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【第32話】咲良編⑥混沌の洞窟

挿絵(By みてみん)


洞窟の中に満ちた空気は、咲良(さくら)が今まで感じたどんな息苦しさよりも重く、澱んでいた。

それはただの湿気ではない。

土と硝煙、そして人間が発する酸っぱい汗と、排泄物の微かな臭いが混ざり合った、粘っこい空気だ。

大勢の日本兵と島民が押し寄せてから、状況は加速度的に悪化している。

洞窟内の人口密度は飽和し、衛生環境も急激に悪化していた。


咲良は、全身の関節がきしむような感覚に耐えながら、よろめくように立ち上がった。


(今日は――洞窟に避難して、何日目だっけ…?)


日数さえも、もはや曖昧になっていた。

飢えと渇きが思考を鈍らせ、時間の流れを歪めている。


(いつまで…こうしてるの…?)


咲良はふらふらと、外の光を求めて洞窟の入口の方へ向かった。


「おいっ! 外に出ては駄目だ! 勝手な行動を取るな!」


暗がりから、低く刺すような声が飛んできた。

日本兵に制止されるのは、もう何度目になるだろうか。


「偵察中の米兵に見つかったらどうする? この洞窟が奴らに知られたら、ここにいる全員が一瞬にして危険に晒されるんだぞ!」


怒鳴り声は、恐怖の裏返しだった。

その声が岩壁に反響し、洞窟全体に悲嘆の波紋を広げる。

咲良は諦めて引き返し、子どもたちのそばに崩れるように座り込んだ。


「サクラ姉ちゃん……」


心配そうに咲良を見つめる子どもたち。

みんな顔がやつれ、その目は焦点が定まっていないようだった。


子どもたちも、当初は日本兵や大人たちが洞窟にやってきたことに安堵し、わずかな希望の光を見ていた。


だが――

時間が経つにつれ――

大人たちへの頼もしさは、蜃気楼のように霞み、消えていった。


年配の島民ひとりが、咲良のもとにやってくる。


「お嬢ちゃん。外に出たい気持ちは分かるが、ここは正念場だ。米軍は洞窟を見つけたら、容赦なく入口から内部へと火炎放射器を使ってくる。炎を浴びせられ悶えて死んでいった者たちを、わしはこの目で見たんじゃ」


日本兵も島民も、洞窟の外へ出る者を、“危険を呼び込む者”として警戒している。

しかしもうここには食糧がない。

アメリカ軍に投降できる状況でもなくなった。


(ここにいる限り、ゆっくりと、静かに死んでいくだけだ…)


咲良は焦燥感に唇を震わせる。

その乾いた唇は、微かに切れていた。


この洞窟は、 “迫りくる死を避けるために留まる場所” であったはず。

それが今や、 “自ら死を待つしかない場所” になりつつある。


出たら、銃弾か火炎に焼かれて死ぬ。

出なくても、飢えと乾きで緩やかに死ぬ。

この矛盾した、選べない選択を強いる空間。


(ここにずっと留まっていて、いいはずがない…!)



