【第62話】さようなら 偶像化された英雄へ
「待てーッ! ガキどもーッ!!」
「うわぁっ! こっちもかよ!」
宮内省庁舎は、近衛兵であふれかえっていた。
廊下のあちこちで、軍靴の重い音が響く。
追い詰められる子どもたち。
大和、蓮弥、真澄、咲良――
『玉音盤』を守り切れるのか。
逃げても逃げても、後ろには増え続ける兵士の影。
角を曲がるたびに、新しい兵が待ち構えている。
咲良が必死に周囲を見渡し、指をさした。
「こっちの階段! 兵隊さんいない…!」
地下へと続く狭い階段。
湿った空気とカビの匂いが漂ってくる。
背後から迫る近衛兵の足音と怒声にまるで促されるように、大和たちはその階段を降りていく。
地下には圧迫感のあるコンクリートの通路が続いていた。
地上よりもひんやりとした空気が肌を刺す。
まるで防空壕の中に閉じ込められたような感覚。
この先に、本当に逃げ場はあるのか。
嫌な予感は的中した。
大和たちが通路を突き進んだ先は、行き止まり!
大きな鉄の扉が立ちはだかっていた。
「開かねぇ! カギかかってるぞ!」
大和は乱暴に、何度も扉のノブをがちゃがちゃと回す。
その時、鉄扉の向こう側から、微かに人の気配が伝わってきた。
息づかいなのか、動いて服が擦れる音なのか。
希望がそう感じさせるだけなのか、ただの幻覚なのか。
判断はできないが。
大和は声を張る。
「おーい! 開けてくれー!」
真澄と咲良も必死で続く。
「私たち、追われてるんです! 助けて下さい!」
「大事な…『玉音盤』を、持ってます…!」
だが、返事はない。
扉の向こう側は、冷たく沈黙したまま。
蓮弥は冷や汗で滑りそうになった手で、持っていた玉音盤を持ち直した。
背後では、近衛兵たちの怒声と足音が迫る。
「これ……万事休すってやつじゃね?」
軍靴の重い音。
周囲を囲む近衛兵。
完全な袋小路だ。
もはや、先ほどのように玉音盤をフリスビーのようにパスし合って逃げることはできない。
背筋に氷水のような汗が流れる。
「もう逃げられないぞッ!」
近衛兵の威圧的な声に、大和たちは息を飲む。
玉音盤が、終戦の願いが、平和の声が、奪われる!?
そして子どもたちは何をされるのか――
想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。
子どもたちの必死の形相を見たせいか。
凍えるその様子を憐憫に思ったのか。
近衛兵のひとりが、他の兵士とは違う動きを見せる。
荒々しい威圧ではなく、静かに、しかし確実に一歩ずつ距離を縮めてきた。
大和たちは警戒の目を光らせながら、全身全霊で身構えた。
「……お前たちは、その『盤』が何なのか、分かっているのか?」
大和が反射的に言い返した。
「戦争を終わらせるための声が入ってるんだろ! なんでそれを奪おうとすんだよっ!」
兵士は静かに、それでいて重みを感じさせる声で答えた。
「そうだ。録音盤に刻まれた陛下の御声――これが放送されれば、この戦いは終わる。日本は負けを認め、我々は銃を置き、これ以上 神州は焼かれずに済む。それが"正しい"ことだというのは、重々知っている」
その眼差しは、穏やかにも、後ろめたさにも見えた。
大和たちは思わず顔を見合わせる。
「お前たちがそれを守っているのは立派だ。本当に、立派だ。その“重さ”を、子どもに背負わせてしまった。申し訳ないと思っている」
なんとその兵士は、身を屈めて大和たちに向かって頭を下げた。
「これは“大人”の罪だ。だから――」
兵士は玉音盤を抱える蓮弥に、そっと手を伸ばした。
「それを渡してくれ。恨んでいい。憎んでいい。我々を悪者にしていい。だがその代わり、この国がもう一歩、足掻く時間をくれ」
大和たちは、言葉を失っていた。
「敵は強大だった。それでも、日本を――誰も、日本を侮れなかった」
兵士が玉音盤を持つ蓮弥の目を正面から見据える。
「小さな国だと言われ、資源もないと言われ、それでも我々は底力を見せつけ、世界を震えさせたのだ」
蓮弥は、ぽつりと、震える声で漏らした。
「強い……日本?」
蓮弥の奥底に眠っていた記憶が、蘇る。
そうだ、ボクは――
以前タイムスリップした時、その光景を見たんだ。
破竹の勢いで進撃する日本軍。
上海、南京と、次々に陥落させていく。
勝利に沸く兵士たちの歓声。
泥と汗と涙でぐちゃぐちゃになった日本兵たちの姿は、圧倒的だった。
ボクの心は震えて、その熱量に踊るように魅せられたんだ!
あの時の気持ちは、なんとも言えないものだった!
近衛兵は、蓮弥の目を見つめて確信した。
少年の心に――通じたと。
「日本軍は勇敢だった。誇りを抱いていた。嘘じゃない。本当に、嘘じゃなかった」
そうだ!
