もしかしたら明日
初夏のぬるい風が、ステージに群がる人波を抜けて熱を帯びている。
地響きのようなサウンドに体を揺さぶられながら、ぴかぴか光るシルバートレイにのっかっているショットのテキーラを売り捌く。
この透明な液体は、人を狂わせる魔の水なのだと思った。
深夜を回っても、この水を飲めば覚醒したように喚き踊る人、人、人。
ピンチヒッターといえど、テキーラガールを朝までやるはめになるなんて、本当についていない。
人が足りないからと友達に頼み込まれたものの、その本人は当日欠勤。
「帰りたいなー。」
ステージで爆音が鳴ったと同時に、本音が零れ落ちた。
「帰っちゃえば?」
背後から鼻にかかった声が降ってきて、焦って振り返ると、身長はゆうに百八十を越えているであろう大男が立っていた。青いツナギの腹部は、ぽっこりと脂肪で膨らんでいる。
突然の事で、顔が営業中に戻らず、ぎこちなく口を歪める形になってしまった。
男はまるで視姦するように、私の頭から爪先をまじまじと見つめていた。
その眼差しは針のように体をちくりちくりと刺すようで、奥二重の目が印象的。
「アカ。」
ぽつりと言われ、意味がわからず首を傾げた。
「君、アカだね。」
確かに私は赤かった。ランジェリーに限りなく近いブラトップとお尻が半分はみ出たボクサーパンツ。網目が大きな下品な網タイに、スタッズのついた攻撃的なパンプス。その全てが赤かった。
「そうね。私はアカ。あなたはアオ。」
挑戦的にくいと顎を上げると、男が両手を青いツナギのポケットに入れ、仰け反り笑ったので、思わず仕事を忘れ声を上げて笑った。
「夜は楽しむものじゃん。行こう。」
アオは私からシルバートレイを取り上げると、ゴミ箱に突っ込んだ。魔の水が無残に飛び散ったが、爽快な気分だった。
出口で待つと言ったアオは、すぐに消えた。
私は胸から湧き上がる衝動に身を任せる事にした。その場で網タイを脱ぎ、ゴミ箱に突っ込むと、テントに戻りサロペットに足を通し荷物を胸に抱き出口に走った。
見ず知らずの男が待っていると思うと、心臓がどっくどく飛び跳ねて、手足まで波打つようだった。
アオは呼ばずとも、手を振らずとも、こちらに気付き、体をぶつけるように寄り添うと自然と歩き出した。お互いの腰に手を回し、意気揚々と。
行く宛などなく、深夜と早朝の狭間をただ真っ直ぐに歩き続けた。
「アカはなんでテキーラガールなんてしてるの。辞めればいいのに。」
そう言われ、こうなった経緯と、普段はただの会社員だと話した。
すると、アオは意外だと言うように眉を持ち上げ、じっとこちらを見た。
「何?あんな格好してると定職についてるように見えない?」
「いや、学生かと思ってた。」
今度は私が目をぱちくりさせた。
「もう二十二歳なんだけど。ちなみに大学行ってないし。」
「あ、六こ下なんだ。もっと幼く見えた。」
アオは顔をくしゃくしゃにして笑うと、私の頭を優しく抱きこみ、髪の毛にキスを落とした。
その一連の動きがとっても綺麗で、スローモーションのように見えた。
アオの胸の中は、海の香りがした。汗と、むせるような香水の。
「アオは、何してる人なの。」
胸元にしがみつき上目遣いで聞くと、額にまたキスを落とされた。
答えてくれないはがゆさに耐え切れず、アオの襟元を乱暴に掴んで引き寄せ、唾液が混ざり合うほど唇を貪った。
なんとなく手を繋ぎ、離れ、車が一台も通らない広い道路をふらりと跨ぎながら歩く。
直感的に思った。
きっと私はこの男を死ぬほど好きになる。
「俺の職業を教えようか。」
さっきは拒まれた答えに、こくこくと何度も頷いてしまった。
「人は俺を最低な男と呼ぶ。ずるい男とも。悪い男かな。だからかな。女はね、いい男といなくていいけど、いい人といなくちゃいけないと思うわけ。つまり、俺みたいな男じゃない奴と。」
意味深な言葉に、足が止まる。
