【第70話】プレリュード
東京・内幸町。
威風堂々とそびえ立つ、重厚な洋風建築の第一生命館。
戦後、日本を占領統治するための連合国軍最高司令官総司令部、
いわゆるGHQの本部が置かれた建物である。
その一室で今、歴史的な会談が行われていた。
連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥と、昭和天皇の対面である。
そこは応接室なのか、執務室なのか。
この国の運命を決める場として、さながら玉座の間のような重みを帯びているかもしれない。
室内の空気は張り詰めているだろうか。
それとも、意外なほど穏やかな空気が流れているだろうか。
いずれにせよ、日本の未来を左右する、重大な話し合いであることに違いはなかった。
しかし――
その緊張感あふれる部屋から少し離れた待合室では、まるで別世界のように、場違いな子どもたちの談笑があった。
「ぶっちゃけ、オレ。自由研究を始めるまでは、『天皇』にあまり関心なかったんだ。日本に住んでても、意識することなんて無かったし。新年の挨拶とか、災害のときにメッセージ出してるのを見て、なんとなくホッとするくらいで」
大和は椅子に深く腰を沈め、両手を頭の後ろで組みながら天井を見上げて言った。
向かいの椅子に座る蓮弥も、同じ様子で背もたれに体を預け、同じように視線を宙へ向ける。
「実際、多くの人の感覚ってそんなものかもしれない。天皇って、普段の生活に直接関わるわけでもないし、存在について"考える"機会も無かったからさ」
窓の外を眺めていた真澄が、遠い眼差しで口を開いた。
「その程度よね。積極的に崇拝したいわけでもないし、政治に関わってほしいわけでもない。でも、無くす必要も感じない」
そこで肩をすくめる。
「まあ、“静かな容認”と“控えめな親近感”ってところかしら」
「あ、あわわ…」
真澄の隣にいた咲良が、困ったように苦笑いを浮かべて真澄を見る。
その様子に、真澄ははっと我に返った。
慌てて視線を陽仁へ向ける。
「ご、ごめんなさい! 陽仁くんのことを責めてるわけじゃなくて……」
陽仁は、静かにゆっくりと首を横に振った。
「いや……いいんだ」
そう言ったあと、陽仁の表情がわずかに曇る。
どこか張りつめた――年齢には似つかわしくない、複雑な表情。
大和が身を乗り出した。
「でもよ、今回の件で、戦争だけじゃなくて、天皇のこともオレなりに考えたんだ」
向かいに座る蓮弥が、興味深そうに眉を上げる。
「ふーん。で、大和の考えは?」
大和は胸をポンと叩き、得意げに言い放った。
「戦争はダメ! 天皇は日本の象徴!」
――沈黙。
あまりにも当たり前というか、前提そのものというか。
捻りも深みもない、あっけないほどシンプルな結論に、部屋の空気が一瞬だけ固まる。
蓮弥が呆れたようにツッコミを入れた。
「……それだけ? ボクたち、戦時下にタイムスリップして、色々と体験してきたんだよ? しかもこの時代、現代よりずっと天皇の存在が大きい世界にさ」
すると、大和は高笑いした。
「正直なところ、考えれば考えるほど、わからなくなってきたんだぜ。戦争はダメ、天皇は象徴! ってのは大前提の事だとは思うけどさ。それ以上の『答え』を出そうとすると、こんがらがっちまう。頭がパンクするっていうか、沸騰するっていうか」
ぽつりと、咲良がつぶやいた。
「答えを出さないことが、答え…」
大和はぱっと顔を上げ、咲良を指さす。
「それそれ! まさにそれ!」
真澄は、やれやれといった顔でまた肩をすくめた。
「そうよね。きっと大人たちだって、意見が割れる話題でしょ? アジア太平洋戦争と天皇なんて。こんな大きなテーマ、研究者ですら結論が一致しないんじゃないかしら」
蓮弥も腕を組みながら、ゆっくりと頷いた。
