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【第39話】大和・陽仁編④令和天皇の息子、殴られる

挿絵(By みてみん)



陽仁(はるひと)は、戦時下の昭和で暮らしていくにつれ、苦悩していった。


自分が未来の令和で享受していた豊かな暮らしや、周囲から向けられていた無条件の敬意。

それらすべてが、今、目の前で飢えや貧しさに耐え、過酷な重労働に従事している人々の“犠牲”の上に成り立っている。


戦時下という地獄を国民に強いる中心にいるのが、《自分と同じ血筋の存在》であるという、残酷な事実。

未来の皇室の人間である陽仁にとって、背負うにはあまりに重すぎる十字架だった。


町を歩けば『滅私奉公』や『一億総動員・一億玉砕』の看板が目に飛び込んでくる。

赤紙が届き、戦地へ向かう兵士たちは、誇らしげに、あるいは覚悟を決めたように『天皇陛下万歳』と叫ぶ。

陽仁の曽祖父である昭和天皇の名の下に。

この時代の人々にとって“皇室”とは、命を懸けて守るべき崇拝の対象であり、同時にこの困窮を課す《象徴》でもあった。



陽仁の脳裏に、令和の御所で目にした穏やかな曽祖父の写真が浮かぶ。


(ひいおじちゃんが、戦後の日本と平和の為にどれほど尽力したのか、ぼくは聞かされている)

(けれど――)


陽仁は暗い顔で俯いた。


(今のこの時代では、先祖の名において、数えきれないほどの命が失われているんだ)


加害の歴史も、被害の痛みも、すべてが自分の血の中に流れているような気がした。


陽仁は、自分の細い指を見つめる。

畑仕事でできたマメが潰れ、赤く剥き出しになっていた。


「……痛いなんて、ぼくが言えるわけない」




その日の夜、闇は不気味な朱色に塗りつぶされた。

遠くの空が、まるで血を流しているかのように真っ赤に染まっている。

地響きのような轟音と、空気を震わせる衝撃波が、離れたこの場所にまで波のように押し寄せてきた。


「隣町が空襲でやられたぞ!」


通りを駆けていく防空頭巾の男が、吐き捨てるように叫んだ。

大和(やまと)が驚いたように声を上げる。


「うわ、なんだよ! 東京にもまだ空襲来るのかよ!」


しかし、いつものように脳天気な口調で続けた。


「でもこっちの町には火が来てねーな。なぁ陽仁、やっぱオレら、運がいいんだよ!」


隣で安堵の溜息をつく大和に、陽仁は何も返せない。

大和には、あの火柱が“助かった幸運”に見えるのかもしれない。

けれど陽仁の目には、そうは映らなかった。


自分がいつか《象徴》として背負うはずの日本という国が、目の前で今まさに瀕死の体を晒しているのだ。

その光景を目の当たりにすることは、耐え難い恐怖と苦痛。


(……違うよ、大和。運がいいんじゃない。あそこで焼かれているのは、ぼくたちの一部なんだよ)


胸のざわめきは、遠ざかっていくB-29の爆音に追いやられ、行き場を失った。



すべては、天皇の名の下に。

皇室という権威の下に。


(国民を守るべき存在が……)

(国民の幸せを祈り続ける存在が……)


(どうして! これほどまでに国民を戦火に投じさせ、その命を奪い尽くしているんだっ!!)


その激しい矛盾が、陽仁の心を内側から鋭く切り刻む。

血筋と立場に伴う、抗いようのない宿命的な自責の念。

昭和と令和。

時空を超えた当事者意識に近い重すぎる責任感に、陽仁は独り、苛まれ続けていた。




昭和20年5月25日

18時15分


遮光カーテンで厳重に覆われた沼田家(ぬまたけ)