アオとの距離がどんどん開き、大きいはずの背中が小さくなってしまう。アオはそんな私に気付かず、歩いていく。
反射的に駆け出した時、どこかでわかっていた。
この男は追いかけなければ、すぐにするりとこの手から抜け出してしまうだろう。
アオの背中にタックルするようにぶつかっても、びくともせず、ヘッドロックをかけられるように抱き込まれた。
ようやく駅前に着いた時、まだひっそりと息を潜めている改札の前で何度もキスをした。
夜が終わらないように。朝が来るように。息を止めて。息を吸って。
体中に充満する衝動の赴くまま。
「ちょっと。アオ、待ってって。」
だらしなく卑猥なあの日から二日もせずに連絡が来たものの、アオはマイペースで、少し気を抜くと置いて行かれそうになる。
そもそも、二十センチの身長差で歩幅が同じなわけがないのだ。アオの普通に歩く、は私にとっては早足。
まだ食事にもありついていない午後七時。繁華街の人波に消えたくなってしまう。
かろうじてアオのシャツの裾を掴み、視線で抗議した。
「飯いらねーし。こっち。」
わかっているのかいないのか。そう言ってアオは無防備な私の手を握り、路地に入っていく。
お腹がぐるると鳴るほど減っていた私は、心底うんざりしていた。
アオと初デート!と張り切った自分がとても惨めで仕方なかったから。
髪の毛はストレートといえど盛ってるし、グレーのカラコンにツケマは上下バッチリ。ユニセックスなデザインのピアスやネックレスやリングをじゃらづけして、十センチのピンヒール。ジップアップのタイトな黒のマキシワンピは膝上二十センチまで開けて戦闘態勢万端。
綺麗とか可愛いとかじゃなくていいけど、せめて何か言ってほしい。
と、期待していた自分がありえない。
モノトーンで落ち着いた感じのホテルに入ると、アオは何も言わずにパネルのボタンを押し、何も言えなくなった私を拉致するように部屋に押し込んだ。
ヒールのストラップを外そうと床に座り込むと、アオは私を跨いでさっさと部屋の中に消えた。
「もぉ、やだ。どうして。」
泣きそうになってくる。
ちょっと運命的な何かがあると感じたのは気のせいだったのか。
あの日はあの日のままで、今日は別人になってしまったのか。
「アカ、ビール飲む?」
上を向き振り返ると、悪意なく笑うアオがいた。
見下されているみたいで悔しいけど気持ちいい。
「飲まない。」
座ったままふいと目を逸らすと、ふーん、と気のない返事が聞こえた。
目頭が熱い。
こんなとこで、何をやっているんだろう。じわりと熱い液体で視界が覆われる。
今からこのへんぴなホテルの一室で、何が行われるかなんてどうでもよかった。
一緒にいるのに、一緒にいないと感じる事の方がとっても重大な問題だった。
きっと、キスをしても抱き合っても、私はアオを一人の男として見れないだろう。
どこにも心がないまま、作業のような行為を終えるのか。
そもそも、心なんてあの日にもあったのかなんて不確かで、だから、今こうなっている事は必然なのかもしれないけれど。
重い体を持ち上げて、スリッパも履かずにぺたぺたと足音を鳴らしながら入ると、アオは二人掛けの小さなソファの真ん中に座って、こっちを見ていた。
「何その顔?」
この期に及んで、そんな言葉を投げつけられるとは。
呆然と立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
胸の中で渦巻く沢山の言葉は指先を震えさせた。
アオは自分は関係ないって顔で、ビールを一口。またこっちを見て。
「何やってんの?」
もう、色々な事が無駄に思えてきた。
怒りを通り越して、本当に虚しい。
ゆっくりとアオに近づくと、何も言わずに首に甘く噛み付いた。マキシワンピのジッパーを全て開ききると、次はアオのベルトに手をかけた。
あの日、私の中の何かに火がついたのは確かな事。それならば、燃え尽きるまで、付き合ってもらおう。
