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【第58話】日輪の目、日の丸を宿す者

挿絵(By みてみん)


夜も、だいぶ更けてきた。

官舎の一室で、近衛師団長は机に向かい、執務に追われている。

書類に視線を落としていても、思考は否応なく別のところへ引き戻されてしまう。


明日には、玉音放送が流れる。

無条件降伏の受け入れ。

日本の敗戦。


胸の奥に、言葉にしがたい不安が広がる。

しかしながら、もはや決まったことだ。


“陛下の御聖断(めいれい)”と“軍人としての忠義”


その二つに挟まれ、苦悩していても仕方がない。

ただ、これからの日本を思う。



その時――


静まり返った廊下に、扉を叩く音が響いた。


(こんな時刻に誰だ?)


師団長は眉をひそめる。


「……入れ」


低く、短く告げる。


扉が開き、現れたのは見慣れぬ青年だった。

背筋を正し、無駄のない所作。

青年将校の軍装に身を包んでいるが、その佇まいはどこか異質だった。

何より目を引くのは、左目を覆う、“漆黒の眼帯”


青年・一条(いちじょう)は、部屋に入るなり深々と頭を下げた。


「夜分遅くに、失礼いたします」


近衛師団長は、直感する。


(この男……ただ者ではない)


妙な圧がある。

それが眼帯の奥から、静かに滲み出ていた。


一条は、ゆっくりと顔を上げる。

隠されていない右目が、真っ直ぐに師団長を捉えた。


「閣下。今この宮城の闇の中で、我ら神国の歴史は断絶しようとしております。天皇陛下が下された『御聖断』。果たしてそれは、陛下の大御心でありましょうか?」


「何だと?」


「我ら陸軍が、そして近衛師団が、何を信じてここまで戦ってきたのか。それは陛下の御身をお守りし、この神州を不滅のものとすることに他なりません」


一条の声は感情に溺れず、むしろ冷静だった。


「ですが、陛下の御側を固める弱腰の重臣どもは、陛下をたぶらかし御目を曇らせ――あろうことか“無条件降伏”という名の、神国解体の書に、御署名をさせようとしております」


近衛師団長は、眼帯の男を正面から見据える。

怪しい。危うい。何かが軋んでいる。

だが同時に、その言葉の端々から軍人として、この国を思う覚悟が滲み出ているのも、否定できない。


「閣下、どうかお考えください。誰が陛下をお守りできるというのですか? 誰がこの神の器たる皇城を、最後まで守り抜けるというのですか? ポツダム宣言受諾の先に待つのは、平和ではありません。我が国体の、完全なる消滅であります」


一条は声を一段高くして、なお語り継ぐ。


「今この瞬間、陛下は重臣たちの籠絡によって、いわば“幽閉”されているも同然。我々がなすべきは、悪臣を排除して陛下に、真実をお伝えすること。そして、国体護持の確約を、敵に突きつける。それこそが近衛師団に課せられた、真の“勤皇”ではないでしょうか?」


一条は、まっすぐに師団長を見つめた。


「東部軍も、全国の将兵も、近衛が立ち上がれば必ずや続きます。閣下。この場で我らと共に、陛下の真の御心を、“日本”を、お救いいただけますか?」


室内に漂う、重苦しい静寂。


師団長の脳裏に去来する忠誠、責任、敗戦、そして未来。

口を硬く閉ざしていた師団長だったが――


「言わんとするところは……承知した」


師団長は、ゆっくりと立ち上がる。

その表情は毅然としていた。


「しかし――それは“反逆”だ」


師団長の声色は、揺るぎない。


「既に“御聖断”は下った」



沈黙。


一条は、わずかに息を吐いた。

その表情には、失望も怒りもない。

あるのは、説得という選択肢を切り捨てた者の、冷たい覚悟。


一条は、ゆっくりと左手を上げる。

そして、左目を覆っていた眼帯を外した。



「……っ!?」


師団長は、思わず息を飲んだ。


そこにあったのは、異様な赤い眼。

まるで日輪のような、日の丸そのもののような。

禍々しい空気が、部屋中を満たす。



一条は、その眼で師団長を射貫いた。


「師団長よ。今この時、我らが選択しようとしている“降伏”は、単なる戦争の終結であってはならない。この国が悠久の歴史の中で培ってきた“魂”と“矜持”を、自ら断ち切る行為であってはならぬのだ」


