもおなじみの『ハヌマン』という単語が聞き取られるのには閉口させられるが。

 ともかく、彼の存在はベナレスの街を歩く風情に「刺身のつま」ほどの彩りとなった。

 異国の街並みは歩いているだけで愉しい。

 すごい行列の並ぶ映画館の前を行き過ぎ、インド版玉ねぎのかき揚げ、みたいな揚げ物を食べ、路上市の店舗をひやかして回る。当方持ち前の風貌が剽軽なせいか、店のほうもおれをからかって遊んでいるフシがあるのが愉快だった。

 この間つかず離れず、特に話しかけてくる様子もなかったシンイも、さすがに苦笑して、

「ハヌマンは好奇心旺盛ですな」と言った。

「お前のようなモノ好きには言われたくないぞ」言いかえしながら、おれははじめてシンイに笑いをみせた。

 そう話していたとき、突然わき起こる悲鳴に怒号、野次の声。

 近くの店で騒ぎが起きたようだ。

 おれがその声に振り返るも、すでに現場は野次馬でごった返し、騒ぎの大元を見逃してしまった。

 しかもおれたちがいた店の店主まで仕事を放り出して野次馬に加わってしまった。モノ好きにもほどがある。

「シンイ、この騒ぎは何なんだ? 」

 シンイは身構えて野次と怒号に耳をそば立てていたが、やがて、

「盗賊のようです」と答えた。

「盗賊? 」

「ごらんなさい」

 シンイとともに騒ぎの人の群れに近付くと、彼を神官バラモンとみた群衆の一角が彼に道を譲るように割れ、おれにも騒ぎの中心が見えた。

 丸々とした、木彫りのダルマみたいな女が、屈強な商人ふたりがかりに羽交い締めに押し倒されていた。

 女は拘束されながらも悪罵の声を張りあげてもがいている。

 悲鳴を上げていたのはこの女なのだろう。群衆はその女に指を突きつけて怒声を浴びせている。

「あの女性が盗賊だってこと? 」

「そうです。あの女よく見てください。サリーの上にたくさん服着てるでしょ」

 シンイは興奮気味に早口でいった。見れば、そのとおり、太っているとみえた女の上半身は、恐ろしく着ぶくれしているのだった。見えているだけでシャツにジャケット、コートもたぶん二、三枚。

「あれを全部盗もうとしたの⁉︎ 」

「もちろんです。こんな暑い中、常識的に、あんなに服は着ません」

 シンイが「常識的」という言葉を使ったので、おれはびっくり仰天した。

 なにが常識的だ。見る間に群衆は膨れ上がり、その群衆相手にアイスクリームを売る者まで現れる始末で、おれは失笑した。これではまるで喜劇の一幕だ。

 むろん笑っているものなど一人もいない。アイスクリーム売りも峻厳な顔でアイスを売り、買っている仙人みたいなインド人も哲学的怒りをたたえた表情で厳粛にアイスを喰らっている。

 そして幸いまだ暴力はふるわれていないものの、女に浴びせられる群衆の罵倒はいや増すばかりであった。

 やがて、その声に、

「ガーナ」

 というかけ声が聞こえるようになった。

 その声は瞬く間に全員に伝染していった。

「そうだ、ガーナだ! 」(意訳)「ガーナ! 」「ガーナ! 」

 すると遠目にも女の顔がみるみる青ざめていくのが判った。

 女の悪罵は哀願の声に変わった。

「ガーナって何のこと? 」

「『杖』のことですよ、ハヌマン」

「『杖』? 」

 女の様子からもっと恐ろしい言葉を予測していたおれは、その答えを訝かしむ。

「『杖』…? どういう意味なんだ? 」

「日本にはないのですか? 足を怪我なさると困りませんか? 」

「いや、その杖は日本にもあるけどさ」

『杖』とは何かの隠語の類であろうか。おれが首を傾げていると、シンイが叫んだ。

「あっ、もう来ました! ごらんなさい! 」

 興奮を隠しきれない面持ちでシンイは、路上市場の道の果てからやって来るひとりの男を示した。

 その男はひどく痩せこけていたが、清潔なクルタ(貫頭衣)を身にまとい、卑しからん高僧であると見てとることができた。かれはその背に、身の丈よりも大きな竹の籠をかついでいた。

「あの人は? 」

「『杖売り』〈ガーナーワーラー〉です」

 背中の籠には、無数の白木の杖が差してあった。杖売りの男は、おれたちの方、つまりこの騒ぎに足早に接近してきて

「ドゥー・ルピア! 」と叫んだ。

「2ルピーです」シンイが通訳した。

 杖売りが籠を下ろすももどかしく、群衆が殺到した。手に手に硬貨を握りしめ、杖売りに渡すや竹の籠から杖を抜き取ってゆく。

 そして、杖を手にした者はあっという間もなく『盗賊』の女に殴りかかった。

 彼ばかりではない。得物を持った者たちは、女のもとに駆けもどり、打擲をくわえはじめたのだ。

『杖』とは、『私刑』のことであった!