意味や価値など見出さずとも、いい。
アオは抗う事なく私の手の内にいた。どこか楽しそうな笑みまで浮かべるその顔は、ますます私をどん底へ突き落とすのだが、背筋が震えるほど悦ぶ体。
あんた、ただの変態だよ。
冷めた自分の声が聞こえて、振り切る為に、なおさらアオに噛み付く。
ソファで重なるように体を投げ出し、どちらからともなく何度もキスをした。
アオはそっと私の頬を撫でると、別人のように優しい目で、そのまま指を唇に這わせた。
たったそれだけの事なのに、胸が砕けそう。
好きになるのに理由なんかいらない。アオが好き。
そう思った時には、涙がアオの指を伝っていた。
「俺、泣く女嫌いだから。」
それは絶望的な響きだった。
優しい目とは裏腹に、アオは口角だけを上げて皮肉に笑っていた。
その言葉に体中の熱が奪われて、アオの体を突き放すようにソファから下りるとバスルームに向かった。
あの男に、心はないのか。今までの恋愛に何かトラウマがあるのか。人を好きになった事がないのか。私の事を何だと思っているのか。これからも会うのか。会ったらまたこんな事の繰り返しか。
シャワーに打たれながら、考えが渦巻いたけれど。
体にバスタオルを巻きつけ、アオの元に戻ると空気が軽くなっていた。
「アカ。おいで。」
無邪気に笑う男は、あの日と同じ男。
アオの腕に抱かれながら、私はきっとこの男を乗りこなせるだろうと思った。
ただ、それはいつかの話であって、今は屈辱的な思いのまま腹を立ててもいいのだと思った。
アオと会うのは必ず夜だった。
特別な言葉は何も交わさなかった。アオが手を引くままに、食事に行ったり、ホテルにこもったり、宛てなく歩き続けたりもした。
急な連絡に気付かず、すねた言葉を投げつけられた事も何度かあった。
「俺以外に男いるんだろ。」
決まり文句のようなそれは、特に否定しなかった。肯定もしなかった。
「アオにはいつでも会いたいよ。」
必ず甘く囁いた。
それで機嫌を取ろうと思っていたわけではない。小手先の言葉で操作できる男だとも思っていなかったから。
ただ、本心を口にしていた。
アオは約束を好まない。明日の約束さえ。いつも当日、今から、そんな調子で、ミスター突然、とふざけて呼ぶとアオはいつも悲しそうな顔をした。
「もしかしたら明日死ぬかもしれないから。もしかしたら明日大嫌いになってるかもしれないから。今しかないんだよ。」
そんな風に言うアオは、とても”普通”の感覚ではないと思ったけれど、悲しいもしかしたらを胸いっぱいに抱えているのならば、それを自分の存在によって軽くできないのかと悲しくなった。
夏の終わりに私がまたテキーラガールに借り出されると、アオはそのイベントに来て買いもしないのにまわりをうろちょろしていた。
「ねぇ、それ、営業妨害なんだけど。」
本当はアオに構ってもらえるのが嬉しくて、顔は全く迷惑がれていなかった。
アオはおどけて舌をべっと出すと、楽しそうに笑っていた。
その時。
「シュウジ?まじ?何してんの。一緒しようよ。」
派手な女がアオに腕組みし、胸を押し当てた。
私よりも十センチは背が低いその女は、くるくる巻き髪のツインテールに、ダークブラックのカラコンに上下ツケマ、真っ白なミニワンピは谷間を強調するカットで、それに相反して裾はパニエでふわりと広がり、お腹まわりはレースになっていて透けている。
つまりはロリエロイ。
アオはこちらをちらりと見たが、わざと知らんふりでフロアに足を踏み出した。
「ね、ね、今日さ、この後しない?」
「女から言うもんじゃないだろ。ミイナは時間大丈夫なの?」
アオの本名がわかっただけでなく、関係を持っているだろう女の名前まで聞こえてしまった。
何について、しない?と言っているのかもわかるし、アオが拒否していない事もわかる。
今の心境を表現するのなら。
ジーザス!
