5
愛しい者からこれほどまでに想われて、これほどまでに言葉を尽くされて、身をもって示されて、抗える者が、いるだろうか。
この愛しさから、逃れられるすべなどあろうか。
愛しい。愛おしいからこそ、どうかこれ以上は言うてくれるなと願う。あの一瞬を、命を落としかけた一瞬を、仕方なかったなどと思うてくれるな、と。
姫、と声を押し殺して呼べば、びくりとそのからだが震えた。
許せぬのだ、と思う。
「命をかけるなどと、軽々しく言うな……!! そなたに何かあれば、我はもはや、どうして生きていけるというのだ。そなたを失った世界で、どうして生きていけると……!」
どうして許せようか、この愛しい命が失われることを。失われそうになったことを。
「白竜、様……」
「姫、どうか、命をかけるなどと言ってくれるな。我を想うてくれるのなら、どうか、その愛しい光を失うようなことはしてくれるな」
もう己の心を隠すことはあきらめた。今更もう、この姫から逃れることはできまい。
「……では!!」
少女は叫んだ。どうかと、白竜に乞うた。
「白竜様、わたくしを拒まないで。わたくしを遠ざけないで下さいませ。わたくしは、呪いなどどうでも良いのです。あなた様があなた様であってくれるのなら、おそばにいられるのなら、他はいらないのです……。どうか、白竜様。わたくしをおそばにおいて下さい……」
少女の懇願が苦しい。けれど、もはやほかに道はない。
「……ああ……、それもまた、よかろうよ……」
姫のためには拒絶すべきだと思いながら、白竜はうなずいた。
この先のことを思えば、懸念すべきことばかりしか存在しない。それでも、これほどまでに姫が白竜を求めるのならば、この命を愛おしむのなら、覚悟をつけねばならぬのだろう。
そして白竜もまた、拒絶しながらも、人の世と関わる煩わしさよりも姫と共にいることを、知らぬうちに望んでいたのかもしれない。
受け入れてしまえば、姫が望む限り共にいるのも悪くないと思えてきた。先のことは先に考えるのもまた、一つの選択であろうと。未だ来ぬ先を憂いてすべてを失うよりかは、と己に言い訳をして。
受け入れた瞬間、少女は止まらぬ涙をぬぐいもせず、白竜の鼻先にすがりついた。
「……怖かった……白竜様、ほんとは、怖かったのです……とんだ瞬間、後悔しました。白竜様、助けてくれて、ありがとうございます……」
静かな沈黙が落ちていた。
「これからは、そばにいてもいいのですよね」
ようやく命を落としかけた衝撃から落ち着いてきた姫が、不安げな声を響かせる。
白竜はじっと考え込んでいたが、重々しくうなずいた。
「そうだな……そなたの望みのままに。……そなたが望む限りそばにいることを誓おう。そなたを守護し、我は国の盾になろう」
「……白竜、様?!」
わたくしはそんなことを望んだわけでは……!!