「なんてこった。これがあんたらの常識なのか」

「ハヌマン、あれは神罰です。罰当たりな盗賊の女に、罰が当っているのです」

「どう見たって私刑だろ。寄ってたかって、棒で殴るなんて」

「いいえ、あの杖売りはシヴァ派の高僧です。シヴァに捧げた杖を売る役職の僧です」

 シンイは厳かにいった。

「神に祝福された杖で打たれたものは、邪悪な霊〈マーラ〉が体内から追い出されるのです。あれは私刑ではありません」

「あれが私刑ではないなら、なんだというんだ」

 シンイはおれの方に向き直って正面から見つめ、

「『祝福』です」

 女は動かなくなった。虫の息だった。屈強な服屋の店員が、その体から血と埃にまみれた盗品の服をはぎ取ると、そのいくつかを汚らわしそうに投げすてて踏みにじった。

 あとでシンイに聞いたところによると、『法的な罪悪』以上に『宗教的戒律』に触れた禁忌は重要視されていて、『盗み』という禁戒を破った者には『罰』という法を超えた解決法が優先されるケースが多いのだという。

 インドのカースト制は、基本的には四層にわけられ、下位から奴隷〈スードラ〉 商人〈バイシャ〉 士族〈クシャトリヤ〉(兵士や警察、王族を含む司法職)の順となる。

 上位のものは大富豪〈マハー・ラージャ〉といって強大な権力を持っているが、神職〈バラモン〉はさらにその上に君臨するという。法律を超えて戒律で裁く、神様の代理人というわけだ。

「それでだれも警察を呼ばなかったのか…」

「それに警察が来るともっと揉め事が大きくなります。まず喜捨を要求するでしょう。盗まれた物は警察が預かってしまうので返ってきません。取り戻すにも喜捨です。また、喜捨をしなくては取調べもしてくれないし、取調べが済むまで店は再開できません」

 市場の通り、月の道〈チャンドニー・チョウク〉を歩きながら、おれはとめどなくシンイに解説を要求した。

「すると、こういう事か? 法的な解決手段より、宗教的な解決法の方が『正義』であると。盗賊は『祝福』の名のもとに成敗され、悪霊は退散され、店は幾ばくかの損害を受けたが何事もなく再開、アイスクリーム売りと杖売りもそれなりに儲け、人びとは正義を遂行した。戒律のとおりに、問題は解決した」

 シンイは瞑目しておれの口上を聞いていたが、やがて静かに頷いた。

「すべては『業』〈カルマ〉に拠る事象だったのです。あの女が悪霊にあやつられて盗みを為したこと、商人がそれを捕らえたこと。居合わせた者が皆で女から悪霊を祓うため、祝福の杖に喜捨し、女を祝福したこと。すべて起こり得べくして起こったことなのです。あの服はあの瞬間から盗まれるべくして盗まれた。ゆえに店員は服を投げ捨てた。問題は、発生したのではなく『起こるべくして起こった』ことでした。『因』があって『果』があったことです。ハヌマン、あなたがベナレスに来たように。わたしがあなたと出会ったように」

「『因果律』か」おれはむっつりと言った「シンイ、お前はバタフライ効果を知っているか? 」

「存じています」シンイは頷いた「『混沌』〈カオス〉の理論ですね。蝶の羽ばたきのごとき微弱な気流の誤差が、長期のスパンでみると広範囲の天候に影響を与えている事実から、予測し得ない干渉の誤差が将来を決定する、ゆえに将来の確実な予測は不可能である、とエドワード・ローレンツ教授が提唱した理論、で間違いはありませんか」

 おれは、あわや舌を巻いた。最新の哲学論を語るバラモン、なんというニューウェーブ。

「ああ。その通りだ。主張したいことは分かるな。それが現在の量子力学による認知科学の根幹的なメソッドだ。世の中とは無数の可能性から成り立っていて、ほんの気まぐれな確率的誤謬からいかなる事でも起こり得る。予測は不可能だ」

 宿命。因果。そして業〈カルマ〉。東洋の哲学はまさにこの点に根ざすもので、量子力学の『確率の世界』とは真っ向対立する世界観であるはずだ。

「わたしはこう思います、ハヌマン。たとえば、その蝶の羽ばたきは、はたして宿命ではないかと。アメリカはフロリダ州の広大な農園の蜜柑のひと枝に留まった蝶が産み落とした小さな卵から孵った幼虫が、雨を風を乗り越え、蟷螂や蜘蛛の毒牙にも掛からず、密かな草陰で蛹となり、その硬い殻を破って美しい揚羽模様の羽を陽に干しあげ、やがて蜜柑の花咲く農園の空に舞い上がる。そして、その草原の空に美しくたのもしい伴侶を見出して番う。蝶は農場にふたたび舞い降り、蜜柑のひと枝を見つけて産卵する。全てのつとめを果たした蝶は輪廻〈サンサーラ〉の流れにとりこまれてゆく。その生のはかなく短い期間に、かれが為した羽ばたきのひとつ、それがインド亜大陸に嵐を起こすことさえ、全ては世の定め、今在る『因』、来るべき『果』であるのではないか、と」

 おれはまたもや舌を巻いた。あらためてこの高僧シンイを見なおした。

 インド映画の大作では、ひとりの人物を描くときに三世代前から物語が始まるものがある。

 祖父、父親、自分と視点が切り替わってゆく。

 それと同じで、『バタフライ効果』も「気流の流れ」を主観ととらず「蝶たちの命の営み」を主観ととれば、まさしく宿命論、因果律に収斂されているではないか。

 マクロを内包するマクロ、それが因果律とカオス理論のジンテーゼであったのだ。

「何かが起こるためには要因が必要である」というのが因果律であり、そう、彼らの神々は因果律を自在に操るとされる『ラプラスの魔』そのものなのだ。

「蝶たちの生の証しや山颪〈やまおろし〉──」とおれは一句詠んだ。

 あまりうまい出来ではない。

 しかしシンイの語ったこの『真理』は上出来だ。蝶はその翼の一颯の為だけに神に生きる事を許されたが、それを自分では気づくことができない。むろんそれは蝶だけではないのだ。生き物はみな同じなのだ、そう言っているのだ。

