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昼過ぎに書庫にたどり着いたとき、姫は突然の睡魔に襲われた。
扉を開けて、数歩も歩かぬうちの出来事だった。
竜でさえ特に研ぎ澄ませておらねば気づかぬほどの繊細な魔術が、姫を陥れようとしていた。
姫が目覚めたのは、夕刻前、山際がまもなくすれば色づいてくるであろう時だ。
「姫に、お願い事がございます」
目を覚ました彼女に、淡々とした声がかかった。
人の気配など、どこにもなかった。なのに、そこに人が確かにいる。
まだ覚醒しきらずにいた頭が、急激に働き出す。姫はあたりを見渡し、そしてもう一度声のした方に目を向ける。
うっすらと陣が書かれた魔術の気配のする紙切れが一枚。そこに陽炎のように男が立っていた。
「……何者」
姫から威圧するような低い声が響く。
けれど男はそれに応えることなく、彼女が不愉快に感じるような笑みを浮かべて恭しく礼をとる。
「最近の東の侯爵家は、少々力をつけすぎて、横暴になっているようでございます。どうか、竜の守護の力を持ってその行きすぎたかのものたちを、懲らしめてほしいのです」
人を馬鹿にした笑みだ、と彼女は判断した。彼女を御しやすいと見下す目だ、と。勝手に要求を押しつけてくるその態度が証拠。そして、ろくでもないその要求もまた、姫の不愉快さをかき立てた。
東の侯爵家というと、確かに厳しい部分はあるが、国の中心でもあり、国王の信頼も厚い存在だ。何より、最近ではよからぬ取引をする者たちを取り締まり、闇の大がかりな組織を追い詰めようとしているところだ。
今、その侯爵家に何かあれば、その組織がのさばり続けることは確実である。
その話は白竜から聞いて知っていた。けれど、竜のあずかり知らぬことだ。
竜が政に関わることは好ましくない。白竜が姫以外のことで人間の法に首を突っ込むことは、国の秩序を乱す。人間の間で起こることは、人間が解決すべきだ、という立場を白竜は崩すことはない。
白竜が国に来て間もない頃であれば「ちょっとぐらいなら手を貸してくれれば」と、簡単に解決できる方法があるのに力を貸してくれない白竜を不満に思うこともあった姫だが、白竜の法を無視した解決法は、使いすぎれば国にとって強すぎる毒にしかならないのだと今の姫は身を持って知っている。
それは人間の解決する能力を殺し、そして弱き者を押さえつける暴力による解決に他ならない。もし一つ手を出せば、おそらく安易に次を求めたくなる場面が出てくる。故に白竜の力による解決を姫が望むことはない。
やろうと思えば竜が介入して力任せに解決できることは山のようにある。介入することをよしとすれば、それで毎日が忙殺されるようになるだろう。それを望まれるのもまた、問題であると言うことにも気づいた。
過ぎる力というものは使ってはならないのだ。脅威として飾り付けておくだけが一番なのだ。
「姫のためのみに行使される」という制約が、どれだけ重要なのかを姫はもうわかっていた。
ゆえに、国内で暗躍する組織に関して思うことはあったが、確かに姫とは直接関係のないことであるからして、必要以上に気にかけることはなかった。ただ、気をつけるために知らされた情報に過ぎなかったのだ。
けれど、今、それは他人事ではなくなったらしい。
「……白竜様を呼びますわよ」
姫が一声呼ぶだけで白竜が駆けつけるのは、周知の事実だ。故にこの脅しだけで大概の者は引く。
けれど、目の前の陽炎のような男はその不愉快な笑みを貼り付けたままうなずいた。
「どうぞご随意に……かの存在にその声が届けば、の話ですが」
その言葉に、姫はここが魔術によって隔離された空間となっていることを知った。
「……! 白竜様!! 白竜様!!」
けれど姫の焦ったその呼びかけに答える咆哮はない。
「……!!!」
姫は声の限りに、彼女にだけ許されたその名を呼んだ。
「残念でしょうが、仮にあの畜生ごときが駆けつけたところで、もう遅いのですよ、姫君」
実態のない体が、あざけるように姫をのぞき込んだ。
「おまえのような者に、わたくしが、白竜様が扱えるなどと思わないで」
「いいえ、あなたは従いますよ。……仮にあなたが抗ったところで、白竜は私の願いに従うでしょう……あなたの命を惜しむのなら、ね」
「あり得ません!!」
「見つけたのですよ、私は。あの白竜でさえ抗えない、いにしえの呪術を。……姫、あなたが眠っていた間、私が何もしなかったとでも思っているのですか?」
自信に満ちたその様子をいぶかしむ。明らかに白竜が従うと信じて疑っていない。
姫は焦りを覚えた。確かに何かをされたのだろう。では自分は何をされたのか。
「もう一度いいます。東の侯爵家をつぶしなさい。陥れて信頼を落とす形でかまいません。国への影響力をなくすか、当主と次期当主を表舞台から引きずり下ろす、どちらかで大丈夫ですよ。簡単なことでしょう……?」
けれど、何をされたからといって、このような輩の言いなりになってくれてやる理由などない。
「わたくしはおまえのような者の思い通りにはならない!!」
「吠えるのなら、いかほどでもなさるがよろしい。しかし期限はひと月です。あなたが明日中までに行動を起こさなかったり、もしくは白竜以外の誰かに公言すれば、その身に刻まれた呪術があなたの命を即座に奪います」
言われて、姫はようやく体に刻まれた文様に気付いた。
「……っ」
それは、両の手の甲から袖の奥に伸びるように刻まれていた。
「確認していただけたようですね。そうです、あの白竜に刻まれているのと同じ文様です」
魔術師は、これまでになく楽しそうな様子で蕩々と魔術を語り出した。
「すばらしいできでしょう。これほどすばらしい術ですからね。文様も美しい。これがなかなかに難しくて、あの白竜に刻まれたものほど秀麗にはいかなかったことはお詫び申し上げます。あれほど緻密で無駄なく美しい術はもうすでに廃れておりまして。私の力では、たったその程度のお願いを刻むのにあなたの体中を使わねばなりませんでした。呪術を刻まれた肌がいくら美しいとはいえ、無駄の多いこのような完璧な美しさに欠けた術は、私も本意ではないのです。けれど竜とあなた様以外には文様が見えぬように幻術もかけてありますので、どうぞご心配なさらず」
「気違いが……!」
姫はたまらず吐き捨てるようにつぶやいたが、魔術師は満足そうに笑う。
「姫ともあろうかたが、そのような言葉遣いをなさる物ではありませんよ。それでは姫君、私からのお願い、どうぞお頼みましたよ。では私はこれにて……」
男の陽炎が、消えた。直後、魔術の陣が描かれた紙が一瞬にして灰になる。
おそらく、密閉されていた空間は解除された。今、白竜を呼べば、答えてくれるだろう。
けれど姫は口を閉ざした。安易に行動してはならない。白竜に関わることならなおさらだ。
手の甲にびっしりと刻み込まれた文様が見えて身震いする。そっと袖口をまくり上げれば、その奥へと文様が続いているのがわかる。
体が一瞬にして冷えていくような感覚が襲った。頭の中に紗がかかったように思考が働かない。頭がふらふらして吐き気がこみ上げてくる。
震える指先でスカートの裾を持ち上げてみれば、中の足にもまた、びっしりと文様が刻まれている。
知らず、体が震えていた。