「大和の言いたいこと、なんとなく分かったよ。答えが一つに決まる話じゃない。きっと人それぞれなんだろうし。安易に、『これが正解だ』って決めつけないで、距離を置くってことなんだな」
大和が勢いよく頷く。
「そうそう! そういうことだぜ!」
一拍の静寂。
大和はさっきまでの笑いを引っ込め、ふっと表情を引き締めた。
そして、陽仁を見る。
「でもさ、陽仁。お前は……『答え』を出すんだろ?」
陽仁は、神妙な面持ちで頷く。
「うん。ぼくという存在はきっと、既にこの国が出した結果――“答え”だから」
蓮弥も、真澄も、咲良も。
その言葉の重さを思い、それぞれ複雑な表情を浮かべた。
陽仁は、普通の男の子に憧れていた。
皇室という、幾重にも張り巡らされたしきたりの中で。
生まれた瞬間から背負わされた重い役割に、息苦しさを感じながら過ごしてきた。
あの玉音放送。
昭和天皇が、戦争の責任を一身に引き受け、天皇制の廃止を告げた。
天皇が“象徴”であることを辞めた、その先。
これからは国民一人ひとりが、この国の象徴になるのだと。
ならば陽仁も――
普通の男の子として、国民の中のひとりとして。
新しい時代の中で、新しい生き方を始められる。
そう思っても……良いはずだった。
それなのに――
『コン、コン』
控えめなノックの音が部屋に響く。
扉がゆっくりと開き、人影が入ってきた。
物音を立てないよう、慎重な足取りで。
男たちが、数名。
彼らは、昭和天皇に付き従い、第一生命館まで同行してきた警護や侍従たち。
しかしその正体は、政府の閣僚だった。
マッカーサーと昭和天皇の会談のあいだ、この待合室で待機を命じられていたはずなのだが――
その裏で別の動きをしていたらしい。
男たちは互いに顔を見合わせ、やがてその内のひとりが陽仁に歩み寄り、小声で告げた。
「陽仁さま……準備が整いました」
その言葉に、部屋の空気が引き締まる。
「にわかには信じがたい話ですが……もはや、我々には他に手がありません」
男が、陽仁をまっすぐ見据える。
「未来の皇太子だという、あなたを信じましょう」
そして男たちは一同に頭を下げた。
「日本の未来を託します。どうか……国体護持を。“正史通り”の日本を――」
陽仁は、静かにうなずいた。
陽仁はもう一度、鏡の前に立つ。
霜降りの毛織りの半ズボン。
きちんとアイロンのかかった白いシャツ。
質素だが、清潔で整った身なり。
軍服でもなければ、礼装でもない。
あえて選んだ、中性的な服装。
大和、蓮弥、真澄、咲良。
そして、その場にいる大人たち。
すべての視線が、陽仁へと集まっていた。
まるで運命そのものが、この場に立ち会い、静かに成り行きを見定めているかのように。
大和が、いつもの調子で声を上げる。
「陽仁! 改めてその服、似合ってるぜ!それじゃあ頑張ってな! 日本の未来を頼んだぜ! 令和の皇太子!」
蓮弥が少し照れたように笑う。
「史実どおりの未来でも、そうじゃない未来になっても……ボクたち、友だちのままでいられるといいね」
真澄も笑顔で続いた。
「あの玉音放送で語られた日本の未来も、私は悪くないと思う。でも――」
一度、言葉を区切る。
「陽仁くんが掴んだ天皇制の未来なら、私、今までよりもっと日本とか皇室を誇れるかもしれない」
咲良が呟く。
「"偽物"の昭和天皇なんて、やっつけちゃえ…」
その言葉に、大人たちは無言で深々と頭を下げた。
すべての視線を受け止めた後、陽仁は唇を固く結び、前を見据える。
その顔には、使命に燃える表情も、情熱に突き動かされる様子もない。
ただ、静かに。
粛々と。
しかしそれは、達観でも、諦観でもなかった。
言葉では言い表せない、もっと複雑な――
それでも確かな覚悟。
陽仁は静かにその一歩を、踏み出した。




