【第60話】玉音フリスビー
大和、蓮弥、真澄、咲良は、宮内省庁舎をただひたすら駆けていた。
走る――!
とにかく走る――!
息が切れても、足がもつれても、止まれない!!
「どうしてオレたち、こんなことになってんだよ!!」
“玉音盤”の入った風呂敷包みを抱えた大和の叫びが、廊下に反響する。
蓮弥も続けて、半泣き混じりに叫ぶ。
「陽仁を探すだけだったはずなのに! 厄介なこと引き受けちゃったな~!」
「ちょっと大和ぉ! あんたが余計なこと言ったからでしょ! ちゃんと責任とりなさーい!!」
真澄が走りながら怒鳴る。
「わたしたち…」
咲良が、息を切らしながら小さく言った。
「戦争資料館でも、こんな感じで、追われてたよね…!」
思えば、あの時から物語は始まっていたのだ。
子どもたちにとって、忘れられない夏休み。
戦時下の日本へタイムスリップし、教科書でしか知らなかったこの国の歴史に触れた瞬間――
それは、ただの冒険ではなかった。
あまりに過酷な、アジア太平洋戦争を巡る旅。
目をふさぎたくなるような悲劇。
声にならなかった願い。
傷つき失われていった命の重み。
知ってしまったからこそ、子どもたちは引き返せない。
それはきっと、記憶や祈りを、未来へと紡ぐために。
自分たちは今、その大事な局面にいる――!
「待てーーーッ!!」
叩きつけるような怒号が、背後から迫る。
大和たちは思わず振り返る。
ぞっとした。
近衛兵たちが、“抜刀”して追ってきていたのだ。
「やべー! マジで洒落になんねー!!」
大和の声が裏返る。
近衛兵に追われる4人は、必死の形相で迷路のような宮内省庁舎を駆け抜ける。
長い廊下、急な曲がり角、階段。
どこもかしこも似たような景色で、方向感覚が狂ってくる。
ただ、幸いだったのは外ではないこと。
瓦礫の散乱した荒れ地でも、砂利道でもない。
磨かれた床。
靴を履いていない靴下だけの大和たちにとって、それが唯一の救いだった。
大和たちが走っている廊下の、その進行方向の扉が、ちょうど内側から開く。
――来客用の控室。
扉の向こうから姿を現したのは、背中に大きなカバンを担いだ男だった。
放送技術者の浜護。
玉音盤録音のため、今夜特別に宮中へ招集された日本放送協会(NHK)職員である。
(いやはや……ほぼ徹夜でしたね)
玉音盤の録音後、控室で用意されたお茶を飲んで寛いでいたわけだが。
機材等をまとめ、帰り支度を済ませて部屋を後にするところだった。
(それにしても、さっきから館内で慌ただしい足音がひっきりなしに聞こえてきます。さすが宮中。こんな時間でも、警備が行き届いてるんですね)
浜護は呑気に感心していた。
――その直後。
彼の視界を、小さい影が複数横切った。
児童と思われる男の子がふたり、女の子がふたり。
奇妙な服装に、必死の形相。
4人は浜護の存在などまるで目に入らない様子で、脇をすり抜けていく。
(こんなところに子ども? しかもあの格好は……)
疑問を抱いた、その瞬間。
先頭の少年――
大和が抱えていた風呂敷包みが、ほどけた。
包んでいた“中身”が、露わになる。
「……え?」
浜護の視線が、釘付けになる。
そこにあったのは、見間違えるはずのない、漆黒のレコード。
一瞬で、血の気が引いた。
(そんな……まさかっ!?)
つい数時間前。
自分たちが、細心の注意を払って録音したばかりの――
“天皇陛下の終戦詔書の御声”――!?
「やべ! 風呂敷落としちゃった!」
大和が叫び、思わず足を止めて振り返る。
しかし即座に、真澄と咲良が息を切らしながら声を重ねた。
「そんなの拾ってる暇ないわ!」
「兵隊さんたちが…はぁ、はぁ…すぐそこまで来てるよ…!」
廊下の奥から、重たい軍靴が床を打つ音が近づいてくる!
その音に背中を押されるように、蓮弥がその場で足踏みしながら叫ぶ!
「ほらっ! みんな、早く!!」
大和は歯を食いしばり、腕の中の玉音盤を抱え直した。
子どもたちは、再び走り出し、廊下の先の闇の中へと去っていった。
浜護は絶句していた。
あの子ども――
録音盤を素手で! 直に!
しかも縁ではなく、溝の刻まれた盤面そのものを触っていた!
