【第3話】皇太子、陽仁の憂鬱
普通の男の子になりたかった。
いつだってぼくは周りから特別扱いされてきたから。
ぼくの名前は陽仁。
生まれた時から皇太子として扱われ、生活全てが監視、管理されている世界で育ちました。
着る服はいつも用意され選ぶ自由はなく、小学校の登下校も黒い威圧感のある公用車や付き添いが必ずいました。
下校中、友達と公園やお店に寄ることも許されない。
皇居と赤坂御用邸の外では、気ままに散歩することも許されていません。
他人に自分の正直な気持ちを自由に語ることすら配慮が必要でした。
そうした制限の中では、普通の男の子たちがしているような悪ふざけや内緒話、友達の家に遊びに行ったり、どこかの裏山で秘密基地を作ったりなど、そんな小さな自由をとても羨ましく思いました。
普通に友達と喧嘩したり本気で語り合ったり、それがぼくには眩しく見えます。
本音でぶつかり合える間柄、同じ目線で笑い合える仲間。
そんな自然な関係に憧れます。
正直なところ、いま本当の友達と呼べる相手は、いるのかいないのか、自分でもよく分からないんです。
ただ、孤独を感じています。
クラスメートの話や皇居外の生活を知った時、自分の世界がいかに狭く、寂しいものか気づきました。
周りはぼくを”尊い”と言うけれど、ぼくからしたら普通の人たちが尊く見えます。
同級生たちは毎日、色んな事を自分で決めているのに。
ぼくは行動から発言まで、全てに制限がかけられていますから。
外で遊ぶ同年代の子どもたちに加わることなく、放課後はすぐに皇居の御所へ帰り、神道や国体教本の素読、宮中礼儀作法、皇族教典を勉強する毎日です。
世間は誰もがぼくを”皇太子”として扱います。
ぼくはまだ幼い子どもなのに、周囲の大人たちは敬意を持って接してくれているのが分かります。
小学生という立場のぼくに、誰もが気を遣ってくれるのです。
それは非常にありがたく、恵まれていることなのだと思います。
でも、誰も”陽仁”として接してくれていないような気がしました。
成績が良ければさすが皇太子。
失敗すれば、皇太子として示しがつかない。
遊んだりふざけたりすると品がないと咎められる。
なんだか、疲れてしまいます。
自分の立場に疑問を持った最初のキッカケは、偶然見かけたデモでした。
公用車に乗っている時、いつもの道路が工事中で、迂回した時にたまたま見てしまったのです。
大勢の大人たちが列を作り、プラカードを掲げて叫んでいました。
「”皇族に充てる税金”を国民の福利厚生や生活保障に充てろ!」と。
詳しい意味は良く分かりませんでした。
でも大勢の大人たちが怒っていたのは事実です。
公用車に同乗していた教育係の空無おじさんが言いました。
「そんなことしたって大した効果はないのに」と。
「殿下は彼らの言う事など気にしないで下さい」と。
でも、それを発端に、ぼくは自分の存在に悩むようになったのでした。
ぼくには自分専用のタブレットやスマートフォンが用意されてます。
でもフィルターや管理制限がかけられ、閲覧履歴も全て残るように設定されてます。
誰かと気ままに連絡を取り合うことは出来ず、ゲームも勝手にダウンロード出来ません。
情報漏洩や外部との不適切な接触を防ぐ為の措置だということです。
ぼくだって変なサイトを見る気はありません。
でも学校で話題に上がるユーチューバーやゲーム実況などの子ども向けとされるコンテンツも、一部しか見られません。
ぼくが比較的自由に見られるのはいわゆる教育系のコンテンツが中心です。
そのせいでクラスでの話題についていけないことが多々あります。
どらエモンは見れますが、くれよんシンチャンは、周囲の大人たちにあまりいい顔をされません。
今学校で話題となっている滅鬼の刀も、過度の暴力描写があるという事で制限がかかり、ぼくは見られません。
はぁ……皇族ってなんだろう。皇太子ってなんだろう。
別にぼくじゃなくても良いのではないでしょうか?
大人たちはお父さん(天皇)を国家の”象徴”であるというけれど、抽象的すぎていまいちピンときません。
ぼくにとって、お父さんはお父さんです。
日本の“象徴”なら、まさに皇居の外で暮らす国民一人一人が象徴ではないのでしょうか?
皇室って誰のためにあるの?
ここだけの話、と言っても、最初からここだけの話なんですが、
この前、お父さん(天皇)とお母さん(皇后)の式典を見た時、周りの大人たちが、ありがたいことだと言いました。
でも正直に言うと、ぼくにはそれが紙芝居のように見えてしまったんです。
それを警護の人に話したら苦笑いされて、お姉さんに話したら怒られました。
ぼくがどんなに悩もうが、皇太子に相応しいとされる品のある振る舞いをすれば、大人たちは安心します。
せめてカメラの前だけでも。
でも、それって本当に良いことなの?
ぼくは誰かを安心させるための飾りなの?
制度に疑問をもつこと。
それは生きるぼくを否定することとは違う!
だからぼくは……