って感じ。
ロリエロときゃいきゃいしていたアオは、いつの間にか姿を消していた。
胸に挟んだケイタイが震えたので、確認すると、
「ひとりで大丈夫か?あいつとは何でもないから。また連絡する。」
心配と、言い訳と、今日はもう会えない、という三点が簡潔に書かれていた。
特に傷つく事はなかった。アオが私といる時も他の女に連絡をしている事も薄々わかっていたし、マイペースなアオにいきなり恋人という関係を迫ったところで自分から終わりを手招くようなものだとわかっていたから。
「全然大丈夫。楽しんできてね。気が向いたら連絡ちょうだい。」
強がりと、言い訳は不要だと、いつでも会いたい、という三点を簡潔に返す。
シルバートレイに並べられたテキーラをそこらじゅうに撒き散らせたい衝動に駆られたが、なぜかこんな時ほど上手に笑えるらしい。
空がほの明るくなるまで、それを続け、帰りにまたケイタイを見ると予想通り、何の連絡もなかった。
始発が動き出した駅への道で、何度もアオに連絡しそうになったが、他の女とよろしくやった男にどんな言葉をかけるべきなのかわからず、無意味に何度もアオの名前を表示させては消した。
駅に着く手前で、足が止まった。
「アオ。」
電柱にもたれるようにしてしゃがみこんでいる大きな男は、間違いなく私の大好きな人だった。
他の女と消えたはずの、大好きな人だった。
アオはゆっくり顔を上げて、罰が悪いという様子もなく手を広げた。
吸い込まれるようにその腕の中に崩れると、アスファルトにむき出しの膝が擦れて傷になったのがわかった。
上からかぶさるように抱きついたので、アオの頭を抱えるような姿勢で。
「アカ。なんでみんな俺をそこにいさせようとすんのかな。そんなのは窮屈でたまらなくなるんだよ。だけど、みんなそうだから、そうしなきゃいけないんだってさ。アカもそう思う?俺が間違ってると思う?」
私に対しての言葉なのに、自問自答しているような響きが、とても悲しかった。
まだ、アオは私を見ていないのだと感じたから。
アオの乱れた髪の毛を指で梳くと、ほのかに女の香りがした。
さっきの女に、”そこにいさせようと”されたのだろう。それが友達でも恋人でも、例えば体だけの関係でも、何でも構わない。関係性を固定する事は、つまりアオにとっては苦痛で。
「間違ってないと思うよ。みんなも間違ってないし、アオも間違ってない。ほら、同じ物を見ていても、それぞれ違う角度で見てるだけって事なんじゃないかな。」
アオはくぐもった声で相槌を打つと、私の胸にぐりぐりと頭をこすり付けてきた。
「アカは?俺とどうしたい?」
この男はなんて残酷な言葉を吐くのだろうか。
彼氏になってほしいよ。明日の約束をしたいよ。もっと先の約束もしたいよ。デートプラン練って、あちこち行きたいよ。
すぐにでもそんな返事をしたくなるけれど、それはアオにとって窮屈なものだとわかる。
「そうだなぁ。キスがしたいな。今。」
噛み殺した沢山の言葉は、いつかわかってもらえればいい。いつかアオが自分じゃなく私を見てくれるようになった時に、自然と理解してくれれば。
アオは顔をそっと上げて、私の頭を手のひらで引き寄せて、何度もキスをした。
そして、一緒に寝る?と言って立ち上がる。
近くのネカフェに入ると、すぐに寝転がって、でも決して触れる事なく眠りにつく。
体を重ねなくても、睡眠を共にするというのはとても特別な感覚がする。
眠りにつく時、人は無防備になる。それを晒せる相手は、友情や恋とはまた違う絆を構築するには重要なものかもしれないと思うのだ。
アオの寝息を聞きながら、そっと手を伸ばしたが、アオの手に触れる寸前で止まった。
「面倒くさい女にならないように、優しくしないでね。」
唇だけでそう言って笑うと、寝返りを打ったアオの腕が私を抱き込んだ。
言っている側から無意識にでもこんな事されれば、自惚れたくもなる。
ロリエロ女には、こんな事、しないんでしょ?って。
アオから連絡があれば、友達との約束も蹴って会いに行く。
早足で歩くアオに着いて行けるように、私はヒールをほぼ履かなくなった。
抱きついてくるアオを両手で抱きしめられるように、リュックかナナメ掛けできるバッグしか持たなくなった。