「シンイ、恐れ入った。真理というものはそれくらい詩情があっていいはずだ。どうやってお前はその考え方にたどり着いたのだろうか」

 おれが尋ねると、シンイは微笑して、

「人は生ある間、さまざまな事を考えてしまうものですから。蝶が羽ばたくのを止めぬように。魚が泳ぐことをやめないように」

 と、合掌。

「こいつめ」苦笑したおれが、さて、はたとあたりを見回すと、話すうちにいつしか自分たちが黄金の交差点〈ゴドゥリア・プラチェダーン〉にやってきていることを知った。

 ここ神秘的な街バラナシにおいて、この交差点が黄金という名なのは、おそらくは両替商が多い、という即物的な理由ではないだろうか。

 とにかく観光客が集まる。お目当てのダーメシュワード沐浴場〈ガート〉にも近い。外貨の両替だけではなく、喜捨のための小銭を両替する目的もある。1ルピーを90パイサに替える老婆が、小さな木箱のうえに小銭を並べている。それも客で賑わっているようだ。

 とかく賑わいの絶えない、混沌とした街かどだ。

 その交差点の、幾重にも別れた街路の一隅に、シンイが吸い寄せられるように視線を止めていた。

 シンイの涼しげな目元が、緊張していた。おれは何だろうとシンイの視線の先を追った。

「うわ」

 そこには奇妙な者の姿があった。

 全身を真っ青な塗料で染め上げ、黒くたっぷりとした頭髪を、高く髷のように結い上げている。大きく横長な眼を濃いシャドウで隈取り、血糊のように紅い唇は仏像の微笑〈アルカイック・スマイル〉を浮かべている。裸の上半身にきらびやかな黄金色の袈裟をまとい、胸の前に髑髏の瓔珞〈ようらく〉が揺れている。手首足首には金の細い腕輪がいくつも音を立てている。軽やかなステップを刻む足は、裸足だ。

 軽やかなステップ…彼は、踊っていた。舞っていたのだ。

 両の腕が太極拳の「流水」を思わせる動きで滑らかに宙を泳ぎ、足は絶え間なくそれを交差させて踏み違え、それでいて上半身はみじんも揺るがない。ましてその眼は、座ったように前方、つまりこちらを見やっていた。

 この国の宗教画のカラーポスターによくみる、「シヴァ神」そのままの姿で…。

 珍しいものではないはずだ。おれはこれと同じものを、カルカッタで見たことがあった。

 おれがあるカフェで茶〈チャーイ〉を飲んでいるときに、不意にふらりとシヴァが踊り込んできたので、おれは茶を噴き出した。チャーイ返せ。

 破壊神が乗り込んできたというのに、店主がことも無げに礼拝〈ナマステ〉して幾ばくかの喜捨をするとシヴァは踊りながら去った。

 さすがのおれも驚いて店主に尋ねると、ひとこと、

「シヴァだ」

 これもことも無げに断言した。なるほど破壊神によるショバ代の徴収、略してシヴァ代という訳だ。

 宗教上の儀式で催眠〈トランス〉状態にあるのだろうとおれは察した。おそらくこの「ベナレスのシヴァ」もそうだろうとおれは思ったが、シンイにも聞いてみた。

「あれは何者なの」

 シンイは緊張した声で、シヴァです、と答えた。

 答えこそ予想したものであったが、その緊張した答え方が意外であった。

 シヴァは、こちらが彼を意識したことを認識し、交差点を渡って歩みを進めてきた。その歩みは、まるで能楽のシテのように優美でかつ敏捷であった。交差点の人混みを、霞のように実体の無いがごとく突き抜けて、こちらにまっすぐ進路をとっている。

 しゃらん、しゃらん、と手足の金属の輪が鳴る音が近づいてくる。

 喜捨を上げないといけないのだろうか、とおれが悩んでいると、シンイが自分からシヴァに歩み寄っていた。

 おれもよくわからないながらも、好奇心に負けてシンイを追った。

 座った眼のシヴァに、シンイは深々と礼拝〈ナマステ〉をした。

 このときはじめて、シヴァが視線を動かした。ゆっくりとした眼の動きで、頭を下げるシンイの「ターバンのてっぺん」から、おれの方を眺めた。

 ヒンドゥー教のシンボル特有のアルカイックスマイルの、その微笑みが、さらに左右に花開いた。

 シヴァが表情を変えるのをみておれは驚愕した。これはトランス状態にある人間の瞳とは違う。

 シヴァも好奇心を抱いているのだ。あろうことか、このおれに。

 五体投地しながら「偉大なるシヴァ神に畏れ敬いてかしこみ畏み申す」〈オーム・ナヴァ・シヴァ・ヤー〉とくり返すシンイに、シヴァはおれには解らないヒンドゥー語の一言をかけると、シンイは動きをとめ、ゆっくりとひざまづいた。

