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第一話

 里に春が来た。

 やっ、と勇ましい掛け声とともにイヨリは若木の枝から飛ぶ。

 少年は猫のようなしなやかさで降り立った。大地から生気に満ち満ちた匂いがハラリと舞い上がる。彼はすくと立ち上がるやいなや駆け出した。

 ハシラバ・イヨリは10歳を間近に控えていたが、未だに落ち着きというものを知らない。里の者は言う。『ありゃ、小山の猿大将も赤っ尻向けて逃げ出すようなやんちゃぶりで』。誰も彼も里の大人たちはその男の言いように然りと頷いたとか。

 だが、少年は思うのだ。『呑気して生きるには人生は短過ぎる!』。彼にしてみれば牛と一緒に日がな一日ぼんやりしている大人たちの何が良いのかさっぱりである。味気ないのだ。自分が生まれて来た意味も知らぬまま死んで塵になるなどごめんこうむる。

 抑え込みようのない快活さを十全とさせて里山を駆け抜ける。遂に少年は遂に小高い丘の上に踊り出た。林から少し離れて丘の先っちょにぽつりと一本の桜がある。幾重の春を越えてもその花は色を失わなかった。


『見ろ! 世界は美しいぞ!』


 轟と春の風が鳴る。切れ切れに流れる白雲は自由な旅人。ひとつがいの鳥が頭上を飛び越えて行く。丘から一面に里が見下ろされた。足元から扇のように広がる里。その向こうには輝く大地があった。青空を写し取った水面にきらきらと陽光を満たした水田ずっと遠くまで一杯に伸びているのだ。

 

 息を呑む。イヨリははたと思い出す、『俺はここに生きている』。それを一時の間でも忘れさせる世界の情景がそこにあった。かくも大きな存在の前では、彼の小さな意識など大海原を漂う塵屑に過ぎないのだ。その残酷な事実をイヨリは本能的に理解する。理解し畏怖すると同時にその世界の情景の一部として存在することに深い満足感を抱いていた。


『大人たちはこの感覚が怖いのだ。奴らには勇気がない。ありのままのことを知ることに怖じ気吐いて目をつむる』


 イヨリはスンと鼻を鳴らす。そのまま桜の古木の根元に埋もれるようにしてどさりと寝そべった。春の木漏れ日が柔らかに彼を包み込んでいく。 

 風がざんばらな緑の草原を撫でる。さわさわとまだ柔らな若葉が音を奏る。

 ゆっくりとイヨリの意識が溶け出して薄く広がっていく。不定形の意識は深く深く、どこまでも落ちていった。


 ハシラベの里は緑豊かな土地だ。広く浅い盆地で水源も多数あり、暖かく陽光にも恵まれていた。

 里を支配するハシラベ一族はヒムラ王政権が成ってから、国の中央で土着神を信仰する一派として大きな力を持っていた。 

 王政権の支配地は南北の海まで伸びる。西は傘下に押さえてきた国々が収まり、東は山々に阻まれ未開の土地となっていた。南の海洋諸国と西の海を越えた先の大陸国、東に点在するいくつかの小国と交流を持つ。王政権は建国前からひたすら東進を進めてきた。ハシラベ一族もその過程で恭順を示した豪族の一つである。

 新興国の王政権は大陸の技術を独占しており軍事力に秀でるが、歴史は浅く伝統的な権威に乏しい。

 初代国王は途方もない神通力を宿した天神直系の子孫とされていたが、それを信じる豪族はいない。何故なら今のヒムラに強力な霊力を持つ者はいないからだ。わずか3、4代で血が弱まるなどありえない。それに比べハシラベ一族の霊力は並外れている。当主のハシラベ・モリナガは『神渡し』と呼ばれ、その妻は『星詠み』において右に出る者はいないと言われた。

 

 当然ハシラベの姫を王政権が求めたが、両一族が血を交わらすことは一度もなかった。血よりもと霊力と魂の結び付きを重んじるからだ。 

 

