【第28話】咲良編②"お母さん"
咲良は浜を離れ、子どもたちに導かれながらジャングルの小道を進んでいく。
やがて木々の隙間から、低い屋根の家々が見えてきた。
「姉ちゃん、着いたよ!」
開けた場所には木造家屋、掘っ建て小屋、石で囲まれた井戸。
そこは、生活の息づく"集落"だった。
「あれがぼくたちの託児所だよ!」
坊主頭の男の子が指差す先に、大きめの板張りの建物が一棟。
入口には看板が取り付けられていて、
《南洋興発・託児所》と書かれていた。
「お母さん、ただいまー!」
「凄いお姉ちゃん連れてきたよ~!」
子どもたちの元気な声が辺りに響く。
「あれ? お母さんいない?」
子どもたちが建物の中に入ってく。
咲良も、恐る恐る建物の中に足を踏み入れた。
室内には小さな机が並び、茣蓙のようなものが敷かれていた。
「お母さんどこ行った~!?」
子どもたちは、まるでかくれんぼでもしているみたいに、建物内や外周りを探し回る。
咲良はひとり、ぽつんと立ち尽くしたまま、その様子を見守っていた。
建物の奥の部屋、扉が半開きになっている。
事務室だろうか?
咲良はその部屋の中の机に置かれた書類に目が止まった。
勝手に見ては失礼かなと思いつつも、気になった咲良はつい近づいてしまう。
淡々とした公文書風の文章と、図表がぎっしり並ぶその書類――
いくつかの紙の表題には"南洋経済圏構想"や、"南洋資源統制計画"と書かれていた。
詳細内容は難しく、咲良にはよく理解できない。
ただ――どう考えても、この託児所には不釣り合いな代物だ。
辛うじて分かったことは、どうやら資源の輸送計画、各島の統治権限に関するものらしい。
海軍と南洋庁、南洋興発という企業の、役割分担が記されているようだった。
そこにメモするかのように、まるで書き殴ったような筆記で、"委任統治領"にバツが引かれ――
"皇統"という文字が――
(何を意味してるんだろう…これ…)
――その時だった。
「お母さん、みーつけたっ!」
建物の外から、子どもの声。
咲良は慌てて、その書類から離れ、急いで建物の外へ出た。
託児所前の庭には、子どもたちに囲まれる30代くらいの女性の姿。
(この人が…お母さん?)
咲良が見る限り、その女性はこの託児所の保母さんのようだった。
「お母さん! このお姉ちゃんね、壊れた望遠鏡やコンパスを直してくれたんだよ!」
「お母さん! このお姉ちゃんは、帰る家もなくて困ってるんだって!」
子どもたちが、咲良のことを女性に紹介してくれるが、女性の表情は強張っていた。
警戒するような眼差し。
そりゃそうだと、咲良は思った。
令和からきた自分は、島の子どもたちとは雰囲気も佇まいも違う。
"異質"な存在として、不審に思われて当然なのだ。
それでも――
できるだけ女性に警戒感を解いてもらうために――
「あ、あの…! わたし、北白川 咲良といいます…!」
「お父さんもお母さんも、戦争でやられてしまって…ひとりぼっちなんです…!」
「あの…良かったら…! しばらくの間、こちらに住まわせて頂けないでしょうか…!?」
「わたし…何でもやりますから…!」
咲良はそう必死で訴え、女性に頭を下げた。
女性は沈黙を守っていたが、取り囲む子どもたちが、黙っていられなかった。
「お母さん!お願い! 姉ちゃんをここに住まわせてあげて!」
「みんなで一緒に住もうよ! このお姉ちゃん凄いんだから!」
「"家族"が増えるよ? きっと楽しいよ! いいでしょ!?」
女性は緊張した面持ちを、ゆっくりと解いていく。
やがて表情を柔らかくして、優しく微笑んでくれた。
どうやら咲良を戦争孤児と思い、同情しているようだった。
「……そうね。困っているなら、ここで暮らしてもいいわよ」
「やったー!!」
子どもたちが歓声をあげ、咲良はほっと肩を落とす。
「あ、ありがとうございます…!」
「ただし――」
咲良はビクンとする。
女性は軽くウインクして、いたずらっぽく微笑みながら言う。
「配給される米や、ジャガイモ、バナナの量に余裕はないの。なので、あなたには働いてもらおうかしら?」
「はい! 働きます…! 何でもします…!」
「あなたはこの子たちよりも、お姉さんでしょう? だからここにいる間、子どもたちの世話をしてほしいの」
「えっと、この子たちの…お世話…?」
子どもたちはみんな、ニヤニヤと咲良を見ていた。
「食事の手伝いでも、寝るときの面倒でも、何でもいい。できることをしてくれる?」
「わ、分かりました…!」
こうして、咲良のサイパン島で子どもたちと寝食を共にする、奇妙で、でもどこか温かい生活がスタートするのだった。
食事の準備、掃除、井戸からの水汲み、洗濯、子どもたちの寝かしつけ。
出来ることなら何でもやった。
子どもたちとの生活は、それはもう賑やかだった。
