【第38話】大和・陽仁編③現代っ子、昭和の戦時下で畑を耕す
翌朝。
大和と陽仁が清に連れられて向かったのは、生垣の見事に整った一軒の邸宅。
隣組の班長が住む家である。
「いわゆる『根回し』ってやつだ。お前らみたいな出所の分からねぇ坊主は、あらかじめご近所の顔役に通しておかねぇとな」
清が格子戸を叩くと、奥から『はい』と控えめな声が聞こえ、玄関の扉が開いた。
「三篠さん、朝早くからすまねぇ。こいつらを紹介しておきたくてな」
「……これは沼田さん。おはようございます」
出てきた男は四十半ばほどだろうか。
背筋がぴんと伸び、国民服を隙なく着こなしている。
見た目は優男で、一見すると物腰の柔らかい教養人といった風情だが――
「――ッ!?」
清の背後に立つ大和、なにより陽仁を見た瞬間、三篠は凍りついた。
一瞬、射すくめられたような、あるいは畏怖に打たれたような、そんな表情。
陽仁は、彼が微かに息を飲み込む音を逃さなかった。
三篠は取り繕うようにすぐさま柔和な笑みを浮かべたが、その瞳は泳いでいる。
陽仁の脳裏に“狼狽”という二文字が浮かんだ。
(この三篠さんって人、動揺を必死で隠しているような……)
「この坊主たちは女房の泉美の親戚なんだが、空襲で家を焼かれちまってなぁ。ほれ、自分らで名乗ってみろ」
清に促され、大和が威勢よく一歩前に出た。
「オレ、伏見 大和って言います!」
続いて、陽仁が静かに頭を下げる。
「はじめまして。伏見 陽仁と申します」
「はる……ひと……」
三篠はその名を、まるで呪文か何かを確認するように、聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「見ての通りのガキ共ですが、これから俺の弟子としてみっちり働かせますんで。隣組の末端として、ひとつ、よろしく頼んます」
「…………」
「三篠さん、どうかしたか? 顔色が悪いようだが」
清の問いに、三篠はハッと我に返ったように顔を上げた。
「ああ、いえ……。あまりに整ったお顔立ちなので、てっきり沼田さんの隠し子かと思ってしまい、驚いただけですよ」
「ははっ! 勘弁してくれ。女房に殺されちまう」
大和も苦笑いして、適当な会釈をする。
陽仁は背筋を真っ直ぐに伸ばして、会釈をした。
清が誇らしげに、三篠の肩を叩く。
「三篠さんはな、毎日ここから宮城まで通って、宮内省の図書寮ってところで働いてんだ。お前らみたいな鼻垂れとは住む世界が違う、本物の秀才なんだぞ」
「はは、よしてください。……それでは私は仕事に遅れてしまいますので。大和くん、陽仁くん。沼田さんの仕事をしっかり手伝って、お国のために励むんだよ」
三篠はそう言って微笑んだが、その笑みはどこか引きつっていた。
別れ際、彼は陽仁に悟られぬよう細心の注意を払いながら、何度も、何度も、盗み見るように陽仁の横顔を観察していた。
大和と陽仁に与えられた仕事は、重い農具の運搬から、硬い地面の土起こし、鼻を突く肥料撒き、そして畝作りまで、多岐にわたった。
「いいか、山手の旦那衆の庭を、すべて『畑』に変えるのが俺たちの仕事だ」
清に連れられて向かったのは、重厚な門に囲まれた大きなお屋敷だった。
かつては美しい芝生が広がり、季節の花々が彩っていたであろう優雅な庭。
その面影を無慈悲に壊しながら、大和と陽仁は鍬を振り下ろし、ひたすら土を耕していく。
「うわぁ……重い。腕がパンパンで、もう上がんねぇよ。オレ、畑仕事なめてたわ……」
大和が泥だらけの顔で地面にへたり込む。
「おら、大和!手が止まってるぞ! 敵機より先に雑草が攻めてくるぞ!」
土を掘り返した後は、作物の栄養となる肥料を撒く番だ。
しかし、用意された肥桶から漂ってきたのは、令和では嗅いだことのない強烈な臭いだった。
「うわあああ! なんだこの臭い、毒ガス!? 清さん、これマジで撒くの!? 鼻がもげる!」
大和が鼻をつまんで飛び退く。
「馬鹿野郎、これがなきゃ立派な野菜は育たねぇんだよ!」
作業のひとつひとつに弱音を吐く大和に対し、清の容赦のない叱咤が飛ぶ。
一方で、陽仁は額の汗を拭いながら、黙々と作業を続けていた。
「それに比べて陽仁、お前は筋がいいな。無駄な動きがねぇし。手際が良いぞ」
清に褒められ、陽仁は少し照れくさそうに笑った。
(以前、皇居の中にある御料地(農地)で、農作業を実体験する機会があったけれど。まさか、あの時の経験がこんな形で役に立つなんて……)
連日、大和は怒鳴られてばかりで、褒められるのはいつも陽仁だった。
「ちくしょーっ! オレだって褒められたいのにー! おい陽仁、勝負だ! どっちが早く畝を作れるか、競争するぞ!」
泥にまみれ、汗を流し、現代の知識が何の役にも立たない過酷な肉体労働の日々。
けれども、そんな日々を重ねるうちに、大和と陽仁の心には、この戦時下の日本で生きていくための"根"が少しずつ張り始めていた。
