【第64話】因縁あるいは運命の対峙!
「……終わったのか」
乾いた唇から零れ落ちた呟きは、静まり返った廊下に虚しく吸い込まれる。
宮内省庁舎の長い廊下を、一条はただ独り、糸の切れた人形のように彷徨っていた。
一歩踏み出すたびに軍靴が重く響き、身体の節々が悲鳴を上げる。
軍服の擦れる音さえ、今の彼には総身が削られていく音に聞こえた。
不気味なほどの静寂が、廊下の隅々にまで浸透している。
つい先ほどまで館内に轟いていた怒号も、銃声も、まるで幻聴だったかのように。
宮城を占拠した近衛師団と、その鎮圧に乗り出した東部軍。
両者が火花を散らしたのは、最初だけ。
凄惨な白兵戦の跡も、折り重なる死傷者の姿も、どこにもない。
“これ以上、陛下のお膝元を汚してはならない”
その一点。
軍人として、臣下として、その矜持において、両軍はぎりぎりのところで鉾を収めたのだ。
結果、一方的な制圧でも無様な投降でもなく。
同胞としての情を交わし、血の涙を飲んだ、まさに“和解”であった。
とはいえ、その代償はあまりに重い。
『天皇陛下を護る』という同一の至誠を抱きながら、よりによって宮城という神域で交戦してしまった。
その拭い去れぬ罪悪が、軍人たちの背中に言いようのない虚脱感としてのしかかっていた。
この宮城クーデターも、やがて訪れる終戦後の新体制への移行という濁流の中で、戦時下の“身内の小競り合い”として片付けられていくのだろう。
近衛師団も東部軍も、歴史の狭間で、燃え尽きた炭のように静かに解散し、消えていく運命にある。
一条の視界は、意識は、白い虚無で満たされていた。
「……こんなはずでは」
一条は、冷たい漆喰の壁に背を預けた。
ずるずると、その場に崩れ落ちる。
凄まじい疲労がのしかかってきた。
同時に、やり場のない激情が内側から込み上げてくる。
それが涙となって溢れ出す前に、一条はきつく瞼を閉じた。
(――こんなはずでは、なかった)
宮城を覆っていた熱狂は、もう跡形もない。
後に残されたのは、不敬の罪を一身に背負わされた男の沈黙だけだ。
誰もが“合理的な落とし所”を探って動いた結果、一条だけが異物として弾き出された。
まるで歴史そのものに拒絶されたかのように。
まるで彼の大義が《無価値な空論》だったのだと史実に断じられたかのように。
身も心も、もはや満身創痍だった。
ふと一条が手元に目を落とすと、拳銃を握りしめていた。
鈍い光を放つ鉄の塊。
その冷たい感触だけが、辛うじて彼の心を繋ぎ止めている。
まるで一条が絶望の園に流されないための、錨のように。
意識が朦朧とする中、一条は壁を支えに這い上がるようにして立ち上がった。
喉を焦がすような熱い息を吐きながら、一歩、また一歩と。
おぼつかない足取りで、地下御文庫へと続く下り階段を目指し、暗い廊下を歩み始めた。
不意に、視界の端で何かが動いた。
幻覚か。あるいは、冥府からの迎えか。
行く手の薄暗がりに、4つの小さな影が揺らめき、躍り出た。
「うぉ、やべぇ! 兵隊がまだ残ってたぞ!」
あどけなく、それでいてこの場にはあまりに不釣り合いな、少年の声。
大和、蓮弥、真澄、咲良。
防空壕のような地下階の通路に潜んで、玉音盤を守っていた子どもたち。
突如、地上で轟いた銃撃や爆音。
玉音盤を奪おうと追ってきた近衛兵が突然撤退したこと。
それからしばらくして、嵐が過ぎ去ったような静寂に包まれたこと。
だから子どもたちは、恐る恐る地上へと出てきたのだった。
「お前たちは……」
一条は、凍りついた。
大和たちもまた、石像のように固まっている。
廊下の澱んだ空気の中で、両者は音もなく対峙した。
共に驚愕していたが、けれどその質は異なる。
一条を襲ったのは、ありえない、信じられないといった衝撃。
なぜ、ガキどもがここにいる?
しかも、よりによって、“こいつら”なのか?
さざれ石は時空だけではなく、運命にすら気まぐれを演じさせるのか?
