神童少女
◇
閑散とした空間の中、一枚の紙切れが背後から送り届けられてきた。
授業の真っ最中にやってきたその小さく四角形な紙切れの上部には、「学年トップ美少女最終決定選考シート」とガクガクの下手くそな字で記され、数人の女子のフルネームの横に数の計算の際に用いる「正」の文字がずらずらと連ねられていた。
それらを視認した少年――神代 進護は遂に来たかと思い至ったと同時に、呆れ一色に染められた嘆息を吐かずにはいられなかった。
この選考シートなるものは我が埼丘高校七不思議ならぬ七名物の一つとして毎年決まって行われるらしく、巷では『栄冠へ導く紙切れ《ビブルカード》』なんて呼ばれているらしい。
そんな暗黙のルールなどを律儀に守る我が学年に敬意を評したいところだが、やっていることがやっていることだ。陰で人の容姿を評価して優劣を付けるなど良い気がしなかった。
(それに……――)
神代は、再び紙切れに視線を落とす。
そこに一人の人物の名前。圧倒的な「正」の数。
それらを認めて、神代は一層不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
もはや神代が誰に票を入れようが、この選考の結果は見えている。その覇者が神代の知人であり、予想の範疇にあった人物であったため、余計に腸が煮えくり返る。
チッと吐き捨てるように叩いた舌を鳴らしながら、神代はビブルカードには手を付けず、黒板に書き連ねられていく数学教諭の記号をノートに書き写していった。
「で、進護は結局誰に票を入れたわけ?」
昼休み。
中庭に置かれたベンチにて、神代の隣に座る白髪の少年――古谷 隆俊、通称“タカ”は購買で購入した焼きそばパンを頬張りながら問いかけた。
埼丘高校の中庭は全国的にも広大なほうで、校内でも人気スポットの一つとして名乗りを上げている。
特に授業という早朝より続く過酷スケジュールを潜り抜けたオアシスの時であるこの時間帯は人の数が多く、沢山の生徒達が行き交い、複数人編成のグループがあちらこちらに滞在している。
だからこそ、今こうして人気スポットの一角を担う中庭のベンチを定位置として毎度確保している彼らの努力と執念がどれほどのものであるかはわかってもらえるかと思う。
向けられた髪同様に真っ白と形容すべき純粋な問いに、神代は「あ?」と微妙且つ苛立ちを垣間見せる反応を見せた。
「別に、誰にも」
「またまたぁ、別に隠すことないじゃーん。ホラ、誰だってあの子可愛いとかあるしさ。確かに進護にとってああ云うやり方は気に食わなかったのかもしんないけど、誰に入れたかくらいは教えてくれてもいいじゃんか」
素っ気のない返しに困惑しながらも、相対した軽快なテンションで再度懇願するタカ。
タカも中身を見て投票に参加した人間だ。更には小学三年からという長い付き合いがある。神代のことは誰よりも知っているつもりだ。その事情も過去も現在も。
だからこそ、気を悪くして適当な返事を返されたと受け取ったのかもしれない。が、それ自体が間違いであった。
「だから言ってるだろ? “誰にも入れてない”って」
「えっ、はい?」
タカは我が耳と意中の思いを疑った。聞き間違いでなければ神代は“誰にも入れていない”と言った。そして、察したであろう言葉の真意に驚愕と疑念を抱かずにはいられなかった。
「もしかして……票入れてないってこと?」
おずおずと青ざめた顔色でタカは改めて確認をとった。
何に怖じ気づいているのか理解しないまま、故に神代は何でもないように頷いて見せた。
それを認めた瞬間、次にタカはあわわわっと淡い蒼から濃い青紫に表情が変色し始めた。
「ななな、なにやっちゃってんの進護……。それはご法度っていう何があってもやっちゃいけないことで……!」
「ご法度ぉ? んなもんにわざわざ縛られてやる必要もねえだろ。つか、ご法度がなんだよ。そもそも名前も書いてないわけだし、直接面倒なことが降りかかることなんてねえだろ。それに……」
そこで区切って、神代の顔つきが意味あり気に歪められる。
