第二話
狗の遠吠えが響いた。
タユラは竹林の合間を走り抜ける。起伏の激しい山中であった。右に左に時には跳ぶ。足元に積もった落ち葉や土を蹴散らしながら、道なき道をただひたすらに走る。その姿はまるで鹿が山肌を駆け下りるようであった。
夜の山はひたすらに暗い。竹林の合間から覗く月が頼りなく地上を照らしていた。勢いが過ぎたのか、眼前の竹に肩をぶつけた。「うぐっ」と呻き声を漏らしてふらつく。頭を覆っていた麻布がはらりと落ちた。ほつれた髪が月明かりに露わになる。そこにあるのは金の輝き。少女は金の髪色をもっていた。年のほどは14、5歳。麻の貧相な庖に身を包む少女はよくよく見れば傷だらけである。裸足の足裏は血で汚れ黒くなっていたし、脚や腕は掠り傷が数え切れないほどあった。やせ細った体躯は惨めで、とても健康的には見えない。息は荒く額から汗が止まらず流れている。疲労と憔悴に苛まれているのは一目瞭然であった。
それでも少女の目には強烈な意志の光があった。生きることを切望する目だ。髪色と同じく金の瞳が闇夜の中で爛々と輝いていた。
ぶつけた肩を押さえながらも少女は再び走り出した。疾走の中で長い金髪が棚引く。狗の遠吠えがまた聞こえるとともに、複数の人間の足音が彼女に近づいてくる。少女は追われていたのだ。
『彼奴ら一体何なの』
逃走の最中、タユラは舌打ちして背後を振り返る。今は暗闇で見えはしないが、追いすがる者たちはみな男であった。数は少ない。何やら布を幾重にも体に巻いていた。袈裟懸け、頭巾、首をすっかり覆う布、手には山伏がもつ熊除けの鈴が付いた錫杖。月明かりの下でちらりと見えた彼らの姿だった。
『山伏なのか』
男たちが話す言葉はタユラには全く聞き覚えのないものだった。良く聞く言葉よりも速くて荒い印象を受けた。
『そんなことより』
後ろから追いすがるのは男だけではない。タユラの耳には確かに獣の足音と息遣いが聞こえていた。狗がいる。タユラに分かる限りで4匹。肝が冷えた。夜の山で狗になど襲われるなんて最悪だった。ただの山犬ならまだいいのだが、相手は群れた猟犬だ。ふっふっと吐く息が一層荒くなる。何時、闇の中から牙が食らいついてくるのか分かりようがなかった。
タユラはただ前に進むだけでなく出来るだけ不規則な進路を取った。彼女は昔野生の山犬が猪を狩るのを見たことがあった。山犬達は猪を四方八方から囲み、執拗に後ろ脚の腱を狙っていた。決して正面から襲わず、常に囮を使い、一匹で戦うことを避けていたのだ。逆に言えば狗たちは陣形が揃わない限り、攻撃する危険を冒すことはない。本来ならば獣に背中を見せるのは悪手だが、猟犬となれば話は別だ。追い込まれた上に、人間にトドメを刺されてしまう。タユラは軽快な動きで狗の陣形を攪乱する。欺瞞的行動や時には目に映った影に攻撃する素振りなどを見せる。効果はあるようだが、何時までもそのような事を続けられるわけがない。自分の体力の限界を感じていた。
タユラの心に焦りが芽生え始める。ふと、彼女の耳に水しぶきの音が聞こえてきた。近くに滝かあるいは流れの強い川がある。
『これが好機か』
タユラはここにきて一転攻勢を決意する。これ以上、逃走に体力を消耗するわけにはいかなかった。人間に追いつかれる前に、せめて狗だけでも始末しておきたかった。
『見えた』
竹林の先に急崖が見える。下には川が流れているのだろう。上流側に滝があるのも確認できる。ここは谷となっているらしい。
タユラは竹林を抜けて崖にまで辿り着いた。その途端に反転する。ざっと音を立てて狗が現れた。左右に1匹ずつ、前方に2匹いる。獣とともに尋常ではない速度と持久力で駈けてきたのだ。何とか人間たちを随分遠くに置き去りにすることは出来た。多勢に無勢、無手にて背水の陣である。只の人であれば絶望しかない状況だ。タユラは小石は疎か、棒きれさえ手にしてはいない。そうする余裕がなかったのか、否、必要なかったのだ。
もはやこの場に人はいなかった。
