【第34話】咲良編⑧「最後の任務を与える――!」
「お姉ちゃんッ――!!」
後ろの方で、声がした。
身体全体に反響するような。
幼くて、柔らかくて、それでいて懸命に恐怖に抗っている、そんな愛しい声色。
その声は、奈落の水底へと沈み、闇に飲み込まれていた咲良の意識を、土壇場ですくい上げた。
顔をあげ、振り返った先には、4人の子どもたちがいた。
「あ…ああ……カナタ、ミサキ、チハル、シンジ…」
咲良の目に、失いかけていた光が宿る。
「サクラ姉ちゃん!!」
子どもたちは、咲良を取り囲み抱きついた。
咲良もまた、子どもたちを抱きしめた。
熱い抱擁。時間を置き去りにするくらいに。
これだ、この体温だ。
それぞれが零す、熱い涙。
これだ、この温度だ。
冷酷な世界でも、温かいものがある。
命の熱。
このぬくもりは、咲良が受けた心的外傷を一時的に麻痺させた。
抱擁が解かれると、子どもたちの怯えた、恐怖に満ちた瞳が咲良を見つめた。
それでも小さな身体で、この地獄をよく耐え忍んでいる。
咲良は、逞しさすら子どもたちに感じた。
「無事だったんだね。本当に良かった…」
できるだけ、労りと優しさを込めて。
しかし咲良は、子どもたちの人数が欠如していることに気づき、胸がざわついた。
「リョーマとノブヒコは…?」
「…分からないよ」
「ぼくたちとは離れて、大人たちと一緒にいたから」
心配で仕方ない。
安否が気になるが――もはや気を取られている余裕もなくなった。
この子たちだけは…!
今、わたしの目の前にいる、この子たちだけは…!
守らねば…!!
サイパン島の戦闘により、大勢の命が犠牲になった運命には逆らわない。
でも、この子たちも犠牲の枠に入ってしまう定めなのだとしたら。
その運命にだけは、絶対に抗う!!
だから――
今からでも、子どもたちを安全な場所へ――
そこで咲良はハッとした。
この場所の、すぐ前方にはおぞましい遺体の、命が蹂躙された惨状がある。
子どもたちには、絶対にあんな悲惨な光景を見せるわけにはいかない。
子どもたちの手を握り、静かに咲良は言った。
「いい? みんな、絶対にわたしの言うこと聞いてね。私の背中だけを見て!ついてきて…!!」
繋いだ手は指先が食い込むほど、絶対に離すまいと握りしめられている。
子どもたちは、咲良の強いまなざしと、いつもと違う鬼気迫る声に、言葉もなく頷く。
咲良は子どもたちを連れて、走り出した。
ジャングルの奥へ奥へと突き進んでいく。
繋いだ手は強く、その連結こそが、戦場を生き抜く小さな希望の鎖となっていた。
咲良は身体を駆け巡る熱い血潮を感じていた。
沸々と身体中が煮えたぎっている。
戦争に対しての怒りでも憎しみでも何でもいい!
わたしを奮い立たせてくれるなら、どんな感情だって構わない!