 その姿勢のまま、顔を見るのも畏れ多いとばかりにこうべを垂れ、シンイは何ごとか、長いこと語った。

 言葉の全容は解らないが、こいつ、たしかにハヌマンとか言っている。おれは苦虫をかみつぶした。厄介なことになるのではないか。このまま教会まで来なさいとか。

 しかしその微笑みは僅かなあいだのことで、シヴァはもとの神像のような表情にもどり、おれたちの方を見るでもない、いわば「世界を見渡そうとする」ような遥かな視線となっていた。

 そしてシヴァは、低い、落ち着いた声音で少し長めにしゃべった。むろんおれには意味がわからないが、単語の中にわかる言葉があった。

「ナンディ来たる」と。

 その言葉を受けたシンイの背が、びりりと顫えた。

 感情を押し殺したような声で、シンイは「吉報です〈アッチャ〉」と言って、深く頭を下げた。シヴァは背を向けて、現れた時のように唐突に雑踏に沈んだ。

 街に喧騒が戻った。普段こんなに騒々しい黄金〈ゴドゥリア〉交差点が、シヴァとの対話の間だけ、海底のように静まっていたのだ。

 それにあれだけ物見高いベナレスの街の人たちが、シヴァとかかわるおれたちを、まるで空気のように無視していた。

 シンイが長い礼拝の瞑目から、やっと頭を上げた。

「参りましょう、ハヌマン」

「えっ」

「ナンディが現れます。旅を再開するときだ、と、シヴァが申しました」

 言うやいなや、シンイはおれに背を向けて足早に歩きはじめた。

 よくわからないことになった。このまま帰ってしまおうか、という思いが首をもたげてきた。

 だが、そのいっぽうで、

 …面白くなってきやがった。

 不思議なまでの好奇心と高揚に、つき動かされた。

「ウキ? 」

 おれは自然に出た笑声の勢いにまかせて、踊るようにシンイを追った。


 ナンディ。

 ナンディとは、ヒンドゥー教の神話において、三大神のうちシヴァに従属する、騎乗神〈ヴァーハナ〉の一柱である。

 象の姿の神ガーネーシャがネズミの姿の神を騎乗神としているように、シヴァは白い牛の姿の神を率いている。

 白牛の神ナンディは、シヴァ神をその背に乗せて広大な大地〈マハー・バラート〉を駆け巡るといわれている。

 知恵をつかさどる、ヒンドゥー神話には珍しく温厚な神として知られるが、壊滅期〈カリ・ユガ〉(世界の終わりとなる末法期)にはシヴァを乗せた戦車となりあらゆる存在を踏みしだく荒ぶる神と化すといわれている。

 ヒンドゥー教徒の人びとの畏敬するところ絶大で、インドで牛を敬い、殺したり食べたりしない禁戒は、ナンディ信仰に由来するものなのだ。

 シヴァは、いま、その神が現れたことをシンイに告げた。そしてシンイは突如ベナレスの街を颯爽と歩き出したのである。

 それからこっち、人びとは、おれたちがまるで空気のように不干渉になった。

 おれの心に、不思議な闘志が湧きあがってきた。

 ならびに、全身にこみ上げる全能感。

 不思議なことはひとつやふたつでは無くなった。

 この不思議を見極めたい。いまのおれになら、できるはずだ。


 シンイはするすると勝手知ったるベナレスの街角を進み抜け、おれは爽快な疾走感をもってそのあとを追った。ひゃっほうぅい、とか、ウッキャーとか歓喜の声をも挙げていたと思う。

 目にも止まらぬ速度で月の道〈チャンドニー・チョウク〉を駆け抜けて、いわゆる下町につづく神殿の道〈チャンドラー〉を疾走、その間二キロわずか十秒。身軽に前転、おんぼろビルをジャンプで乗り越え、三角跳びに引き返す。道がわからなくなったのだ。

 小手をかざして見回せば、無言で歩くシンイを見つけ、跳ねるように彼に追いつく。おれの無数の残像が、ベナレスの街を翻弄する。

 そうこうしている間におれたちは、どんより湿った空気も怪しげな、貧民窟の一角にたどり着いた。

 街路を形と作る長屋の中を、木の板一枚で仕切っている。そこが一家の団欒となるのだ。外部への入り口にはカーテンが下がっていればいいほうで、雨つゆをしのぐ屋根さえ、ところどころ青天井だ。

 さびれも寂れた景観である。しかし、むろん廃墟などではない。かまども水路もこの路地にあり、生活臭とも異臭ともつかぬ匂いでぷんぷんとしている。

「ふうん、シケた処だ。なんでこんなところにナンディが現れるんだ」

「この辺りのはずです…が、そんな事を云ってはなりません、ハヌマン。たくさんの人が暮らしているのです」

 シンイにたしなめられ、おれはケッとため息ついた。

 見まわすだけで周囲の一家がのぞき込める長屋の通りである。おれたちはゆっくり歩きながら住居を窺っていった。

 路上を子供たちが、ケンケンやカン蹴りに似た遊びに興じてはいるが、目につく家のほとんどはもぬけの空で、貧しい家財道具が目につくだけだ。

「そういえば子供ばかりだな」

「集まりでもあったのでしょうか」

 シンイはそう言うと、足をとめ、シャボン玉を吹いている子供に、お父さんはどこだい、と声をかけた。

 子供はシャボン玉を吹く手を休めると、あっちだい、というように長屋の路地の一角を指し、またシャボン玉を作りはじめた。

「えらいぞ坊主。ありがとよ〈ダンニャワード〉」とおれは彼の頭をくしゃっと撫でると、子供はニコリと笑顔をきらめかせ、シャボン玉を吹いた。おそろしく大きなシャボンの水晶玉が貧民窟の宙に舞い上がった。