「あそこで俺が誰に入れようが、結果は変わっちゃいなかったさ」
そう、たった一人の票だけで変わるような、そんな接戦した選考投票ではなかった。それこそ不動。
揺るがず、動かない、「競う」なんていう概念を超越した、完全完璧な勝利。
誰もが理解し、納得し、一つの事実として受け入れられる真実。
――“アイツ”が一番、だと。
そんな昔から続く揺るがぬ真実に対する小さな反抗心の矛先が、白紙提出という何とも幼稚な行動結果となったのだろう。
神代が告げる事実に、「まぁ、ね」と歯切れ悪く応答してみせるタカ。
神代のその顔が苛立ちで歪められた真意も、白紙提出を行ったその心意も、古い付き合いであるタカには彼の心情を全て了察することができた。だから歯切れ悪く、曖昧な形の応答となってしまったのだ。
全ては、彼らの過去のエピソード。だが、過去は常に人の現在を阻むものとして付いて回るものである。
過去が人を崩し、現在が人を砕き、未来が人を挫く。そうして、一つの「悪夢」と呼ばれる現実が築かれる。神代という人物の現在の姿はまさに、そのようなものだ。
神代がふぅっと一息。ベンチに体重を預けて天を仰ぐ。
春風の名残が残る空の下、心地よい風に遊ばれていると特有の睡魔に襲われ、瞼が重くなる。
その重量に負けて、すぅっと下ろされるシャッター。紺青の天空が徐々にブラックアウトしていく――……ところだった。
「あっ、みーつけた!」
唐突な、甲高い声。
鼓膜を貫く矢の如き声音は、神代を襲っていた眠気を一気に連れ去っていった。
はた迷惑極まりない高音は神代を不愉快にさせるには十分すぎた。
重い瞼を鬱陶しげに開けて、音源を追って首を巡らせた先に高音発声の犯人は立っていた。
「へへへ、ようやく見っけたよ神代くん?」
その犯人の姿は、八重歯を剥き出しに獰猛に笑う短い髪を結い上げた少女と、その背後に隠れるようにして顔を覗かせ大きな眼鏡をかけた三つ編みの少女の二人組だった。
見るからに体育会系と文学系な少女二人組は異様なようで、しかしそれでいて適切な組み合わせをした“ギャップコンビ”であるように見えた。
そう、彼女らの名前は――
「……すみませんが、どなたですか?」
「そこからかっ!?」
心外だ、とでも言いたげに大口を開くポニーテール少女。
神代も何も考えなしにそう言ったわけじゃない。女性に誰だと尋ねるのも失礼だと重々承知だし、故にそれなりに記憶のなかを模索したつもりだ。だが、元々物覚えの良いほうではないためか、神代の脳内には欠片として彼女達の印象がなかったのだ。
ポニーテール少女の背後で「ま、まぁまぁ」と仕方なさそうに、しかし残念そうな面持ちで宥める眼鏡少女は、「こ、神代くんとまともにお話するのはこれが初めてだし……知らなくても無理ないよ……」と、さりげないフォローを入れてくれる。
「だからってさぁ」とポニーテール少女は不満げな様子を見せるものの、一息吐くことで言葉を呑み、気持ちを留めることにした。
「んじゃあ、持ち直して自己紹介と行きますか。あたしの名前は來賀谷 津樹。呼び方はまぁ自由だけど、りっちゃんだけは勘弁ね。それはこの子だけに許した呼び名だから。他の奴に言われると背中がかゆくなるの」
オーケー? と念を押すように語尾に付ける來賀谷と名乗る少女は馬の尻尾のような髪を振った。
意識していなかったが、よく見ると顔立ちのよい少女だ。快活そうな雰囲気を醸す輝きを秘めた瞳に、伸びた鼻梁。女性にしてはやや小さいほうか、結い上げられた髪が彼女の活発さと幼さを更に掻き立てていた。
「で、そのりっちゃんは一体なんのよ――」直後、風切り音と生々しい皮膚と肉の嫌な破壊音が神代の隣で鳴った。
ベンチを超えて吹き飛ぶ白い影は緑の生えた庭へ見事なまでの顔面不時着を果たす。
恐る恐る、タカの姿があった方へ目を向ける神代。
タカの代わりに存在する、血痕の付着した拳。それらを振るったであろう快活な……否、暴虐なる武神がそこには居た。