島民たちは日本軍に黙って従っていたが、その心中は複雑だった。

彼らは日本兵に対して、守ってくれる存在としての尊敬の念と、共存意識を抱いている。

だが、それと同時に畏怖の念、逆らってはいけないという恐怖も抱いていた。

洞窟に身を隠したままの日本兵も島民も、まさに一蓮托生の運命共同体。


――しかし、決して一枚岩ではなかった。


咲良と同じように現状に不満を抱くひとりの島民の男が、ついに堪忍袋の緒を切らした。


「もう戦争はまっぴらだ!  日本も、(アメリカ)も、国なんかどうだっていい! おらは、ただ島で静かに暮らしたいだけだ!」


張り詰めていた静寂が、その叫びによって打ち破られる。

洞窟全体がざわついた。

男の言葉は、この命がけの空間で、誰もが避けてきた“禁句”だった。


別の島民が慌てて諭す。


「よさないか……兵隊さんは命を賭して戦っているんだ。そんな言い草はよしなさい」


しかし、一度噴出した怒りは止まらない。


「戦ってる? だったら、どうしてこんな穴倉に追い詰められてるんだ! 戦局は優勢じゃなかったのか!?」

「文句を言っても仕方ないだろう? みんなで一丸となって耐えるしかない。いいから、黙って座っていなさい」


制止の声も、荒くなる。


「なんだよ、このざまは! 日本軍はボロボロじゃないか! おらたちを守ってくれるんじゃなかったのか!?」


その台詞を近くで耳にした日本兵のひとりが、血走った目で駆け寄ってくる。

口論は、日本兵を巻き込み、もはや制御不能な熱量を帯びていた。


「ほざいたな貴様!  俺達は本土からはるばるこの島を守りに来たというのに!」


日本兵の怒声は、剥き出しの刃物のようだ。


「その島が、壊されたんだ!  おらたちの愛した森も海も、あんたらが持ち込んだ戦いでめちゃくちゃだ!」


別の島民も、不満を呟く。


「我々は……本土の盾にされたのか……?」


その問いは、答えのない絶望的な真実を突きつけた。


「いいかげん口を慎め! 俺達は皆、同じ神国日本の民だ。お前たちの言葉は、天皇陛下を汚す暴言だぞ!」

「そんなこと言ってる場合か!  神国だろうが、陛下だろうが、関係ない! こんな洞窟で飢え死にしろってのか!?」


「だったらどうしろというのだ!? 今迂闊に外へ出たら殺されるぞ!」

「畜生め……何でこんなことになってしまったんだ……」


洞窟の中は、追い詰められた者たちの互いの主張がぶつかり合っている。

収集がつかなくなっていた。

怒号と落胆、失望――

負の感情が飛び交う、混沌の模様を呈していた。

口論に勝者も敗者もいない。


咲良を含めた子どもたちは、唖然としたまま、この“正解のない大人たちの言い争い”を、ただ黙って見守ることしかできない。


その時だった――


洞窟の入り口近くにいた見張りの日本兵が、血相を変えて、慌てて戻ってきた。


「米軍が近づいてきたぞ! こっちへ来る! 静かにするんだ! もう五十メートルもない!」


口論していた日本兵と島民は、怒りも憎しみも一瞬で消え失せた。

一斉に石像のように凍りついた表情になり、黙り込む。


洞窟内に、先ほどとは比べ物にならない緊張が走る。

本物の、死の恐怖。

それぞれが顔を見合わせ、口をきつく閉ざし、身体を縮めるようにその場から動かない。


『ザッ……ザッ……』


やがて洞窟の外から聞こえてくる、土と草を踏みしめる、不揃いな大勢の足音。

まるで命を狩りに来た死神の行進のように、洞窟内にいる者すべての鼓膜を直接叩いた。


音がこの洞窟に近づいてくる。

誰かの生唾を飲み込む音がした。

呼吸する息の音すら、ためらうような緊迫。

絶対に、見つかってはいけない。

張り詰めた空気は、鋭利な刃物のように、洞窟内の者たちの喉元に突き立てられていた。

生きた心地のしない一分、一秒。


不意に――

赤ん坊の泣き声が――


「…おんぎゃあ……おんぎゃあ……」


島民の女性が抱きかかえていた赤ん坊が、泣きだした。

女性は赤ん坊の母親だった。


その瞬間、洞窟にいた者たち全ての背中に冷たいものが走った。


外の米軍の足音と、赤ん坊の泣き声。

二つの音は、この洞窟の命運を決める天秤の両端に乗っかっていた。


「……おい、黙らせろ」


日本兵が、地を這うような静かな声で、そう言った。

脅迫の意図を明確に感じ取り、女性は全身を慄かせた。


