【第57話】暗躍者の離反
宮内省庁舎の中。
窓の外は、深い闇に沈んでいる。
上弦の半月が淡く光を落とす夜だったが、その月明かりに照らされても、
誰も子供たちが宮内省庁舎へ近づいていることなど、気づく者はいなかった。
窓辺に、ふたりの男が立っている。
視線は揃って、外の闇へと向けられていた。
まるで長く探し求めていた“何か”を、暗闇の中から見出そうとするように。
あるいは、戦時下という時代の終局に、万感の思いを馳せるかのように。
ふたりの男。
左目に眼帯をした男・一条
黒縁眼鏡をかけた男・二階堂
一条は、低く重みのある声で口を開く。
「さざれ石は気まぐれだ。万能の装置じゃない。随分と手間を掛けさせられた」
短い沈黙のあと、わずかに息をついて言葉を重ねる。
「だが、準備は整った。二階堂、お前にも苦労をかけたな」
二階堂は一瞬だけ視線を伏せ、すぐに柔らかな表情を作る。
「いえいえ……こちらも、学ぶことの多い機会となりました」
その声は穏やかだったが、内心には言葉にしきれぬ感情が滲んでいた。
一条の顔には、労いが浮かんでいる。
二階堂の顔には、どこか含みのある微笑が浮かんでいる。
命懸けでここへ辿り着いたのは、子どもたちだけではない。
このふたりもまた、同じだった。
二階堂は諦観したようで、なお諦めきれない、そんな相反する複雑な表情で、一条を見つめた。
「一条さん、宮城事件は“戦争継続”と“終戦受諾”という、国家の命運を分けた重大な局面です」
「分かっている」
「ここで無条件降伏すれば“皇国”は崩れ、守るために散っていった命は、何だったのかという話になります。だから、意地を見せるんですか?」
「……」
「国体維持のために。史実の通りに、ですか?」
「“神国”が守るのは国ではない。国が神国を守らねばならん」
二階堂は言葉を選びながら、一条の真意を問う。
「貴方は、あの青年将校たちの“英雄”になりたいんですか?」
「“終戦阻止”か……」
一条は、鼻で小さく笑った。
「ふっ。確かに、史実と重なるな」
その冷笑は、失敗に終わった宮城クーデター事件そのものを嘲っているのか。
それとも、これから実行しようとしている計画と、過去の事件との類似が、可笑しくなったのか。
二階堂には、判断がつかなかった。
歴史の流れに介入できるのか。
戦争の結末を、変えられるのか。
試されているのは一条個人ではない。
日本そのものだ。
一条は、静かに言い切る。
「勘違いするな。“時間稼ぎ”をするだけだ。戦争継続ではなく、一時的な戦争停止。
“自ら条件を再定義して終戦する日本”を作るまでのな」
二階堂は思わず、言葉を被せた。
「あまりもたもたしていると、本当に日本は滅びますよ? 第三の原爆投下や、ソ連軍が北海道にたどり着く可能性だってあります」
それは大袈裟でもなく、脅しでもない。
二階堂の言う通りだった。
悠長な猶予など、どこにもない。
連合国と話し合う時間はない。
国際世論を動かす時間もない。
だが――
“既成事実を積み上げる時間”なら、わずかに残されている。
「時間はかけん。4日……いや、3日でいい。それで実現まで持っていく。その為の準備は整えた。後は手筈通りに進めるだけだ」
二階堂はため息が出そうになるのを、辛うじて堪えた。
既に議論する段階でも、説得する段階でもない。
とっくに、その線は越えている。
一条は背を向け、その場を去る。
「“外”のことは、任せたぞ」
二階堂は返事をする代わりに、深々と頭を下げた。
しかし、俯いたその顔は歪んでいる。
(なぜ一条さんも! 三篠さんも!)
(こんな土壇場になってから、勝手なことを!)
(裏切るような真似をするんだっ!)
二階堂の胸の奥に、怒りが渦巻く。
彼らは何を見て、何を信じてしまったというのか。
何に感化されて、何を抱いてしまったというのか。
それでも――
想いは違えど、誰もがこの国のことを考えていた。
(一条さん……準備してきたのは、貴方だけではないんです)
(予め……謝っておきます)
そして二階堂は、心の中で叫んだ。
(ですが、一条さん! 裏切ったのは、貴方が先だ!!)