「あたし、これでも小さい頃から空手やってて自分で言うのもなんだけどそこそこ上のクラスなんだよね~」
にこりっと、寒気のする笑みを貼り付かせて、
「だから、何を言いたいかは……わかるよね?」
嗚呼っと、神代は瞬間的に悟った。
この御方には逆らうどころか、するなと言われたことはしてはならない、と。
「さぁ、いつまでも隠れてないで次はあんたの番よ?」
言って、ぐいぐいと背後に隠れる眼鏡少女を前方へ押し出す。
「ふぇ!? ちょ、りっちゃん!??」と間抜けな声を上げながら踊り出された眼鏡少女。今にも泣きだしそうな表情はまるで集団でイジメているような気分にさせられてしまって、居心地が悪くなった。
「ほぉら、あんたが言いだしたことでしょうがっ」
「だだだからってそんないきなりなんて……!」
「いきなりもクソもないでしょうが! これでいきなりとか言ってたらそれこそ一生名前覚えてもらえないハメになるんだよ? わかってる?」
「わ、わかってるよぉ……」
口ごもる眼鏡少女は意を決したように首を持ち上げ、神代へその視線を向けた。
うっと思わず息を呑んでしまう。先程のタカの惨状を目の当たりにしたのだ、下手な事をすれば再び言葉通りの鉄拳が飛んでくるに違いない。というか、会って数秒の人間を殴り飛ばす彼女の神経は如何なるものなのだろうか? 普通に考えて、それを“正常”と受け取れる者はいないと思う。
「あ、あの!!」
「は、はひ?」
「あの、えと、その…………ふぇぇ」
「なんで泣くんだよ!??」
神代も随分とテンパってはいたが、この少女はそれ以上だったらしい。
相当な人見知りなのか、それとも、神代がすさまじい極悪人に見えたのか……いや、後者はない、なくてあってほしいと願う神代であった。
「女の子に怒鳴ってんじゃないよ!!」
「怒鳴ってませんがすみませんでした!!」
反射的ツッコミと理性的謝罪が同時に吹き出た神代。もしも謝罪が付いてこなかったら今頃神代も背後に転がる白き藻屑と同じ姿になっていたかもしれないと思うと、背中を這う冷ややかな汗が止まらない。
はぁ……ったく、と來賀谷は呆れ顔を作って、
「はい、あなたの名前は?」
「ふぇ? も、百川 華……?」
「うん、それで? 趣味は?」
「え、ええと、しゅ趣味は! ピースパズルとかルービックキューブとかのパズル系! ……です?」
「好きな食べ物は?」
「グラタンとかサンマの塩焼きとか……あと! お鍋全般的に!!」
「好きな人は?」
「こうs……ってハアアァァ!??」
声の質が、変わった。
そう、素の驚愕。人が本当に驚いた時はどうやら声も顔も豹変するようだ。目の前の眼鏡少女、百川がとてもイイ例だった。
今までの物静かでおしとやかだった雰囲気は何処へやら、開いた口が塞がらないまま、瞳孔を見開かせて、驚愕を十二分なまでに表現していた。
「つーか、百川さん? 好きな人いるってことな――」
「違う違う違う違う!! ななななにを言ってるんですかまったく神代くんは!? 名誉棄損、否、セクハラとして訴えますよ!??」
見事なまでのテンパり具合だった。
こんなことで訴えられては身も蓋もないな、と思う一方、百川の異常なまでの反応に面白みが沸いた。きっと來賀谷も彼女のこのような一面を気に入ってるのだろう。
「ごめんごめん」と軽々しく詫びて、反省の色が見えない。完全に純情な乙女心を弄んでいる。
百川も苦労しているんだな、と神代はにわかに察した。
「で、神代くん。どう?」
「は? どう??」
突然振られた言葉に、必然的に疑問符が浮かぶ。
一方で、來賀谷はふふんと鼻を鳴らして、髪を振ると、
「そ。この子、華はあんた的に見て、どう?」
小悪魔風に微笑んで、曖昧な問いを献上してきた。
その隣でまた独りでに上擦った声で憤慨する百川。曖昧で、適当な問い掛けにせよ、他人をぞんざいに評価するわけにもいかないし、それこそ「どう?」と聞かれれば嫌でも見てしまうものだ。
騒ぎ立てる眼鏡少女を視界に捉えて、上から下へ、次に下から上へ、順に視線を移行させて気が付けば神代は観察に徹していた。