天井から吊るされたわずか一灯の、心許ないオレンジ色の光の下。


「さあ、今日の夕食は特別よ。ふたりとも、しっかりお食べ」


泉美(いづみ)が、大切そうに茶碗をちゃぶ台に乗せた。

そこに盛られていたのは、大根の葉も大豆のカスも一切混ざっていない、真っ白なごはん。

さらに小皿には、秘蔵の缶詰を開けたのだろうか、貴重な鯨の肉まで添えられている。


「うおおおお! 本物の、混じりっ気なしの白米だーーっ!!」


大和は目を輝かせる。

令和の現代で当たり前のように食べていた白米が、今となっては一粒一粒が白い宝石に見える。


「いっただきまーす!」


大和は猛然と箸を動かし、口いっぱいにごはんを頬張った。


「うまい、うますぎるよ! 白米って、こんなに甘かったのかぁーっ!!」


(きよし)も、そんな大和の様子を見て満足げに鼻を鳴らした。


「泉美がな、実家から持ってきた着物を農家に持っていって、替えてもらったんだ。お前ら、毎日泥だらけになって働いてくれてるからな。そのご褒美だ。しっかり味わえ」


「ありがてぇ……! オレ、明日からはもっともっと真面目に働くよ!」


有頂天になって米をかき込む大和。

しかし、その隣で陽仁は、箸を持ったまま固まっていた。


「……陽仁くん? どうしたの? 具合でも悪いの?」


泉美が心配そうに身を乗り出し、陽仁の顔を覗き込む。

大和も口の端に米粒をつけたまま、不思議そうに陽仁を見た。


「陽仁、食べねーのか? 白米、マジで美味いぞ! 感動するぞ!?」


「どうした、陽仁。遠慮はいらねぇ」


清の声に、陽仁はゆっくりと顔を上げた。

その表情は、子どもとは思えないほど深刻で、険しいものだった。


「こんな貴重なもの、ぼくは食べられません……」


陽仁は膝の上で、拳を握りしめる。


「ぼくの分は、皆さんで食べてください」


「あ?」


清が眉をひそめる。


「この国の人たちが、こんなに苦しんでいるのに。誰よりも責任を負わなきゃいけないはずのぼくが、こうして施しを受けているなんて……そんなこと、許されるはずがないんです」


陽仁の声は震え、瞳は潤んでいた。


「陽仁、何を言ってんだ? 意味わかんねーぞ」


大和が呆れたように言うが、清もまた、陽仁の言葉の真意を計りかねるように首を傾げた。

泉美だけは黙って、陽仁の抱える何らかの苦悩を慈しむように、視線を向けている。


「……陽仁。食わねぇなら、冷めるぞ」


清が再び催促したが、陽仁は力なく首を振り、そっと箸を置いた。

その態度を見て、清と泉美は、施しを拒絶する傲慢さではなく、陽仁の深い自責の念を感じ取っていた。


「はぁ~? 何言ってんだよ、陽仁!」


我慢できずに声を荒らげたのは、大和だった。

口の周りに米粒をつけたまま、大和は信じられないといった様子で身を乗り出す。


「わけわかんねーこと言ってねーで、ありがたく飯食えよ! 泉美さんが、せっかく用意してくれたんだよ。食べないなんて、めっちゃ失礼だろ!」

「ぼくは……食べれない……」


「いい加減にしろよ!ほら! つべこべ言わず食えって! 元気出るぞ!」


大和は強引に陽仁の茶碗を掴むと、箸で白米をすくい取り、無理やり陽仁の口元へ押し付けた。


「やめてよっ! ぼくなんかに、食べる《資格》なんてないんだーーっ!!」


陽仁は堪えきれず、叫びながら勢いよく立ち上がった。

その拍子に陽仁の腕が大和の手と接触する。


――『ガチャン!』


鈍い音を立てて、茶碗が畳の上に転がった。

貴重な白米が床に散らばる。


一瞬、部屋が静まり返った。

大和の顔が、怒りでみるみる真っ赤に染まっていく。


「……貴重な、飯を…。陽仁…お前、何してんだよ……」

「ごめん、わざとじゃ……」


「何が《資格》だよっ! 勝手にわけわかんねーもん抱えてんじゃねーよ! 一生懸命用意してくれたご飯を台無しにしやがって!!」


大和の振り上げた右手の拳が、一直線に走るように空を切る。

鋭く絞られたその拳は、陽仁の左頬を正確にとらえた。


――『バコッ!』


重い衝撃とともに、顔を殴られた陽仁は、畳の上に盛大に倒れ込んだ。

左頬がみるみる赤く腫れ上がっていく。


「あなたたち! やめなさい!」


泉美が悲鳴を上げて、ふたりの間に割って入ろうとする。

その顔は、悲しみに歪んでいた。

せっかくふたりを喜ばせようと思って用意した白米が、こんな悲しい結果になってしまうなんて。

しかし、それを制したのは清だった。


「よせ、泉美。放っておけ」

「でも、清さん! ふたりが……」


頬を押さえて震えている陽仁。

拳を握りしめて肩で息をしている大和。


ふたりをじっと見つめる清の眼差しには、納得したような穏やかさが漂っていた。


「……なに、このくらいの年頃の坊主は、このくらい血気盛んな方が元気でいい。毎日生きるか死ぬか分からずに陰気臭い顔をして土を掘ってるよりは、よっぽど逞しい」


清は、転がった茶碗と散らばった米を見つめた後、陽仁を真っ直ぐに見つめた。


「陽仁。殴られたのが痛いなら、その痛みがお前の《資格》だ。畳にこぼした米は一粒残らず、お前が“責任”をもって食え」


陽仁は、涙を流しながら頬の熱さと、自らの嗚咽の中で、こぼれた米を一粒一粒、震える手で拾い始める。

その背中を、大和はまだ怒りに満ちた、しかしどこか後悔の混じった目で見守っていた。



陽仁はこぼした米をすべて拾い終えてから、それを一気に口の中に押し込んだ。


白米は――残酷なほど甘い味がした。


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