第三話 その少女
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翌日の朝、浅見は早速診療所を訪れた。特にやりたいこともなければ、やらなければならないこともない。一応仕事として引き受けた以上、最初からないがしろにするのはためらわれた。
「おはようございます」
診療所の中に入ると、先生は既に用具の準備を始めていた。
「おはようございます、随分早いですね」
先生がそうにこやかに挨拶を返す。
「ええ、まぁ。初日から遅刻するわけにもいきませんしね」
「朝に患者さんが来ることはめったにありませんから、少しくらい遅れても平気ですよ」
「何か手伝いましょうか?」
「いや、用具の手入れや薬剤の取り扱いは私の役目ですから。あなたにやらせるわけにはいきませんしね」
確かに、何らの免許も持っていない浅見がそれらの事をするには無理がある。出来ることとといえば、受付を済ませた患者さんの資料を先生に渡すくらいだろう。もっとも、それすら法律上許されるか不明だが。
「よく考えたら、何の資格もないのに病院の事務って出来るものなんでしょうか?」
「う〜ん……。一応医師免許が必要な事については私がやりますから、そこまで問題はないと思うのですが……」
「……訴えられたりしませんよね?」
「多分……」
微妙に先行きが不安になってきたが、これ以上話していても仕方がないので、浅見は話題を切り替えた。
「それで、俺は何をしていればいいんでしょう?」
「そうですね……。そうだ、患者さんに朝食を持っていって欲しいんですけど」
「朝食?」
「ええ。一人入院なさっている方がいるので」
「え? 入院?」
その言葉に、浅見は驚きを隠せなかった。こんな設備もない小さな診療所に入院しても、大した治療が受けられるとは思えない。入院するなら、少し遠くても大きな病院を選んだ方がいいはずだ。
「そうなんです。お一人だけですけどね。朝食はまもなく配達されてくると思うので、お願いできますか?」
「はい、わかりました」
何故その患者がここに入院しているのかは不明だが、何はともあれ、自分に与えられた最初の仕事だ。朝食を運ぶくらい、どうってことはない。浅見は快くその仕事を引き受けた。
「部屋はこの建物の裏にある離れの中です。私は薬の整理もしなければならないので、お願いしますね」
先生はそう言うと、手入れを終えた用具を丁寧にしまい、製薬室の中へと消えていった。
それからまもなくして、朝食が診療所に配達されてきた。浅見はそれを受け取ると、早速診療所の裏にまわる。診療所から少し離れた場所に、小さな小屋がぽつりと建っていた。
「あんな場所があったのか……全然気付かなかったな」
浅見はそう呟きながら、離れの扉を開く。鍵はかかっておらず、すんなり中へと入る事が出来た。
右手と左手に一つずつ部屋の扉が見える。左手の扉には給湯室と書かれていた。
(ってことは、右手が病室だな)
浅見はそう考えると、右手にある扉を軽くノックした。
「……どうぞ……」
すると、中から小さな声が返って来た。どうやらここで間違いないようだ。
「失礼しま〜す」
そう言って、浅見は病室の扉を開いた。
殺風景な病室のベッドの上に座っていたのは、一人の少女だった。腰の辺りまである長い黒髪に、その髪と同じ黒い瞳。それらとは対照的に、肌はベッドのシーツに溶け込んでしまいそうな程真っ白だ。服の袖から覗く腕は細長く、曲げたらぽっきりと折れてしまうのではないかとさえ思えた。まるで日本人形のような少女を、浅見は暫し呆然と見つめる。
「……誰……?」
すると、いぶかしげな顔をしながら少女の方が先に声をかけてきた。
「え? あ、ああ。俺は浅見健吾。今日からこの病院で働く事になったんだ。よろしく」
浅見が簡単な自己紹介を兼ねて挨拶する。
「ふ〜ん……」
だが、少女は興味なさげにそれだけ言うと、視線をそらした。
少女の態度は一般的には失礼だったかもしれない。だが、人付き合いを嫌う浅見にとっては町の他の人々よりむしろ好印象だった。
「朝食置いとくからな。ちゃんと食べろよ」
そう言って、朝食を載せたトレーをベッドの隣にあった小さな机に置く。
「食べ終わった頃にまた来るから」
少女にそう告げて、浅見は部屋を去ろうとする。だが、突然立ち止まると、何かを思い出したかのように振り返った。
