【第33話】咲良編⑦教科書には載っていない戦争の惨さ
連日、洞窟の外は静まり返っていた。
爆音や銃声も、時々聞こえてはくるが、それは遠くからだった。
日本兵たちが集まり、何やら真剣な表情で話し合っている。
やがてひとりの日本兵が洞窟入口の岩陰に出て、薄暗い洞窟にいる島民たちに向かって大声を発した。
「皆、よく聞いてくれ! 今、我々がいる島の南部は、既に米軍の手中に落ちた状況と言っていい。危険極まりない場所となった。これより我々は、日本の防衛線のある北へと向かう。島の北側こそが、最後の拠点である! そこでまでたどり着き、祖国からの援軍を待つ以外、生き残る道はない。ここに残る者は卑怯者と見なす。我らと共に北へ向かい、最後まで大和魂を見せよ!」
島民たちは動揺した。
北へ向かうことは、いつどこで米軍と遭遇するかもしれない危険な行為だ。
絶望的な窮地へと、自ら突き進まねばならないのかと、皆が頭を抱えた。
しかし、もうこの洞窟にいるのはこりごりだ。
留まっていても、待っているのは確実な死。
徹底的なプロパガンダが活きていた。
“投降”という選択肢はない。
残された道は、日本軍の部隊を頼り、戦闘を避けて日本兵と共に北へ移動することしかない。
咲良は、これで何度目の失望に、打ちのめされただろうか。
(北へ行っちゃダメ…! 援軍だってこない…!)
未来の知識を持つ咲良の脳裏には、絶望の結末が鮮明に浮かんでいた。
北は“援軍を待つ場所”ではない。
“玉砕”と“集団自決”が行われる、地獄の終着点だという史実。
咲良の全身は恐怖と、この事態を止められない無力感で硬直していた。
目の前の日本兵の顔は、血走ってはいるものの、迷いなく命令を下している。
そして周りの大人たちもまた、命令に従わざるを得ないと、諦観していた。
もしここで咲良が『行っちゃダメ!』と、叫べばどうなるか?
子どもたちと一緒に『わたしたちは行かない』と、反抗すればどうなるか?
――分かりきったことだった。
咲良は唇を噛み締め、俯いたまま、周りの島民たちと同じように立ち上がった。
子どもたちと手をつなぎ、洞窟の外へと歩き出す。
久々の外の空気、太陽の煌めき。
まるで生まれ変わったような気持ちにさせられる。
陽光が、咲良に希望の光を注ぐ。
励まされているようだった。
(まだ……諦めない…!)
"今"は日本兵に従って、島民たちと一緒に、彼らについていく。
でも――
北へと向かう道中、この大人数で団体行動すれば、米軍との接触はほぼ避けられない。
その時パニックに陥り、やがて散り散りになって逃げる展開になるに違いない。
そうなったら子どもたちと逃げて、集団から離れる――
その後、機をみてアメリカ軍に投降する――
(これしかない…!)
咲良の方針は決まった。
(今はただの怯えた子どもとして、命令に従い、逃走の機会を待つ…!)
島の北側を目指し、鬱蒼としたジャングルの中を、集団は進んでいた。
先頭は日本兵数名。
彼らは銃を構え、時折立ち止まっては耳を澄ませた。
その後ろには、恐怖に顔を強張らせた数十人の島民たちが続く。
口を閉ざし、互いの服の裾を掴みながら連なっていた。
咲良も子どもたちと固く手を繋ぎ、後に続く。
「サクラ姉ちゃん、怖いよう」
「絶対に、離れちゃダメだからね…!」
引率する日本兵たちは優秀だった。
かなりの距離を移動してきたが、ここまでよくやっている。
米兵をうまく回避するルートを、考えて進んでいるようだった。
それでも――
米兵との直接的な遭遇は避けられていても、米軍の撹乱牽制の遊撃は免れなかった。
その場面が、訪れる――
集団が細い沢を越え、やや開けた林間に出た時だった。
予期せぬ閃光が迸った――!
『ゴオオオオオッー!!』
空気を裂くような、砲爆音が鼓膜を叩く。
日本兵たちが一斉に立ち止まった。
「伏せろーっ!」
怒鳴り声が途切れるか否かの刹那、集団から数十メートル先の木々が、弾け飛んだ。
着弾の衝撃波が熱風と共に島民を襲う。
「うわぁぁああああ!!」
島民たちの間から、堪えきれない嗚咽と悲鳴がこだまする。
「助けて! 助けてーっ!!」
日本兵が、慌てて制止する。
「待て! 動くな! 隊列を崩すなーっ!」
だが、すでに統制は崩壊しつつあった。
二発目、三発目が、間髪入れずに飛来する!
