【第50話】侍従長 VS 内閣重鎮
静まり返った赤坂御用地。
侍従長の天海は、皇女の逢子を伴い、庭園の奥深くにひっそりと佇む茶室の一角を訪れていた。
「逢子様。本日の件、皇宮警察本部長の雨宮が、お耳に入れたい緊急の事項があるとのことでございます」
「……はい。承知いたしました」
事態が事態だ。きっと前例のないこともある。
弟の皇太子、陽仁の失踪。
その衝撃は、宮中を激しく揺さぶっている。
父である和仁天皇、母である彩子皇后とは完全に切り離された状態で説明が行われること。
不自然だとは思いつつも例外的に、かつてない措置が講じられるのも致し方ないのだと、逢子は自分を納得させていた。
案内する天海もまた、胸中には拭いきれない違和感があった。
いかに緊急時とはいえ、このような離れの茶室を密談の場に選ぶとは。
皇宮警察の本部長・雨宮が直々にである。
雨宮とは、天海が若かりし頃から宮中で苦楽を共にしてきた。
いわば長い年月をかけて信頼関係を築き上げてきた、身内も同然である。
その雨宮が、声を潜めて『逢子様個別の安全に関わる極めて繊細な説明がある』と頼み込んできたのだ。
今後の公務の進め方や、警護体制の抜本的な変更の相談か。
事前に明かせぬほどの、複雑な事情があるのかもしれない。
襖を静かに引き開け、部屋に入ると――
なんと、そこにいたのは皇宮警察本部長の雨宮ひとりではなかった。
雨宮の隣には、苦笑いする内閣官房長官の小池。
そしてもうひとり、メガネ越しに鋭い眼光を光らせる、見知らぬ男。
内閣情報官であったわけだが、天海はその男と目が合った瞬間、直感的に見抜いた。
秘書などではなく、内調の人間であると。
皇女の逢子は、辛うじて顔見知りの雨宮に視線を送ったものの、内閣のふたりから漂う宮中とは別の雰囲気に、思わず息を飲み込んだ。
「……これは……?」
逢子はふと、隣に立つ天海の顔を仰ぎ見た。
だが逢子が目にしたのは、侍従長の度肝を抜かれたように目を見開き驚く姿。
予想外の不意打ちであることは明白だった。
侍従長すら、嵌められたのだ。
そして逢子は察した。
これは自分の身の安全に関する説明ではなく、皇室そのものの安全に関わる“何か”だと。
天海もまた、察した。
これは正式な報告でも、内密の相談でもない。
通常の保証案件を逸脱した、あまりに危うい“何か”の勧誘だと。
皇宮警察本部長の雨宮が、顔を伏せている。
その姿は身内の裏切りを認める、痛恨の沈黙。
「雨宮! これは一体どういうことだッ!?」
茶室の静寂に、天海の雷が落ちる。
「内閣官房長官、それに……情報官だな? 陛下はこのことをご存知なのか? 宮内庁長官の許可は得ているのかッ!?」
単なる無作法への叱責ではない。
皇宮警察という身内に裏切られ、政治家という“外部”を招き入れられたことに対する怒り。
天海の隣に立つ逢子は、わずかに身体を震わせた。
この場にいる者たちは、法よりも、礼節よりも、さらに重い“何か”を優先してここにいるのだと、理解する。
小池官房長官が、深々と、腰を折るようにふたりへ頭を下げた。
「……驚かせてしまい、申し訳ございません。ですが、もはや慣習や儀礼を尽くしている時間は、一刻も残されておりません。天海さん、そして逢子様。我々は今日、不敬極まる『お願い』に参りました」
「官房長官、これは明確な越権だ!」
天海は、下を向く小池の頭上へ怒声を叩きつける。
「陛下や宮内庁に一言の相談もなく、逢子様をこのような場所へ引きずり出し、何をさせようとしている? 『お願い』だと? 皇族を『使う』など、断じて許されることではない!」
天海の怒りは、旧知の友であったはずの男へも向けられた。
「雨宮! 皇宮警察本部長としての本分を忘れたか! 主人は内閣ではない、皇室だろう! この神聖な場所に引かれた結界を、君が自ら壊してどうするッ!?」
雨宮は、後ろめたい様子で顔を歪めた。
小池官房長官もまた、天海の放つ凄まじい覇気に肩を震わせる。
しかし、内閣情報官だけは表情を変えず、メガネをクイと押し上げ、冷たく言い放つ。
「ですが、侍従長。その“慣例”とやらで、陽仁殿下を連れ戻せますか? 歴史上、類を見ない異常事態なのです。然るべき手続きとやらを踏んでいる間に、殿下の身に何が起きるか。想像もつかないのですか?」
天海の逆鱗にさらなる火をつけるような言葉。
再び怒号を浴びせようとした天海だが、ふと、我に返る。
(逢子様の前で、何を醜い言い争いを見せているのだ)
皇族を守るために激怒しているつもりが、その憤慨によって皇女を不安にさせてはいけない。
天海は、爆発しそうな感情を無理やり胸の奥へと押し込んだ。
一方で、逢子はその沈黙の隙間に、確かな予感を感じ取る。
(あの天海が、これほどまでに激昂し、狼狽している。それが意味するものは――)
(私はきっと……ただ守られているだけの“少女”ではいられない……)
国家が揺らぎ、弟が消えた今、自分は守られる主体から、この国と皇室を守る主体にならなければならない。
逢子の背筋に、冷たくも揺るぎない一筋の覚悟が通った。
天海は咄嗟に落ち着きを装い、逢子にそっと手を差し出す。
「話になりません。とんだ茶番を見せてしまいました。逢子様、行きましょう。このような場所に、これ以上留まる必要はございません」
しかし――
逢子はその手を取らなかった。
皇女は押し寄せる不安を、完璧に隠し――
ニッコリと笑った。
「話を伺います。どうぞ、続けてください」
その“笑顔”は、単なる愛想笑いではないと、その場にいた大人たち全員が悟る。
小池官房長官は一瞬だけ目を見開き、すぐに深く、さらに深く頭を下げた。
内閣情報官は、表情こそ変えなかったが、メガネの奥の瞳には隠しきれない驚嘆の色が浮かんでいた。
(この皇女は、陽仁殿下よりも……ある種の《君主としての資質》を備えておられるのかもしれない)
待ったをかけ、誰よりも激しく反応したのは天海だった。
「逢子様……!? いけません。お聞きになっては……!」
天海は、皇女が話を聞いてしまった瞬間、彼女もまた“共犯者”となってしまう可能性を恐れていた。
だが、逢子の細められた目に宿る覚悟の光が、笑顔の奥から天海を射抜く。
差し出した手は、もう引っ込めるしかなかった。
「……分かりました。逢子様がそう仰るなら、私もここで伺います」
天海は、小池官房長官と内閣情報官の双方を、真っ向から睨みつける。
皇女のすぐ斜め後ろに、まるで鉄壁のように立ちふさがった。
もし皇室を貶めるような言葉、あるいは逢子様を汚すような提案があれば――
『刺し違えてでも、止めてやる』
――と、言わんばかりに。