急におんぶや抱っこをするアオに引っかからないように、アクセは小さい物しかしないようになった。
アオには言っていない変化。きっと気付いてもいないだろう変化。
だけど、私の中では大きくて大切な変化。
深夜、ガードレールの上に立って遊んでいると、アオはこちらを向いて手を広げた。
「飛べ。」
そのたった一言が、私の体を浮かすのだから、どうしようもない。
アオに抱きとめられた私は、足が地面につかず、ブラブラと揺れていた。
「アカ、いつまで一緒にいられるのかな。」
アオは私の胸に顔を埋めてそう言った。
弱気でも強気でも、そのどちらかに感情が傾く時、アオはとても孤独を感じている時なのだとわかっていた。
「アオがいたくなくなるまで。」
アオの髪の毛にキスをして、声を上げて笑った。
「なんで笑うんだよ。」
不満気な声に、いっそう声を大きくした。
「きっと同じ質問を私がしたとして、アオが何て答えるかわかるからだよ。」
アオはゆっくりと私を地面に降ろした。
手を繋いで、歩き出す。
「嘘つけ。」
「アオ、いつまで一緒にいられるかなぁ。って言うと、アオは不機嫌になるの。で、先の事なんかわかんないだろ。今いるんだからいいだろ。って言うの。」
クスクス笑いながら言うと、アオは眉毛を下げて、苦笑い。
正解かどうかなんて聞かない。今ここにいて、一緒に生きている。それ以上に大事な事なんて、今のところ見つからないからだ。
アオが言ったように、明日死ぬかもしれなくて、明日大嫌いになるかもしれなくても、今、いる。
それが二人にとっても、一番大事な事に思えるからだ。
「もうすぐクリスマスか。」
そう呟いたアオに、プレゼント何が欲しい?イルミネーション見に行きたいね。なんて言えない。
「私、いい子だから、きっとサンタさんが来てくれる。アオは悪い子だから来ないと思うよ。」
本当にその通りで、クリスマスは友達や家族と賑やかに過ごした私とは対照的に、アオからは風邪引いたという連絡しか来なかった。
もしかしたら、アオの言う風邪引いた、は、他の女と過ごすからお前に使う時間はない、って事なのかもしれないけど。
年末まで体調不良を理由に会おうとしないアオを放って、クラブのカウントダウンイベントに繰り出す。
久しぶりにオールナイトで踊ろうと気合い充分だったが、年越しの瞬間、たまたま隣にいた男とノリに任せたキスをして、そのまま抱き合っていると、
「アカ!何やってんだよ!」
力任せにアオに引き剥がされた。男はアオの登場にびっくりしてそそくさと退散。
アオに捕まれた腕が痛い。
じんじんする。心が。
「風邪じゃなかったの?」
アオが家にいると言うから、ここにいるという返事をしただけだ。
まさか来るとは思っていなかった。
「そうじゃなくて!アカは俺のもんだろ!何やってんだよ!」
アオの切羽詰った叫びは、爆音で掻き消されていく。
今にも泣き出しそうなアオの歪んだ顔に、背筋がぞくぞくした。
「そう?知らなかった。だって、アオは私のもんじゃないんだもん。だから、私もアオのもんじゃないと思ってた。」
ひねくれた答えは、アオの怒りを煽るとわかっていたけれど、それでいい。
アオは乱暴に私を街に連れ出すと、人がまばらな路上でひどく不機嫌な顔をした。
「お前は俺のだろ。」
押し付けられた言葉は、切なかった。
アオが私の事を大好きだって、わかったから。
本当は、そう言いたいのに、甘ったるい恋人ごっこになりたくなくて、遊びのフリしかできない悲しい人なんだもの。
「じゃあ、アオは誰のものなの。私だけがアオのものなんて、理不尽だよ。風邪引いたなんて見え透いた嘘つかないで。他に女がいるなら言えばいい。」
強い口調に、すれ違う人の視線が刺さった。
「黙れよ。」
「黙らない。だってアオはいつも私を閉め出すんだもの。だったら私だってアオを閉め出したっていいじゃない。私はアオの為に生きてるわけじゃないもの。」
こみあがる涙を噛み砕き、アオの肩を押しのけた。
そのまま帰るつもりだった。
アオが背後から、初めて会った時のようなヘッドロックをしなければ。
「黙れ。アカは俺のもんだ。アカは俺のためにいるんだ。俺がそう言うんだから、そうなんだ。それ以上わめくなら、」
「わめくなら?」