とっさに身を起こして言いつのろうとするのを、白竜が制する。
「わかっておる。だがな、姫よ。我がそなたをそばに置くということが、どういうことかわかるか」
その決断は、国にとっても、容易なことではないのだ。
白竜は少女に問う。
城でのうのうと暮らし、好き勝手ここに通うことがいつまでも許されると思うか、と。
できるはずがないのだ。
「では、ここに住みます……!」
「国の手駒であるそなたを畜生にただでくれてやる国がどこにある。威信にも関わることぞ。国がこぞって兵を出す様子がありありと思い浮かぶわ」
白竜は嗤った。
「あげく何百何千の自国の兵を我が殺すのを高みの見物するか? それともそなたは駆け落ちでもする気か。まともに働いたこともないそなたが、どうやって山奥で生きるつもりか。竜の暮らせる場所など、食う物もなく、いつ獣に襲われるやもしれぬ場所ばかりぞ。そこは下で生活する者ですら暮らせぬようなところぞ。人にかしずかれてきたそなたが、一人で寝食がまともにできると思うか」
決意を込めたまなざしで口を開こうとした少女に、白竜は釘を刺す。
「簡単にできるなどというなよ。それほどの考えも及ばぬ愚かな娘であるのなら、三日と持つまいよ」
突きつけられる現実に、少女は口をつぐんだ。
一瞬だけ命をかけるのは、まだ簡単なのだと思い知らされる。生活とは続く物だ。いつ見つかるかと脅える毎日を想像する。毎夜、毎夜、岩の上で寝る生活に想像を巡らせる。日々の食事をどこで探せば良いのか、辺り一帯の様子を思い浮かべる。火は、水は、どこから……考えれば、何一つ身の回りのことをしたことのない自分では生活などとうていできぬのだと思い至る。
ひとときのがんばりなど、一生続く日常の継続に比べればとうてい及ばぬ苦労なのだ。
唇をかみしめて、少女は自身の考えの至らなさを悔いた。望むばかりで、自身にできることなど考えていなかったのだと、今更ながらに知る。
では、と考えたところで、ならば思いつく何かがひとつもない。
「案ずるな。長の岩場暮らしには耐えねども、瞬時に命を賭するぐらいに我を慕うてくれたのはわかった。そなたが命をかけることなどない。我はそなたを損ないたいわけでも不幸にしたいわけでもない。そなたの守護者ともなれば、国も竜の滞在を認めるやもしれぬ」
すっかり落ち込んでしまった姫を横目に苦笑すれば、不安げな瞳がためらいがちに見つめてくる。
「……白竜様。……ですが……」
「守護者とはなるが、我は他国への脅威となれども、いくら望まれようとも、自ら打って出ることはないと、それだけは認めてもらわねばならぬがな。竜の力は人知の及ぶ物ではない。……姫がその説得ができるなら、我はそなたと行こう」
姫が説得できるかどうかが、条件だと突きつける。
おそらく、少女が想像できないほどの反発があるはずだ。それを押さえられるほどの信念と覚悟を持っているのならば、白竜自身も覚悟がつく。説得できずにあきらめるならば、それまでだ。本来なるべき様になるだけのこと。姫とて、自身の力の足りなさや現実を思い知ることができる。あきらめもつこうというものだ。
静かな宣告に、少女は自分の望んだことの業を知る。
姫の望みを叶えるということは、白竜を人間の枠に縛り付けるということなのだ。それらに関わるまいと人から隠れ不毛の土地に住んでいた白龍に、望まぬ関わりを持たせるということなのだ。
姫はじっと白竜を見つめた。
先ほどまでの苛烈さは消え、今はとても落ち着いた目をしている。
姫の望んだささやかな願いは、白竜にとってどれほど身勝手な要求に思えただろう。
無知さを振りかざし一緒にいたいと訴えた自分は、その意味に気付いていなかった。白竜の拒絶の意味を、今の今まで本当の意味ではわかっていなかった。
少女のささやかな望みは、彼女一人の問題ではすまない。国の問題となるのだ。
白竜のことを考えるならば、もういい、と言えばよかったのだろうか。申し訳ありません、あなた様をあきらめます、とでも。
けれど、少女は静かに現状を受け入れようとしている白竜を前に、何も言えなかった。
失いたくなかったのだ。白竜に酷な願いをしているとわかった今でさえ、受け入れてくれたことがうれしいのだ。
もういいと言ってしまえば、ここから離れなければならなくなる。そうなるとおそらく白竜は、これから先同じように通ってくることを許すまい。一度あきらめてしまえば、その間にきっとこの土地を離れてしまうだろう、二度と少女と会うことがないように。
けれど今、白竜の守護を受け入れれば、ずっとそばにいられるのだ。
白竜を犠牲にしてしまうのか。
それはいやだ。でも、それでも……離れたくない。
その誘惑を振り切れるだけの強さなど、少女にはなかった。