生きることを不条理に侵されるこの状況に対して。
命を粗末に扱う、この戦争に対して。
そして……子どもたちを巻き込んだ大人と、国に対して。
許さない――
わたしは、こんな世界を、絶対に許さない――
咲良は木々の開けた場所で空を見上げた。
太陽の位置と方角を確認する。
南へ。
しばらく進んだ先、咲良はジャングルの茂みの中に、不自然な空間を見つけた。
「ちょっと待って…!」
子どもたちを止め、慎重に近づいていく。
そこは、明らかに人が手を加えた跡があった。
粗末な木組みが残され、薄汚れた布や、折れた木材が散乱している。
恐らく、日本軍が撤退する際に放棄した野戦病院か、あるいは臨時救護所。
周囲に日本兵や島民の気配は、微塵も感じない。
咲良は、白い布切れを見つけた。
血と泥で汚れていたが、十分な大きさで、掲げれば目立つ。
「よし、これだ…!」
アメリカ兵はゲリラ的な攻撃を警戒している。
投降者は、よく確認されないまま、すぐに射殺されてしまうリスクだってあるのだ。
だから白旗は”非戦闘員”であると、投降の意思を示す最も有効なシンボル。
子どもたちの投降の成功を1%でも高めてくれる。
咲良は子どもたちの手をそっと、音もなく解いた。
そして白い布と木の枝を、静かに拾い上げる。
息を整えたあと、毅然と、それでいて優しい表情で子どもたちを見た。
「みんな、よく聞いて。今からとっても大事な話をする…」
託児所で聞き慣れた、咲良のわざとらしい低い声。
子どもたちは、不安な表情をわずかに緩めた。
咲良は、その目をまっすぐに見つめ、告げる。
「今までで最高の、そして最後の――任務を与える…!」
「にんむ……」
「兵隊さんごっこ…するの?」
「みんなには、このまま真っ直ぐ南に進んでもらう。そして、アメリカ軍に投降するのが任務…!」
子どもたちの顔が引きつった。
不安と恐怖にみるみる染まっていく。
しかし、咲良は現実を突きつける。
「それが、生き残る為の、みんなに残された道です…」
可哀想なくらい怯えた表情。
だから咲良は努めて明るく振る舞う。
「未来へつながる、超重要な任務なんだよ…!」
不自然に見えるかもしれない。
それでも、少しでも子どもたちの不安や恐怖を取り除けるのなら。
だから精一杯、咲良は子どもたちを安心させようと微笑みかける。
「無事にアメリカ兵と合流できたら、みんなはきっと、ご飯が食べられて、安全な場所へ行ける…。任務を達成できたら、英雄になれるんだよ…! 生還者として、自分たちの戦争に勝った真の英雄にね…」
子どもたちの顔からは、曇りが晴れる気配がない。
それでも、従うしかないと悟ったのか、小さく声を落とした。
「サクラ姉ちゃんも、一緒だよね……?」
その一言が、咲良の胸の奥に重く沈んだ。
子どもたちと共にアメリカ兵に身を委ねることは、この状況において、疑う余地のない“当然”だった。
でも……
どうしてわたしの心は……
「……わたしは、まだやらなくちゃ、いけないことがあるから…」
「えっ?」
子どもたちが、不安そうに顔を見合わせる。
言葉を交わさなくても、意見は一致していた。
「なにそれ、いやだよ!」
「咲良ねえちゃんと一緒がいい!」
次々に咲良の足元に抱きつき、泣きそうな顔を上げる。
「任務とかどうでもいいよ! サクラ姉ちゃんと、ずーっと一緒がいい!」
「もう嫌なの! お母さんもいなくなって、お姉ちゃんもいなくなっちゃうなんて!」
(お母さん…)
そう、お母さんだ。
わずかな望みにすがって、わたしは、お母さんを探しにいく。
そして――
もうひとつ……目的が、ある。
咲良は一瞬、暗い顔になってしまった。
いけないいけない、と咲良は取り繕う。
「お願い! わたしの言うことを聞いて…!」
過酷な要求をしているのは、咲良自身も分かっている。
「いやだ! いやだいやだ!!」
言うことを聞かず拒否し続ける子どもたち。
咲良は苛立ちを募らせていく。
