【第6話】子どもたち運命の出会い
東京メトロ半蔵門線の地下鉄に揺られながら、陽仁は猛烈な罪悪感に苛まれていた。
この感情は後悔――と言っても良いかもしれない。
電車の揺れは彼の心の動揺そのものだった。
冷え切った汗が頬を伝い、身体中に鳥肌が立っていた。
冷静さを取り戻すにつれて、自分がしでかしたことの重大さが、ようやく実感として迫ってくる。
(ぼく……とんでもないことをしてしまったんじゃ……)
不自由な日々に辟易していた。
皇族としての制約に縛られるばかりの生活。
"皇太子"という肩書を脱ぎ捨て、普通の男の子になりたかった。
その結果、衝動のままに公用車を飛び出してしまったのだ。
とにかく逃げなきゃ――その一心で飛び乗ったのが、この地下鉄だった。
だが、この場所も陽仁にとっては落ち着ける場所ではなかった。
普段の移動は公用車、たまに乗る電車も地上路線ばかり。
地下鉄は、彼にとって"初めて"の空間だった。
閉ざされたトンネルの圧迫感が、じわじわと神経を締め上げていく。
息苦しさが増し、逃げ場のない筒状の闇が不安を増幅させる。
周囲を見渡すと、スーツ姿の会社員、学生、買い物袋を抱えた乗客たち。
誰もが無表情にスマートフォンに視線を落としている。
――なのに、なぜか全員の目が自分に向けられている気がした。
見張られているのではないか?
逃げてきた自分を、誰かがもう見つけて、通報しようとしているのではないか?
逃亡者の心理がそう思わせるのかもしれない。
けれど、その妄想じみた感覚が陽仁を追い詰めていく。
空席が目立つ車内だったが、座る気にはなれなかった。
彼は視線を落とし、長椅子から背を向け、ドアの前に立ち尽くす。
窓の外には、無機質なトンネルの闇。
車内の照明が窓ガラスに反射し、ぼんやりと陽仁の顔を浮かび上がらせた。
その顔が、あまりにも頼りなく見えた。
列車は淡々と走り続ける。
一定のリズムで響く走行音が、徐々を不安を募らせていく。
やがて陽仁は、もう耐えきれなくなった。
――次の停車駅で、扉が開くと、陽仁は飛び出すようにホームへ降りた。
閉塞とした地下空間から、逃げ出すように地上へ――
階段を上りきり、地上に出た瞬間、陽仁はハッと息を飲んだ。
見慣れた景色が目の前に広がっていたからだ。
「……ここ、九段坂……?」
靖国大通りだった。
緩やかな坂の向こうに、見覚えのある石垣と並木が続いている。
ここは、皇居からそう遠くない場所。
逃げたい一心で、行き先も決めず渋谷駅から飛び乗った地下鉄。
不安に押し潰され、思わず降りた駅から地上に出てみれば――
まさか、皇居の方角へ戻ってきてしまうとは。
陽仁の背に、どっと疲労がのしかかった。
(ぼくは……なにをやってるんだ……)
普通の少年になりたくて、逃げた。
ただ、それだけのはずだった。
覚悟を決めたつもりだったのに、罪悪感で胸はいっぱいだ。
挙句の果てには、自ら皇居の近くへ戻ってきてしまうなんて。
中途半端な自分。
普通の男の子にも、皇太子にもなれない。
"何者"にも、なれない。
小さな背中がさらに縮こまり、両膝に手をついて俯く。
陽仁は落胆し、打ちのめされていた。
(ぼくはいったい、何をしてるんだろう……)
そのときだった。
「みーつけたっ!」
反射的に振り向く。
しまった、追いつかれた――
もう大人たちに見つかってしまったか――
しかしそこに立っていたのは、自分と同じくらいの年頃の、4人の子どもたちだった。
彼らはまるで宝物を見つけたような顔で、鳥居の方を指さしている。
「ふっ、あれが靖国神社の有名な鳥居か」
「大きくて迫力があるね…」
「てかオレ、"神社"って聞いたから、もっと狛犬とか鈴とかおみくじ的なもん想像してたぜ!」
「大和ってば、相変わらず考えが安直ね」