丸こくナチュラルに跳ねた睫毛はレンズ越しに覗く愛らしく大きな瞳を表現し、色白な肌はきめ細やかで触れるとプリンのような心地よい弾力が返されるような気がする。たなびく三つ編みは黒のそれよりも茶に属し、その艶やかで華やかな暖色の髪が与える彼女の物腰は柔らかく朗らかな雰囲気を醸していた。
結論から述べると、可愛い。一般的に置かれる美少女と凡人の指標が置かれてるとすればおそらく彼女は前者に当たる人物だろう。
だが、まだ足りなかった。ハイスペックな容貌を紹介してもなお、彼女を、「百川華」を語るにはまだ事足りなかったのだ。
その実態は彼女の異常なまでに発育された艶めかしい体躯。特に胸に携えた二つの西瓜。
そう、彼女は――巨乳だった。
一体どんな英才教育を受けてきたのかは定かではないが、その聳える双丘の存在感は際立ちすぎていた。
膨れ、溢れる夢と希望と栄養分。着用した学校指定の制服でもその魅力を封印するには至らない。
臆病で引っ込み思案な彼女とは対極した、偉大で尊大で寛大に居座るそいつは「百川華」という人物を語るための重要ピースとして存在した。
醸しだす魅惑に神代は思わず目を奪われる。謂わば凝視だ。
「おいっ、あんたコラ」
初めにその異変を感じ取ったのは本人の百川ではなく、來賀谷の方であった。
案外、人とは他人の視線の意図や意味に敏感である。その目に含められたものを汲み取れる能力が潜在的にあるのだ。アイコンタクトや危険察知ができるのはそれ故である。
この場合、來賀谷は神代の目に孕んだ何かに危険を感知したのだろう。
ぐるるっと凶暴に八重歯を覗かせて喉を唸らせ、獣の如き鋭利な眼光で神代を射抜く。
直感的に、このまま何も起こさなければ狩られると神代は悟り、即座に次なる行動を模索した。
「か、可愛いと思うっ! うん!!」
「へっ……?」
決行された行動は「ともかく百川を褒めろ」だった。
今來賀谷から向けられている注意を他人へと変更させることで強制的に話題と空気の入れ替えを図ったのだ。
案の定、空気は変わった。來賀谷を見る限り注意も百川へと逸れた。
好判断だ。ファインプレイだ。そう自らを褒め称えたい神代だった。が、
「あの~……百川さん?」
百川が、俯いてその口を閉ざしてしまった。
座って下方から覗きこむ形になる神代ですら、彼女の表情を窺えないほどの深い俯きように一抹の不安が生まれる。
「あ~さすがに不意打ちだよね~」と自身の頭をさすりながら困ったように苦笑を浮かべる來賀谷。まったく理解が追いつかないままに不安だけが募り、
「ちょっ、百川? もしかして俺、怒らせちゃった? 馴れ馴れしすぎたとかそういうのだったら謝るけど……」
「い、いえ! 全然そゆのじゃなくてっ!!」
「うわっ!」
瞬時に持ち上げられた百川の顔に腰を退かせた。急に動き出した人形がいれば誰だって焦るだろう。それと同じ原理である。
「むしろ光栄でしたというか誇らしかったと言いますか優越を感じられたと言いますかその……!」
早口でグダグダな言葉達でも、彼女は必死に紡いで、言葉を繋げる。
「その……嬉し、かった……です」
目は伏せて、身体も正対していないが、言葉だけは真っ直ぐに神代に向けられていた。
よく見ると、ほんのりと赤められた頬が映り、手もきゅっと握りしめられている様子が窺える。
なんだかこういう反応をされると、神代としても心境的に気まずかったりする。
「それで? 何の用があって来たわけ?」
助け船が来航した瞬間だった。
神代の後ろでいつの間にやら復活を果たしていたタカが、彼女らに用件を尋ねただけなのだが、この微妙な空気になりつつあった空間を清浄してくれたのは助かったと、神代は心中で安堵の息を漏らす。
翻って、彼女ら、特に來賀谷の方はこんなにも回復が早いことが驚愕だったのだろう。「あ……あ、ああ……」と震える人差し指でタカを指して、言葉通り愕然としていた。
「ああ、こいつ昔っから超打たれ強ぇんだわ。再生力もミミズ並みだしな」
