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空高く舞い上がっている白竜には受け止めに行く間などなかった。
とっさにできたのは、崖底に向けた攻撃だった。
空気の圧の塊が彼女の落ちる先に向けて叩きつけられると、それは地響きを響かせて爆発したかのような風圧を作り出した。地面から上空に向けての上昇する気流が生まれ、落ち行く姫の体を一気に持ち上げる。
白竜はその風圧に翻弄される姫の体をその手の内にとらえると、地上へと舞い降りた。
「姫……!!」
地べたに横たえれば、ぐったりしたその体は意識を失っているのがわかった。それでも血の気の引いた体は、しっかりと鼓動をきざんでいた。
そのことにひとまずは安堵する。
けれど身を投げた後、爆風に吹き飛ばされたのだ。それだけでも相当な衝撃である。あまつさえ気流に翻弄された。とても意識を保てるような状態ではなかったはずだ。よく見ればさらされた素肌に細かな傷がいくつもできている。爆風に紛れた小石などによってできた傷だろう。一見して分かる大きな傷はないが、見えない部分まではどうなのかは分からない。大きな傷がないか気になったが、それを確かめる術はない。
人の体は、人間の拳ほどの小石が一つあれば、簡単に命に関わる傷を作ることができる。あの爆風の中で、そんな小石が一つでもあたっていれば命に関わらずとも大けがをしてしまう。
ここで様子を見るよりも、すぐに彼女が身を寄せている屋敷へと連れて行き手当てさせる方がよいのではないかと考える。
「ひめ」
白竜は呼びかけた。
「姫」
血の気の引いた顔を見て、白竜の方こそが血の気が引くような恐怖を覚える。
なぜこんなことになった。
白竜から告げられた別れが、衝動的に命を落とすほどに辛かったとでも言うのか。それほどまでに追い詰めたというのか。
けれど身を投げるあの瞬間、白竜を呼び見上げてきたあの瞳は、そんな物には見えなかった。
少女がなぜこんな事をしたのか、白竜には分からなかった。
「姫、目を覚ませ……」
呼びかけ、そして鼻先を姫の顔へと近づける。己の顔よりも小さな体だ。少しの衝撃で壊れてしまう、か弱い体だ。
自分から初めて姫に触れようとして、己の皮膚の硬さを思い出した。
軽く触れたぐらいでは彼女を感じることはできない。堅く厚い皮膚も、鱗も、彼女を拒絶するかのようだ。この体は、姫の存在を感じることさえできぬのだ。何より、堅く鎧のような皮膚は触れるだけで傷つけてしまいそうに思えた。
「姫……」
愛おしさと、しかしその愛おしさ故に失ってしまったかもしれない恐怖で、白竜の心臓がつぶれそうだった。
姫の鼓動は問題ないことはわかっている。このまま様子を見るか、それともこの姿を人間の前にさらしてでも屋敷に連れて行くべきか悩んでいたときだ。
少女のまぶたが、震えるようにゆっくりと開いた。
「はくりゅうさま……」
おぼつかない震える声が白竜を呼んだ。
「……姫、痛いところはないか」
少女は首をかしげると、少しだけ体を動かす。そして大丈夫そうだと思ったのか、体を起こしかけてうめいてやめる。
「少しだけ……。でも、少し休んだら、動けそうです」
困ったようにほほえんだ姫の姿に、ようやく安堵した白竜は、寝転んだまま困ったように眉を寄せてほほえむ少女を、この上ない苦しみを抱えて見つめた。
こらえきれぬ沈黙の後、白竜はついに少女にすがりつくように顔を小さな体にすり寄せてうめいた。
「なぜこのような愚かな真似をした……!!」
だって、と、少女は首を横に振る。
「白竜様と、一緒に、いたいのです……」
はらはらと美しい涙をこぼし、金の姫は言った。
その様子に、愛おしさと苦しさがこみ上げた。姫の気持ちを見誤ってしまっていた己の落ち度だ。ここまで突拍子のない行動に出るのは想像がつかなくても、なにがしかの行動を起こさせるほど追い詰めている可能性を考えてもよかったはずだった。
ただ逃げることを選んだ白竜自身もまた、この感情に追い詰められていたのかもしれない。
それでも、姫の行為には、許しがたい物がある。先ほどの一瞬を思い出せば、今もまだ肝が冷えるほどに恐ろしい。
よく生きていたものだと思う。
白竜は少女をなじるような気持ちで彼女の行為を咎めた。
「死んでは意味がなかろう」
金の姫は首を横に振った。
「あのときとっさに思ったのです。もしかしたら、このまま私が死んでしまえば、あなたをこの地から追い払う状況から、あなたを守ることになるかもしれない、と。……もし、あなたがわたくしを思ってくださっていたのなら、そしたら呪いが解けるかもしれないと思いました」
その浅はかな言葉に、白竜は己の頭に血が上るのを感じた。その言葉は許しがたかった。
白竜のために、この愛しい姫が命をかけるなど、何があっても許しがたいことだった。
「……愚かな!!そのようなことが我を守ることになるはずがなかろう!!」
白竜の怒号に、姫の顔が悲しげにゆがむ。
「はい……」
うなだれた姫から漏れた小さなつぶやきは、ひどく弱い物だった。
「でも、ほんとは、死にたくありませんでした。死ぬつもりなんて、ありませんでした。死んでしまったらあなたの側にいられない。生きていれば、呪いは解けなくとも共にいられます。……愚かなことをしました、ごめんなさい、白竜様、ごめんなさい……」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、白竜の鼻先にすがる。
「でも、いやだったんです、あなたが行ってしまうのが、どうしても、いやだったんです。あなたが見ている先で飛び降りたのなら、きっと助けてくださると、思って……」
信頼に満ちたその甘えが今は腹立たしい。まだこんな間違えるはずのない様な判断さえも、衝動的にどうしようもない間違いを犯すほど、彼女は幼いのだと知る。
白竜は怒りをあらわにした。己には、あのような場面で少女を確実に助けられるような力などない。その信頼に応えられぬ己が許せない。その怒りは姫に向かうことを止められなかった。
「……命をそのような愚かなことにかけるな! そなたの命が助かったのは奇跡ぞ! あのような状況で我が確実に助ける術などないわ! 竜は力こそあれ、奇術も魔術も使わぬ。己が生きるために必要がないから使えぬのだ。原始的な力業しかできぬ。そなたはあのとき死んでいてもおかしくなかったのだぞ!」
でも!! と、姫が泣きながらかんしゃくじみた叫びを上げた。
「そうすればあなたはあのとき間違いなく行ってしまわれた! 他に、命をかける以外、どうやって引き留めることができたというのですか! 行かせたら、もう二度と会えなくなると分かっているのに! わたくしは、白竜様のいない未来などいりません……!! いらないって、思ったのです……」
そう言って、ぼろぼろと涙をこぼして、少女はうなだれた。
その様子にに、白竜はやるせなさを抱えつつも、どう言葉を返せば良いか分からぬまま焦燥感に口をつぐむ。そんな白竜の視線を受けて、姫が自身を落ち着けようとするかのように息を一つついた。
「……呪いも姿も関係ないのです。なのに白竜様はそのお心を閉ざしてしまわれる。わたくしを受け入れては下さらない。白竜様のお心が、わたくしに興味がないというのであれば、わたくしもまだあきらめもつきましょう。でも、そうではない。白竜様は、口でどうおっしゃろうと、私を気にかけてくださっていました。あなた様の優しさは、わたくしは身をもって、存じております。……わたくしは、国を追われても、命をかけてでも、あなたのおそばにいたいのです」