手のひらに残った春
この物語は、母を亡くした少年が、ひとつの「手の温もり」をきっかけに、
忘れたと思っていた大切なものを見つけていく物語です。
ユウは、冬が苦手だった。
寒いからではない。
雪が降ると、胸の奥が少しだけ冷たくなるからだった。
三年前の冬。
ユウのお母さんは、病院で亡くなった。
その日のことを、ユウはもう、あまり覚えていない。
白いカーテン。
小さな窓。
静かな機械の音。
そして、お母さんの手。
大切なはずなのに、時間がたつほど、記憶は薄れていった。
「ぼく、お母さんのこと、忘れてるのかな」
ある雪の日、ユウは公園のベンチに座って、つぶやいた。
隣には、白いマフラーを巻いた小さなおばあさんがいた。
おばあさんは、しばらく雪を眺めてから、静かに言った。
「忘れることと、大切じゃないことは、違うよ」
ユウは顔を上げた。
「どうして、そんなこと言えるの?」
おばあさんは、少し笑った。
「私も昔、同じことを思ったから」
そう言って、おばあさんは古い手袋を取り出した。
「これはね、昔、知らない女の子にもらったものなの」
「知らない人?」
「そう。雪の日に道で転んで泣いていた私に、その子は自分の手袋を貸してくれたの」
「その子のこと、覚えてるの?」
おばあさんは、ゆっくり首を振った。
「名前も顔も、もう思い出せない」
ユウは、手袋を見つめた。
「じゃあ、どうして大事にしてるの?」
おばあさんは、手袋をそっと握った。
「温かかったから」
それだけ言って、雪の向こうを見た。
「声も、どんな服を着ていたかも忘れた。でもね」
おばあさんは、自分の手のひらを見つめた。
「握ってくれた手の温かさだけは、今でも消えないの」
その言葉が、ユウの胸の奥に残った。
その夜。
家に帰ったユウは、古い引き出しを開けた。
そこには、お母さんが使っていた小さな箱が入っていた。
箱の中には、古い写真や病院の書類に混じって、一枚の小さなメモがあった。
見慣れた、お母さんの字だった。
『ユウが泣いたら、手を握ってあげる』
ユウは、その文字を指でなぞった。
すると、遠いところにあった記憶が、ほんの少しだけ戻ってきた。
熱を出した夜。
眠れなくて泣いていた自分。
「大丈夫だよ」
そう言いながら、お母さんが握ってくれた手。
顔は、もうはっきり思い出せない。
声も、少し遠い。
けれど――。
あの手の温かさだけは、確かに残っていた。
「忘れてたんじゃなかったんだ」
ユウは、小さくつぶやいた。
翌朝。
雪は、まだ道の端に残っていた。
学校へ向かって歩いていると、低学年くらいの男の子が転んだ。
男の子は、雪の上に座り込んだまま泣いていた。
ユウは立ち止まった。
少し前の自分なら、どうしていいかわからなかったかもしれない。
けれど今は、自然に手を差し出した。
「痛かったね」
男の子の手を握る。
「大丈夫だよ」
小さな手は、冷たかった。
ユウは、ぎゅっと握り返した。
男の子が、泣きながら顔を上げた。
ユウは笑った。
その手を、もう一度だけ、しっかり握った。
帰り道。
空には、薄い光が差していた。
雪はまだ残っている。
けれど、ユウはもう寒いとは思わなかった。
ポケットに手を入れる。
冷たい空気の中で、手のひらだけが、ほんのり温かかった。
ユウは立ち止まり、手のひらを開いた。
そこには何もない。
それでも、なぜか温かかった。
ユウは手を握り直した。
そして、歩き出した。
冬の道を、春へ向かって。
もし読み終えたあと、ご自身の手のひらに残っている誰かの温もりを
思い出していただけたなら、作者としてこれほどうれしいことはありません。