今回は集団のより近くで着弾した。
地面が揺れ、土砂と木の破片が雨のように降り注ぐ。
「散れー! 散れーーっ!」
日本兵が叫び、島民たちは脇の藪へと身を隠す。
日本兵たちは、生き残った島民を誘導しようとする者と、自らも身を隠そうとする者とで、バラバラになった。
咲良は子どもたちと、その場で地面に伏せていた。
耳鳴りがして、何も聞こえない。
その場を動けなかった。
『ズドドォーーン!!』
再び至近距離で着弾!
苛烈な衝撃波が、咲良と子どもたちを引き剥がす!
咲良は吹っ飛ばされた。
数メートル先の地面に全身を叩きつけられる。
意識は真っ白になった。
次に咲良が目を開けたとき、周囲には誰もいなかった。
子どもたちを……見失った!
「みんなーッ、どこーッ!?」
咲良は一心不乱に辺りを探し回る。
(わたしだけ…わたしだけ無事でも…意味がない…!)
咲良は気づいていない。
「カナター! ミサキー! チハルー! シンジー!」
「リョーマー! ノブヒコー! どこに行ってしまったのーっ!?」
サイパン島での暮らしの中で、自分の命より大切なものを見出していたことを。
(みんなで…みんなで投降しないと…!)
木々が天を覆うように連なるジャングルを駆け回る。
それにしても、ハエの数が多い。
羽音が、耳障りだ。
息も途切れ途切れになった頃、ようやく視線の先に人影を捉えた。
それも複数だ。地面に伏している。
咲良は駆け寄って、声をかけた。
「だ、大丈夫ですか…?」
近づいてはいけなかった。
その光景は、咲良を精神崩壊へと誘う――!
「ひぃぃいい゛っ…!」
言葉を失うと同時に、咲良は取り返しのつかないものを見てしまった。
まさに地獄絵図。
地面に放置された、手足の千切れた遺体の数々。
大小の人体の一部が、散乱していた。
血の臭いとすえた臭い、吐瀉物の臭い。
鼻が曲がるような、肉の焦げた臭いと腐敗臭。
遺体の、飛び散った臓物。
血の赤と、臓器の紫と、脂肪の黄色。
それらが混ざり合って、茶黒になっていた。
「ぅうう゛っ…!」
咲良は膝が折れて、その場にへたり込む。
あまりにも酷たらしい、五感に訴える究極の惨状。
それは命の成れの果て。
かつてヒトの形をして、命を成していたもの。
それが――
生前の尊厳を根こそぎ奪われ、汚され、踏みにじられている――!
咲良は悟った。
令和の時代で自分が見てきた、映画やアニメの戦闘シーン。
あれは――ハリボテだったのだ。
怪我や手足の切断の描写は、あくまでただの見世物。
流血や負傷の場面は、真の痛み、臭い、恐怖、そして回復の見込みの無さといった、現実の感覚が欠落していた。
自分が好きだった某アニメの戦闘描写は、登場人物が重傷を負っても、都合よく回復したり、その後も派手なアクションを続けていた。これは、“命の重み”を物語の都合で軽く扱っていたのではないか。
現実の戦場では、一つの負傷がその後の展開を致命的に変え、失われた命は、絶対に戻らない。
そして何よりも“無意味で、突然な死”に満ちている。
戦争は、想像を遥かに超える凄惨さと禍々しさ、救いようのない絶望に侵されている――!
しかし――
令和の時代で見てきた真実を隠された描写は、一種の優しさだったのかもしれない。
真の惨状を映さないのは、視聴者を守るための、心理的・精神的な配慮だったのかもしれない。
咲良は立ち上がれない。
わたしも死んでしまったら……
あんな姿になってしまうのか……
あんな色になってしまうのか……
あんな臭いを発してしまうのか……
ダメだ……ここで挫けたら……ダメなんだよ……
ここで挫折してしまっては、もう二度と起き上がれない気がした。
必死に前を見据える。
だが、視線を向けた先、ジャングルの樹木にぶら下がった腕が一本。
その開いた手のひらは、何を掴みたかったのか。
咲良は再び俯いてしまった。
嗚咽。
涙が、止まらない。
一筋ずつではなく、頬を伝うというより、顔からこぼれ落ちていた。
背中は丸まり、肩は小刻みに震え続ける。
今にも自分の身体が、崩れてしまいそうだった。
(誰か……助けて……助けてください……)
祈るように、すがるように、
咲良は心のなかで、何度も叫んだ。
(お母さん……お母さん……お母さん……!)




