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手のひらに残った春

作者: 黒江秋水
掲載日:2026/08/26

この物語は、母を亡くした少年が、ひとつの「手の温もり」をきっかけに、

忘れたと思っていた大切なものを見つけていく物語です。



ユウは、冬が苦手だった。


寒いからではない。


雪が降ると、胸の奥が少しだけ冷たくなるからだった。


三年前の冬。


ユウのお母さんは、病院で亡くなった。


その日のことを、ユウはもう、あまり覚えていない。


白いカーテン。


小さな窓。


静かな機械の音。


そして、お母さんの手。


大切なはずなのに、時間がたつほど、記憶は薄れていった。


「ぼく、お母さんのこと、忘れてるのかな」


ある雪の日、ユウは公園のベンチに座って、つぶやいた。


隣には、白いマフラーを巻いた小さなおばあさんがいた。


おばあさんは、しばらく雪を眺めてから、静かに言った。


「忘れることと、大切じゃないことは、違うよ」


ユウは顔を上げた。


「どうして、そんなこと言えるの?」


おばあさんは、少し笑った。


「私も昔、同じことを思ったから」


そう言って、おばあさんは古い手袋を取り出した。


「これはね、昔、知らない女の子にもらったものなの」


「知らない人?」


「そう。雪の日に道で転んで泣いていた私に、その子は自分の手袋を貸してくれたの」


「その子のこと、覚えてるの?」


おばあさんは、ゆっくり首を振った。


「名前も顔も、もう思い出せない」


ユウは、手袋を見つめた。


「じゃあ、どうして大事にしてるの?」


おばあさんは、手袋をそっと握った。


「温かかったから」


それだけ言って、雪の向こうを見た。


「声も、どんな服を着ていたかも忘れた。でもね」


おばあさんは、自分の手のひらを見つめた。


「握ってくれた手の温かさだけは、今でも消えないの」


その言葉が、ユウの胸の奥に残った。


その夜。


家に帰ったユウは、古い引き出しを開けた。


そこには、お母さんが使っていた小さな箱が入っていた。


箱の中には、古い写真や病院の書類に混じって、一枚の小さなメモがあった。


見慣れた、お母さんの字だった。


『ユウが泣いたら、手を握ってあげる』


ユウは、その文字を指でなぞった。


すると、遠いところにあった記憶が、ほんの少しだけ戻ってきた。


熱を出した夜。


眠れなくて泣いていた自分。


「大丈夫だよ」


そう言いながら、お母さんが握ってくれた手。


顔は、もうはっきり思い出せない。


声も、少し遠い。


けれど――。


あの手の温かさだけは、確かに残っていた。


「忘れてたんじゃなかったんだ」


ユウは、小さくつぶやいた。


翌朝。


雪は、まだ道の端に残っていた。


学校へ向かって歩いていると、低学年くらいの男の子が転んだ。


男の子は、雪の上に座り込んだまま泣いていた。


ユウは立ち止まった。


少し前の自分なら、どうしていいかわからなかったかもしれない。


けれど今は、自然に手を差し出した。


「痛かったね」


男の子の手を握る。


「大丈夫だよ」


小さな手は、冷たかった。


ユウは、ぎゅっと握り返した。


男の子が、泣きながら顔を上げた。


ユウは笑った。


その手を、もう一度だけ、しっかり握った。


帰り道。


空には、薄い光が差していた。


雪はまだ残っている。


けれど、ユウはもう寒いとは思わなかった。


ポケットに手を入れる。


冷たい空気の中で、手のひらだけが、ほんのり温かかった。


ユウは立ち止まり、手のひらを開いた。


そこには何もない。


それでも、なぜか温かかった。


ユウは手を握り直した。


そして、歩き出した。


冬の道を、春へ向かって。



もし読み終えたあと、ご自身の手のひらに残っている誰かの温もりを

思い出していただけたなら、作者としてこれほどうれしいことはありません。

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