【第30話】咲良編④未来人の避難計画
ある日のこと。
「サクラお姉ちゃん、こっちこっち!」
浜辺へと続く砂道の脇から、子どもたちは突然ジャングルの中へと入っていった。
咲良は慌てて、子どもたちの後を追う。
先を走る小さな影が、木漏れ日を浴びて忙しなく揺れている。
「ちょ、ちょっと待ってよ! どこ行くの…!?」
「ぼくたちの"ひみつきち"に案内してあげる!」
自分たちよりも背の高い草をかき分けながら、獣道をどんどん進んでいく。
木々のざわめきが、咲良たちを島の奥へ奥へと誘い込むように。
やがて木々の切れ目から、ぽっかりとした暗い影が見えてくる。
「──着いた!」
子どもたちは足を止め、咲良に自慢するように誇らしげに胸を張った。
息を切らせながらも、ようやく子どもたちに追いついた咲良。
呼吸を整えるはずが、目の前の光景を見て息が止まる。
「これは……洞窟…!?」
「そう! ぼくらの"ひみつきち"」
「わたしたち、冒険ごっこや宝探しごっこも、ここでやるんだよ!」
「ねぇ凄いでしょ? 入ってみたい? ねぇねぇ!」
得意気に話しかけてくる子どもたち。
咲良はごくりと唾を飲む。
(これは…凄い…。子どもの秘密基地ってレベルじゃない…)
洞穴なんて規模ではなく、正真正銘の洞窟といえる外観だった。
それに、日本兵や島民が島中で掘削している人口の壕よりも、遥かに立派。
洞窟の入口は、周囲の蔓植物で半ば隠されていて、気づくのは難しい。
洞窟の前には、ひんやりとした冷気が漂っていた。
不思議な引力を、感じた。
「…ちょっとだけ、中も見てみようかな…」
「はーい! サクラ姉ちゃん、ごあんな~い!」
子どもたちは歓声をあげ、咲良の両手をぎゅっと引っ張った。
咲良は高鳴る心臓の鼓動を感じながら、恐る恐る"秘密の洞窟"へ足を踏み入れる。
洞窟の奥へ進むほど、冷たい空気が身体の芯にまで染み込んでくるようだ。
壁や地面から突き出た岩が、まるで眠りから起こされたように、静かに息をしているようだった。
岩肌から染み出る、かすかな水の匂い。
湿った土と苔の上を歩く自分たちの足音だけが、ぴちゃぴちゃと、響く。
耳を澄ませば、ポタ…ポタ…と、水滴が落ちる音も遠くから聞こえてきた。
ここは水も確保できるのか?
「はーい! ここがいちばん奥だよーっ!」
広めの空洞。
外から差し込む光は弱いが、子どもたちの顔はしっかり見える。
咲良はそっと周囲を見渡した。
分厚い岩壁。
外の音も届かない静けさ。
(――この洞窟は…使える…!)
咲良は閃いた。
(──アメリカ軍に投降するなら、ここしかない…!)
島民や日本兵と同じ防空壕の中に避難してしまったら、投降できない。
頭に浮かぶのは、島で聞いた大人たちの声。
"捕虜なんて絶対だめだ"
"米軍は鬼畜。捕まると死以上の辱めを受ける"
"日本国に、天皇陛下に、恥のない死に方を――"
その言葉が《正義》として染みついてしまった人々。
日本兵にも、島民にも、当たり前のように定着している。
中には本心というより、同調圧力によって、その考えに囚われている人もいるだろう。
しかし、すでに島は相互監視の状態に陥っていると見なしていい。
それが咲良の所感だった。
(大人の前で……子どもたちと一緒に“投降します”なんて、言えない)
目の前で、子どもたちが探検ごっこを始めた。
無邪気な笑い声が、洞窟内に響く。
咲良は密かに拳を握りしめる。
(この子たちを、守る…!)