「そうだ。お前、名前は?」
浅見がそう尋ねると、少女は不機嫌そうな顔になった。
「……ねぇ、あなた、ここに勤める事になったのよね?」
「ああ」
「私ここの患者。なんで敬語を使わないわけ?」
少女がきつめの口調で尋ねる。だが、その質問に、今度は浅見が不機嫌そうに顔を歪めた。
「あ? お前いくつよ?」
「16だけど」
「俺は25だぞ? なんでお前に敬語使わなきゃならんのだ?」
その言葉に、少女は驚いたように目を見開いた。一方の浅見は、怒っているというよりも不思議そうな顔で少女を見つめている。
暫く見つめ合った後、少女は深くため息をついた。
「変な奴……」
「どっちが?」
「あなたに決まってるでしょ」
少女はそう言うと机のトレーを自分の方へと引き寄せた。
「もう行っていいよ」
トレーを見つめながらそう言う少女に、浅見もため息をついた。
「変わってるのはお互い様な気もするが……」
そう呟きながら、浅見は部屋の扉を開く。だがその時、背後で小さな金属音が響いた。
浅見が後ろに振り返ると、トレーの上にあったスプーンが床に転がっていた。
「落ちたぞ?」
「わかってる!」
少女は苛立った声でそう言うと、右手で床に落ちたスプーンを掴み取る。だが、また同じ様にスプーンを床に落としてしまった。
「……もしかして、手が不自由なのか?」
浅見の質問にも、少女は何も答えない。
「それならそうと早く言えよ。ほら、スプーン貸しな。食べさせてやっから」
浅見がそう言って床のスプーンに手を伸ばす。だが、その手を少女の手が勢いよく払い除けた。
「いてっ……! 何すんだよ!」
浅見が少女に抗議の視線を向ける。
少女は浅見をきっと睨みつけた。
「食べさせてくれなんて言ってない」
少女が先程よりもさらに強い口調で言う。流石の浅見もその態度にむっとなった。
「何だよ! 人が親切にしてやってんのに!」
「あなた、嫌われ者でしょ?」
「え?」
少女が鋭い目つきで浅見を見据える。
その言葉に、浅見は一瞬唖然とした。
「とにかく、大きなお世話! さっさと出てって!」
「……あぁ、そうかよ!」
浅見は怒気を含んだ声で答えると、病室を出て力任せに扉を閉めた。
病室の外に出た浅見は、肩をいからせながら離れの出口に向かった。
「病人だからってつけあがりやがって……ふざけんなっての」
悪態をつきながらずんずんと廊下を歩いて行く。だが、頭の中では先程言われた言葉を思いだしていた。
嫌われ者。そう、確かにそうだった。だが、その原因は浅見健吾という人間を知っているからだと思っていた。彼を取り巻く環境を知っているからだと思っていた。
だが、彼女は自分を知らない。浅見健吾という人間を知らないはずだ。
それなのに何故、彼女は自分が嫌われ者であった事を見抜いたのだろうか。
浅見がそんな事を考えていると、先生がいつの間にか離れにやって来ていた。
「あ、浅見君。言い忘れていた。彼女、少し手が不自由で……」
「知ってますよ。だから手伝ってやるって言ったんですけど、余計なお世話だって言われました」
浅見が肩をすくめて答える。
「ちょっと甘やかし過ぎでは? だからあんな風に……」
「……どうやら、私は人選を間違えてしまったみたいだね」
だが、先生は神妙な顔でそう言うと浅見を見た。
「次からは食事を運ぶのは私がやるから。君は受付に戻ってくれ」
先生はそれだけ言うと、浅見の横を通り過ぎて病室へと向かう。
「ちょっと待ってくださいよ!」
浅見は強い口調で先生を呼び止めた。
「ん?」
「その言い方だと、まるで俺が悪いみたいなんですけど?」
「いや? 私の人選ミスだからね。私の責任だよ」
「だから、それは間接的に俺が悪いって言ってるんじゃないですか!」
「まぁ、そういう事になるのかな」
浅見の強い口調に動じることなく、先生はしれっとそう言った。
「俺の何が悪いっていうんですか!? 俺は親切に手伝ってやるって……!」
「浅見君」
浅見の抗議を遮って、先生が静かに、だが力のこもった口調で言った。
「君はもう25だろう? 何が悪かったかなんて、自分で考えるんだ。私は君の子守りをするつもりはないよ」
先生はそれだけ言うと、きびすを返して再び病室へと向かう。
「……あぁ、そうかい……」
浅見はそう呟くと、ゆっくりと診療所に引き返して行った。