 ハシラベ・イヨリはハシラベ本家の次男坊である。未だ力に目覚めてはいないものの、身に宿す霊力は既に4歳年上の兄を凌駕するほどであり、一族からの期待を集める存在であった。


 イヨリは穏やかな寝息を立てる。日に焼けた肌に凛々しい眉と漆黒の髪が映える健康児である。だが一目見てその性別を言い当てることは困難だ。神隠しを防ぐため、幼い男子を童女に扮する習慣があるからだ。

 貫頭かんとうの衣は水に柘榴の絞り汁を溶かし込んだかのような淡い色合い。肩口でキュッと縛った袖からは柳のようにしなやかな腕が伸びている。背のほどは歳の割には高いが、ぱっちりとした目、小綺麗に整った小さな顔とすらりとした体躯のため存外幼く見えた。

 くかぁ、と呑気な寝息を吐きながらもぞもぞと根の間で寝返りを打つ姿はさながら家猫である。 

 

 その時、一羽の鴉が里からすいっと飛んで来て、桜の木の枝に停まった。黒く美しい毛並みのそれは、くりくりとした赤い瞳でイヨリを見つめながら頭を傾げた。


「おやおや、イヨリ姫はお休みのようだね。何とも愛らしいことよ」


 ふと、どこからともなく聞こえた声は若い女のもの。声質は澄んでいるものの、どこか音の響きが妙である。 

 

 鴉がトトトと枝から幹を伝り降りて根に埋まるイヨリを覗き込んだ。


「うむうむ。可愛らしいの、可愛らしいの」


 鴉は右に左に頭を傾けながら何やら熱心に少年の寝顔を見ていた。そして、トトっと根から彼の胸の上に降り立つ。


「ほれほれ。何時までもこのような場所で寝ておると風邪を引くぞ。早よう起きな。早よう起きな」


 トントンと小刻みにサイドステップを踏む鴉。それをイヨリは煩わしげに寝ぼけながら払った。おわっと悲鳴を上げて根に飛び上がった鴉は恨みがましく少年を睨んだ。


「まったくもう。無闇につっつくわけにはし、引っ掻くわけにもいかんし。どれ」 

 

 ざっと風の音が鳴る。次の瞬間、夢か幻か、ふっと女の姿が現れた。人にとっては瞬きの合間に現れたように見えただろう。まるで僅かに書き換えられた写し絵をさっと入れ替えたようであった。女と入れ替わりになったのは鴉の存在である。

 根の間に横たわるイヨリに女はソッと覆い被さる。白と黒の狩衣のような山伏装束に鴉と同じ漆黒に輝く美しい毛並みの長髪。少し面長ぎみの白い顔には薄い唇と透き通った鼻梁、赤い瞳を宿し、泣き黒子が映えるつり目がちな目と涼しげな眉があった。秘密の悪戯を思いついた生娘の如き純真無垢な笑み。容姿が女性的な魅力を引き出すものであったから、かえってその笑みは蠱惑的である。

 衣擦れの音とともに女がイヨリに手を伸ばす。何束かの髪がパラパラと流れて少年の肩や首に落ちた。女の細い指が彼の顎から頬の裏を撫でる。白い陶磁器のような滑らかな肌と張りのある健康的な小麦色の肌が対照的であった。


「ふふん。早よう起きな。早よう起きな。さもないと浚ってしまうぞ。浚って犯して喰っちまうぞ」

 

 チロリと赤い舌が薄い唇を濡らした。明らかに息を荒くして興奮した風情の女が白い肌を赤く染めながら、少年に自らの唇を近づける。そして、ペロリと彼の頬を舐めた。


「んふ。美味しい」 


 熱い息を吐く。すると、どうしたことだろうか。不意に彼女の背中がもぞりと不気味に蠢き出した。アッと女が声を上げるとズルリと服の背から黒い翼が現れた。ハラハラと女の髪色と同じ漆黒の羽を散らしながら、ずいずいと広がっていく翼は遂に全長6mほどにまでなった。