「サクラ姉ちゃんと一緒にいる!」
「アメリカの兵隊さん……やっぱ怖いっ!」
「投降しちゃダメだって、大人たち、みんな言ってたもん!」
「やーだー! 絶対に行かなーい!」
咲良は、身体を震わせる。
「……どうしても、言うことを聞いてくれないのなら…!」
やむを得ずといった具合に勢いよく、拳を振り上げた。
頭上に掲げられた拳を見て、子どもたちは息を飲む。
叩かれる、そう思い、目を閉じる子どもたちだったが――
振り上げられた咲良の手は、包み込むように、子どもたちを抱きしめた。
「ごめんね……ごめんね……怖いよね? みんなだけでアメリカ軍に投降しに行けだなんて、わたし、とても酷いこと言ってる…」
涙をこらえながら、それでも笑おうとする、そんな声で語り聞かせる。
「わたし、みんなのこと大好きだよ…」
――それは本当。
「だからね、後で会いに行くから。必ず、会いに行くから…!」
「大好きなみんなのこと、そのまま放っておくわけないでしょ? だって、大好きなんだから…!」
「約束する…! 離れるのは、今だけ…」
――それは嘘。
咲良の命がけのハッタリを前に、子どもたちは、遂に折れる。
「…わかった」
言葉少なに、納得はしてもらえなかったかもしれない。
それでも幼い顔が、ぎこちなくても覚悟を決めた者の顔になる。
「でも約束だからね! サクラ姉ちゃんも、やることが終わったら、絶対にこっちに来てね!」
「迎えに来るの、待ってるから!」
「ありがとう、みんな…」
だからこそ、必ず投降を成功させる。
咲良は、涙で滲んだ目を拭った。
白い布を枝にしっかりと結びつけ、自作の白旗を、一番背の高いカナタへ手渡す。
「カナタ、この旗は“みんなの命”だと思って、大事にね。これを一番先頭で持って掲げて…」
カナタは、旗の重みを両手で受け止め、緊張した面持ちで頷く。
次に、咲良は子どもたちを、カナタの後ろへ一列に並ばせた。
「カナタの後ろに、ミサキ、その次にチハル、最後尾はシンジ。みんな前の人の両肩に手を乗せて、絶対に離さない。そう、電車みたいにね…」
「でんしゃ? でんしゃって、何?」
「あ、そっか…」
咲良は、思わず声を漏らす。
サイパン島に電車は走っていない。
咲良にとって、当たり前の“電車”が、島で育ち生活していた子どもたちにとっては“未知の物”だった。
「ごめんね、みんなが知らないものだったね。あのね、『電車』はね、たくさんの人を乗せて、凄い速さで目的地まで運んでくれる乗り物なんだよ…」
「え~! すごい!」
「見てみたいな~!!」
「ぼく、乗ってみたい~!!」
「必ず生きて、いつか本物の電車を見て乗ってみてね。良かったじゃん…未来に楽しみができた…」
あとは――
1%でも投降の成功率を上げるため――
子どもたちの不安や恐怖を少しでも減らすため――
咲良は提案する。
「歌を、歌いましょう…!」
「えっ? 歌~っ!?」
子どもたちは目を丸くした。
「いいね? 大きな声で心を込めて歌い続けるんだよ…?」
(白旗と、みんなの歌が――きっと未来への切符になる…!)
子どもたちは、それぞれ何の歌がいいか、顔を見合わせる。
「サクラ姉ちゃん、歌ならね、ぼく良い歌知ってるよ!」
カナタが自信ありげに言った。
「おお…? 何の歌…?」
咲良が尋ねると、カナタは胸を張り、大きな声で歌い始めた。
「うーみーゆかーばー、みーずーくーかーばー!」
やがてシンジも、胸を張り、そのメロディに加わる。
咲良はぎょっとしてしまった。
一気に血の気が引いていく。
短いサイパン島での生活で、何度か大人たちが口づさんでいるのを耳にしたことがあった。
歌の意味も聞いたことがある。
『海行かば』
戦時中の日本の準国歌ともいえる歌。
“戦場で死ぬこと”を讃える、軍歌・戦意高揚歌である。
(海ゆかば 水漬く屍、山ゆかば 草生す屍…)
この歌を歌いながら米軍の前に現れることは、『私たちは国のために命を捨て戦う覚悟があります』と、宣言しているようなもの。