低く、低く、タユラは喉の奥底から唸り声を鳴らす。金の毛並みは月光を受けてはためき、暗闇の中で瞳の輝きが増した。霊力が肌から噴出する。それが少女の爪に纏わりついた。それこそが彼女の武器であった。黄金の妖魔が闇夜にあった。少女が操るのは紛れもなく妖力。人でありながら、妖力を操る者。世にも珍しい半人半妖。それがタユラであった。狗たちはその禍々しい気配に警戒を強めた。
この膠着状態を先に打ち破ったのはやはりタユラの方だ。肉食獣が叫ぶかのような雄叫びとともに前方の2匹に飛びかかる。その狗たちは素早く左右に飛び退く。もともと左にいた一匹が真後ろに回り込み、右にいた一匹がタユラの踵を狙う。掠るようにして噛み付くそれは、後退しながらも牙で引っ掻き、獲物を削りとるという実に巧妙な攻撃であった。自らの危険を抑え、獲物に手傷を負わせる。獣の知恵としては上等だろう。だが、タユラはその意図を読み切っていた。
一瞬で反転し、蹴り抜く。足運びは怪速。先ほどの強襲とは比較にならないほど速い。鎌のような一撃は狗の頭部を捉えた。ぎゃん、と甲高い悲鳴を上げる。急いで後退するその一匹にタユラは猛烈な追撃を仕掛けた。包囲網から一瞬で抜け出し、また蹴りを加える。脚の振り抜きはやはり目にも留まらぬ速さで狗の腹部を捉え、その身を崖から吹き飛ばした。どの狗たちもそれを止めることは叶わず、ただ見ているしかなかった。
ここにきて狗は理解する。獲物は自分たちよりも遥かに素早く動けるのだ。タユラは再び背水の陣の構えを取る。狗は一向に手を出そうとはせずに、ただ牙を剥いて威嚇のみを行う。賢い獣たちはひとまず増援を待つことにしたらしい。彼らはけたたましく鳴いて人間たちを呼び寄せようとしていた。勿論、抜け目なく攻撃の機会を窺いながらである。
タユラとて悠長にそれを待つ気はない。今、この場で狗を全滅させるため、腕一本くらいなら失う覚悟はあった。だからこそ攻める。
一度見せた手は通用しない。タユラは左手側の1匹に狙いを定めた。明らかに他の2匹より小さい。恐らくは群れの弱点である。
タユラは一歩でその狗に詰め寄り、妖力を纏わせた爪を振るった。狗は何とかタユラの死角に回り込もうとする。左手側は崖であるため、タユラの振るった右腕をかいくぐるしかなかった。同時にタユラの正面にいた狗は逃げる狗と入れ替わるように、彼女の右肩に飛びかかる。タユラの背後を取る狗は脚の腱を狙って牙を剥く。
実は体の小さな狗は小回りの利くことから、群れの中で囮として働いていた。正面の狗は骨太厚皮の巨躯で鈍重であるため牽制と盾役。本命は最も速く鋭い一撃をもつ背後の狗であった。最初から背中を向けるのを狙っていたのだ。群れの弱点をも利用して策に組み込む。これが狗たちの狩りであった。
半呼吸にも満たぬ一瞬の攻防。踏み込みにして一歩の動きで一連の攻防が展開されていた。 だが、狗たちの目算以上にタユラが速かった。振り下ろされた爪は狗の後ろ脚の付け根辺りを切り裂く。狗たちの誤算。それは一秒にも達することのない差だったであろう。それでも十分であった。
右肩に飛びかかる一匹の影をタユラは察知していた。腰を基点に転換。2匹を視界に収めながら、半歩退くことで僅かな間合いを生み出し、身を守るために右腕を突き出す。タユラは盾として腕を犠牲にするつもりだった。彼女の腕に鋭い牙が深く突き刺さる。頭の血が沸騰しそうになるほどの強烈な痛みが伝わる。タユラはそれに耐えた。集中のあまり視界が狭まり白む。飛びかかられた勢いをそのまま引き寄せるように腕ごと体を反転させる。そして相手に次の行動を許すより速く、左手を一閃させた。タユラが反転した時点で腱への攻撃を諦めていた狗は追撃の機会を失っていた。ここにおいてはその慎重さが仇となった形だ。タユラの腕に食らいついた一匹は必死だった。何とか首をめちゃくちゃに振るい、体を捻ることで、傷口を広げ、抱きつくように爪を引っ掛けて彼女を地面に縫い付けようとした。だが、息を吐く間もなく、タユラは左手の爪で狗の首を断ち切ってしまっていた。