 イヨリに被さるまま四つん這いになった女は荒く吐息を漏らす。木陰の薄い影の中、翼はなおより深い闇を作り出していた。彼女の赤い瞳は爛々とした怪しい輝きを放った。


「ふふ。相変わらず劇薬具合よ」


 修験者姿に鴉の翼。『鴉天狗』と人は彼女らを呼ぶ。里によっては時に神と同一視されることもある強力な妖怪であった。 

 

 むっ、と鴉天狗の下で呻き声が上がった。散々好き勝手に弄ばれていたイヨリがやっと目覚めたようだ。 

 鴉天狗はひょいと飛び退いて、さも事も無しげな涼しい顔をする。どうやら先ほどまでのお遊びをなかったことにする魂胆らしかった。

 むくりと頭を上げたイヨリが寝ぼけ眼混じりに鴉天狗をじとっと見た。


「彩。お前、俺が寝ている間に変な事してただろう」


「ふふん。何の事やら」 

 

 あやとは鴉天狗の呼び名である。普段からこの鴉天狗に悪戯されていたイヨリが彼女に向ける視線はとても胡乱げだ。

 イヨリが昼寝をしてから幾らか時間が過ぎていたようで、夕焼けが里を照らしていた。西の空を背後に背負いながら立つ妖艶な美女は良い絵になっている。 

 その光景に危うくドキリとしながら夕焼けに頬を赤く染めたイヨリは根から立ち退く。


「今日はもう帰る」


 少年がボソリと呟くと女が手を差し伸べた。幽艶と呼ぶに相応しい白い腕に彼は素直に手を添えた。そのままぽすりと綾にイヨリは抱きしめられた。彼女からは何とも言えない良い香りがした。彩が翼を一度バサリと広げた。


「のう、イヨリ。お前はやっぱり男じゃあるまいか」


 彩が己のイヨリの頭を見下ろして言った。彼は「女だよ」と小さく呟く。イヨリには性別の認識を阻害する呪術が施されている。母からも口酸っぱく忠告を受けてきた。力の弱い子供が妖魔に男と知られてはならない。知られたら浚われてしまう。 

 

「疑わしいな。カリヤの時もそうだった。彩は憎らしうて憎らしうて気が狂うかと思うたよ」


 カリヤはイヨリの兄だ。彩はイヨリの頭を撫でながら、自身の豊満な胸をわざとらしく彼の顔に当て、その反応を見ていた。

 居心地が悪そうに身じろいだイヨリが彩を見上げて睨んだ。


「早く帰るぞ。お前が母上に怒られても俺は知らないからな」


「おお、怖い怖い。それは堪忍ならん」


 彩は肩をすくめた。そもそも彼女はイヨリの母の使い魔であり、里山に入ったイヨリを迎えにきたのであった。彩はイヨリの体をギュッと抱きしめるとそのまま翼を広げて丘の頂上から飛び立つ。風に漆黒の髪をたなびかせて鴉天狗は空を滑り降りた。


 東と南の里山に隣接する形で密集した集落は扇状に広がる。西は湿原で水田が森林地帯にぶつかるまで広大に伸びていた。そして北には非常に美しく整った形状の山がある。この山こそが里の信仰の対象であり、御神体そのものである。山の南側の麓にハシラベ一族の集落が階段状に広がり山の高くに行くほど一族の中でも位の高い者たちが住むようになっていた。最も高く(それでも山の中腹までにはまるで届かない高さである)に本家の豪族屋敷があった。 

 