あの光景は、未来の知識も、敗戦の史実も、全部吹き飛ばすほど強烈だった!
日本軍の勝利。戦勝の熱狂!
ボクはその“一部”だったんだ!
胸いっぱいに広がった充足感と、日本兵と共有した歓喜!
「あれは……“誇り”?」
蓮弥の呟きを逃すまいと、兵士が言葉を重ねる。
「そうだ。お前が感じていた誇りは、間違いじゃない。あの気高さも、自信も、全部本物だ」
そして、近衛兵は続ける。
「だが、その顛末を“子ども”が抱える必要はない。これは大人の戦争だ。最後まで我々が引き受ける」
蓮弥が――呆然としている。
「蓮弥……?」
大和は心配になって声をかけた。
反応がない。
どうしたのか?
蓮弥の耳に届いているのか?
真澄と咲良も、恐る恐る蓮弥の顔をうかがった。
ああ……
頭の片隅で、かつて見た日本軍の隊列が甦る。
陥落した敵の拠点に向かい、堂々と行進する日本兵たち。
日の丸の旗が風に翻り、銃剣が朝日に反射して光っていた。
日本兵はみんな疲れているはずなのに、その背中は真っ直ぐ伸び、目には光が宿っていたんだ。
「我々を信じてくれ。あとは任せてくれ――」
近衛兵の手が、蓮弥の持つ玉音盤に伸びる。
蓮弥は近づく手のひらに抵抗せずに。
(ボクが、これを守っていると、“誇り”の邪魔になるのか?)
玉音盤が急に冷たく、そして重く感じられた。
(渡さないと……)
「――蓮弥ぁぁああああ!!」
大和の耳をつんざくような叫び!
地下通路に痛烈に響き渡るそれは、鉄扉の向こう側にも届いていた。
蓮弥はハッとした。
奥底に眠っていた、別の光景も蘇る!
モヤがかかり、完全には思い出せないけれども――
嫌なものを見た。
致命的に、嫌なものを。
日本軍が進撃するその裏で――
英雄のように見えた日本兵たちの、厳しくも、優しかったその影で。
――あれは。
――あれは駄目だ!!
蓮弥は、ゆっくりと顔を上げる。
兵士の目を、真っ直ぐに見る。
日本軍は、この国を守ろうとした。
大人たちは必死だった。
それを疑う気はない。
でも――
(誇りは……“誰”の上に立っていた?)
蓮弥の胸が、ぎゅっと縮む。
強さを、かっこいいと思った。
でもその強さは、誰かの命を踏み越え、押し潰して成り立っていた。
(その強さで! その気高さで! たくさんの人が死んだんだ!)
迫る近衛兵の手。
蓮弥は玉音盤を引っ込めて、自らの胸に押し付けた。
「誇りは、もう十分! これ以上重ねなくていいんだ! もうやめようよ!!」
通路に沈黙が落ちる。
大和たちも、近衛兵たちも黙っていた。
息遣いと心臓の鼓動だけが、静かに響いていた。
蓮弥は玉音盤を胸に抱えたまま、力強く言い放った!
「これは渡せない! 押し付けたのは、“大人”たちじゃないか!!」
大和、真澄、咲良は――無意識に固まっていた肩の力が抜ける。
遠くに行ってしまったような蓮弥が、再び自分たちの前に戻ってきてくれた。
「……そうか。やむを得ない」
近衛兵は、諦めたように呟いた。
言葉はもう力を持たない。
実力行使。
目つきが鋭利なものになる。
玉音盤を奪おうと、襲いかかってきた!
――その瞬間――
地上から、銃声と爆音が轟いた。
近衛兵たちは一斉に後ろを振り返る。
目が泳ぎ、切っ先のような緊張が走り抜けた。
大和たちも近衛兵たちも、突然の轟音に狼狽していた。
「な、なんだ……!?」
「一体、どういうことだ……!?」
近衛兵たちが顔を見合わせ、眉をひそめ、互いに短い言葉を交わす。
声にならない慌てた息遣いが混ざる。
その時、地下通路の出口の方から指示の声が響いた。
「すぐに戻れーッ! 緊急事態だ!!」
急迫感漂うその叫びは、指揮官の声だろうか。
地下通路にいる近衛兵たちは、目に焦燥を浮かべ、慌ただしく来た道を引き返していく。
軍靴がコンクリートに響き、地下の通路に冷たく反響する。
まるで津波が去ったかのように、大和たちを取り囲んでいた空気が一変した。
「……オレたち、助かった……?」
動けずに無言で互いに見つめ合い、立ち尽くす大和たち。
真澄と咲良は、安堵と混乱が入り交じった表情で、溜め込んでいた息を一気に吐き出した。
「は……はは……」
蓮弥は気が抜けて、腰も抜けて、その場にへたり込んだ。
玉音盤を抱えるその腕だけは、力を緩めずに。