何もかもタユラの前では遅すぎた。普通は噛まれた時点で隙が生じるはずだった。普通ならばである。タユラは妖魔の血が流れている。身体は強靭で痛みに対して耐性があった。怯むべきところで怯まず、隙が生じるべき瞬間に次の一手を打っていた。だからこそ一瞬の攻防の中でも常に先手を取ることが出来たのだ。
最後の一匹は呆気ないほど容易く刈り取られた。単純に速さで攻められ、両目を一文字に裂かれた。悲痛な叫び声を上げながら、眼を失った狗が崖から脚を踏み外し落ちて行く。小さな狗は逃げた茂みの先で失血死していた。
タユラは止めていた呼吸を再開した。一気に力が抜けて膝から崩れた。限定されていた生理機能が復活する。心拍数が正常になり、酸素を補給するため呼吸を開始し、熱を排出するため発汗する。途端に右腕の痛みが意識された。今度は痛みで視界が白む。今にも意識が飛んでいきそうだ。ただ無視できるだけで、感じないわけではないのだ。
「ううっ」
肩を震わせながら傷口を圧した。血の固まりが膿のようにコポリと溢れ出す。胸の前で抱え込んだ腕が焼けるように熱いのに、足の爪先から背筋までが凍えるように冷たかった。
ふぅふぅと息を荒くしながらも立ち上る。傷口からの出血は少ない。本格的に抉られる前に首を刈れて幸運であった。正直言って、右腕は失うつもりだったのだから動かすことが出来るだけでも儲けものだ。戦いには何時も運任せの場面がどこかにあるものだ。地面に転がった狗の首が怨めしそうにタユラを見上げていた。
出来れば早く傷口を洗浄したい。妖魔の半身であれば何とかなるかもしれないがやはり心配である。と言ってもタユラは生まれてこのかた病気とだけは無縁であった。怪我をしても治りやすい体質だ。結局狗たちの誤算は全て、タユラが半妖であったことに起因する。非常に良く訓練された猟犬であったが、妖魔を相手にした経験がなかったのだろう。人間もまた妖魔に不慣れな者たちだろうか。
『退治屋ではなく素人か。あるいは単に人さらいか』
一息吐いたタユラは再び走って山を降り始めた。狗を失った男たちは追跡に手間取らざる得ない。人浚いなら諦めるだろう。半人半妖の身ならば人からも妖魔からも迫害される。人里に溶け込もうにも容姿と体質から疎まれ、妖魔からは弱者として切り捨てられた。命を狙われることなど日常茶飯事だ。狗は厄介だったが、妖魔ほど危険ではないし、そもそも人間の数が少ない。数がなければ人間など無力なのだから、その自覚がないなら敵は余程愚か者だ。
見るのも飽きてきた竹林を抜けて、タユラは川辺に辿り着いた。ちょうど狭い谷を渡るところだ。狗との戦闘があった場所から大分下流に下っている。上流の滝の音は全く聞こえず、僅かに蛇行する川の流れは遅く、水深も浅く見えた。少女は竹藪の影から周囲を警戒する。逃走路の偽装などまどろっこしいことわせずに一直線に駆けてきたのだ。恐らく追跡者は大した苦労もなく、こちらを追いかけているだろう。タユラが追跡者を撒こうとしなかったのは、その圧倒的な身体能力を活かすためだった。そして、目論見通り十分に距離を引き伸ばすことはできたはずであった。タユラが足を止めた理由は傷口の洗浄である。
『何時までもこうしているわけにはいかない。ここを抜けたら向こうの山を越えよう。流石にそこまでは追ってこないだろう』
里で暮らせないタユラはそれこそ修行中の山伏さながらの生活を送ってきた。偶に里で物を集める(拾ったり盗んだりする)時以外は基本的に山にいる。追われることになった日も、山で筍を取っていたのだ。里より山に詳しいほどだ。山の1つくらい軽く越えられるはずだ。
目に映る景色に変わり映えはないものの、竹林の闇が酷く不気味に思われた。それでもタユラは意を決して川辺に足を踏み入れだした。上流に比べれば川辺の石は小さく細かい。平坦な砂利の地面の上を警戒しながら素早く走り抜ける。川は殆どが浅瀬となっており、徒歩で渡るのに問題なかった。
川を渡り切ってからタユラは傷口を流水で洗い始めた。冷たい水の中で右腕がジクジクとした痛みを訴えてくる。満足がいくと次に少女は貫頭衣の腰を締める帯布を解き、それを水でバシャバシャと洗ってから、右腕をキツく縛った。一応の止血が済むと彼女は水で何度か顔を洗ってから、生水を躊躇なく口に含んだ。タユラは今まで生水を飲んで腹を下した経験がなかった。野生動物さながらの胃袋である。