 里の上を飛び抜けて、彩はその豪族屋敷の掘りや塀の内側へと入っていく。門から暫くの馬小屋や使用人の住居にほど近い場所に降り立った。

 カランという彩の履く下駄が固く踏みならされた地面に触れる音。彼女に抱きかかえられていたイヨリは素早く彼女の腕から逃れて、キッと彼女を鋭く睨んだ。


「お前、尻触ってんじゃねぇよ! 馬鹿!」 

 

 顔を真っ赤にして叫んだ。翼を畳んだ彩はニヤニヤした厭らしい笑みを顔に貼り付かせている。


「女にしては肉付きが悪すぎるんじゃないかい。ええ。胸を揉んでもちっとも面白くない」


「これ位が普通なんだよ」


「何を馬鹿な。ナヅナを見てみろ。女ならあの位柔らかくないといかんな」 

 

 ナヅナとは使用人の子でイヨリとは同年だ。


「アホ言え。あんなのただの牛女じゃないか」


 イヨリは口悪く罵った。大人はナヅナをよく「育った」子と言うが、イヨリからみればただ単に太ったようにしか見えない。周りの子たちとは明らかに違ってきているナヅナにイヨリは違和感を感じていた。


「くくっ、姫様もも少し大人になれば分かるさ。ほら、手や足を洗っとおいで。彩は先に本邸に向かってるからね」


 そう言うと彩はタンと軽やかに地を蹴り飛び上がると翼を広げて飛び去って行った。

 それを見届けるとイヨリはふっと息を吐いた。彩には母の手によって呪術が施され、イヨリが己で自分が男だと認めない限りは他の彼の性別に関する情報の一切が認識できないようになっている。だから彩はあの手この手でイヨリの性別を聞き出そうとする。その手段のほとんどが痴漢紛いであるから、幼いイヨリであっても色々と気疲れしてしまう。

 彩は美人だ。力のある妖怪や神ほど美しいが、彩はその中でも格別だ。

 いっそ男だと言えばどうなるのか。そもそも母の使い魔である彩がイヨリに直接的な害を与えることは不可能なのだ。では、害されないのならば一体何をされてしまうのか。

 ぶんっとイヨリは頭を振った。何を馬鹿なことを考えている。母との約束を破る訳にはいかないのだ。


 井戸に向かったイヨリはそこでナヅナとばったり会ってしまった。


「あっ、イヨリ様。お帰んなさい」


 ナヅナはニコニコして笑う。イヨリと同じ貫頭の衣を着ていて(と言うのも、イヨリがナヅナから服を借りていたのだが)、イヨリほどではないがうっすらと日に焼けた顔は快活さを感じさせる。どことなくイヨリと似た雰囲気を持つ器量の良い少女であるが、こちらの方が随分と女らしいかった(当たり前だ)。

 手洗いですか。と訊くナヅナにイヨリはうんと頷いた。ならばと彼女は手早く井戸で桶に水を満たすと、イヨリを伴って近くの縁側に向かう。盆に水を満たして手を洗うように言うと、ナヅナはイヨリの足を手で揉んで洗い始めた。時たま濡れた少女の指がイヨリの足裏の弱い部分をなぞるとふんと息が漏れた。丹念にイヨリの足を洗ったナヅナはさっさと盆やら桶やらを片付けると少年の着替えの面倒なども見始める。イヨリは自分でできるなどと頭で思いながら、結局ナヅナのしたいように任せていた。本人のいないところでは悪態の一つは言ってのけるが、いざ目の前にすると黙りこくってしまう。ナヅナとは幼い時から一緒に遊んできた仲で、今も連れ立って出掛ける機会も多いが、昔とは決定的に何かが違ってしまったとイヨリは考えていた。


  始終、ナヅナに対してぶっきらぼうな態度を貫いていたイヨリは途中で彼女と別れ、本邸に向かっていた。

 時間を正確に知る術がないので、人がせっかちに動き回ることは少ない。優れた木工技術で造られた渡り廊下から西を見る。小池の脇に咲く春の花と水面に揺れる写し身が夕陽の光の中で溶け合う。地平線の彼方から差し込んだ柔らかな橙色がハシラベの里を底からたっぷりと満たしていた。