「再生力の例え他にないかな!? トカゲの尻尾とかナメック星人とかあるじゃん? なんでそこでミミズチョイス!?」
「じゃあヒトデでいいか? めんどいし」
「ヒトデも良くないよ!! っつかなに? 最後の一言付くだけですげえ投げやり感が増すんだけど!?」
「で、なんの用なんだ?」
「無視ですか!? というかそれ僕のセリフだし!!」
律儀に一つ一つツッコミを入れる彼の忙しさには毎度感服する。よくそれで一日体力がもつものだ、と神代は呆れ半分関心半分の感情を抱く。
茫然から回復したのか、二度目の質問を得た來賀谷はニィッと意味深に笑うと、
「いや、もういいよ。用は済んだからね。まぁ後残っている用件とすれば、これからもよろしくってことを伝えることくらいさね」
「これからもよろしく?」
「うん。もちろん、あたしもこの子も、友達として……ね?」
言って、ニコッと愛想のよい笑みを浮かべる來賀谷。
意味深な物言いをするので何かと深読みした節があったが、どうやら無用な心配だったようだ。
「なんだ、んなことくらいだったら別に言いに来なくても――」
「みーつけたああああああああああァッ!!!」
会話を遮る怒気が込められた咆哮の如き絶叫が、中庭を揺るがした。
デジャヴ? と独りでに思考しながら絶叫の音源へと目を向ける。
その先には、三人の男子生徒が仁王立ちしていた。堂々と佇み、睨めつける眼光は確実に怒りを表現している。
と、そこで神代は気付いた。彼らの視線が自分たちの居座るベンチに向けられていることに……。
面倒なことが起こりそうな予感が胸を騒がせる。神代はざわつく不可思議な危険を信じて、立ち去ろう――としたが、
「どこ行く気だ神代進護ォォォォッ!!!」
三人のうちの一人、坊主頭の男子生徒が声を張り上げた。
嗚呼……やっぱ俺なのね、と神代は嫌な予感が的中したことに落胆を覚えながら、近づいてくる三つの影を視認する。
「神代進護……貴様、ただで済むと思うなよ?」
威嚇するように低い声に徹して告げる坊主頭は、そのこめかみに幾数もの青筋を立てていた。
「なにこのハゲ。あんたの知り合い?」
「ハゲじゃねえよ! 五厘刈りじゃ!!」
「いや、知らねえよこんなハゲ」
「だからハゲじゃ――」
「ハゲハゲ言うのはよくないよ? この人もハゲたくてハゲになったんじゃなくて、自然にハゲちゃっただけなんだから」
「被せんなあああ!! っつか、は? フォローのつもり? 泣くぞマジ泣くぞ。ふざけんな自然開拓言われたらさすがに傷つくんだぞちくせう……」
神代、來賀谷、百川の三連射砲が怒りに満ちていた坊主頭の心を即座に砕いた。トドメは確実に百川で。
「この子……天然というか、馬鹿正直にまんま言うから表裏ないんだよね……だからおもっきし真剣なのが如実に伝わるわけ」
なるほどな、と神代は相槌を叩いた。
なんというか、先に絡みに来たのは向こうの方だが可哀想な奴だと神代も少し哀れんでしまうほどの仕打ちだった。
「彼は、大場 健だよ」
神代の横で、例の人物の名前であろう言葉を呟くタカ。その顔は真剣そのものだった。
当然のごとく、「知ってるのか?」と神代が詰め寄る。
問いを得て、タカは小さく頷くと、
「賢者の長だ」
「賢者の長ぁ?」
聞き慣れぬ単語に、神代は疑問と疑念で顔を歪めた。
知らないということはわかっていたと言わんばかりに、タカは瞬時に解説に入っていく。
「そう、彼らはここに入学したと同時にその『賢者』と呼ばれる地位を、冠位を手にした者達」
神妙な顔つきで、タカは続ける。
まるで言葉にして出してはいけない畏怖対象を解き明かすかのように。
「右方の賢者、『巨漢のデータベース』篠田 雅樹。左方の賢者、『影の立役者』戸田 嘉人。そして、中央の賢者、『光沢の化身』大場健。彼らはそこにある未知と夢を追い求めて誰よりも先導を切り、危険を顧みずに凡人たちを誘う。そんな彼らは称賛と皮肉と尊敬を含めて、まとめてこう呼ばれた」
ごくりっと一同は喉を鳴らし、タカの次なる事実を待った。
ゆっくりと、緩慢に、けれどハッキリと、それは口にされた。