いよいよ夜も更けた。生い茂った苔の水滴が月光を弾く。川の流れはおとなしく静寂が闇に溶けているようであった。
バサリ、バサリ。
ちょうどタユラが夢中になって水を飲んでいる最中である。重々しい羽音が頭上で鳴り響いた。
驚いて振り向く。目にしたのは闇夜に浮かぶ青い双眸。月と見間違えんばかりの2つの輝き。
「おや。山が騒がしいと思って来てみれば、薄汚れた鼠が1匹」
あからさまに見下したように冷徹な視線を向けてくる。白い山伏装束に錫杖と烏帽子、そして漆黒の羽をもつ異形の姿。鴉天狗である。若く流麗な青年の姿だ。翼と同じく漆黒の髪は首に掛かる程度まで伸ばされ、長い睫の奥には鋼玉のように輝く青い瞳があった。薄い唇が無邪気な残虐さを形取るように歪められた。
「うわあ。汚い汚い。惨めで醜い、お前の血で川が汚れてしまった。これはいけない。これは許し難い」
タユラは石のように固まって動けなくなっていた。呼吸の仕方さえ忘れてしまったようだ。
「ねぇ。何か言ってごらんよ」
喉の奥が引きつるばかりで言葉らしいものは一向に出てこなかった。ただ身を固くして小さくなっていた。ちょっとでも気に障ることをすれば終わりだと本能が告げていたのだ。まるで理不尽の権化であるかのような存在を前に冷たい汗が背を伝うのを感じた。
「あはは。怯えて声が出ないのか。本当に無様だなあ」 何を言えばいいと言うのだ。まるで害虫を見るような視線を向けてくるような相手に、何を言えば許されると言うのだ。 極度の絶望感がタユラの存在を消し去っていくようだった。
「嗚呼。見ているだけで虫唾が走る。存在自体が許されないよ。お前みたいな半端者」
鴉天狗が錫杖を高く掲げた。
「滅せ」
無情な言葉が鼓膜を叩く。鴉天狗の姿が視界一杯に映っていた。
『殺される』
自失していたタユラは我に帰る。そして、一目散に逃げ出す。脇目も振らず、砂利が脚や腕に刺さるのも気にせず転がるようにして這いずるようにして逃げた。
「あっはは。面白い面白い。そらあ、逃げろ逃げろ。逃げないと殺すぞお。逃げても殺すぞ。あっはははは」
目の前に見える森の中に走り入ろうとした正にその時、背後から錫杖が振り下ろされた。肩の辺りを強打された。ああっ、と痛みに声が出る。目尻には涙が溢れた。それでも足を止めることだけはしなかった。必死に草木を分け入り走る。
鴉天狗は愉しげに笑った。わざと狩りを長引かせるため木々の枝を飛び移って獲物を追う。時折、上から襲い掛かって錫杖で少女を打ち据えた。直ぐにでも殺すことは出来たが、鴉天狗の残酷なやり口は無力な獲物を玩具にする猫そのものだった。打つ度に上がる痛々しい悲鳴に不純な興奮が高まるのを感じた。普通ならこんな汚らしい半端者を相手に欲情はしない。単に苦しむ様子やそれでも必死に生きようとする姿が可笑しかった。飽きるまでなぶったら犯してやっても面白いかと、鴉天狗は気紛れに考えていた。生きる意志がなくなって自分から死にたくなるまで沢山の絶望と恐怖を与えてやるつもりだった。
この鴉天狗は己の本性に忠実であった。妖魔は狩り奪う側の存在である。鴉天狗のように強い妖力と高い知性をもつ妖魔も例外ではない。不老不死の命が与える生の倦怠感から一時の解放を味わえるのは狩りをする時か命賭けの闘争をする時のみであった。
半人半妖のタユラは強靭な身体をもつが精神は人のそれである。常に狩られ奪われ続ける人生だった。
タユラはとある流浪の行商人が手を出した村娘から生まれた。その女は14歳にして美しく、その付近では一番の器量よしとして評判だった。
産まれた子は異形だった。奇形児ならば或いは妖魔の仕業として子だけ山に帰されていただろう(実質的には捨てることになる)。だが、この女の場合は違った。もしかしたら他の女たちの嫉妬があったのかもしれない。金髪金眼の子は不浄の証という噂を流され、娘は産まれたばかりの赤ん坊共々村から追放されてしまった。それは酷い扱いで、村人たちに追い掛け回され、彼女は持つものも持てず這々の体で逃げ出したのだった。