 

 じん、と痺れるような感覚が背筋を暖かくした。その温度がそのまま体中に広がって、目の端から溢れた。涙がゆっくりと顎の先まで伝う。

 ゴシゴシと着物の袖で目元を拭うイヨリの耳に人が廊下を歩く音が聞こえた。


「イヨリは情が深いね。けれど毎日泣いてばかりいては枯れてしまうかもしれないよ。あっ、それで胸も尻も育たないわけだ」


 耳に心地よい柔らかでありながら何処か掠れた声。良く聞き覚えのある声にイヨリは僅かに眉を寄せた。


「元から胸も尻も育ちませんよ」

 

 渡り廊下の先から声の主が現れた。


「くくく。我が妹姫が今日も彩にちょっかいを出されたと聞いてね。まっ、本人から聞いたわけだが。どうにも私は嫌われているらしい」


「白々しい。兄さんが悪い人だからいけないんだ」


 カリヤはくつくつと喉を鳴らして笑う。たおやかな指を顎に当てて笑う姿は宮使えの女房にも謙遜はないほど艶やかである。

 ハシラベ・カリヤは今年で14歳になる。霊力は弟のイヨリに負けるが、その頭脳と才は都でも持て囃されるハシラベの麒麟児だ。何よりもその美貌は人心を惑わす。英知を潜めた涼しげな目元が特に印象的で、全体的にはっきりとした造形の顔立ちに豊かな黒髪が流れる。玉のようにきめ細やかな肌は夕光を映して輝いていた。

 男物の着物を着ているが、それでもまだ男装の麗人に見えてしまう。声変わりの終わりのかすれた声は鼓膜をくすぐるようにして撫でるのだから、もはや性別の行方が不明なのである。当然の如く、かの鴉天狗はカリヤを女だと見誤った。曰わく「千年来唯一無二の(女)友達」と。真実を知った時には、茫然自失としたとか。彩はそれこそ妹に接するかのように姉貴ぶって友達付き合いをしてきた。カリヤの方も自ら進んで彩の前では女らしく振る舞っていたものだから始末が悪い。それ以来、彩はカリヤの事を「前世から来世まで続く不倶戴天の宿敵」として毛嫌いすることとなった。


「悲しいね。昔はあんなに仲が良かったのに。これもまた人と妖の宿命かな」 


 さも憂いに満ちた顔で哀しげに嘯いてみせる。


「兄上は誠実さが足りないのです。また都で女に手を出したとか。色癖の悪さに母上も嘆いておりました」


「おや、妹姫は可愛らしい。兄に嫉妬していると見える」


「弟として恥ずかしいと言っているのです!」 

 

「まあまあ、声が大きい。声が大きい。私も成人しているのだよ。大丈夫。里には迷惑のないよう、都に限っての遊びだからさ。それで父上も納得しているしね」


 父の名を出されたらそれ以上何も言えないのが辛い。ぶすっとむくれたイヨリは納得した様子ではない。それを見てカリヤはコロコロと鈴を鳴らしたように笑う。端から見ると仲の良い姉妹にしか見えないが、どちらもハシラベの男児である。

 兄のカリヤは動植物の声が聞き、それらを使役する力を持つ。その能力を買われて宮から諜報の仕事を与えられていた。情報を集める能力だけでなく、そこから大局を描く頭脳を持ち合わせていたカリヤは若くして相当な信頼を得た。だが、仕事柄、遊郭やらと関わる機会が多く、仕事と銘打ってちょっとした遊びをする悪癖があった。

 2年前まで、性別を偽りながら里で暮らしていた時には面倒見が良くて本当に大好きな兄(姉?)だったはず。力に目覚めて都に働きに出るようになってから色々と変わってしまった。