「あんな触り方をされたら、音が歪む――ッ!」
技術者としての悲鳴が、凍えるように漏れた。
「陛下のお言葉の『あ』が、『ア゛』になる――ッ!!」
青ざめた、その瞬間だった。
――『ドドドドドッ!』
今度は子どもたちが駆けていった反対側の廊下から、荒い足音が壁を震わせるように響く。
「ガキどもめ! その盤を渡せー! 奸臣に惑わされた陛下の偽りの御声を外に出してなるものかー!」
怒号とともに、近衛兵たちが姿を現した。
抜き身の刀が照明を反射し、刃が白く閃く。
兵士たちは獣じみた形相で子どもたちの後を追い、廊下を駆け抜けていった。
耳鳴りのような静寂が、急に戻ってくる。
まるで嵐が去ったかのよう。
その場に残された浜護は、しばらく動けなかった。
(……一体どうなってるんですか……?)
震える指先を、ぎゅっと握りしめる。
必死に、混乱した頭を整理する。
先ほどの兵士の言葉。
そして、あの子どもたち。
ひょっとして――
(……録音盤を“守っている”……?)
呆けている場合ではない。
理屈も立場も、今は関係なかった。
子どもたちが捕まったら?
録音盤が、あの兵士たちの手に渡ったら?
“日本の未来そのものが、危うくなる!”
恐怖で奥歯が、ガタガタと鳴る。
「……録音盤を守らねば……」
浜護は泣き出しそうな顔のまま。
背中に背負っている大きなカバンを揺らしながら、必死に走り出した。
子どもたちと近衛兵が消えた、廊下の闇の向こうへ。
廊下の突き当たりだった。
「まずい! 行き止まりだ!」
先頭を走っていた蓮弥の声は、悲鳴に近かった。
その一言で、子どもたちは一斉に急停止する。
背後から、重たい足音。
抜き身の刀を構えた近衛兵たちが、息遣いを響かせながら迫ってくる。
「……追い詰めたぞ。観念して、その盤をこちらによこせ!」
大和たちは肩で息をしながら、じりじりと後ずさる。
行き止まりの壁が、突き放すように冷たく背中に触れた。
少し遅れて追いついた浜護は、柱の陰に身を潜め、その光景を覗き見る。
恐怖で全身が小刻みに震えている。
(ど、どど、どうすれば……!?)
その時だった。
近衛兵のひとりが、ゆっくりと前に出る。
視線は一直線に、玉音盤を抱えた大和に向けられていた。
兵士は一歩、また一歩と距離を詰める。
大和は盤を抱きしめたまま、唇をきゅっと結んだ。
そして――閃く!
大和は何も言わずに、視線だけを動かした。
蓮弥、真澄、咲良へ、わずかな目配せ。
だが、子どもたちは理解した。
緊張と恐怖に染まった顔。
本当に大丈夫なのか、という不安。
それでも背に腹は代えられない!
3人は、無言でうなずく。
やがて蓮弥、真澄、咲良は、ゆっくりと。
大和から距離を取るように、散開した。
「……?」
近衛兵の眉が、わずかに動く。
何をする気だ?
しかしそれも一瞬だけ。
兵士は意に介さず、再び大和へと意識を戻した。
「悪あがきはやめろッ!」
そう言って、さらに一歩踏み込む。
大和の腕に抱えられた盤へ、伸びる手。
――その時だった。
「蓮弥! パス!!」
あまりにも軽快で、場違いな声掛け。
大和は、玉音盤を抱えた腕を振り抜いた。
黒い円盤が、空を切る。
まるで遊び場で投げるフリスビーのように。
軽く、滑るような軌道を描いて飛んだ。
「なッ!?」
その場にいた大人たちの時間が、完全に止まった。
浜護の心臓が凍りつく。
近衛兵たちは目を見開いたまま、身体が硬直する。
「おっ、ととと!」
蓮弥は震える両手で、どうにか玉音盤を受け止めた。
冷や汗が一気に噴き出す。
少しでも角度が違えば、床に落としてしまうところだった。
「ガ、ガキども! 何をやっているかッ!!」
我に返った近衛兵の一人が怒鳴り散らした。
蓮弥に詰め寄って盤を奪おうとする。
その瞬間
「真澄! いくよ!」
蓮弥は盤を抱え直す間もなく、身体をひねり、再び投げた。
玉音盤は、また宙を舞う。
「――ッ!」
今度は真澄が両足を踏ん張り、それを見事に受け止める。
「ナイスキャッチ!」
「貴様らぁ~ッ!!」
怒号とともに、近衛兵が方向を変えて真澄へ突進する。
しかし、遅い。
「咲良! 受け取って!」
真澄の声と同時に、黒い円盤は再び放り投げられた。
「あ、あわわ…!」
咲良は胸に抱き込むようにして、ぎりぎりでキャッチする。
こうして――
近衛兵が近づくたびに、子どもたちは玉音盤を投げ、パスし合う展開に。
完全に、円陣の中を回すように。
「……ガキどもがッ!」
近衛兵たちは、明らかに動きが鈍った。
誰も、踏み込めない。
「天皇陛下の御声を! そんな乱暴な扱いをしていいと思っているのか!」
「不敬だぞ! 遊び道具じゃない!!」