「ダメーー! その歌ダメーー!」
咲良は大げさ過ぎるくらい、首を横に振った。
「この状況で、まったく相応しくない…!」
「ちぇっ、これ、かっこいい歌なのに」
カナタがそう惜しげに言い捨て、シンジもしょんぼりした。
「ねぇ、もっと別の、みんなで歌える歌はないの…?」
子どもたちは、改めて顔を見合わせ、何の歌がいいか、思い浮かべる。
ミサキが、ふと静かに歌い始めた。
「うーさぎ おーいしぃ かーの やーまー」
カナタとチハル、シンジも、ああそれかと、声を合わせて歌い出す。
咲良は、その歌詞とメロディに心当たりがあった。
(兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は今も めぐりて 忘れがたき 故郷…)
幼稚園か、或いは小学校低学年で音楽の時間に習った。
この時代の、島の子どもたちは既に習っていたようだ。
「"故郷"! 良いね! その歌にしよう…!」
咲良の言葉に、子どもたちは力強く頷いた。
子どもたちの“未来への行進”は、死を讃える軍歌ではなく、望郷を想う童歌に決定した。
最後に、子どもたちともう一度、抱擁を交わす。
子どもたちのぬくもりを、存在を、咲良はまるで自分自身に刻みつけるように。
そして、別れの時が来た。
後ろ髪を引かれる思いを隠しきれずにいる子どもたち。
それでも、咲良のやわらかな眼差しに見送られながら。
名残りを胸にしまい込むようにして、その一歩を踏み出した。
「~兎追ひし かの山~」
――それは、焼けただれる前の、サイパンの美しい緑の山々。
「~如何にいます 父母~」
――それは、もう二度と会えないかもしれない、あるいは既に失ったかもしれない、親しい人。
「~こころざしを はたして いつの日にか帰らん~」
――子どもたちの志が、やがて思い出の中の故郷へと、繋がれますように。
子どもたちの声が、戦場に不釣り合いな歌声が、サイパンの空に響き渡る。
その歌声は、恐怖に打ち勝つための呪文。
同時に、失われた平和への、静かな弔いの歌。
軍歌のような勇ましい旋律ではない。
しかし、サイパンの焦げた大地に立つ今、その歌詞が持つ意味は、重すぎた。
「失ってしまった故郷」
「壊されてしまった故郷」
今、子どもたちがどれほど皮肉な環境にいるのかを、自ら歌って表現しているのかもしれない。
「故郷に帰りたい」
「山や川が懐かしい」
「いつか帰る日を夢見て」
サイパン島は、それこそ子どもたちにとって、間違いなく『故郷』だった。
子どもたちが遠ざかっていく。
震えながらも、懸命に歌い続ける子どもたちの声。
凄惨な戦場にあっても、ひどく純粋で、希望に満ちたメロディに違いない。
咲良は、その歌声と白旗が消えていくのを、ただ一人、立ち尽くして見送った。
そして、小さくつぶやいた。
「行きなさい……生きなさい……」
子どもたちを投降させる、生き残らせる、という強い使命感。
その魔法が――切れた。
麻痺していた心的外傷が、咲良に再び牙を立てる。
咲良は、いわば、毒に感染してしまったようなものだった。
あのグロテスクな光景。
人の尊厳を蹂躙した惨状。
命を粗末に弄ばれた惨劇。
少女は見てしまった。
五感で感じ、侵されてしまった。
あの場で無惨に果てた遺体たちも、氷山の一角に過ぎない。
戦争は、大勢の人が悲惨な死を迎える。
それは、とても悲しいことだ。
その戦争の毒に、咲良の心は蝕まれている。
もうこの世界で、本心から笑えることはないだろう。
何かが、少女の中で、乖離してしまったのだ。
意識の隙間から、いつフラッシュバックして襲いかかってくるか分からない。
悪夢は一生忘れられず、生涯悩まされ続けることになるだろう。
だが今後、“それ”と付き合っていく自信は、ない。
だから――
咲良は、踵を返し、静かに歩き出した。
北へ。
(最期に、お母さんに会えたら嬉しいな…)