幸か不幸かは分からないが、少なくとも幸運だったのだろう。女を匿う者がいた。死に場所を求めかのように山を彷徨く彼女に偶然出会った山に住む呪術師の男だった。若くない上におぞましいほどに醜い男だったが、薬師としての腕は確かだった。彼は女を妻とした。
男が作った薬を里に売って見返りに米などを貰い生計を立てた。山では小さな畑を耕し、狩りもしていた。呪術の心得がある男の力で山でも安全に暮らせた。男は薬のお陰か年の割に精力旺盛で毎晩と言わず暇な時なら何時でも、美しい妻の体を求めた。タユラは母が好きだったが、母を好き勝手にする男を嫌悪していた。そして、そんな生活が10年ほど経ったある日、タユラは男に強姦された。
『お前が生きているのは俺のお陰なのだから今までの恩を返さなければならない』と醜さばかりが際立って見える顔を好色に歪めて迫ってきたのだ。もう老人と言っていいような年の男からは死臭に似た強烈な悪臭いがゾワリとした。餓死寸前の浮浪者と見間違えんばかりに痩せ細り縮んだ男の体が覆い被さってきた時、タユラは混乱と嫌悪で嘔吐した。余りにもおぞましかった。痛みと恐怖で泣き叫び母を呼んだが、母もまた涙を流して家の奥で震えて縮こまるばかりだった。
引き裂かれるような痛みが延々と続いた。上下に揺れる視界が霞んだ。拒絶し喚く度に『恩知らずめ』と罵られ頬を打たれたので、ただ黙って耐えた。どれほど経ったか分からない。下半身を血と体液で汚したタユラの腹の上で男は果てた。
のそりと立ち上がった男は家の奥で怯えて固まっていた母に掴みかかり押し倒すと、そのまま犯し始めた。
何もかも滅茶苦茶だった。どうしてこの世界は私に優しくしてくれないのだろうか。奪われている。目の前で母の美しさが汚されている。私を産んでしまったからか。私が生まれてきたせいなのか。
『タユラの金のお目も髪も天女様みたいね。私なんかの所に、こんなに綺麗に生まれてきてくれてありがとう。きっと天神様がタユラを綺麗に作って下さったんだわ。だからタユラはしっかり生きて、そのご恩に報いないといけないね』何時かの母にそう言われた時のことを今でも覚えている。本当に嬉しかった。誇らしかった。自分はやっぱり特別な存在なんだと思った。絶対に人目に晒さないよう言われていた金髪金眼を水面に映して1日中ニコニコしながら眺めた。世界の中心に自分がいることを無垢に信じた。
母の押し殺した嬌声が聞こえる。男は常備している媚薬を使ったのだろう。やがて母は快楽に染まりきった甲高い声を狂ったかのように上げ始めた。
奪われている。母の暖かさが損なわれてしまっている。私の場所が壊れてしまう。
どうして世界はこんなにも無惨なのだろう。残酷で悲惨なのだろう。優しく美しい母を私から奪い取ってしまった。
違う。母の人生を奪ったのは私だ。私が生まれたから、母は苦しまなければならないのだ。
涙が流れた。とめどなく。ああ、と悲嘆に喉を鳴らす。
生まれた時から、私は世界の中心にいなかったんだ。否、そもそもの初めからそこには誰もいなかった。それが真実なんだ。世界はどうしようもなく残酷なんだ。幸運も不運もなく、ただ悲惨な偶然だけがそこにあって、そいつは誰かれ構わず大切な何かを奪い去っていく。
床の冷たさへ背中から体温が抜け落ちていく。腰から下のじんじんとした痛みは何時まで経っても消えてくれない。
この世界は私を救ってはくれない。当然だ。悲惨な偶然には何の意図も意味もないのだ。逆もまたない。幾ら願っても信じても世界にとって私たちは何ら特別な存在ではないのだ。私が死んだところで風1つも吹かない。そう、些細な出来事。生きることも、同じか。
脚は震えるばかりで力が入らない。それでも肘を支えに何とか立ち上がった。太ももを伝う液体の感触は敢えて無視した。
