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【第35話】咲良編⑨バンザイ・クリフ

挿絵(By みてみん)


島の北端までたどり着いた咲良(さくら)の姿は、もはや少女の面影をほとんど残していなかった。


泥と煤にまみれた服は所々破れ、手足の引っ掻き傷や化膿しかけた水膨れが痛々しい。

極限の飢餓と疲労で身体は軋み、戦場の瘴気に飲み込まれ精神も歪められていた。

咲良はすっかり変わり果てて、廃人同然になっていた。


目の前に広がるのは、壮観な断崖絶壁。

どこまでも続く、荒々しい海。

世界の果てを示唆するような水平線。


足元は荒々しい岩肌が剥き出しになり、その下には、深く青黒い波が激しい音を立てて打ちつけている。

島で繰り広げられた人間の愚かな殺し合いを嘲笑うかのように、響き渡っていた。


《私ね……明日、どうしても島の北側まで行かなきゃならないの》


《きっとすぐにみんなの所に戻ってくるから!》


そうお母さん(四乃)が告げて、消息を経ってから、どれほどの日が過ぎ去っただろうか。

もう遠い昔にさえ感じられる。


咲良はその島の北側へ、終局地に到達した。

ここに来ればお母さんにもう一度会える気がして。

しかし、どれだけ周辺を探し回っても、待ち続けても、お母さんには会えなかった。

一縷の望みは、やはり叶わなかった。

お母さんの身に何かあったのだ。

恐らく、もうお母さんは――



代わりに――

バンザイ・クリフの名前の由来となる、悲劇が始まっていた。


避難してきた島民たちが、断崖に立っている。

兵士の服装をした者も混じっている。

彼らは、生存を求めて逃れてきた人々だったはずなのに。

その後ろ姿には、誰ひとり生気が感じられなかった。


絶壁を、風が吹き抜ける。

それは自決を止めようとする向かい風か。

あるいは自決を促す追い風か。



咲良の視界に入ったのは、まさにその瞬間だった。


「天皇陛下、大日本帝国、万歳ーっ!」


男が高々と叫び、断崖から飛び降りた。


咲良は――何も言わなかった。

ただ、黙って落下していく男の軌道を目で追った。

やがて岩壁に遮られ、男は視界から見えなくなった。



断崖絶壁の縁に、また人が並ぶ。

大小ふたつの後ろ姿。

母親が、幼い子どもと手を繋いでいた。


子どもは、今から何をしようとしてるのか、本当に分かっているのだろうか。

母親が一瞬だけ、振り返った。


その暗い瞳には恐怖よりも、この世の苦しみから逃れることを選んだ、虚ろな解放感のようなものが浮かんでいた。

そして――

子どもの手を引きながら、身を投げ出し、重力に身を委ねた。



次々に、断崖絶壁へと飛び降りていく自決者。

それは周囲の人間を、連鎖的に引き込んでいく。


「天皇陛下、バンザーイッ!」


「大日本帝国、バンザーイッ!」


人々は怯えるように目を閉じ、狂ったように『万歳』と大声を上げ、身体を投げ出していく。

最期の叫び声も、波の音と風の音に吸い込まれ、弱く、頼りなく――

実体のない儚いものに聞こえた。


誰も彼も、捕虜になって生き延びるという発想はないのか。


忠誠と殉国の精神。


大日本帝国では、天皇は“現人神(あらひとがみ)”とされ、絶対的な存在だった。

その現人神を中心にした神国としての国家体制を理想とし、軍国主義的な価値観が支配していたのが戦時下の日本。

天皇の為、国の為、忠誠を誓って命を捧げることは最大の美徳、名誉なのだと。


――その結果が、これだ。


その理念に殉じる、集団的な《アイデンティティ》の叫び。

天皇や国の栄光と理想の為に、己に犠牲を強いる。


彼らは、『万歳』と叫んで飛び降りることで、自らの死を“意味あるもの”に昇華したかったのだ。



歌声が……聞こえる。


絶壁の端で、集団が一同に並んで、海を見つめ、かすれるような声で。

けれども、その響きには不思議な重みがあった。


君が代――

==========

(てんのう)(ちせい)

千代に八千代に

さざれ石の 巌となりて

苔のむすまで

==========


咲良が令和の現代で聞いた、厳かな斉唱とはかけ離れた歌声。

悲壮感が漂い、痛々しい。

とても聞いていられるものではない。


集団は歌い終えると、各々が嗚咽し聞き取れない濁声をあげ、最期に低い声で『万歳』と、口にした。

そして、まるで運命を受け入れるように、次々と崖の下へと身を投げていった。


咲良にとって――

君が代は、体育館で背筋を伸ばして聞く、国歌というよりは、遠い歴史の歌だった。

しかし、今、目の前で歌われたこの歌は、“死を前にした最後の依りどころ”として奏でられていた。


(千代に八千代に……って、歌っていたのに。あの人たちは、すぐに飛び降りて死んでしまった……)