 シンイは息を呑んで言った。

「祝福を授けてやったのですか」

「まあな。行こうぜ」

 子供の指した路地の奥には、集会所のようなひときわ大きな建物があり、そこに来てはじめて集落の大人たちが集まっているのがわかった。

 全員不安げな面持ちで、ボソボソ声で話しながら集会所のカーテンを覗き込んでいる。

「これだな」おれは断定した。

「…そのようですね」

 おれは頷いて、ちょっくら御免よ、と人びとの肩越しに中を覗き込んだ。

 八畳ばかりのスペースであった。そのがらんとした室内のまんなかに、金だらいが置かれ、湯気がもうもうと上がっている。その奥に、白いシーツが掛けられた人型が、上体を苦しげにうごめかせている。

 金だらいをはさんだ手前にはくたくたのサリーをまとった老女が陣取って、布を絞り、周囲の者に指示を飛ばしている。その横では長身の若い男がおろおろと行ったり来たりして老女に怒鳴られていた。

「何が見えますか」

 後ろからシンイの声が掛かったので、おれは振り返って答えてやった。

「何が見えるって…坊さんには目の毒なもんが見えるかもな」

「え? 」

「お産だよ」


 貧民窟の出産のひと幕は、どうやら佳境にさしかかっていた。老女…産婆は熱湯に浸したガーゼで産婦の会陰部を揉みほぐし、、産道を広げにかかっている。破水して流れる羊水をぬぐい取りながら「もっと沢山お湯を持ってきなさい〈マハー・ガラム・パニャ・ディージエー・ヘイ〉! 」というような事を叫んでいる。

 そのとき、シーツから突き出した妊婦の両脚の間に、大人の親指ほどの大きさに足の先がのぞいた。

 褐色の妊婦の肌の色合いからは不釣り合いな、ぼうっと光るような白さであった。

 それに気づいたのはおれと産婆だけだったのだろう。産婆は刹那の動揺を押し隠し、親たちに動揺を与えまいと、わざと大声で、何をやってるんだ、早く産湯を持ってこい、と怒鳴った。

 おれは見てとった光景に、手のひらに汗をにじませた。

「色素欠乏症〈アルビノ〉…? しかも逆子だ…。難産というやつだな」

 いってから、ハッと思い当たった。

『ナンディが来たる。ナンディとは、白牛の神』

「まさか…? 」

「ハヌマン、どうしました」

「おい、物知りのシンイ、おまえは『くだん』を知っているか? 」

「え? 」

 分娩は未だに続いていた。もはや嬰児の異常は、隠しようがなかった。

「『くだん』というのは、日本の伝説だ」

 産婦の胎内から、産婆はやっと嬰児の肩までをみちびき出した。

「新生児の姿をした、妖怪の話だ」

 嬰児の首から下は真っ白だった。

「首から下だけは、真ッ当な赤ん坊なんだ」

 産婆はさらに産道に手首を差し込み、頭部を支えた。

「首から上が尋常じゃない」

 妊婦が一層に苦しみはじめた。にわか助産師の女たちが上体を押さえつける。

「生まれてすぐにしゃべるのだ、『くだん』は」

 膣口が裂ける。悲鳴。ガーゼが血に染まる。立ち込める湯気に血の匂いがこもる。

「そのしゃべる口は。すなわち首から上は…」

 やっとの思いで新生児を取り上げた産婆が腰を抜かしてひっくり返った。

 のみならず、誰もが悲鳴を上げていた。悶え苦しむ産婦の陰部の裂傷を抑えることも、取り上げた新生児に産湯を使うことさえとっさにできなかった。

「牛の首なんだ…」

「ぐぶう」

 新生児が羊水を吐いた。

 その、牛の首から。


 すなわち、新生児は『くだん』であった!


 恐慌から、まっ先に立ち直ったのは産婆であった。尻込みする男たちを追い使って布と湯を集めさせ、女たちの頬を叩いて正気づかせると、『くだんの母』の裂傷を布で抑えさせた。麻糸で臍帯を縛り、錆の浮いたハサミで切断する。