「さあ、イヨリ。あまり遅くなると母上が怖い。行こう。行こう」


 鼻歌でも歌い出しそうな調子の良さで弟の背中をトントンと叩くカリヤに、イヨリは溜め息混じりに頷いた。


 本邸は一本の杉の巨木を背後にして建っている。屋敷はそこを頂点として両翼を広げるかのように弧状に伸びていた。

 本邸は二階建てとなっており、その二階で酌を傾ける女がいた。木造の床に藁を織った敷物を広げてある。その上に座して肘を窓枠に預けながら、窓の外を眺めていた。窓枠では一羽の鴉が嘴で己の翼を熱心に掃除している。膝の上にはまだ6歳にも満たないであろう少女を乗せていた。


「失礼致します。カリヤです。イヨリとともに参上致しました」 

 

 階下の階段を登り切らぬところからカリヤが声をかけた。


「早よう。いらっしゃいな」


 許しを得たカリヤとイヨリは部屋に上がると女の前に座る。女は僅かばかりの高い壇上にいるので、自然2人は彼女を見上げることになる。淡く明るい色合いの着物をゆったりと着て、立ち上がっても床に届くであろう豊かな黒髪を三つ編みにして体の前に垂らしている。余裕を感じさせる優しげな笑みを浮かべた顔立ちはカリヤに良く似ているが、彼よりもずっと柔らかで温かい印象を与えるものだった。年のほどは20を迎えたばかりと言えば通るように見える。


「あっ、カリヤ兄様! お帰りなさい」 

 

 女の膝の上で髪を撫でられていた童女がカリヤに飛びついた。


「あはは。キララ、久しぶり。元気だったかい」


「ええ!」と元気一杯に応えた童女は胡座を掻いたカリヤの膝上に収まった。


「ほんにキララはカリヤを好いとるの」

 

 鈴を転がすような笑い声を上げて女は言った。


「お願いですから、あまり言わないで下さいよ。母上。最近、そのことを父上が気にしているみたいですから」


 一瞬呆けた顔をした後、「男の嫉妬とは!」とドッと笑い声を大きくした女こそ、ハシラベのモリナガのただ一人の妻である。名は子にさえも秘匿されているが、呼び名としてはシキで通されている。ハシラベの秘術を口伝された巫女であり、今世最高の星詠みと謳われる呪術師。3人の子の母である。


「兄様。都のお話を聞かせて?」


 キララがカリヤを見上げながら、無邪気に訊く。これにはイヨリが渋い顔をした。


「止めとけよ、キララ。お前にはまだ早いよ。それよか、今日の里山でさあ、」 

 

 何やら兄貴風を吹かせるイヨリが言葉を続けようとすると、キララはカリヤの腕の下からイヨリを睨んでベッと舌を突き出した。


「イヨリ姉様のお話は『そぼう』だから嫌いよ」


 これには流石のイヨリも気色ばんだ。「このお」と唇を震わせる。


「ふふ。母はイヨリのお話を聞きたいわ。此方に来て話してご覧なさい」 

 

 シキは右手にお猪口を持ったまま、左手を広げてイヨリを招き寄せた。素直に従ったイヨリを抱き寄せるとサラサラとした髪を梳くようにして頭を撫でる。むず痒そうにしながらも、彼は母に甘える。

 それを呆れたように見るのは鴉の姿をした彩だ。


「ほんとにもう、べったべったに甘やかしちゃってさあ。全く見てらんないね」


「あら、アナタも嫉妬かしら? 最近はますますイヨリにご執心な様ね」


「分かった。分かった。そんな怖い顔しなくても何も悪さしないさ。私たちの契約通りさ」


 鴉は翼で小さな頭を掻いた。


「今日、彩に尻や胸を揉まれた」

 