首を後ろに回すと、アオの震えた唇に触れた。
年始早々、仲直りするためだけに喧嘩をするなんて、馬鹿な事をした。
だけど、どうしてだろう。ただの茶番だと思いながらも、いつもよりキスが長い気がする。いつもより体温が上がっている気がする。
「アオ。」
「黙れ。」
まだ不機嫌なアオは、私をホテルに連れていき、さっさとバスルームに消えた。
アオが脱いだ洋服のポケットから、しわくちゃになった病院の薬袋が出てきた。
風邪が嘘じゃないのはわかったが、風邪引いてでも誰かに会いに行っていたかもしれないという可能性は消えない。
今夜、私を拉致しに来たように、それでも会いに行く時は、会いに行くのだろうし。
アオは怒りをぶつけるように、私をベッドに沈めた。
やけに体が熱くて、アオは熱が下がっていないのかもしれないと思った。
何度もキスを繰り返していると、やっぱり泣けそうになったけど、私は泣かなかった。
アオは泣く女が嫌いだから、涙腺が開く事なんて絶対にないのだ。アオの前では、絶対に。
その日、アオがベッドで大の字になって寝ている姿を、眠い目をこすりながら見つめていた。
気持ちは熱したり冷めたり、ゆっくりと姿を変えていく。その速度を気にせずにいられたなら、どんなにいいだろうか。
このままパチリと写真を撮るように、私達が世界から切り取られて、全て止まる。
そしたらアオは、もう、どこにもいかないのに。
本心なんて、きっと言葉にはならない。
私も、アオも、それは同じで。
どんな小さな事でもお互いの事を知りたいという、脅迫的な気持ちと、この人がいなくなった世界なんて考えられないという、依存的な気持ちと、ただこみあがる温かい何か。
それを大好きだとか、愛してるとか、みんなは言う。
だけど、そんなの嘘くさい。
どうしてこんなにどうしようもない気持ちを、たった一言にしてしまえるの。
愛してる以上の言葉がないから、そう言うしかなくて、言っているだけなの。
アオのケイタイが光る。どこかの女がアオを呼んでいる。
この瞬間、アオがどこかに行ってしまう事をどうやったら引き止められるのか、考えてしまう。
一度も、止めた事などないのに。
「ちょっと行ってくるわ。待ってる?帰る?」
私に与えられる選択肢はたった二つ。
真っ黒い夜。アオがいなくなったら、何を頼りに歩けばいいのだろう。
悪意のない笑顔に、笑い返しながら、こんな気持ちになっているアオの相手は何人いるのだろうと思った。
私と会っている時にアオの帰りを待っている女もいるかもしれない。
どこに行くの?というたった一言さえ、口にできない。それはつまり、アオが嘘をつかなくていいように。
「ねぇ、アオ。」
「んー?」
ケイタイに夢中になっている姿に、ため息が漏れる。
独身、恋人なし。のはずなのに、こんな苦痛を伴う関係なんて、どこか歪んでいる。
「帰るから、おんぶして。」
ふざけて言うと、アオは本当にしゃがんで、私を背中に乗せた。
二十センチ高い視界は、いつもはアオが見ている世界だ。
ゆっさゆっさ揺れて、アオの背中に密着した胸の鼓動が響く。
このまま、連れてって。どこまでも。
「アカ、やっぱり帰るなよ。」
アオがしゃべると、首に回した腕が震える。
「帰るよ。アオがどっか行っちゃうんだもん。」
「なんでどっか行くんだろうな。」
自分の事なのに、そうするしかないようなアオの言葉に、首を傾げた。
「どっか行きたいわけじゃない。」
「じゃあ行かなきゃいい。」
「ダメなんだ。止まるのが怖くて。」
アオはゆっくりかがむと、私を下ろした。
すぐに抱き寄せられて、前が見えなくなる。今、アオには何が見えているのだろう。
無言のまま、手を振り、背を向けたアオに、なお手を振り続けた。
アオの目に映る世界はどんな?
おんぶされて見たアオの世界は人より少し高くて、いつも自分が見ている世界より小さくておもちゃのように見えた。
何度、何人、その目に私のような女の子を映してきた?
私は、アオしか見てないよ。だけど、追いかけても、待っても、どうにもならないなんて私には耐えられない。いつも見えない不安に突き動かされているようなアオをずっと見ているなんて、悲しすぎる。
何が怖いの?何が欲しいの?それは私にはあげられないものなの?