みんな無邪気に遊んだり、動き回ったり、時には喧嘩して泣いたり、すぐに笑って仲直りしたり……。
子どもたちのお世話をするといっても、なかなか一筋縄にはいかない。
サイパン島の託児所での生活は、戸惑いだらけだった。
子どもたちから"お母さん"と呼ばれている、託児所の保母の女性の名前は、四乃と名乗った。
四乃は、日々、子どもたちのお世話に奔走する咲良を、優しく見守った。
「咲良ちゃん凄いわ。こんなに子どもたちとすぐ打ち解けるなんて」
「…あ、あはは…そうですか…? 四乃さんの方がよっぽど凄いです…」
子どもたちの面倒を手際よくこなし、いつでも笑顔を崩さない四乃に、咲良は尊敬の念を抱いていた。
毎日の生活の中で、試行錯誤しながらも、一生懸命な咲良。
子どもたちとの信頼は深まり、やがて四乃や周囲の島民との距離も縮まっていく。
しかし、咲良は弁えていた。
島には日本軍の兵隊も大勢いる。
だから彼らには、できるだけ目立たないように。
そう意識して過ごした。
笑い声の絶えない託児所。
アメリカ軍が迫っているとはいえ、戦争の影はまだ離れている。
物資は少ないとはいえ、島の生活は穏やかだ。
この場所は、ひとつの小さな"家族の世界"として、咲良を受け入れていた。
特に孤児で、この託児所で自分と同じように寝泊まりしていた子どもたちとは文字通り、家族のように関係を育んだ。
いたずら好きのカナタ――
しっかり者のミサキ――
お調子者のチハル――
ひっこみ思案なシンジ――
頼れる子どもたちもいる。
親が島の企業で働いており、昼間は託児所に預けられるリョーマとノブヒコ――
彼らは年長組で、咲良の手伝いや、他の小さな子の面倒も率先してみてくれた。
庭で子どもたちが遊んでいる姿を、輪の外から見ていると、咲良は思い出す。
自分がいた令和の時代で、大和や蓮弥、真澄と一緒に遊んでいた頃を。
夏休み――自由研究の合間に笑い合ったり、ふざけ合ったり。
あの日々が――懐かしい。
(みんな今頃、どうしてるだろうな…?)
庭の遊びが一段落すると、子どもたちは四乃のもとへ駆け寄る。
「"お母さん"! 見て! 砂の山できたよ!」
四乃はにこりと微笑み、子どもたち一人一人の手をとって褒める。
その姿は温かく、包み込むようで、咲良の胸をじんわりと焦がした。
(お母さんとお父さんに…会いたい……)
――その日の夜。
咲良は、浜辺にひとり膝を抱えて座り込み、海を見ていた。
昼間のサイパンとは、まったく違う世界。
太陽は沈み、海は深い紺色に変わり、波の音だけが静かに繰り返される。
夜空に星は無数に瞬くが、その光はどこか冷たい。
浜辺の砂も、昼間の温かさを失い、冷たく硬く感じる。
「どうして…なんで…」
少女の目には、涙が。
「わたしは…こんなにも、ひとりぼっちなんだろう…」
ぽつりと呟く声が、波にかき消される。
咲良の胸の内は、孤独と寂しさでいっぱいだった。
後ろの方から柔らかな足音が近づいてくる。
「…咲良ちゃん? どうしてこんなところにひとりでいるの?」
振り向くと、四乃が月明かりに照らされて立っていた。
四乃は砂の上に膝をつき、そっと咲良の隣に座る。
咲良は、正直に思いの丈を打ち明けた。
「わたし…本当は、とっても、とっても遠い所からやってきたの…。そこにはね、お母さんもお父さんも、友だちもみんないるの」
押しては返す、波の音。
四乃は少女の次の言葉を待った。
「だからね、帰りたいの…。でも、帰り方が分からないの…。それが寂しくて……寂しくて、たまらないの…!」
咲良の頬には、涙が流れていた。
それを見た四乃は、咲良に、静かに語りかける。
「私もね……"最初は"この島で、ひとりぼっちで……とても辛かったわ」
「え…?」
咲良の目が見開かれる。
「誰も知らない場所でね、頼れる人もいなくて……。でも、やらなきゃいけないことがあって。どうしていいか分からなくて……怖くて泣いたことも、いっぱいあったわ」
四乃は、満天の星々が煌めく夜空を見上げた。
「その時ね、私を支えてくれたのは、島民や子どもたちの優しさだったわ。あと、守らなきゃいけないものがあるっていう……使命感みたいなもの」
「…四乃さん…」
「咲良ちゃん……大丈夫よ。悲しいことも、辛いことも、今は無理せず、全部吐き出していい。いつか必ず、もとの場所に帰してあげるから。……それは私が保証する」
その言葉の意味を、咲良は考えようとはしなかった。
ただ、四乃からの最大限の励ましの言葉なのだと、受け取った。
「う゛、う゛ぅ…」
再び瞳から涙を溢れさせる咲良。
四乃はそっと手を伸ばし、咲良の頬に触れる。
そして、柔らかく微笑む。
「それに……もっと私のこと頼ってもいいのよ。もしよければ、咲良ちゃんも私のこと、"お母さん"って呼んでもいいからね!」