先頭の少年が、うなだれる陽仁に気づいて指を差す。
(……ぼくと同い年くらいの見た目なのに、堂々としてるな)
「おい、お前大丈夫か? 汗びっしょりじゃねーか! マラソン大会でもしてきたのかよ?」
「ちょっと、大和! 初対面の人にそんなぶっきらぼうなこと言っちゃダメ!」
真澄が慌てて止める。
「でもさ、キミ、顔真っ白だよ? 倒れる寸前って感じだけど大丈夫かい?」
蓮弥が心配そうに覗き込む。
陽仁は慌てて顔をそむけた。
「ま、待って……! だいじょうぶ……だから……」
かすれた声で手を振り、後ずさるが、足がもつれて膝をついてしまう。
「これ、どうぞ…」
咲良がカバンから水の入ったペットボトルを取り出し、差し出した。
「あ、ありがとう……」
4人に囲まれ、陽仁は何が何だか分からぬまま、受け取ったペットボトルを口に運ぶ。
冷たい水が喉を潤すと、張り詰めていた感情も少しずつほぐれていった。
「オレ、大和って言うんだ。ここにいるみんなも含めて、小学六年! お前の名前は?」
陽仁は息を整え、答えた。
「ぼくは、陽仁。ぼくも小学六年生なんだ。奇遇だね……」
(って――)
しまったーーっ!!
陽仁は心の中で叫んだ。
正直に名乗ってしまったーーっ!!
だが、次の瞬間。
「へぇ、はるひと? 良い名前だな!」
「ボクは蓮弥!」
「わたしは真澄!」
「咲良です…」
――誰も気づかない。
誰一人として「皇太子の名前だ!」なんて言わない。
陽仁は、まるで鉄砲水を食らった鳩のように呆然とした。
ぼくはこの国の皇太子。天皇の息子。
テレビにだって、出たことがある。
ネットで名前を検索すれば、いくらでも情報が出てくる。
それなのに、誰も知らない――!?
驚いたが、それでもショックには感じなかった。
むしろ彼らは"皇太子"ではなく、"ただの同い年の少年"として、陽仁を見ているのだから。
「オッケー! じゃあ陽仁、よろしくな!」
大和が笑いながら陽仁の肩を叩く。
「ふっ、自己紹介も済んだし、陽仁も"仲間"入り決定だな」
蓮弥も続けて反対の肩を叩いてきた。
陽仁はぽかんと口を開けたまま。
(……本当に気づかないんだ? そんなもんなのか?)
拍子抜けしたような、でも胸の奥がふっと軽くなるような――。
「変な顔してんぞ、陽仁」
「えっ? あ、いや、なんでもないです!」
顔を真っ赤にして取り繕う陽仁を見て、真澄と咲良がくすっと笑った。
その笑い声につられて、陽仁も小さく笑う。
それは、逃亡の中で初めてこぼれた"素"の笑顔だった。
自分の素性を隠さなきゃ――という焦りは、もうどこかへ消えていた。
ただ、同い年の仲間たちの輪の中に、自分の名前が自然に溶け込む感覚が、妙に心地よかった。
「ところで陽仁、お前ヒマか?」
(いや……逃亡中だから暇ではないんだけど……正直には言えないな)
「わたしたち、夏休みの自由研究で"戦争のこと"を調べてるの」
「それでボクたち、今から靖国神社の中にある戦争博物館に行くんだけど」
「よかったら、陽仁くんも一緒に行く…?」
思いがけない誘いに、陽仁は言葉を失う。。
靖国神社――皇居から近いのに、これまで一度も足を踏み入れたことのない場所。
けれど、彼らの笑顔には打算も恐れもなく、ただ"友達の誘い"として聞こえた。
「……えっと」
「陽仁、ひとりでいてもつまんないだろ! オレたちと行こうぜ!」
「あ、うん……」
気づけば大和たちのペースに飲まれ、手を引かれていた。
彼らの輪に取り囲まれ、半ば強引に、でも不思議と抵抗感はなく、陽仁は歩き出す。
もう"逃げている"という感覚はどこかへ遠のいていた。
5人は巨大な鳥居を見上げながら、その下をくぐっていく。
その様子を、靖国大通りに設置された監視カメラが、静かに見つめていた。