終電間際の駅近くのベンチに座っていると、忙しく駆けていく人が横切っていく。そろそろ行かなきゃと立ち上がると、ケイタイが鳴った。
「アオ?どうしたの?」
「どこにいる?」
「駅の側のベンチ。もう帰るけど。」
「動くなよ。」
たった二往復した会話は、すぐに切れた。
どうせ来ない、来る、来ない、そんな堂々巡りを続けて数分で、アオが来た。
走ってきたのか、肩で息をして、汗だくだった。
無言で強く抱きしめられ、息が苦しくなる。お願い、好きじゃないなら、もう触らないで。
「ひどい男だろ?俺の事なんて嫌いだろ?」
言葉とは裏腹に、笑顔のアオは私の背中を押した。
「終電、やばいだろ。」
アオは駅を指差した。ケイタイで時計を確認すると、終電まで一分。嫌でも走らないと間に合わない。
何も言えないままに、発車の合図が鳴り響くホームに滑り込んだ。
きっと、アオが言ったように、アオはひどい男で、沢山の女の子と遊んでは捨てて、そうして嫌われてきたに違いない。
それでも私がアオから離れられないのは、確信があったから。
アオもいつからか、私の事を、好きになっているんだって。
そうじゃないと、走って抱きしめにこない。ただそれだけの為に、馬鹿馬鹿しすぎるでしょ。
私にはアオがいないとダメなように、アオにも私がいないとダメなんだよ。
それは、いつからか二人の間で言葉にせずとも分かち合っているもののような気がした。
混み合った電車のつり革に両手で掴まると、頭を垂れて祈るように手に力を入れた。
神様、独り占めしたいなんて贅沢は言わない。だから、ずっとアオと一緒にいさせて。
アオといる間に、他に男がいなかったわけじゃない。
正確に言うと、アプローチを受けた男は数人いるが、全て断ったし、断らなければいけない状況になる前にシャットアウトした。
イケメンもいたし、いわゆる条件のいい男もいたし、性格のいい男もいた。
出会った頃のアオは、女はいい男といなくてもいいけど、いい人といなくちゃいけないと言った。
それを無視して、最低な男といる私は、さしずめ不幸な女か。
アオの言いたい事は、よくわかっていた。アオ以外の男といたら、今頃ラブラブデートに結婚の話まで出ているかもしれない。ひとりで泣く事もなかったかもしれない。
でも、どんなに優しい人でも好きじゃないなら、私は優しくなくても好きな人といたい。
いつもの夜を、アオと、歩きたい。
アスファルト宛てなく彷徨う夜。
「アオがひどい奴でもいいよ。私はアオのそばにいるから。」
静寂の中、ぽつりと口にしたのは、大好きでも愛してるでもなかった。それ以上、気持ちを伝える言葉がなかった。
不恰好な笑顔をアオに向け、俯いた。
きっと、好きとか愛してるとかじゃない。ただ、そこにいないとダメな存在。好きな事を好きなようにして、最後には絶対戻ってくる、そんな存在。
アオとしてみたいデートプランは山ほどあるけど、今はアオがこうして隣にいて、手を伸ばせば触れられる。
この距離は私には幸せで、切れる時は来ないと思える温かさに満ちていた。
アオはいつも定まらない自分の女性関係や突拍子もない行動を取ってしまう自分の性格だとかを卑下しては開き直る、の繰り返しの中にいて、それでも、その繰り返しの中にずっと私がいられたなら、グラつく足元も固まってくるのだと思う。
出会った頃は、アオからの着信はほとんどなかったのに、今は発着信どちらの履歴にもアオの名前が一番多くなった。私を置いていくように早足だったアオの歩く速度が私と同じになった。目を合わせるだけで、何を言いたいのかわかるようになった。
アオがこちらを振り返ったので、顔を上げた。きっと、その動きは同時だったと思う。
そう、いつからか、私達は以心伝心と言うように、そうなっていけたのかもしれない。
無言でアオが差し出した手を、ぎゅっと握る。
何度も繋いだはずなのに、やけに照れ臭くて、微笑んでしまう。
「アカ、アオ、その次の色は何だと思う?」
アオはなぞなぞのような意味のわからない質問をしながら、私をぐっと引き寄せて、体をくっつけた。
「アカ、アオ、幸せのキイロ!」