「性欲の三賢者」
「……もう死ねよ」
呆れの嘆息とともに一掃。そしてなぜかその異名に胸を張る三賢者。
きっと來賀谷も同じ心境なんだろう。同じように深い吐息を漏らして、額を抑えている。
百川に至ってはあまり上手く理解していないのか、あからさまにも小首を傾げて疑問符を浮かべている。
「……んで? その残念三賢者さんは俺に何か御用で?」
「誰が残念三賢者だオラ。お前……今回の選考で、誰に入れた?」
ぴくりっと、緊張で神代の片眉が上がる。
「さぁ? 誰が誰に入れたかわからないようにするために氏名不問だったわけだろ? なのにここで俺が誰に入れたかを答えるのは野暮ってもんだ」
「ほぅ……しらを切るか」
「……なんの話だ?」
向けられる疑いと威圧の目。対抗する神代。
気圧されておどおどと忙しなくなり始めるタカが目の端に映る。女性陣に関しては何の話か見当もつかないために話についていけていない様子である。
「いやぁ、な? 今回開催された選考でビブルカードの中身の数を集計したわけだが、どうやら“一人足りない”らしいんだよ」
「……それで?」
「その一人がお前じゃねえのかって言ッてんだよっ!!」
坊主頭、大場の憤懣を乗せた声が叫声が轟く。
「ひっ」と声にならない空気がタカから漏れるのを意識する。
「ちゃんと裏は取れてんだ。お前に渡される前に手にしていた奴、お前の後に手にした奴、そいつらから聴取すればある程度犯人は絞ることはできんだよ」
突きつけられる事実。
どうやら今回のこの選考を管轄しているのは彼らのようだ。管轄している者としてルール破りを犯した者はそれなりの制裁を加えなければならない立場にあるのだろう。
ハッ、と。神代は吐き捨てるように笑った。
そして――
「だから?」
開き直ってみせた。
血管がはちきれんばかりに大場の頭に血が昇る。
「だから? じゃねえよ!! てめえ、んなことして何ともならねえと思ってんのか!? アアッ!??」
「俺が誰かに入れたところで、あの選考は何か変わってたか?」
「は?」
うんざりしたような面持ちで、神代は言う。
イライラしているのはこちらも同じなのだ。
何も知らない人間が適当に騒いで、勝手に割り込んできて――神代にも怒りの沸点は近づいている。
タカから心配そうな眼差しが向けられているのを察して、神代は怒りを抑える。タカは知っている。彼の過去を、出来事を。だから今どれほどの憤りを覚えているかを察することができたのだ。
「『神童』――佐鳥 雫」
神代がポツリと告げて、その勝者を目端で捉える。
女子生徒を大量に連れ、数多の男子生徒の目を独占する少女が、優美な笑顔を振りまきながらそこでは食事を摂っていた。
その姿は見目潤しく、神々しささえ感じさせる凛とした紫の混じった妖艶な瞳。
ナチュラル且つ美しい輪郭。制服を押し上げる胸の張りは寂しいものがあるが見惚れる曲線美を描く五体。左目の下に儚げな涙黒子があるのが印象的である少女。
肩を超える黒髪は漆黒の輝きを秘め、黄金に煌めく陽光さえも霞み、取り込んでしまう美しさはもはや神秘じみたものがあった。
そんな彼女の見せる笑顔に、神代は舌打ちを叩きたい衝動に駆られる。
「結局は、あいつが圧倒的票数を得て“いつも通り一番”を勝ち取ったわけだろ」
代わりにと言わんばかりに憎々しげに神代は吐き捨てた。
そう、彼女――佐鳥雫はいつも一番だった。
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群。三拍子を全て揃えた正真正銘の美少女。
どの分野においても、どの学問においても、どんな人間と比べても、彼女は昔から一番であり続けた。それこそ圧倒的な才能をもって。
「あいつが一番であり続けることに変わりねえのなら、俺が入れていなくても何ら支障はねえはずだ。だからいちいち絡みにくんなウゼェ」
「……つ……って言うな」
「あ? なんだって?」
ぷるぷると茹でダコの様に顔を真っ赤にして、肩を震わせる大場に神代は耳を傾けたが、それは間違いであった。
