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【第5話】前代未聞! 皇太子、陽仁の逃走!

挿絵(By みてみん)


黒塗りの公用車は、皇太子・陽仁(はるひと)の進学予定の私立中学校に向けて、都心の大通りを滑るように走っていた。

車内には、教育係の空無(そらなし)と運転手の男。

それに、後部座席で背筋を伸ばす陽仁。

空調の静かな唸りだけが、無言の空気をかすかに震わせていた。


窓ガラスの向こうでは、活気と喧騒で賑わう渋谷の街並みが流れていく。

リュックを背負った学生、両親と手をつなぐ子ども、談笑する若者グループ。

人と人が自然に触れあい、声を交わしている情景。

陽仁は、まるで別の世界の光景のように見つめていた。


今日の中学校見学には、本来、父と母が同行するはずだった。

けれどいつものように公務の予定が入ってしまい、来られなくなってしまった。

気づけば、夏休みに入ってから一度も家族そろって外出した記憶がない。


「殿下、先ほど申し上げた通り、本日のオープンキャンパスでは校長先生とのご挨拶の後――」


空無の声は、もう耳の奥で霞んでいた。


——行きたくない。

——見たくない。

——台本どおりの笑顔と行儀を貼りつけるだけの日々なんて、もううんざりだ。


信号が赤に変わり、公用車が静かに停まる。

その瞬間、陽仁の目に飛び込んできたのは、コンビニから出てきた制服姿の学生たち。

ひとりがアイスを片手に、車内にいても聞こえる声で「今日の部活マジだりぃ」と笑い飛ばしていた。

何も飾らず、何も恐れていない顔——まるで“自由”そのもののようだった。


陽仁の手が、無意識にドアのロックへと伸びた。


「……殿下?」


空無の声がかすかに揺れる。

だがその一瞬がすべてだった。

カチリ、と小さな音がして、ドアが開いた。


陽仁は、ためらいもなく外へと飛び出した。

タイヤの焼ける匂い、歩行者のざわめき、夏の太陽の日差し。

それらが一瞬で混ざり合い、世界が急に鮮やかに色づく。


「陽仁様!? お待ちくださいーっ!!」


空無の叫びが、背後から割れるように響く。


コンクリートに躓きそうになりながらも、陽仁は走る。

靴が重く、胸が苦しく、息が焼けるようだった。

それでも止まらなかった。

外の世界の”普通”——ほんの少しでいい、それに触れたかった。



どこに向かっているのか、陽仁自身もわからなかった。

ただ、あの車に戻れば、また”皇太子”になってしまう——

それだけが怖かった。


陽仁は人混みをかき分けるようにして遊歩道を走り抜ける。

乱れた服装を直す時間すら惜しい。

一度だけ、振り返った。


後方――

空無が無線で誰かと連絡を取っていた。

公用車に追随していたSPと思わしき何人かが、追いかけてくる。

ものすごい形相で。


すぐに警備の連絡網が作動する——はずだった。

しかし想定外の状況に誰もが動揺していた。

まさか皇太子が”逃げる”とは……誰が予想できただろうか。

しかも、その場でドアを開けて飛び出すという、突発的な逃走。

対応マニュアルのどこにも書かれていない。

そもそも《守るべきもの》が、自分の意思で逃げ出す展開など――


この日の東京は、妙に陽仁に味方していた。


渋谷は東京都内でも有名な、人が密集するエリアである。

この日も、雑多な人波で溢れかえっていた。

夏休み中だったことも陽仁にとって有利に働いた。

子どもの姿が多いのだ。

陽仁はその”似た者たち”の群れに、自分を溶かし込むようにして走った。



陽仁の心臓は痛いほどに跳ねている。

けれど不思議なことに、足は止まらなかった。


——向かうは駅。逃げるなら、そこしかない!


その言葉が頭の中で鐘のように響く。

息を切らしながら陽仁は人波をすり抜け、駅へと走った。


やがて、視界に《半蔵門線》の入口が見えた。

地下へと続く階段。吹き上がる冷たい空気。


陽仁は踊り場で息を整えながら、背後を振り返った。

誰も追ってこない。

太ももは震え、額には玉のような汗。


——ぼくは、まだ捕まっていない。

——まだ、”陽仁”のままでいられる。


地下鉄の改札を見つめて、陽仁は立ち止まった。

ズボンのポケットには皇居のIDカードと、お守りとして渡されていた1万円札が1枚。

それは、”自分の意思で使えるお金”として手にした、人生で最初の紙幣だった。




挿絵(By みてみん)


「……逃げた、だと?」


第一報を受けたのは、皇宮警察本部・警備部指令室だった。

報告を聞いた係官は、思わず耳を疑った。

「逃走した」と告げたのは、公用車に同乗していた教育係・空無。

信号待ちのわずか数秒、皇太子の陽仁殿下が突如ドアを開け、車外へ飛び出したという。


――予兆なしの完全に突発的な行動。


報告を受けた指令室の空気は凍りついていた。


「SP第2班、即時現場展開せよ。対象は渋谷駅周辺、徒歩での逃走とみられる。市民への通報は制限。発見を最優先。絶対に外部に漏らすな」

「本庁からも、特別警護隊を追加で出しますか?」

「……出す。だが制服は使うな。私服で民間人に紛れろ。”目立たず確実に”、だ」


モニターには、現地の監視カメラ映像が次々と映し出される。

しかし皇太子の姿はどこにもなかった。


「そもそも、皇太子が”逃げる”とは……」


誰かが呟いたその一言に、指令室の空気がさらに重く沈んだ。



一方、SP現場班の隊員・水瀬(みなせ)は無線機を手に、渋谷駅周辺を駆け抜けていた。

額には汗。無線には、別班の捜索状況が絶えず流れてくる。


「地下鉄半蔵門線出入り口の改札で殿下用の皇室IDカードを発見、しかし本人は不在!」


「了解! 地下鉄改札、半蔵門線停車駅の全てのカメラ映像を警視庁に確認要請」


皇太子のおおよその逃走ルートは判明した。

しかし頼みの綱だったGPS搭載の皇室IDカードは放棄されてしまった。

ここからは地を這うように捜索するしか無い。


SPたちは普段、皇太子が民間の中で危険にさらされないよう警護にあたる。

だからこそ、“民間に紛れた皇太子”の姿など、誰も把握できない。


「現場班各位に告ぐ……我々は守るべき対象が消えたという状況にある。これはもはや警護ではない。捜索だ!」


無線を聞いた水瀬の表情には、焦りだけでなく、わずかな怒りも滲んでいた。

自ら逃げた皇太子など前例がない。

事態は、”警護の想定外、すなわち《失態》”を意味していた。




皇太子・陽仁の逃走から、すでに25分が経過。

捜索本部指揮官の頭の中が、時間の圧力によって押し潰されていく。


――まだ間に合う。公にせず、隠し通せる!

――報道される前なら、なかったことにできる!

――殿下の名誉も守れる!

――この国の未来を守ることができる!


だが、その”余裕”には明確な期限があった。


最悪のシナリオが頭をよぎる。

SNSでの目撃情報。

市民が偶然撮った動画。

皇警、宮内庁、警視庁の一部部署からの情報流出。


1件でも”本物”の情報が漏れれば、拡散は瞬時だ。

報道各社が動き出せば、皇室は即座に対応を迫られる。


とにかく1分、1秒でも早く、皇太子を見つけ、保護するしかない!

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