この歌には“国が永遠に栄える”という願いが込められているにもかかわらず、歌った人は自らの命を絶った。

歌が願う壮大な《永遠》と、目の前の人々の《一瞬の死》との対比が、咲良には理解できない。

君が代の意味と、現実に取った行動、その恐ろしいほどの矛盾。

個人の命よりも国を優先させる、強力で悲しい呪縛。


“国を信じ、命を捧げる”という純粋な信念が、どれほど残酷に利用されたのか。

教科書の、文字の羅列では決して分からないことだった。



一陣の風が、咲良の頬を撫でた。

まるで区切りをつけるかのように。


(――わたしの番だ)


咲良が自ら死を選択する理由は、他の島民や日本兵たちとは違う。

天皇や日本への大義や忠誠でも、捕虜を拒むことでもない。


《生きること》、そのものに対しての嫌悪と恐怖。


3つの絶望の柱。


1つ目――

戦場で見てしまった五感に訴える、グロテスクな光景。

人間の尊厳の崩壊と、戦争の非情さの直接的な体験。

消えない消せないトラウマの絶望。


2つ目――

この世界で自分を温かく迎え入れ、支え続けてくれたお母さんを失った絶望的な孤独。

心にぽっかり空いてしまった喪失感は、耐え難いものだ。


3つ目――

何よりも、自分のいた現代へ帰れないという、根本的な絶望。

取り戻せない本来の世界、居場所。

あったはずの未来の完全な遮断。

現実は非現実化し、この時代に生きる意味の虚しさは計り知れない。


咲良にとって、投身自殺は“殉じる”ことではない。

耐え難い現実からの逃避。

絶望に染まりきったが故の、救済の選択だった。


(死ぬことが――救済…?)


肉体的、精神的な極限の苦痛から逃れる唯一の方法。


(わたしは――苦痛の“消滅”と“解消”を混同していないだろうか…?)


死は救済ではなく、終止符である。


(だけど…それでも、構わない…)



風の音が止んだ。

波が打つ音も。

身を投げる人の声も。

時間が止まったように。


(さあ、逝こう…)


断崖絶壁の縁から、その一歩を踏み出す。



「だめーーーーっ!!」


突如、懐かしい声が響き渡った。

涙腺に触れる、優しくも力強い声。

何度も何度も咲良を包み込んでくれた声。


(あ、あ、ああ、なんてことなの…)

(まさか、まさか再会できるなんて…)

(最後の最後に、運命は、味方してくれた――!)


咲良は正気に戻った。

そして己を恥じた。


自ら生きることを放棄しようとしたこと。

命に対する侮辱と、裏切りを後悔した。

たとえ――

たとえどんなに世界が過酷だったとしても。

生きようとする意思は、何よりも尊いことなのだ!!



声の方へ。

自分を繋ぎ止めてくれた、その声がした方へ。

振り返ったその時だった――!


崖の縁から少し奥まった平坦な岩場よりも更に背後の密林で、大きな爆音が轟いた。

砲弾の着弾か、あるいは爆弾の投下か。

真っ黒な爆煙とともに凄まじい熱風が、周囲を飲み込んでいく。


その衝撃波は、密林を越えて断崖絶壁の縁に立っている咲良にまで襲いかかった。


崖の縁という不安定な場所。

咲良の小さな身体は、

バランスを崩してよろめき、


「――ぁッ!!」


そして――


何もない空間へと、押し出された。



「咲良ちゃんーーッ!!!!」


何もかも引き裂くような、悲痛な叫び。

それは爆音よりも、咲良の鼓膜に振動した。


浮遊感。

宙に浮かんだ咲良は、すべてが、スローモーションのように感じられた。

重力という、目に見えない無数の手に捕らえられ、もはや抗う術はない。


眼下には、激しく岩に打ちつける青黒い海面。

終焉の入口。

その死の底へと、咲良は落ちていく。




落下していく――


命を投げ打った者たちの声


『天皇陛下万歳』


わたしにとって、

この世界の天皇陛下は、お母さんだ。



落下していく――


命を投げ打った者たちの声


『大日本帝国万歳』


わたしにとって、

この世界の大日本帝国は、笑いの絶えなかった託児所だ。



落下していく――


命を投げ打った者たちの(うた)


『君が代』


わたしにとって、

“君”は、そばにいてくれた、かけがえのない人たちだ。

“代”は、そんな大切な人たちと過ごす、愛しい日々だ。


尊くて、宝物のような、平和な世界を……


どうか……




挿絵(By みてみん)

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