「あいつって言うなっつってんだよゴルアアァァァ!!!」
腹式で放出された哮りに、神代の鼓膜がビリビリと震える。
同時に何事だと騒動を聴きつけて辺りがざわめき始めた。
「あ~、進護やっちゃった……」
「は、はぁ!? 俺がなにやったってんだよ?」
また静かに呻くタカの呟きを聞き入れて、神代は困惑のままに問い掛けた。
「彼らは確かに僕ら凡人を先導する『性欲の三賢者』という名があるよ。けど、それは表の顔さ」
「表の……顔?」
そう、と肯定を見せて、
「この世界は常に表裏一体。表があれば裏があり、陽があれば陰が付き纏う。彼らにも表があって、裏があるんだよ……」
「その表の顔が性欲の三賢者っつー呼び名じゃあ世話ねぇな……」
至極真っ当なツッコミも「そ、それはまぁ置いといて」と言われ、華麗に空を切ることになる。
「その彼らの裏の顔と言うのが……サトリン三人衆、さ」
「なっ……!? サトリン三人衆ってあの……!??」
性欲の三賢者は聞いた事がなかったが、その呼び名は小耳に挟んだ記憶があった。
サトリン三人衆――佐鳥雫を自らの唯一神として崇める佐鳥信者のなかでもトップクラスの宣教師の三人を指す。彼らが初めにサトリンという恥ずかしい裏のあだ名を付けたというのは巷では有名で、サトリン教を各所に広めていく新勢力として佐鳥信者を続出させて行っている。謂わば、アイドル親衛隊ようなものだ。
というかそもそもにして、神代が表は知らず裏を知ってるというのは裏の姿が表より前に躍り出てしまっているということで、それはつまり本末転倒というものではないだろうかと他人ながらも神代は心配に思ってしまった。
「おい、篠田。例のものを」
「御意」
大場からの指示を受けた篠田は脇に挟んでいたタブレットを起動させ、軽快にタップし、ある事項に達したところでその手を止め、眼鏡をくいっと持ち上げる仕草を見せると、
「佐鳥 雫。一○月六日生まれ。身長一五六センチ 体重不明。趣味は音楽鑑賞、好物はカレーライス、居場所はデスクちゃん。容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群の天才中の天才で小さな頃から『神童』と呼ばれてきた少女。完全記憶能力と呼んで差し支えない記憶力と吸収力から過去から現在まで全分野に置いて負け知らず。さらにはその、ほど良い長さで綺麗に手入れされた黒髪と慈愛と包容力に満ち溢れた笑顔から『日本のナイチンゲール』との呼び声も高い彼女! この人に癒されたいランキング! 彼女にしたいランキング共に一位!! ……以上、サトリンの実態データ。まだまだ情報は募集中だ」
「他人の個人情報募集すんな! んでもって途中から興奮もし出すのもやめろ、シンプルにキモイ」
「ちなみに金は弾むぞ?」
「ブラックな手口使用してんじゃねえぇッ!」
これら膨大な情報の数々がマネーによる力というほとほと呆れる裏事情を神代は知ったのであった。
「どうだ? 貴様などより俺達サトリン三人衆のほうが彼女の事を知っている、否、知り尽くしている! いくら同小同中だとは言え偉そうにあいつこいつとサトリンを呼ぶのは少し無知すぎるんじゃないか?」
勝ち誇ったようにニタリッと口元を歪める大場。
それを認めて、神代はいよいよもって彼らが“可哀想”に見えてきた。
「無知、ね……」
言いながら、神代は重々しい腰をベンチから持ち上げ、サトリン三人衆の隣を横切っていく。
「お、おいお前っ! まだ話は……!」と突っかかってくる大場に神代は告げる。
「確かに、俺はあいつの事に関して別に何を知ってるわけでもない。お前らの言う通り、無知、さ」
けど、と神代は置くと、
「俺はそもそも知ってる知らない以前に、もう知りたいとも思わねえんだよ……あんな奴」
憎々しげに口ずさみながら話題の神童を横目で一瞥し、神代はその場を去った。
一瞥した際に神代の目に映ったのは、溢れかえる雑踏の隙間を縫ってこちらを射抜く、少女の嫌悪の眼差しだった。