かくして、"未来人"咲良の、避難・投降計画が始動するのだった。
既に島民は、日本軍の指示に従うかたちで生活している。
アメリカ軍が上陸してきたら、避難も軍が主導するだろう。
咲良の方針は《軍の指示に従わない避難》だった。
子どもたち、それにお母さんを連れて秘密の洞窟に避難する。
そしてしばらくの間――
投降できる環境が整うまでの間、必要なものは――
連日、島の大人たちは忙しい。
一丸となって防衛陣地の構築に取り掛かっている。
お母さん(四乃)も、例外ではなかった。
託児所を離れる時間が増え、日本軍の手伝いに駆り出されているみたいだ。
お母さんが留守の間は、咲良が託児所を任されることになった。
もともと咲良は、子どもたちの面倒を見るという条件で、託児所に居場所を与えてもらっていた。
そして、子どもたちの中で一番年上である。
咲良はそれを負担だとは思わなかったし、お母さんも『任せっきりでごめんね』と、咲良に謝っていた。
お母さんの力になれるなら、なんだってしようと思った。
いつしか、咲良は託児所の事務作業までこなすようになっていた。
この状況、咲良には都合が良い。
託児所の奥にある小さな事務室。
窓の外からは海風が吹き込み、薄い紙束が微かに揺れる。
咲良は机の上に広げた帳面に鉛筆を走らせる。
「米 一日分」「麦」「缶詰」「芋」──
日々の食材の種類と残量。
島の配給と、託児所への支給分。
お母さんがいつもしていた作業を、咲良が担当していた。
(お母さん、最近ほんとうに忙しそうだし…)
会計帳簿の角には、お母さんの丸みのある癖字が残っている。
(この癖字…前もどこかで見たことあったような…)
咲良はそれを指でなぞって、少しだけ胸が温かくなった。
帳面をめくりながら、咲良は羅列する数字に目をとめる。
(…これなら、毎日少しずつなら…)
子どもたちの食事に支障が出ない範囲で、ほんの、ほんのわずかだが"余剰"と言える食糧を出せる。
お母さんが工夫して集めてきた保存食、配給の端数。
そして、民間の食堂や家々から譲られた芋や乾物。
その"少しずつ"を、丁寧に合わせる。
(数日あれば、子どもたちと、あの洞窟に避難してる間に必要な食糧分を……確保できる…!)
海の向こうでは、アメリカ軍が動いている。
上陸の日は……もう遠くない。
咲良だけが知っている未来の影が、その背中にじんわりとのしかかる。
目に見えない重みで、鉛筆を持つ手が震えた。
日中は島民も日本軍も防衛体制の準備に追われ、小さな託児所の子どもたちのことなど、気にする余裕はない。
だから咲良は大胆なことが出来る。
「これより、みんなに任務を与える…!」
咲良は小さく息を整えてから、わざとらしく低い声で子どもたちにそう告げる。
子どもたちの背筋が、ピシッと伸びる。
「お、おお!?」
「任務!?」
「兵隊さんのやつだ!」
託児所周辺でも、島の大人たちが、日本兵と壕の準備を進めている。
その姿を連日見ていた子どもたちの間で、"兵隊さんごっこ"が流行っていた。
だから咲良はこういう言い回しをする。
子どもたちが面白がって、言うことを聞いてくれるのだ。
咲良は続けた。
「これから、ここにある物資・食糧を"秘密基地"に持って行く。みんなで仲良く運ぶように…」
「たいちょう! なんでそんなことするでありますか?」
「大事なときに、必要になるんだよ…」
「大事なときって?」
子どもたちが首をかしげる。
咲良は適当にごまかす。
「それはね、隊長のわたししか知らない作戦なの。"超重要"で"秘密"の任務なんだよ…」
子どもたちの目が輝く。
「"ちょうじゅうよう"? "ひみつ"の!?……作戦!!」
「うわぁ~! なんだか、すっごいな~!」
「わたし、荷物いっぱい持つ~!」
ふふ、っと咲良は笑った。
本当は、ただの"生き延びるための準備"だ。
あの洞窟でしばらくの間、身を潜める為に。
アメリカ軍の上陸直前の、島への徹底的な空爆と艦砲射撃。
上陸後の島南側での戦闘。
やがて南の戦線が崩れ、日本軍がいなくなれば――
その時こそ、子どもたちを安全に投降させられる。
だが、そんな暗い現実を、今ここで子どもたちに説明する必要はない。
むしろ言ってはいけない。
次の日も、その次の日も、咲良は子どもたちに任務を与える。
「本日の任務を伝える。みんなの秘密基地には洞窟の妖精さんがいて、お腹を空かせている。なので、ここにある食糧を届けに行く…!」
「大変だー! 妖精さんを助けなきゃ!」
「任務りょーかい!」
子どもたちが食糧を持って、喜び勇んで走り出す。
その背中を見つめながら、咲良は小さくつぶやいた。
「…絶対に、みんなで助かろうね…」
その夜――
託児所には、海風の音だけが響いていた。
子どもたちは寝静まり、咲良はひとり、四乃の帰りを待つ。
(そろそろ、お母さんにもわたしの避難計画を話さなきゃ…! お母さんなら、きっと分かってくれるはず…!)