 どぶっ、と、濃い血漿が溢れた。

 人垣が波が退くように下がったため、入れ替わりにおれとシンイは室内に入った。

「これは…」シンイが呻いた。

「これが…ナンディなのか⁉︎ こんなのってアリかよ! 」

 わけもない怒りがこみ上げ、おれは悪態をついた。

「いかにも。…それがナンディだ」

 誰かが、日本語で、言った。愕然としたおれが声をふりかえる。

 しゃらん、と金属の輪が鳴った。

 人垣を霞のように突き抜けて、能のシテのように滑らかな動きで、やって来たのは…

「シヴァ…! 」

 身構えるおれの脇をさらりと抜けたシヴァが、産婆の頭をくしゃっと撫でた。

「よくぞ、ナンディを取り上げてくれた。感謝する」

「おお…、偉大なるシヴァ神に畏れ敬いてかしこみ畏み申す〈オーム・ナヴァ・シヴァ・ヤー〉」

 産婆がやり遂げた満足の、歓喜の表情で、がくっと眠りについた。

 〈さすが主神だ。祝福どころか涅槃法悦を与えやがった〉おれは目を丸くした。

 そして、『黄金の交差点』のときのように、周囲が水の底の静寂に閉ざされた。

 息づく新生児、『くだん』のナンディの、羊水を排出する音が、はるか遠くにあるように間延びして聞こえた。

 その牛の頭部をもつ真っ白な嬰児を眺めやって、シヴァは愛おしげに目を細めた。

「私が舞いを止めるときが、来たようだ」

 これも日本語だ。

「シヴァさん、あんた喋れるのか? 」

「ハヌマンよ、汝が我が意を悟っているだけだ。すべての言葉は私の舞から分かれたものなのだから」

 シヴァはおれに視線の焦点をあてていった。

「言葉が通じるなら話は早え。とっとと説明しやがれ」

 おれの伝法な口調にシンイがのけぞり返っているが、かまうものか、おれはシヴァを正面から睨みつけた。

「まず言っておくが、時間が無い。我が舞は一劫におよぶが、それが終わるまでおそらく一刹那とないのだ」

 刹那とは弾指(指を弾くほどの時間)の十分の一の時間を指す。

「その割にのんびりしたもんだ。ハッタリかい? 」

「なんらかの趣向を感じたので時を止めている」

 面白いから時間を止めただと? 化け物じみている。

「否。我は『神』なのだ」

「…『神』め…! 」

 シヴァは哄笑した。

「シヴァよ、貴方は本当に、舞いを終えてしまうのですか? 」

 シンイが目を見張って言った。

 すべての事象はシヴァの神の舞から派生しているとされる。彼が舞を止めるということは三千世界の終わり、『壊滅期』〈カリ・ユガ〉にはいることを意味しているのだ。

 シンイが尋ねたことは、世界は間もなく終焉するのか、と言っているに等しい。

 はたして、シヴァは、やさしく頷いてそれに応じた。

「この嬰児は輪廻の彼岸〈サンサーラ・パラミータ〉から流れついた我が戦車だ。私がここにまかり越したことは、宿命であった」

 そうかも知れない。止めようが無いなら、滅びを受け容れるのもひとの定めだ。

 しかし。

「それなら何でおれたちに、それを聞かせるのだ。なぜおれたちをここに連れてきた」

 おれは言った。知りたくなかった。仮に世界が終わるとして、そんな事を知って何になるというのだ。

「なぜならば、そこが、趣向なのだ」シヴァが言った。もうその声に笑いはない。

「趣向? 」

「趣向とは、くだんの物語だ。ジャパニのハヌマンがナンディを『くだん』といい当てたことに、私は、興味がある」

 シヴァの舞の拍子が変わった。その動きは能楽師の、寂たる中に意味を込めたものとなった。

「ハヌマンよ、ジャパニの『くだん』について語るがいい。その間、私は敬意を表し日本の舞を舞おう」

 シヴァは言って、シヴァの『座飾り』の芭蕉の葉をひとつ引き抜くとこれを扇に変えた。

 鼓の音が入った。伝承が正しければ、シヴァと対となる維持神ヴィシュヌは楽器担当だ。ヴィシュヌも聞いているのか? おれの説明を。

 シヴァが呻り始めた。

 〽︎人生五十年、下天のうちを、くらぶれば…

 幸若舞、…敦盛だ。


 幸いシンイも、おれの言葉が理解できているようだ。おれも語りはじめた。

「『くだん』ってのは、災厄を予言するあやかしだ。そこでへたばってる母ちゃんには気の毒だが、『くだん』は長く生きられない。さっきちょっと話したが、産まれてすぐに喋り、語り終えたら即座にこと切れる」

「すぐに死んでしまうのですか? 」

「そうだ」沈痛におれは頷いた「だが、『くだん』の恐ろしいところは本体ではない。このあやかしは災厄を予言するが、これがかならず当たる。絶対に的中する。防ぎようがない」

 シンイは絶句した。

 ナンディは現生の終り、大帰滅に現れる神獣だから、キーワードが一致する。つまり、ナンディと『くだん』は同じ事象を意味しているのだ。

「予言が外れることはないのですか? 」

「間違いないという、伝説だ。日本では証文(誓約書)の末尾に『依って件〈くだん〉の如し』と締める風習があるが、これは『くだんの予言のように確約します』って意味なんだ」

 またもシンイは絶句する。

 その僅かな沈黙の背後に、シヴァの謡が流れる。

 〽︎夢まぼろしの、ごとくなり…

『さすがに渋い、いい声だ』おれは感心する『踊る神〈ダンシング・シヴァ〉の二つ名は伊達ではないようだ』

「『くだん』は初泣きの代わりに災厄の予言を吐いて死ぬ。シヴァがいう、時間がないとはそういう意味だろう。この予言はとんでもなく細けえ。いつどこで何が起き何人死ぬ、これ全部言って死ぬがことごとく当たる」