待っていても救いはない。世界に私たちの居場所など塵ほどないのだという残酷な真実。それから眼を背けて、何時か何とかなると信じて待って耐えて、情けのない妄想の海に浸かってる奴らはただ奪われ続けるだけだ。そうやって死んでいくんだ。
目前に繰り広げられる性の饗宴。母は女となって快楽に溺死していた。男は私と母を汚した怪物だ。これが私の世界か。脚の震えは何時の間にか止まっていた。失われていた現実感が戻ってくる。いっそ五感に伝わる全てのことを否定出来たならどんなにか良いだろう。
『奪われるのなら』
『奪ってやる』
『私が奪ってやる』
もう何かに祈るのは止めよう。世界が私を救ってくれないのなら、私は私の手でこの世界を生きてやる。
常に狩られ奪われ続ける人生だった。
『奪えるものなら奪ってみせろ』
『だがただで済むとは思うなよ』
『私もお前たちから奪ってやる』
ただ一方的に狩られ奪われるだけの人生ではなかった。タユラは悲惨な偶然に抗い続けた。消して屈することなく自らの足で立ち続けた。誰にも頼らず自らからの手足で生きるのがタユラの矜持だった。
あの日、タユラは初めて妖力を発現し男を殺害した。その日から母が病に倒れ亡くなるまでの2年間は本当の意味で母を自分だけのものにした。だが、そこにあったのは母子関係ではなく、庇護者と被護者の関係だった。もはやタユラは母に母性を求めなかった。母の守護者として最期を看取り、彼女を墓に埋めた。母は安らかに死んでいった。
里の者に気が付かれる前に全てを処分して旅に出た。定住の地を求めた。東に東に山を越え川を越えて行く過酷な旅だった。色々なことがあった。一時期は人とともに生きようとしたこともあった。だが、結局は裏切られ奪われた。何も信じず自分の力だけで生きていかなければならない。それを思い知らされた旅だった。
『またお前たちは奪うのか』
『私を嘲笑うかのように苦もなく奪えると思っているのか』
『ふざけるなよ』
そこにあるのは意図も意思もない全きの偶然。だが、タユラは恨みと怒りをもって抗う。決して負けはしない、屈しはしないと。
タユラは森の中を走る。木々が飛び去るように視界を流れた。
「あっはは。ああ。もう厭きたわ」
軽薄な青年の声が耳元で聞こえた瞬間。腰を強かに打ち払われた。あっと声を上げる暇もなく転んだ。胸から俯せに倒れたタユラの背中に鴉天狗は降り立った。ふむ、と彼は思案して少女に告げた。
「お前は痛みに我慢強いと見える。だからこれからお前を犯しながら殺すよ。泣き叫べば泣き叫ぶだけ長く生かしてあげるから、出来るだけ頑張って泣き叫んでね」
『また奪うのか』
片手でタユラの頭を押さえつけながら、鴉天狗は彼女の貫頭衣に手を伸ばした。
『また奪われるのか』
『絶対に許さない』
『私から奪うもの全てを絶対に許さない』
『私が奪ってやる』
『お前たちから何もかも全部、私が、奪ってやる』
鴉天狗が背中から服を引きちぎった。月光にタユラの白い肌が露わになった。それと同時にタユラは己の四肢に全身全霊を込める。妖力を漲らせ、喉から獣に似た絶叫を発する。押さえつけていたはずのタユラが予想だにしない力で起き上がる。不意を付かれた鴉天狗はおっと一声驚いて後ろに飛びす去った。起き上がると同時に振るわれた腕が彼の首に迫っていた。おおっと今度こそ驚愕して避けようとしたが、それより速くタユラの爪先が届いた。
ズリュッという音とともに首の肉が持っていかれた。鴉天狗は目を見開きタユラを見つめた。
「お前、半鬼か。まさか誇り高き鬼が人と子を成すなど。いや、そんなことはどうでもいい」
首の傷口は瞬く間に塞がっていく。それだけ見てもタユラが鴉天狗に挑むなど無謀だと分かる。
タユラは妖力を身に纏う。黄金の輝きが月夜に舞う。
「素敵だ。凄く凄くだよ」
鴉天狗は笑う。楽しくて仕方がない、子供のような満面の笑みだった。錫杖をタユラに向けて構えた。
「さあ。殺し合いをしよう。楽しい殺し合いにしよう」
鴉天狗は漆黒の翼を広げた。揺れる前髪の向こうで蒼く輝く双眸が細められる。口元には笑みを浮かべたまま。
対峙するその姿を目にして、タユラもまた楽しげに笑った。