「…よしよし、泣かないでね…いい子だから…」


懸命になって赤ん坊をあやし、揺さぶる。

赤ん坊は飢えと不快感、あるいは恐怖からか、一向に泣き止まない。

それどころか泣き声は徐々に大きくなっていき、湿った洞窟の中で不吉に反響する。


「黙らせろ、と言っている…!」


日本兵が再度、今度は押し殺すような怒鳴りで、女性に告げた。


女性は恥じることなく、皆の前で荒れた乳房をさらけ出した。

赤ん坊の口に押し当てて、乳房を吸わせて黙らせようとする。

だが、赤ん坊は与えられた乳を拒否するように首を振り、尚も泣き続ける。


女性は赤ん坊を泣き止ませるために必死の形相だ。

その顔は悲痛で、気の毒に思うほど歪んでいた。


周囲の島民たちは張り裂けるような沈黙の中、女性と赤ん坊を見つめていた。

その目線は、同情――ではなかった。

赤ん坊をどうにかしろという、無言の圧力を放っていた。


周囲の責めたてるような冷たい視線を受け、女性の目から涙が止まらない。

その涙は頬を伝い、泣きわめく赤ん坊に降り注ぐ。

女性に――味方はいなかった。


「お願い……お願いだから……泣き止んで……」


女性は、もはや悲鳴に近い懇願で、必死にあやし続ける。


「おんぎゃあ……! おんぎゃあ……!」


日本兵は目を最大限に見開いて女性に言う。


「今すぐ何とかしろ! 今すぐだ!  ここが見つかったら、全員が死ぬぞ! お前たちだけの命じゃない!」


女性は意を決したように、震える手で赤ん坊の口を塞ごうとする。

けれど赤ん坊は苦しそうに暴れ、その手を解く。


咲良と子どもたちは、金縛りにあったように身動き一つせず、その非情な剣幕と、究極の選択の瞬間を見守っていた。


『ザッ、ザッ……』


――外の足音が近づいてくる。


「どうしても泣き止まないのなら…!」


日本兵の、皆を守らねばという極限の責任感が、彼を次の行動へと突き動かした。


「俺が……黙らせる」


有無を言わさぬ暴力的な意志を込め、日本兵は赤ん坊のもとへ詰め寄る。

日本兵のごつごつとした大きな手が、赤ん坊の口元に伸びる。


「お願いだから待って…! もうすぐ泣き止むから…!!」


女性は、必死の命乞いを繰り返す。

しかし――


『ザッ、ザッ、ザッ、っザッ――』


外の足音が、洞窟の目前まで迫っていた。


「……やめて……お願い!」


女性の表情は、とても見ていられるものではなかった。


誰も日本兵を止めようとはしない。

皆、ただ黙ってこの光景を見ているだけ。

冷酷かもしれないが、自分を守るための沈黙の視線。

その眼差しが、咲良や子どもたちの脳裏に焼き付く。


やがて――


やがて女性の中で――何かが壊れた。


「……私が、やります」


女性の声は、驚くほど透明だった。

愛する子を日本兵に殺されるよりも、自分の手で終わらせるという悲惨な選択。


女性の震える、しかし意志を持った手が、赤ん坊の口へと伸びて――


そして――


「ごめんね……ごめんね……ごめんね……」


狂ったように、何度も、何度も繰り返していた。

赤ん坊の顔色が、みるみるうちに蒼白になっていく。


小さな身体で、小さな肺で、懸命に呼吸しようとあがく。

空気を求めて、全身で暴れている。

それでも大人の力、母親の裏切りに抵抗できるわけがなかった。


「見ちゃダメ…!」


咲良は咄嗟に子どもたちの目の前に立った。



小さな泡が、女性の指の間から見えた。

泣き声が、止んだ。

赤ん坊は、動かなくなった。




外で米軍の足音が遠ざかっていく。


米軍をやり過ごした。

どうやらこの洞窟に気づかずに、通り過ぎたみたいだ。

助かった、死なずに済んだと、誰もがそう思っていたはずだったのに。


赤ん坊は、母親の手によって、息を引き取った。

洞窟を支配していたのは、死体のような静けさだった。


誰も何も言わなかった。

洞窟にいた者たちは、米兵が去った後も、静止していた。


咲良は脳が麻痺したように、固まっていた。

自分の心が氷塊となっていくのを感じながら。

けれどその凍りついた感覚の中で、不思議なほど冷静だった。

この状況があまりにも衝撃的で、逆に非現実的に見えたのだ。

そう、まるでスクリーン越しに、別の世界の出来事を眺めているように。




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