ふたりの生活は、時計の針ではなく、太陽の動きとともに回っていた。
令和の"便利"が一切ない世界で、彼らは泥にまみれ、汗を流し、昭和20年という時代を全力で生きていく。
そんなある日のこと。
「ウーーー、ウーーー」
山手の静かな住宅街に、低いサイレンが波打った。
庭で堆肥を混ぜていた大和は、ビクッとしてスコップを放り出す。
「おいおい、これって空襲警報じゃね? 逃げなきゃ、清さん!」
慌てふためく大和に対し、鍬を振るっていた清は、手を止めることさえしなかった。
ただ、眩しそうに目を細めて5月の青空を仰ぎ見る。
「落ち着け、大和。今のは『警戒警報』だ。敵機がこっちに向かってるかもしれねぇっていう合図に過ぎねぇ。まだ逃げるにゃ早ぇよ」
陽仁は汗を拭いながら、空を見上げた。
1945年5月……。
(なんだろう……何か引っかかる……)
しかし、連日鳴り響く警報に対し、実際に爆弾が落ちてくることは稀だった。
B-29が頭上の空を悠然と横切っても、そのまま遠ざかっていく。
そんな日々が繰り返されるうちに、町には『どうせ今日も空振りだ』という緩んだ空気が漂い始めていた。
「あーあ、また警報だけかよ。全然爆弾なんて落ちてこねーじゃん」
大和がどこかつまらなさそうにぼやき、作業に戻る。
それを見た清は、呆れたように鼻を鳴らした。
「呑気なこと言ってんじゃねぇよ。空振りのうちに"どこに逃げるか"を体に叩き込んどけ。本当に怖いのは、警戒警報の後に間髪入れずやってくる『空襲警報』だ。あれが鳴ったら、問答無用で防空壕へ飛び込め。いいな」
そして、その時はある日突然やってきた。
警戒警報が解除されないまま、サイレンの音が激しく短い連打に変わる。
「ウッ! ウッ! ウッ! ウッ!」
「空襲警報だ! 道具はいい、走れ!」
清の鋭い声に弾かれ、大和と陽仁は付近の路地に掘られた防空壕へ滑り込んだ。
薄暗く湿った穴の中には、すでに近所の町民が何人も、膝を抱えながら身を潜めていた。
「沼田さん! 子どもたちもこっちへ!」
肩を寄せ合い、土の匂いと湿気の中で息を潜める。
間もなく、空気を引き裂くような重低音が響き渡った。
上空を、巨大な「何か」が通過していく。
周囲の家の窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げる音が、防空壕の底まで響いてくる。
大和は耳を塞ぎ、強く目を閉じた。
数分後。
不気味なほどの静寂が訪れる。
「……行ったみたいだね」
陽仁が低く呟くと、大和は溜まっていた息を一気に吐き出した。
「もう……心臓に悪いぜ……」
避難していた町民たちは、警報が解除されるのを待たずに、ぞろぞろと外に出ていく。
そして何事もなかったかのように、中断していたそれぞれの日常へと戻っていった。
「おら、俺たちも作業再開だ。日が暮れるまでに畝を終わらせるぞ」
清もそう大和たちに告げ、畑に戻っていく。
いつしか、大和と陽仁の耳には、空襲警報のサイレンさえも"日常の音"として馴染んでしまっていた。
ある日の作業の合間、防空壕の入り口に腰掛けた大和が、隣の陽仁に小声で囁いた。
「……なぁ、陽仁」
「なに、どうしたの?」
「オレさ、最初はあのサイレン聞くたびにビビってたけど、最近はなんか……『あ、ラッキー、休憩時間だ』とか思っちゃうぜ」
「えぇ~!? まーた無神経なこと言ってる……」
自分たちは今、命の危険と隣り合わせの時代にいるのだ。
だが、そんな陽仁の不安を打ち消すように、大和は自信満々の笑みを浮かべて続けた。
「……オレさ、もう東京でヤバいレベルの空襲は起きないと思うんだよな」
「どういう意味?」
「夏休みの自由研究で、オレたちは太平洋戦争について調べてたんだ。それでさ、オレだってあの時はちゃんと図書館で本を読んで勉強したんだ。んで、そこに書いてあったことを思い出したんだよ」
「もしかして……東京大空襲のこと?」
「そう、それ! 東京大空襲! あれさ、3月10日に起きたって書いてあったぞ。隅田川のあたりが全部やられたって。今はもう5月だぜ? つまり既に東京でヤバい空襲は終わってんだよ。だからもう大丈夫だ!」
「……そう……なのかなぁ……」
陽仁は曖昧に頷いたが、心の中のモヤモヤは晴れなかった。
陽仁もまた、令和の学校で使っていた社会科の教科書の記述を思い出していた。
確かに大和の言う通り、どの本も「3月10日の東京大空襲」については、ページが割かれ詳細に語られていた。
しかし、それ以降の記述はどうだったか。
『その後も空襲の被害は全国に広がり、各地の都市が焦土と化した』
陽仁の記憶にあるのは、そんな短い一文だけだ。
歴史を『点』でしか学んでこなかったふたりは知らない。
その短い一文にまとめられた『各地』の中に、今自分たちが立っているこの"山の手"が含まれていることを。