一条の血走った赤い左眼が、蓮弥の抱える玉音盤を捉えた。
「……お前たちが、持っていたのか」
対する子どもたちの驚きは、生存本能が警鐘を鳴らす、根源的な恐怖。
男の右手には、黒光りする鉄の塊、拳銃が握られている。
一引きで命を奪う死の道具に、大和たちは戦慄した。
でも……
どうしたんだろう……
目の前の男は、こちらに銃口を突きつけようとはせず、また玉音盤を力ずくで奪おうとする殺気もなかった。
狂信的な軍人の猛りが感じられない。
先ほどまで館内にひしめいていた近衛兵たちとは、纏っている空気が決定的に違う。
控えめな夜間照明の下。
男の赤い左眼――
異様に煌めくその眼光が、何よりも特徴的だった。
「……もしかして、戦争資料館にいた、眼帯をつけてた男の人…?」
咲良の震える声が、静まり返った廊下に波紋を広げる。
男の醸し出す雰囲気や佇まいに、大和たちは思い当たった。
あの、眼帯の男――
大和たちの間に、衝撃が走る。
夏休みの自由研究で訪れた、靖国神社の遊就館。
館内の展示物を見学していたら、突如現れ、自分たちを守ろうとした大人たちをなぎ倒し、容赦なく追い詰めてきた。
あの、異形の男――
漆黒の眼帯の裏には、これほどまでに禍々しい“赤い眼”が隠されていたのか。
大和たちの目に宿る怯えが、瞬く間に鋭い敵意へと変わる。
だが、同時に違和感も覚えていた。
かつての圧倒的な威圧感がない。
目の前にいる男は、今にも崩れ落ちそうなほど弱り果てた様子だった。
「なんで……なんで、あんたがここにいるんだよっ!」
大和が全員の動揺を叩きつけるように叫んだ。
一条は遊就館で会うよりも、もっと前から、
子どもたちのことを知っていた。
歴史に残らなかった者たちの資料も、集めた《証拠》の中に紛れていたから。
そして失望しつつも、旧宮家の跡を、気になって追ってしまう癖がついていたから。
なにより、かつて気高かった血筋の、可能性を信じたかったから。
――伏見、朝香、梨本、北白川――
かつては皇族として、この宮城にも深く根を下ろしていたはずの、血筋のなれの果て。
最後に天皇にすがろうとする一条が、天皇から最も遠ざけられた彼らと出会い、この瀬戸際で相見えたこと。
一条は、自嘲の念に駆られてしまった。
これ以上の歴史の皮肉があるだろうか。
かつての誇りも大義も失い、ただの“子供”へと成り下がった旧皇族の末路。
一条は、そんな大和らを蔑んでいたはずだった。
しかし今、一条にその気力はない。
大和らを睨みつけることもなく、止めていた足を、再び動かす。
大和、蓮弥、真澄、咲良は、ほぼ同時に身構えた。
だが、その警戒は拍子抜けするほどあっけなく空振りに終わる。
一条は、やはり手にした拳銃を大和たちに向けることも、玉音盤を奪おうとすることもしなかった。
ただ静かに子どもたちに背を向け、おぼつかない足取りで廊下の奥へと進んでいく。
一条には、理性的な判断を下す余力は残っていなかった。
乾いた唇から零れたのは、祈りとも呪いともつかぬ、うわ言のような呟き。
「もう……こうなってしまっては……」
「陛下に……直接、御出馬を願うほか……ない……」
それは次の一手とは、なり得ない。
計画も、同志も、未来を塗り替えるという自負も、すべて失った。
もはや精神の崩壊を食い止めるためだけの、最後の退避行動。
一条自身も、おそらくそれを分かっていた。
その狂気を孕んだ背中を見送る大和たちの直感が、警鐘を鳴らす。
天皇が建物のどこにいるかなんて、分からない。
けれどこの男はきっと、天皇の場所に行かせちゃ駄目な人間だ!
「待てよ!」
大和の張り詰めた声が、廊下にこだまする。
大和は、一条の進行方向を塞ぐようにして立ちはだかった。
蓮弥も真澄も咲良も、意を決するように、後に続く。
恐怖を振り払うように、精一杯叫ぶ。
「お兄さん! そんな物騒な物を持って、何する気ですか?」
「そうよ! あなた、一体何者なの!?」
「顔、真っ青です…」
子どもたちの声も、足も、震えていた。
一条の赤い眼が、子どもたちを真っ直ぐに見据える。
「……どけ」
地を這うような低い声。
日輪の眼が、闇の中で深紅に煌めく。
その異様な眼光に、子どもたちは身体を硬直させる。
「嫌だ! どかねー!!」
臆してなるものかと、大和が吠える。
「もうこれ以上、変なことしないでよね!」
真澄も、上ずった声で一条を制止する。
咲良は恐怖に涙を浮かべていたが、退かない。
蓮弥は片方の手で玉音盤を抱え直し、もう片方の手で拳を固く握りしめた。
(ああ……鬱陶しい……)
一条は、自らをつくづく運命に呪われた身だと嘲笑した。
左眼に宿した日輪。
自らの“天命”の象徴だと信じて疑わなかった。
この日の丸こそが、空洞化した日本を導く唯一の灯火であると。
それを子供に、あろうことか皇族の末裔に阻まれている。
握りしめた拳銃が、手の中で揺れた。
引き金を引けば済む。
この目障りな障害を難なく黙らせることができる。
だが、その一線が、どうしようもなく遠い。
(いいだろう……)
もう、これは意地だ。
一条の赤い眼が、一際煌めく。
それは自らの眼光が放つ熱か、あるいは内側から溢れ出す血潮か。
「ガキどもが……。俺を止めてみろーッ!!」