戸口の外で砂利を踏む音がした。
咲良が灯したランプの淡い光の中、四乃がゆっくりと姿を見せる。
「……ただいま。遅くなっちゃったね」
四乃の顔には、憂いを抱えた影が落ちていた。
「おかえりなさい、お母さん…!」
咲良は四乃に駆け寄る。
「こんな時間まで兵隊さんの手伝い、いつも大変だね…」
「…え、ええ…そうね」
四乃は横を向いて笑って、肩に入っていた力を抜いた。
「…ごめんね、咲良ちゃん。託児所のこと、子どもたちのこと、ほとんど任せちゃって。助かるわ。ありがとね」
咲良は少し照れたように目を伏せる。
「ううん……お母さん最近忙しそうだから。 わたし、少しでも力になりたくて…」
四乃は咲良の頭をそっと撫でた。
その掌は、とても冷え切っていて、でも心に触れてくる温かさがあった。
「お母さん、お腹空いてるでしょ? ご飯用意するね…!」
「…ありがとう」
咲良は四乃の晩御飯の準備に取り掛かる。
四乃は寝静まった子どもたちの様子を見に行った。
咲良は四乃が食事を終えた頃合いを見て、話を切り出そうとする。
子どもたちが見つけた、秘密の洞窟。
少しずつ運びつづけた食糧。
日本軍の指示に従わない避難。
そしてタイミングを見計らっての投降。
それは――未来を知る者としての"逃げ道"。
アメリカ軍の上陸まで、もう数日も猶予は残されていないのだから。
海風が、止んだ。
「ねぇ――お母さん」
「ねぇ――咲良ちゃん」
声が、重なった。
四乃の声は、いつものように柔らかかったが、揺らぎのない芯を含んでいた。
咲良は喉まで出かかった言葉をそっと飲み込み、改めて向き直る。
「……どうしたの、お母さん?」
「驚かないで、聞いてね。……大事な話だから」
四乃は膝の上で手を重ね、まるで未来を見てきた人のように、少しだけ遠くを見つめながら言った。
「……この島はね、もうすぐ戦場になるわ。"本当の"戦場、ね」
「え…?」
咲良の背筋に冷たいものが走る。
「日本軍は一生懸命、守ろうとしてる。島の人たちも一生懸命、協力してる。でもね――」
四乃は小さく息をついた。
「サイパンは、守りきれない。どれだけ頑張っても……たくさんの人が亡くなるの」
咲良は思わず俯く。
四乃の予言は、咲良が"未来人として知っている事実"と合致していた。
「海の向こうにいるアメリカ軍の力は、あまりにも大きいんだって。海上には軍艦、海の中には潜水艦。島を取り囲むようにね。……島から逃げようとする船は、みんな沈められちゃうの」
咲良は喉が詰まる。
その通り。
史実でも、上陸前に島を包囲した艦隊が、脱出艇を徹底的に撃沈していた。
四乃は静かな口調で続ける。
「飛行機で逃げるにも、燃料はほとんどない。島に残ってる機体も、もう飛べるかどうか……。それにね、日本はこの島を『絶対国防圏』だと言って、島民を避難させること自体許していないの」
四乃の言っていることは、すべて本当。
疎開さえ許可されず、島民は『島外へ出るな』と閉じ込められたまま。
迫りくるアメリカ軍を待つしかない状況。
「……咲良ちゃん。この島には、"逃げ道"がないの」
四乃の言いたいこと――
それはサイパンは、まるで巨大な監獄のような状態なのだということ。
咲良は息を飲む。
(そう。だからこそ、わたしの避難計画をお母さんに伝えないと――)
口を挟もうとした――その時だった。
「でもね? 安心して。子どもたちを含めて、私たちの"逃げ道"を準備してるから」
「え…?」
咲良は驚いて目を見開いた。
そんな咲良の手を四乃は、優しく包み込むように握る。
四乃の表情は、どこか諦観したように寂しさを帯び、それでいて開き直ったような決意を感じさせるものだった。
咲良が初めて見る――お母さんの表情だった。
「あのね、咲良ちゃん。……"避難枠"を、約束してもらったの」
(避難…枠…?)