 〽︎ひとたび生を得て…

『なるほど。敦盛とは、テーマまで合わせてきたわけか…』

「ましてや、この『くだん』は破壊神シヴァの肝煎り、ナンディの化身ときた。予言を吐く、死ぬ、転生してシヴァの戦車となる、自力で予言を成就させるつもりなんだろうぜ」

 いいながら冷や汗淋漓としてきた。

 そう、まさに、

 〽︎滅せぬことの、あるべきか…

 シヴァは残心をためて舞の終りを示した。そして、常時の神の舞に戻ってゆく。

「それが『くだん』の話か。バーラト(インド亜大陸を指す名称)の外の物語も趣深い」

 シヴァが感心した口調で言った。

「あんたの舞も素晴らしかったよ。どうせなら黒田節みたいに明るいのが好みなんだがな」

 おれの『黒田節』説に、シヴァは哄笑で反応した。

「私の武器は三又鉾〈トリシューラ〉だし、私は神酒〈ソーマ〉を呑むからな。『まことの黒』〈マハーカーラー、シヴァの異称〉が『誠の黒田武士』というのも、地口になっているではないか」

 シヴァは愉快そうに言った。そして、残念だった、と付け足した。

 時間が無いのだ、そう言いたいのだろう。

「本当に終わらせるつもりなのか」

「『拍子』は崩れようとしているのだ。ナンディはその予兆だ」

 ヒンドゥー神話において、『世界の存続はシヴァの舞の表現である』とされている。対となる神ヴィシュヌの、一劫のあいだ吹き鳴らされる笛の音を伴奏に織り成すシヴァの舞、神の『表現』。それがこの世界の本質なのだ。

 一劫は1.36秒×10*17、四十三億二千万年である。どんなに「スウィング」した「ジャムセッション」であっても、これだけの長きに渡ると、次第にずれてくるものだ。神の精密性の限界であろうか、あるいはそれが宿命か。

 ずれた拍子を立て直すには、一旦セッションをお開きにするしかない。

 それが、つまりジャムのブレイクタイムが、劫の末期〈カリ・ユガ期〉なのだ。

 神のブレイクタイムは、ミュージシャンが観客を踏みつぶす。

 かっこいいけど「ひでえ」バンドだ。ノリが悪くなってきたら神獣カルキやらナンディやらを召喚して客を蹂躙するバンドだ。破壊神だけに前衛的ではあるというか。


「ハヌマン」シヴァは微笑った「今、面白いことを思いついたな」

 おれは跳び退ってモップを手に取っていた。ぐいと捻ると柄だけが抜けた。

「シヴァを倒したらどうなるのかな、ってな」

 おれは前転しながら急接近しシヴァの喉元に柄を突き出した。だが、シヴァの足運びは美しい舞を描いておれの奇襲を躱した。

「きさま、ハヌマンは帝釈天〈インドラ〉に大金剛杵〈マハー・ヴァジュラ〉で顎を砕かれ倒れた。今度はわが金剛杵〈ヴァジュラ〉でその顎門砕いてくれようか」

 シヴァが緩やかに舞う。

「ハヌマンに推参奉る」〈オーン・ハヌマーン・ヤー〉

 金の輪を嵌めた両腕が残像を見せる。

否──。

 両の腕が、残像で三対に見えているのではない!

 シヴァの本性三面六臂、その腕は六本となり、それぞれに神器を携えていた。言葉どおり、左腕の第二肢には金剛杵〈ヴァジュラ〉があった。

 なんでこんなのにモップ持って立ち向かってるんだおれは。

 自問するよりも体が闘志につき動かされた。床を蹴って天井に手をついてシヴァの頭上から打ちかかる!


 ハヌマンは古い神だ。ヒンドゥー教の主神にシヴァたちが据えられる以前のインドの神話『リグ・ヴェーダ』に示される、四天の「風」の神ヴァーユの化身〈アバター〉である。彼は太陽を紅い果実と思い込み、それを食べようと天空に駆けのぼった。そして天空の守護者インドラによって顎を砕かれて倒される。このときに砕かれた顎の骨を掴んでいたことから、「顎の骨を持つもの〈ハヌマン〉」と称されるようになった。

 ヴァーユの嘆きと怒りに動かされて、他の神々はハヌマンを甦らせる。そしてその際にハヌマンは、不死、打ち破られない強さ、叡智を授かった。

 あきらめの悪さがハヌマンの売りなのだ。


 柄が折れ飛んでおれは床に叩きつけられた。

 おれの渾身の一撃を、シヴァの金剛杵〈ヴァジュラ〉が払ったのだ。そして倒れたおれを、シヴァは左手第一肢の三又鉾〈トリシューラ〉で追い打つ。転がるように躱すと第二肢の刃輪〈チャクラム〉が薙ぎ払われた。首をすくめて刃輪をやり過ごしたとき、第三肢の斬馬刀〈タルワール〉が袈裟掛けに振るわれた。床を蹴って飛び退くと左手第一肢の剛弓〈ピナーカ〉で打ち据えられた。そして左手第二肢の金剛杵〈ヴァジュラ〉がおれの顎に振り下ろされた!

 今までの経緯からシヴァが金剛杵〈ヴァジュラ〉で顎を狙うと読んでいなかったら、この一撃、躱せなかったかもしれない。首の皮一枚をかすめてシヴァの金剛杵〈ヴァジュラ〉は床に槌のように食い込んだ。が、そこまでだった。

 左手第三肢、でんでん太鼓〈ダムルー〉が、ぼこん、とおれの額をしたたか打った!