 イヨリがジットリした視線を彩に送る。


「こ、こら! イヨリ、何言ってんのさ!」


 慌てて翼をバサバサ振り出す綾に、シキは一言「あとでお仕置きね」と笑う。その途端にブルッと震えた綾はイヨリに憎々しげな視線を向ける。それからはただの鴉のようにむっつりと黙ってしまった。

 そのやり取りを見てくつくつと笑っていたカリヤもシキは手招く。 

 

「カリヤには酒に付き合って貰おうかな」


「お、お手柔らかに頼みます。母上」


 そう言ってカリヤは差し出された杯に手を伸ばした。少しだけ顔は引きつらせる。シキは酒豪であった。


 夜の帳に月が掛かり、星は群を成す。 

 

 キララは母の膝に移り、寝息を立てるイヨリに抱きつくようにして眠っていた。ぐいぐいと酒を飲むシキの隣りでカリヤもちびちびとやっていたが、座敷にはいつの間にやら人化した彩も加わっていた。妖魔の類とあって流石に酒に強い。

 一座は月を肴に静かに酒を傾けていたが、ふと思いついたような風情でシキが口を開いた。


「ソウシは上手くやっているかな」 

 

 シキは夫のモリナガをソウシと呼ぶ。家族にだけ通る呼び名である。


「心配ですか」


 母の杯に酒を注ぎながらカリヤは言う。下の兄妹には聞かせられない話だと理解していた。


「ヒムラは怖いな。幾ら我らの一族が強者揃いと言っても数には抗えんよ」 

 

 カリヤは小さく溜め息を吐く。


「本当に近頃のヒムラは不穏です」


「カリヤの網には掛からんとなると、そこまで大きく動くと思えんが」


「何かしらの因縁を付けられるのは毎年のことですからね。ですが、今年は」


「サノ・トウゴの躍進か」


 サノ・トウゴは西の大豪族である。サノの地はかつてから西の大陸と繋がりが深い。物品の交換だけでなく、人材交換や文化交流が盛んだ。大陸伝来の法道と呼ばれる宗教に親しみ、さらにはかの国の官庁制度を学んできた。ヒムラ王政権では古くから王の下で力のある豪族の長が集まることで政がなされていた。サノなどの西の豪族達はこの族長会議を廃止し、官庁制度を導入を主張する改革派だ。対してハシラベ一族など東の豪族は保守派としてサノとぶつかり合うこととなった。

 この権力闘争においてヒムラはサノに荷担する。どうやら伝統的な土着宗教に圧され気味のヒムラにとって、大陸から伝来した新しい宗教は魅力的に映るらしい。法道を広めることで豪族の力を削ぎ落とし、官庁制度の上に自らの明確な権威を築くという思惑が見え透いていた。


「彩。西のお仲間はどんな様子かな」


 カリヤが彩に訊く。


「別に、まあ、元気にやっているようだけどね。民の心は相変わらず神や妖魔に向いているようだし、問題ないってさ」 

 

 一同がふむと頷く中、ただまあ、と彩は続ける。


「何やら鴉天狗に襲い掛かった僧がいたらしくってね」


 カリヤはまさか、というように驚いて目をむいた。シキは苦い顔を作る。


「まあ、そいつはご愁傷様。もしかして大陸の人間かい」


「ああ、ご明察の通り。山でも里でも見境なく妖魔と見れば襲い掛かっているってさ。狂犬もいいとこだよ、全く」 

 

「信じられない。なんて愚かな。神格化された鴉天狗もいるというのに」


 カリヤがそう言うのも当然だ。畏れであれ崇拝であれ人の強い想いが向けられると霊糸線が生じる。それを通じて僅かばかりの霊力を得ることができる。1人1人から得られる霊力は少なくとも多くの人から長い間をかけて得られる霊力は妖魔をより強い存在へ変貌させるほど大きくなる。特に鴉天狗は古くからの妖魔であって、里によって様々な特色ある逸話が語り継がれている。自然、この地でも有力な妖魔となっていた。