「密約、取引したのよ。先方にとって、とても”重要な資料”と引き換えにね」
(先方…? 重要な資料…? なんのこと…?)
矢継ぎ早に意味不明なことを言われ、咲良は混乱してしまう。
「子どもたちにはまだ内緒にしててね。直前になったら話すわ。あの子たち、純粋だから。うっかり島民にでも話してしまったら大変。避難枠には人数の限りがあるの」
四乃の言葉は、命の選別を示唆していた。
咲良は固まったまま、何も言えない。
(とにかく……お母さんもわたしと同じように、みんなで助かる何らかの避難計画を考えていて、それを実行しようとしてるってこと…?)
四乃は包み込むように握っていた咲良の手に、ぎゅっと力を込めた。
「……咲良ちゃん。ひとつ、お願いがあるの」
その声は優しさの中に、どこか張りつめたものが混じっていた。
「私ね……明日、どうしても島の北側まで行かなきゃならないの」
「北側…?」
咲良は不安そうに四乃を見つめる。
四乃はその視線を受け止め、ゆっくり頷いた。
「最後の、確認の、話し合いをするの。約束通りに避難させてもらえるかどうかの。すぐに終わって、その日中に託児所に帰ってこれると思う。でももしかしたら、一日じゃ帰ってこれないかもしれない」
咲良は黙ったまま、四乃の話に耳を傾けていた。
「急いでるんだけどね……どうしても、時期的に、ぎりぎりになりそうなの」
“時期的に”
(…それはアメリカ軍の上陸の時を意味しているのかな…)
咲良の胸は、ざわついていた。
四乃は、何か危険な賭けに出ている気がしてならなかった。
「だから……咲良ちゃん。お留守番をお願いね」
咲良はすぐに返事ができなかった。
本当は止めたい。
行かないでと言いたい。
得体のしれない不安が、拭えない。
けれど――
(お母さんの覚悟、大きな決意を、壊す言葉を言っても良いの…!?)
結局、咲良は四乃を引き止められなかった。
全てを包み込むような優しい笑みに、咲良の懸念も包み込まれてしまった。
咲良の複雑な表情を見て、四乃は不自然なくらい明るく振る舞う。
「大丈夫、大丈夫よ! きっとすぐにみんなの所に戻ってくるから!」
「…わかった、任せて。お母さんの帰り…子どもたちと待ってるからね…!」
四乃はその返事を聞いて安心し、咲良の肩を抱き寄せた。
「ありがとう。みんなで、助かりましょうね!」
とうとう咲良は自分の避難計画を打ち明けられなかった。
四乃が考える避難計画を信じ、それに従う形となった。
咲良も寝静まった深夜――
四乃はひとり、託児所に出て、星空を眺めていた。
子どもたちと長く過ごしたせいで、情が移ってしまった――
大義があった。信念があった。そして使命があった――
目的の《証拠》も、苦労の末にようやく手に入れたというのに――
それを手放そうとする自分。
天秤は、子どもたちの命の方へと傾いていたのだ。
四乃は自らの心境の変化に、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
(それにしても――星空が、綺麗ね……)
しかし――
翌日、四乃が出かけたのを最後に、彼女が託児所に戻って来ることは、もう二度と無かった。