 モップで打ちかかって太鼓で殴られていては世話はない。

 なんで太鼓なんだ、といわれてもシヴァがこの順番で神器を持っているんだから仕方ない。


 これは全く一瞬の出来事で、シヴァは優雅に身体を一転させただけだった。

 それだけで達人の渾身の一撃にまさる、六神器による六連撃を精密に放ったのだ。

 太鼓の皮膜で殴られたためくたばりはしなかったが、つかの間頭がぼうっとなっていたおれは、シヴァの舞姿を見てぎょっと立ち直った。

 身をひるがえしたシヴァは、両の六臂を揚羽蝶のように広げていた。シヴァの舞のテーマは『礼拝』、次の動きは『五体投地』からの『合掌』のはずだ。

 いま合掌されたらまずいだろ!

 おれは飛び退こうとしたが、腰を抜かして尻餅をついた。同時にシヴァの掌が合わさった。

 ──ぽぉん、と高らかにでんでん太鼓〈ダムルー〉が鳴った。舞鼓のような絶妙の間であった。


 おれの目のまえでシヴァの六神器が切っ先をそろえていた(でんでん太鼓除く)。おれはチビった。六神器の一斉攻撃、腰を抜かしていなかったらズタズタにされていただろう。

 へたり込んだおれの闘志が、精気が瞬く間に萎えてゆく。

 もはやおれにハヌマンの全能感はない。ここに居るのは、間抜け面を晒したひとりの異邦人〈バックパッカー〉だった。

「わ、わかった。まいった」おれは涙目で言った「舞を止めても文句はいわない。遅かれ早かれ壊滅期〈カリ・ユガ〉はやってくるんだ、おれには止められない」

「おかしい。こんなはずではないのだ」シヴァは当惑していた「きさまがハヌマンであったのはほんのしばらくのあいだであった」

「なんでおれなんだ。なんでナンディが、『くだん』が産まれるところをおれたちが見せられなくてはならなかったんだ」おれはそれだけは知りたかった。

「私も、きさまもシンイも、ナンディも、仏教でいう『三世諸仏』なのである。三世とは過去、現在、未来全て、すなわちいつの世にも存在するべく輪廻を固定された如来なのだ。きさまの場合は巧みなまやかしでハヌマンが憑依したものだろう。」

 はた迷惑な!

「因果によって、私も、シンイも、きさまもナンディも、ここに会する何らかの事象は、宇宙の法則として定められていた。シンイもその啓示を受けてきさまに近づいたのだし、私もカーリーガート(コルカタ)できさまを見に行ったのだ」

 チャーイ返せよ。

「その啓示とやら、おれにはさっぱり心当たりが無い。シンイ、お前はわかっているのか」

 ハヌマンの神気が抜けておれの声は震えていた。

「わたしにも、尊き神たちにお呼びを賜わり光栄でございますが、なにぶん心当たりございませぬ」

 シンイはひれ伏している。

「シンイか。シンイよ、私はこの輪廻の逢瀬の中で、これまで九度お前を喰ろうてやったが、それを忘れたか? 」

 シヴァの唇から炎のように舌が揺らめいた。神画の通りの、真っ赤な舌だ。

「あんた、シンイを喰うつもりなのか…? 」

 シヴァは軽く仰け反って「否定」を舞った。これは何かの謎かけなのだ。

 いや、もっと簡単なものかもしれない。落語でいう三題噺のような…

 おれが首をひねっていると、シヴァは『考える舞』を舞った。

「どうやら歯車を、違えてしまったようだ。さっきの一合できさまの神気は打ち止めだった。きさまのその神通力は、ハヌマンかそれに近い化身の仕掛けたまやかしなのだ。きさまとナンディを対峙させたとき、先手を打てるようにと、いずれの神か仙人が仕掛けたものに相違ない」

 対峙? それはつまり…

「おれはナンディと戦うためにここに来たというのか…? 」

 黒い、シヴァの瞳がおれたちをじっと見つめる。

「仕掛けた者も、まさかその力で、このシヴァと立ち会うとは思わなんだろう。きさまもきさまだ。ハヌマンはおっちょこちょいだな」

 シヴァは自分がおっちょこちょいなどと言ったことにひとり笑ったが、眉を引き締め、

「きさまの言う、『くだん』を見ても、きさまは思い出さぬというのか? 」

 おれは首をうな垂れた。

「わからない、おれは、あのとき、砂ぼこりの混じった熱風に吹かれて、それで」

「判らぬか! 判らぬというなら…! 」

 おれはうめいた。まるで炎に炙られているような熱さを感じていた。

 突如、シヴァの全身の肌の色が、その本性である漆黒にみるみる染まった。口からは紅蓮を思わせる舌がメラリと覗いた。

 凄まじい熱気がおれたちを包んだ。おそらくシヴァは時間の流れを元に戻したのだろう、部屋のなかの温気が、体臭が、血のにおいが、インドの暑さがおれたちを現にひき戻した。

 そしてシヴァは舞いながら先刻の『敦盛』の舞扇を一転させる。それは一瞬芭蕉の葉に戻ったかと思うと、『蝶』が羽を開いた形に変形した。シヴァはそれに、輝く吐息を吐きつけた。

「あれは⁉︎ 」

「見よ! これが『芭蕉扇〈バショウセン〉』だ! 」


 蝶たちの生きた証や山おろし──


 シヴァは、渾身の力で、芭蕉扇を一颯した!


 一.ハヌマンのジャパニとくだんの序 了



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