考える間もなく即答すると、アオはとびきり優しい笑顔で、私を抱きしめた。
唇に唇を重ねると、繋がった心がゆっくりとお互いの中に流れ込む。
アオの質問に、いつも正解はない。だけど、今回はどうやら正解ではなくとも合格らしい。
だって、アカとアオが出会った次に、幸せのキイロがなくちゃダメじゃない。
「俺、ひどい奴だよ。」
アオが笑いながら言うので、私も笑った。
「知ってる。でも、アオが私の事好きだから、私もアオの事好きなの。」
大真面目に言った後、二人で爆笑した。
大笑いしたまま手を繋ぎながらふらふらと歩く。
いっそう強く繋ぎ合った手に汗をかくアオは、最低で最高な男だった。
もつれながら公園の芝生に倒れ込むと、星空を見上げた。
「星を全部数えたら、結婚しようか。」
冗談交じりに言ったアオの横顔は、全然冗談に見えなかった。
「いいよ。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。あの大きい星なんだろう。むっつ。」
ねぇ、アオに言われたら、本当に星を数えてしまう。空一面の星を数えたら、そこに永遠があるなら、一億個だって数える。
夢中で星を数える私の声は、どんどん空に吸い込まれていく。
「星っていくつあんのかな?」
「さぁ、一億とか?話しかけられたら数えられない。黙って。」
宙に指を指し、黙々と数える。
視界の端にいるアオは、芝生をちぎっては投げて、つまらなさそうに空を見上げた。
「もしかしたら、明日はそうじゃないかもしれない。明日どころか、次の瞬間は変わってしまうかもしれない。人間ってそうだと思ってる。」
急に話し出したアオは、私の宙に浮いた手を捕まえた。
星を五十近く数えた声が、止まる。
「誰の事も信じられないよ。自分の事も、信じられない。でも、どうしてかな。」
ゆっくりアオを見ると、うっすら目に涙を溜めていた。らしく、ない。アオらしいなんて何なのかはわからないけれど。
「アカが好き。大好き。ああ、愛してるって言うのかもしれない。何て言えばいいかもわからないくらい、いなきゃダメで、明日も明後日も、一年後も十年後もきっと死ぬまでいてくれなきゃ俺はダメで。だけど、こうして言葉にしても消えていくだけだって事がわかってるから、何も言えないんだよ。」
少しずつ、私の体の上にアオが重なっていく。
初めて会った時と同じ、アオの腕の中は海の匂いがした。
「大好きなんて、愛してるなんて、嘘くさいよ。でも、その言葉が本当になるなら、星の数ほど言ったって構わない。一億回言って伝わるなら、言うよ。」
今、アオは私に告白してるの?実感はないのに、喉の奥から熱い何かがどんどん溢れてきて、目頭に到達したそれは、涙になった。
でも、涙を禁じてきた私は、上手に泣けずに、じっとアオと見つめあっていた。
「違う。きっと俺はずっと言いたかったし、聞きたかったんだ。ずっと一緒にいるよって、愛してるよって。誰に言ったって、誰から聞いたって、どうせ嘘になってくだけのその言葉を、俺達なら本当にしていけるって証明したいって。」
苦しそうに言葉を吐き出すアオの頬をそっと撫で、眉を下げて笑う私は、やっぱり死ぬほどアオの事が好きだった。
「じゃあ、星の数ほど聞かせて。私も死ぬまで言い続ける。できるよ。私達なら。浮ついた嘘くさい言葉だって、本当にできる。」
アオは私をきつく抱きしめると、急に体を起こして手を取り歩き出した。
いつものように、ふらりふらりと月と太陽の狭間を歩く。
「アカ、大好き。」
「アオ、愛してる。」
「ずっと一緒にいるよ。」
夜が明けるまで繰り返されたその言葉は、到底星の数には届かなくて、きっと死ぬまでには星の数と同じくらいは言えるのかもって笑いながら、何度もキスをした。
恐れていたものは何だった?
大好きな人がいなくなる事。
ひとりぼっちだと思う事。
誰かを愛せなくなる事。
立ち止まったままの自分の背中を押すのは、いつも、誰かじゃなくて、自分自身だって気付いた時、不器用でも前に進める。
あなたと歩ける自分を愛してる。
私と歩くあなたを愛してる。
そうして道を、つくっていく。