師団長の表情が、みるみる強張っていく。

理性が警鐘を鳴らしている。

見るな。聞くな。

それなのに、視線も意識も、赤い眼から引き剥がせない。


「俺は、この先の“日本”が歩んだ光景を、既に視ている。もし今、このままポツダム宣言に無条件で屈すれば、天皇は《現人神》の座から引きずり下ろされ《人》となり、庶民と同じく法の首輪に繋がれ、見せかけの安寧に飼いならされる存在となる」


師団長の額に、冷たい汗が伝っていた。


「そうなれば神聖は失われ、国民の精神的支柱としての力は弱まり、その紐帯は断たれる。天皇は“象徴”という名の、中途半端な偶像、抽象像へと貶められ、やがて文化的な“装飾品”に変質してしまうのだ!」


一条の言葉は、未来を断罪する宣告のように。


「百年後の日本人は、豊かさの中で誇りを失う。権威も存在感も薄れた天皇に対して、真に陛下を敬う心も、国を思う情熱も枯れ果ててしまう。この国の未来を担う者たちが、魂の抜け殻のような民になってしまっても良いのか!?」


師団長は後ずさりそうになるのを、必死に堪えた。


(あの赤い眼光は……何だというのだ!?)


吸い込まれそうだ。

理解できない。

理解してはならない。

それでも否定しきれない恐怖が、胸を締め付ける。


「な……なにを、言っている……?」


それがようやく絞り出せた言葉だった。

一条は、構わず続ける。


「だからこそ、わずかな間でいい。今は時計の針を止めねばならない。俺の目的は勝利ではない。降伏はする。武装解除も、占領も受け入れる。だが、“第三の終戦文言”を成立させるまでの時間が必要だ。だからしばしの間、この宮城(きゅうじょう)を閉じる。不可逆な“構造変更”を終える時間を、確保する為に!」


もはや説得ではない。


「その妥協点こそが、将来の日本を救う“楔”となるのだ。憲法に、条約に、そして国民の心情に! 陛下の《神威》を刻み込む。政治や軍事の権限は持たせなくていい。主権者としての地位の代わりに、最高守護者としての“居場所”を残す!」


赤い日輪のような左眼が、歪に輝く!


「それが、未来の日本を救うことだーーッ!!」


その瞬間――

師団長の心が、ばらばらに揺さぶられる。


徹底抗戦したかったという、拭いきれぬ自尊心。

命を落とした部下たちへの、言い訳できない後ろめたさ。

敗北を認めることへの、耐えがたい屈辱。

そして帝国の栄光が永遠に続く、願望の未来像。


それらが、ひとつひとつ剥き出しにされる!


揺らいだ心の隙間に、一条の眼が、次の“光景”を流し込んだ。


見せられる、降伏後の日本を!


連合軍の兵士が、皇城を蹂躙する光景――!

天皇陛下が拘束されてしまう、幻影――!

死んでいった者たちが『無駄死にだった』と、悔恨の涙を流す姿――!

掲げられていた日の丸が引きずり下ろされ、地に落ち、燃やされていく――!


見せられる、未来の日本を!


誰もが、すがるものを失う。

日本人としての矜持を失う。

生きる活力を宿していたはずの瞳が、その色を失う。

国民が、ただ『なんとなく』生きている社会。

それは――《平和》と言えるのか?


これは単なる恐怖では……ないっ!!


一条の赤い眼は、洗脳ではない。

恐らく見てしまった者、捕らえられてしまった者の。

心の奥底に沈んでいた“想い”を、“幻”として映し出しているのだ。


国家の栄光。

仲間の死を、無駄にしたくないという切実な気持ち。

天皇への、疑いなき信仰。

敗戦に対する、耐えがたい屈辱と恐怖への処方。


それらすべてが混ざり合い、極めて危うい“甘美な幻”をみせる。


――そうだ。


未来の大日本帝国が、再び巨大な赤い太陽として、世界の中心に輝いている。

神である天皇が、国民一人ひとりを導き、迷いも、空白も、与えない未来。

歪んだ眼が映しているのは、一個人のではなく、国の理想。


師団長は、錯覚する。

自分は、操られたのではない。

自分の意思で、立ち上がるのだと。


「……分かった。近衛は、陛下をお守りするために存在する。ならば今こそ、その力を使うべきだ。直ちに宮城内の警備を掌握する!」


近衛師団長のその言葉を聞き、一条の口元がわずかに歪む。


(そうだ、それでいい。これは反乱ではない。“勤皇”なのだ)



かくして――


一条は、宮城の近衛師団を、完全に手中に収めた。



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