「どうやら集団で襲ったらしい。一団には半妖が混じっていたとか」


 「半妖、珍しいな」とシキが言う。「使役された戦闘奴隷かな」と言いつつ、カリヤはスッと眉を寄せた。そのような存在には本能的に忌避感を抱いてしまう。この場合は奴隷に対してではなく、半妖に対してだ。


「ああ。半妖は半妖でも半鬼らしいぞ」 

 

 なっ、と驚きを露わにしたのはシキでカリヤに至っては杯を落としかけた。


「半鬼などいくら何でもありえん。何せ鬼だぞ」


 カリヤは驚きから覚めきらぬまま言う。鬼は鴉天狗より強力な妖魔だ。太古この地を治めていたのは鬼であり、土着神の子孫、真の土着民と言える。今となっては少数の生き残りがいるのみだ。彼らは誇り高く、人と交わるなどありえない。

 彩は手をひらひらと振って酒を煽る。


「いやいや。私だってそんな馬鹿な話はないと思うよ。まあ、半鬼の話は忘れとくれ。その鴉天狗が何か思い違いしたのかも。そいつは気違いってことで私らの中じゃ有名なんだよ」 


 ふん、と鼻を鳴らすと、気を取り直して彩は話を続けた。


「その話を聞いた同胞は大喜びさ。何しろ私らに喧嘩を売るような輩は長らくいなかったからね。かえって法道が栄えてほしいなんて言い出す始末だよ」


 これではどちらが狂犬か分からないと皮肉げに頬を上げた。彩は自分は都会派の鴉天狗だと自負している。今時決闘やら腕試しやらは田舎くさい奴のすることだと思っていた。だが、それも仕方のないことである。力の強い妖魔は不老長寿であるがために退屈嫌いで好戦的な者が多いのだ。無聊を慰めるための刺激を何時も求めている。


「度量が広いと言うのか何と言うのか。本当に逞しいものだ」

 

 シキが酒を煽って笑った。素直に鴉天狗の生き様に感心しているようだ。その鴉天狗を使い魔にする人間など世は広しといえどシキをおいて他にいないのだが。


「山伏たちはどうしている」


 シキが続けて訊いた。


「うん。見聞きの利く者は早くも入道するとか。常から節操なしな連中とはいえ、やはり都の近くや西ではそうするほうが賢いのだろうね」


「彼らは里の人間とは異なる価値観をもつからな。仕方あるまいよ。だが、そうなるとお前たちも無関係ではないな」 

 

「まあ、あちらさんの宗教に取り込まれる同朋も出てくるだろうね。結局、どのような形であれ、人心が向けられれば我等にとっては変わりない。むしろ、大陸にも名を広める機会だと言い出す輩もいるかもしれないな」


「お前たちの前向きさに見習いたいところだがな。そうは言ってられないのが悲しい限りだ」


「里の人間は面倒だね。も少し自由であれば良いのにねえ」


 全くだ。と呟いてシキはまた杯を傾けていく。カリヤはそんな母を複雑そうな目で見る。

 シキは暫くの間、杯の中の酒をゆらゆら揺らして、その水面をぼんやりと眺めていた。


「ソウシには早く帰ってきて欲しい」 

 

 ぽつんとシキが呟いた。カリヤがそこに見たのは母でも女でもなく、親を待つ子供のような表情だった。ジワリと訳も分からず彼の心に熱が生まれた。見るべきではないものを見てしまったような気がした。


「私が都を出てから3日遅れて後を追いかけるとのことでしたから、早くとも明後日には帰っていらっしゃるかもしれません」


 そう。とシキは相槌は打つものの、その話は既にカリヤ本人の口から聞いていたものだ。


「明日の夜に星を詠んでみよう。これからのことを知らなければいけない」


 そこにあるのはハシラベの里の命運を司る巫女の顔だった。

 夜が更けていく中で、3人は静かに酒を交わし続けた。

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