でも――
そう非難して叫ぶ近衛兵たちは、本来、玉音盤を“使われない”ために、奪うのが目的だった。
極論を言えば、盤を落として割ってしまえば、それで済むわけで。
けれど、その立場の近衛兵たちも。
この光景には、ちょっと、いやさすがに、ドン引きしていた。
大和たちは正直なところ、少し楽しくなってきた。
放課後の校庭で、夢中で投げ合ったフリスビー。
相手の位置を見て、軌道を読む感覚。
落とさないように、声を掛け合う呼吸。
それが今、この場で、妙に噛み合っていたのだ。
「ほら、来るよ!」
「オッケー!」
玉音盤は危うい軌道を描きながらも、ぎりぎりのところで、大和たちの手に収まっている。
その光景に我慢できなかったのは浜護だった。
「ぎゃああああ! もうやめてぇぇええーー!」
顔から血の気が失われ、白目をむきながら。
「盤がぁああ゛ー! 割れる! 砕ける! 溝が死ぬぅぅーっ!」
その断末魔のような叫びに、子どもたちも、近衛兵たちも、一斉に振り向いた。
浜護は構わず叫び続ける。
「盤は78回転レコード! 直径30cm! 投げたら割れるに決まってるでしょう!? 何してんの君たちぃぃぃっ!!」
突如現れた男が軍服でもないことに気づき、大和たちはほんの一瞬だけ、ほっとする。
大和は言い返す。
「だってさ! 奪われないようにするには、これしかないじゃん!」
「落としたらどうする気ですか! 録り直しはきかないんですよ!!」
蓮弥が、バツが悪そうに言葉を濁した。
「もし落として割れたら……すいません」
逆に真澄は、平然と言ってのける。
「でもその時は、また録音すればいいんじゃないかしら?」
「なんですってっ!?」
浜護の思考が、完全に停止する。
そこへ大和が悪気なく、明るく言った。
「もし天皇が断ったらさ、オレが代わりに喋ってもいいよ」
咲良が追い打ちをかける。
「終戦の言葉、大人がカンペ用意してね…」
「………………」
浜護は、言葉を失った。
不敬だ。とんでもない。あり得ない。
もう悲しくなって、泣いていた。
いきなり姿を現した浜護に警戒して、近衛兵たちは動きを止めていたわけだが。
ターゲットは再び子どもたちへ。
ついに、堪忍袋の緒が切れた。
「ええい、ちょこまかと鬱陶しい! 全員斬り捨ててくれるッ!」
完全に頭に血が上った一人の近衛兵が、追跡をやめ、刀を大きく振りかぶった。
“子どもを手に掛けるのか?”
近衛兵の顔が、一瞬だけ歪む。
だが――
「ええいッ! ままよッ!!」
「――ぁ!!」
大和子たちの顔から血の気が引く。
危ない――!
浜護は反射的にカバンへ手を突っ込んだ。
愛用の重たい真空管ケース、いや、録音機材用の予備バッテリーがいいか。
とにかく、ずしりとした重さのそれを掴み、目をつぶって投げつける。
――『ガンッ!!』
鈍い衝撃音。
投げられた放送器具は、見事に刀身に直撃した。
弾かれた刀は、床を滑って転がる。
「キサマ……何のつもりだ?」
近衛兵の殺気を帯びた視線が、浜護に突き刺さる。
身体が、言うことをきかない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように。
(逃げたい……関わりたくない……)
けれどもこれは、子どもたちだけの危機ではない。
日本そのものの、危機だ。
浜護は顔をグシャグシャに歪め、腹をくくった。
「……子どもたち。録音盤を飛ばしちゃだめですよ」
震える声を必死に張り上げ、自らを鼓舞する!
「飛ばすのは……終戦の願いだけ、平和の声だけで、良いのです!」
この子たちは、守る!
どう考えても、今、刀を振り上げている側こそが反乱分子なのだから!
浜護はカバンから放送用のケーブルを引きずり出す。
両手で掴み、ぶん、と大きく振り回した。
「ここは私が引き受けます! あなたたちは、その隙に逃げなさい!」
「おっさん……!」
大和が息を飲む。
蓮弥、真澄、咲良は唇を噛みしめ、目を見開いたまま言葉を失っている。
それも束の間、浜護の顔を見つめ、強く頷いた。
一方、近衛兵たちは完全に逆上していた。
「ふざけるなッ!」
「命を張る覚悟は出来てるんだろうなーッ!?」
怒号と共に、近衛兵たちが一斉に距離を詰める。
「さぁ子どもたち! 行くのです!!」
浜護の叫びに背中を押され、大和たちは走り出した。
「サンキュー! おっさん!!」
大和は去り際、短く叫んだ。
もう振り返る暇はない。
ただ、走る!
子どもたちの足音が、遠ざかっていく。
浜護は小さく苦笑した。
(Thank you ですか……)
敵性言語。
本当に、不思議な子どもたちだ。
けれど――
「……頼みましたよ」




