第六話 それでいい
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この町には小学校と中学校が一つずつ、隣接して存在している。名前は「青葉小学校」と「青葉中学校」。なんとも安直なネーミングだ。
この町の人口に比例して児童の数は少なく、一学年一クラス。当然校舎を修理する予算も出ず、今にも崩れ落ちそうな、塗装の剥げた鉄筋校舎である。浅見が目指すのは、その二つの校舎のさらに右側に隣接する小さな給食センターだった。
浅見は幼稚園から私立に通っていたため、食事は弁当か学食であり、給食を食べた経験はない。だが、児童に食べさせるような食事なのだから、通常栄養バランスを考えて作られているはずだ。
浅見は給食センターの前にたどり着くと、鉄製の扉をどんどんとノックする。しばらくすると、白い割烹着を着た中年の男性が顔を覗かせた。
「はい、どなた?」
「初めまして。最近三岳診療所に勤める事になった浅見健吾といいます」
「あぁ、あんたが……」
浅見の名前に聞き覚えがあったのか、男は一つ頷いてそう答えた。
「で、何か用でしょうか?」
「うちの診療所に入院している青井若葉の食事をここで作っていると聞いたんですが」
「あぁ、そうだよ。三岳先生は診察で忙しいから、うちで代わりに作ってるんだ」
「随分いい加減な仕事みたいですね」
「何?」
その浅見の言葉に、男は不機嫌そうに眉をひそめた。
「いきなり何だあんた。うちはわざわざ……」
「これを見てください」
男の言葉を遮って、浅見は一枚の紙を男の目の前に付きつけた。
「食品の成分表です。ここ三日の献立に含まれた食品を調べてチェックしました。異様に偏っています。当然ですね。メニューは違えど、使っている食材は毎日ほとんど変わってませんから。しかも、若葉が嫌いなものを中心に選ばれています。食器と残飯はいつもそちらに返却していますから、若葉がいつも残している
のは知っているはず。にも関わらず、何故同じ食材を使うんですか?」
反論する間もなく一気にまくしたてられ、男がさらに不機嫌そうに顔を歪める。
「答えてください。思うに、あなた方は故意に……」
「知るか」
浅見がさらに追求しようと口を開いた瞬間、男は一言そう言うと扉を閉めてしまった。
「あ! おい、まだ話は終わってねぇぞ!」
浅見が両手でがんがんと扉を叩く。だが、中からは何の返事も返って来なかった。
「おい! 開けろ! ふざけんな!」
大声でそう叫びながら、何度も扉を叩く。だが、やはり返事が返って来る事はなかった。
「……なんでだよ?」
何故こんな事をするのか、浅見には理解出来なかった。浅見は料理に疎いので実感はないが、料理を作る側としては、普通おいしく食べてもらいたいと思うのではないだろうか。それなのに、わざわざ嫌いなものばかりを出すなんて。
浅見がいくら叫んでも、返事が返ってくる事はない。自分の無力さを痛感しながら、彼は重い足取りで病院へと引き返した。
8
その夜、浅見は夕食の乗ったトレーを手に離れにやって来た。
トレーの上にあるメニューは、以前と変わらない。もしかしたら改善されているかもしれないと期待したのだが、その期待はむなしくも打ち砕かれた。
(……くそっ……!)
昔から、出来ない事などほとんどなかった。
おかしいと思う事には反対し、全て変えてきた。自分には、それが出来るだけの力がある。そう信じていた。
だが今回、浅見は何も出来なかった。何も変えられなかった。
そして、知った。自分が今までしてきた事は、自分の力ではなく、浅見健吾という名前によってなされていたという事を。
ここでは、誰も自分を知らない。この名前がないと、自分はこんなにも無力だ。
トレーに載せられた献立を見ながら、浅見はぐっと唇を噛み締めた。
「若葉、入るぞ?」
病室の扉を軽くノックしながら尋ねる。
「どうぞ」
いつも通りの返事が返って来たのを確認して、浅見は扉を開いて中へと入った。若葉の隣に腰掛け、食事の手伝いをする。だが、いつものように嫌いなものを食べさせようという気にはならなかった。
「今日は無理強いしないのね?」
すると、珍しく若葉の方から声をかけてきた。
「え? ああ、どうせ食べないんだろ?」
「気付いたんだ?」
若葉が悪戯っぽく笑う。
浅見はその言葉に驚きを隠せなかった。
「お前こそ、気付いてたのかよ!?」
「当たり前じゃない。毎日食べてれば普通気付くわよ」
「なんで言わなかったんだよ! 言ってくれたら……!」
「何か変わった?」
「…………」
その質問に、浅見は口をつぐんだ。何も変わらなかった。それが、現実だ。
「前に言ったよね? あなたは嫌われ者だって。どうして私がすぐに分かったと思う?」
「だから……それは俺の態度が……」
「それだけじゃないよ」
若葉は浅見の言葉を遮って言った。
「同じだから」
「え?」
「私も嫌われ者だから」
「…………」
若葉と和解した日、待合室での主婦達の会話が思い出される。
「でも……それでいい」
若葉がぽつりと呟く。
「それでいいの……」
そして、自分に言い聞かせるようにもう一度同じ言葉を呟いた。
食事の手伝いを終えて病室を出た浅見は、部屋の前で一つため息をついた。
「それでいい……か」
そう言った彼女の寂しそうな横顔が、浅見の頭から離れない。
何故彼女はそんな事を言ったのか。その理由はわからない。だが、一つだけ分かった事があった。
彼女のために、何かをしてあげたい。どんな小さな事でも、どんな些細な事でもいい。何かしら、力になってあげたい。
誰にも、自分と同じ過ちを繰り返して欲しくないから。
自分には、いますぐ現状を変える力はない。これが事実であり、受け入れなければならない現実だ。
なら、自分に出来る事は何なのか。今の自分に出来る事は……。
「……よし……」
浅見は一つ頷くと、早足に離れを後にした。




